実りの季節を抱きしめて 実りの季節シリーズ3 作:きゃら める
第二章 花なく、葉もなく、枝ばかり
* 1 *
食後のワインをひと口飲み、綾香は「ごちそうさま」と言って顔を上げた。「お粗末様でした」とそれに応えた浩之は彼女に向かって微笑む。
「しっかし似合わないわね、その格好」
浩之のパリッとしたシャツにズボン、そしてベストというウェイター姿を上から下まで眺めて、綾香は改めて言う。
「いつも店でこんな格好だぜ?」
「そうだったっけ? あ、エプロンがないからヘンに見えるのか」
「ヘンはないだろぉ~」
情けない顔をした浩之に綾香は笑い、そして浩之も笑った。
「さて、まぁ私なりの評価ね」
「あぁ」
今日、綾香が振る舞ってもらっていたのは、浩之手製のフルコース料理。フランスやイタリアといった感じの格式張ったものではなく、どこか家庭風の、けれども浩之なりの研究とアレンジが込められたフルコースだった。
「それなりに専門で勉強はしたんでしょうけど、基本的に自己流ね」
「まぁそんな感じだな」
「どこかアカ抜けない感じがあるし、あかりさん担当のデザートはちょっと非力かな。でも固くならずに親しみやすいって意味ではいい感じね。喫茶店やってけっこう経つけど、研究は怠ってなかったみたいだし。合格よ、浩之」
「そっか」
三十になった男に言うのもおかしいかも知れないが、子供っぽさを感じてしまう嬉しそうな顔に笑みを漏らす浩之に、綾香は正面の椅子に座るように手で示した。
「それじゃあ姉さんの、――来栖川グループ役員来栖川芹香の意向を伝えるわね。浩之、あなたには来栖川の飲食部門を手伝って欲しい」
笑みを消し、真剣なまなざしを浩之に向けながら綾香は言う。まだ少し笑みを残している浩之はなにも言わず、綾香は言葉の先を続けた。
「いま伝えたのは浩之の店の協賛者としてのお願いみたいなものよ。お願いとか要請ってより、むしろスカウトって言う方が本当のところかもね。浩之の喫茶店『マルチ』は数年の間にある程度の成功を収めている。メニューの内容の面、店内のデザインや装飾の面、いま食べさせてもらった食事の面もあるけど、なにより来栖川グループ次期会長としての評価は、店の雰囲気にあるわね。浩之がしている気配りを、ホテルやデパートのカフェに活かしてほしいの。コーディネイターとして、あなたの力をもっと多くの場所で活かしていってほしいのよ。どう? 浩之」
浩之はしばらく綾香の目を見つめたまま、答えなかった。
広く、静かな来栖川屋敷の食堂でたったふたりで見つめ合っていると、綾香は焦れったいような気持ちがこみ上げてくる。
「やっぱり、オレの結論は変わらない」
「それでいいの? 浩之っ」
彼の出した結論に思わず立ち上がり、綾香は声を張り上げてしまう。
「いまからでも来栖川でコーディネイターとしての仕事をすれば、あなたは正社員としての待遇を受けられるのよ? いまは姉さんが協賛している小さな喫茶店でしかないけど、正社員待遇、――うぅん、役職つきの社員待遇であればいまの店にも、浩之や家族に対する保障の面でも、いろんな援助ができるようになるのよ? いまの仕事をやめろって言ってるわけじゃないわ。少し来栖川の方も手伝って欲しい、って言ってるのよ、浩之!」
「わかってるさ、綾香。でもオレはその仕事を受けられない」
きっぱりとした彼の言葉に、綾香は力無く椅子に座った。
「場末の寂れた喫茶店だってのはわかってるよ。でもオレにとってそこがかけがえのない場所なんだ。オレはあの店を離れたくない」
「わからず屋っ」
静かな口調でそんな風に言う浩之に対し、綾香は怒りを覚えていた。
「もっと早くに手を打っていればここまでならなかったかも知れないのに、遅すぎるのよ、浩之はっ」
「そうかも知れないな」
それだけのことを言われて、けれども浩之は変わらぬ静かな口調で答えていた。
力を失い、綾香は深くため息をつく。
浩之が自分で決めていることに、これ以上口を挟んでも無駄だとわかっていた。むしろ今日こうしてここに浩之を呼び出す前から、身体のことを知らされてすぐに持ちかけたコーディネイターの話を拒否されたときから、わかっていることだった。
「――姉さんね、婚約者が内定したの」
うつむきながら綾香は言う。
「おめでとう、かな?」
「でしょうね。正式発表はこれからだし、相手の方もいい家柄の人だから、いろいろ話し合いもあるみたいだけどね。でも……、来栖川本家の長女がこんな年齢まで結婚してないなんて前代未聞よ」
「そうなのか?」
他人事のように驚く浩之に綾香は顔を上げ、彼のことを睨みつける。
「誰のせいだと思ってるの? 浩之。政略結婚だろうと恋愛結婚だろうと、ここまで結婚が遅れたのは、見合いも全部拒否してきたのは、誰のことが頭にあったからだと思ってるの?」
「……」
「姉さん、婚約の話が決まったとき笑ってたわ。それに、寂しそうだった。小さな声で、『来ないのがわかっているのに、いつまでも待ってはいられないから』って言ったのよ」
「そっか」
バンッとテーブルを叩いて再び立ち上がり、浩之の目を睨みつける。そうまでしても、浩之は静かな笑みを崩さなかった。
「……なんで私はこんな奴のこと――」
「どうしたんだ? 綾香」
「なんでもないわよっ。それよりも、葵が会いたがってたわよ」
「葵ちゃんが?」
昔のことを懐かしむような顔になった浩之。綾香はもう泣きそうな気持ちになっていた。
「今度のエクストリームを見に来てほしい、って言ってたわ」
「いま大人の部門で三年連続優勝だったっけ?」
「えぇ、そうよ。私が引退した後も着実に力をつけて、ね。でもそれも今年で終わりよ。一線で戦うには、そろそろ体力の限界って言ってたわ。故障や若さに負けて追い出されるよりも、今年勝って花とともに退きたいって。だから今年は絶対に見に来てほしいって言ってたわ」
答えを求める視線を投げかけたがしかし、浩之はしばらくなにも言わなかった。
静かな笑顔には苦々しいものが混じって、目を細めていた。
「たぶんオレには、もうそこまでの時間は残されていない」
言って浩之はまた、静かに微笑んだ。
ガラス越しに中を見られるようにしてある治療室を兼ねた特別病室。室内の中央に置かれたベッドには、藤田君が寝かされていた。
わずかな胸の上下で息をしていることはわかるものの、目をつむったまま身じろぎもせず、意識がないのが見えた。
「浩之と最後に話したのはそんな感じよ」
要約して話してもらった綾香さんの話に、私はガラスの向こうにいる藤田君の様子を見たまま頷いた。
「肺にガンが見つかったときから、あいつはあきらめてたのよ。三十代なんて若さで見つかったガンの進行は早い。薬である程度進行を止めることはできるし、手術で治る可能性はあるけど、浩之の発見当時の状態でもすでに見込みは薄かったわ。だからあいつは知ったその瞬間から、生きることをあきらめたのよ。それに二十代の頃から無理が祟ってたんでしょうね。見た目よりも浩之の体力はなかった。いまの状態じゃ、奇跡でも起きない限り、もう二度と意識を取り戻すことはない。胃腸は正常だから意識を取り戻せばちゃんとした食事をして、手術ができるだけの体力も出るでしょうけど、そうしても可能性はけっして高くない。どちらにせよ、いまのままでは先は長くない状態だそうよ」
藤田君がマルチの前で倒れたのは先週のこと。彼はそれ以来一度も目を覚ましていない。そしていま綾香さんが言ったように、もう二度と目を覚まさないかも知れなかった。
私と、そして喫茶店の協賛者である芹香さんは、事前に藤田君の口から身体のことを知らされていた。彼はどうやらあかりさんには最後まで話さなかったらしい。薄々気づかれるだろうとは言っていたが。
それからマルチにも、彼が直接身体のことを話すことはなかった。
藤田君から身体のことを聞かされたとき、マルチには話すのかと私は聞いた。彼は笑いながら、「長瀬さんが思う通りにしてください」と言っていた。
そう言われてから約一ヶ月、彼がついに倒れてしまった先週まで、私はマルチに話すべきか話さないべきなのか、ずっと考えあぐねいていた。
けっきょく、私はマルチに藤田君の身体のことを話すことはなかった。考えている間に藤田君は倒れてしまったから。
――私には、たいしたことではなくても、それくらいはできるはずだったのに。
今更ながらに自分の不甲斐なさに情けなくなってしまう。
「これが浩之の選んだ道、なのかしらね」
顎に手を添えうつむき加減に考え込んでいた私は顔を上げ、綾香さんのことを見る。感情のない目で、彼女はガラスの向こうの藤田君の目を見つめていた。
「一番大切な人たちに話さずに倒れて、悲しませて……。そりゃあ最後まで笑顔を向けあえたんでしょうけど、マルチもあかりさんも、莫迦じゃないわ。薄々気づいてたはず。ちゃんと聞かなかったふたりも悪いでしょうけど、話さなかった浩之が一番莫迦よ」
私に話しているのがどうかわからない言葉を口にして、つかむことができないガラスを握りしめるように、綾香さんは力を込める。
「これからどうするんでしょうね、あかりさんは。それに、マルチも」
ふっと振り向いて私の顔を見た綾香さん。その目には辛そうな色があった。
「あなたは、どうするつもりなの?」
「……」
彼女の問いかけになにか言おうと口が開いたが、ひとつの言葉も出てこなかった。
* 2 *
昼休みももうすぐ終わる時間、真澄さんと中庭で遊んでいたわたしが昇降口に入ると、すぐ近くに人だかりができていた。
「どうしたんだろうね?」
早々に靴を履き替えた真澄さんが背伸びしながら人だかりの方に向かっていく。わたしも後を追っていくと、廊下の掲示板に朝には張っていなかったプリントが貼り出されているらしいのが見えた。
「あっ……」
十何人かの人たち越しに背伸びをしながら内容を見ていた真澄さんが、小さく声を上げてわたしの方を向いた。
「どうかしたんですか?」
「いや、まぁね……」
なにかを嫌がるかのように唇をすぼめた真澄さん。
真澄さんに習って背伸びをしてプリントを見ようとしたけれど、彼女よりも背の低いわたしには内容を見ることができなかった。
「なにが書いてあったんですか? あのプリントは」
「ん~っ。まぁ、中間テストの順位表ね。上位二十人くらいしか載ってないみたいだけど」
「なるほど」
それでみんな競うように内容を見ていたんだ、と納得する。答案用紙よりも先に、テストの上位の人の名目が張り出されたのだから、みんな興味があるのだろう。
「絶対あたしは載らないしねぇ、あんなのには」
「そうなんですか?」
「あたし、莫迦だし」
ちょっと自慢げに、でも少し疲れた表情で笑う真澄さんに、わたしはなんて答えていいのかわからなかった。
「あ、でもみのりならわからないかな? 中間の前にやった実力テスト、けっこういい点取ってたよね、確か。見て上げるね」
「あっ――」
答える暇もあればこそ、真澄さんはまた背伸びをしてプリントを見始める。
――たぶん……。
なんとなく、わたしには予感があった。それはすぐに、真澄さんの言葉で的中する。
「すごいねっ、みのり! 国語以外は五教科全部三位以内だよ? 総合でも四位だし。みのりって頭よかったんだねっ」
「そっ、そんなことないですよー」
真澄さんの言葉で集まっていた人たちの視線が向けられるのを感じる。賞賛の言葉に照れるよりも先に、いたたまれなくなってわたしは教室へと足を向ける。
「そんなことないって、充分すごいと思うけど? あたしなんてひとつも名前載ってなかったよぉ~。遊んでばっかだから、赤点だけ取らなきゃいい、って感じだけどね」
「あははっ……」
並んで歩きながら話す真澄さんに苦い笑い声を返す。
「勉強とかしてんの? みのりって。塾とか行ってるって話は聞いたことなかったけど」
「えっと、一応、家では少し……」
矢継ぎ早の言葉に濁しながら答えていた。
家で勉強はしていた。でも教科書の予習と復習くらいで、あとは授業で勉強してるくらいだった。それ以上勉強をしなくても、学校のテストくらいは難しいことはない。……国語の文章問題だけは、少し苦手だけど、他の教科に関しては一度聞けばほどんとわかったし、公式や年号や漢字はすぐに記憶できてしまえた。
それはたぶん、メイドロボだった頃の記録がこの身体に移植されているから。メイドロボとしての身体に移植されていた学力は高校レベルまでのものだったから、中学の勉強が簡単に感じてしまうのは当たり前かも知れなかった。
――それにわたしは、他にも違うところがある。
わたしは自分で記憶を整理して、意識的に必要な記憶を取り出すことができる。メイドロボの頃からやっていたことだけれども、真澄さんや「マルチ」の常連の人を聞いている限り、普通の人はそんなことはできないらしい。それにいま中学で習っている英語はもとより、フランス語やドイツ語など、メイドロボの基本だった言葉は昔と同じようにチャンネルを切り替えるように喋ることも読むことも、聞くこともできた。
もてると真澄さんに言われるけれど、そのこともすべて、わたしがメイドロボで、この身体がみのりさんのものだから……。
「今度勉強教えてよ。テスト前とかにさ」
「え? あっ、はい。……えぇっ?!」
答えてしまってから自分で驚く。中学のここまでの勉強は全部わかってしまっているものだったから、どうやって教えたらいいのかわからなかった。
くすくす笑いながら真澄さんが言う。
「でもこれでみのり、もっともてちゃうかも知れないね」
「それは……」
真澄さんからかけられる言葉に困りながら、そろそろ始まる午後の授業のためにわたしは教室へと向かっていく。
「今度勉強教えてよ。テスト前とかにさ」
「え? あっ、はい。……えぇ?!」
聞こえてきたそんな声に、琴音は足を止めた。
見てみれば廊下の向こうに長瀬みのりと川添真澄の姿が見えた。
「でもこれでみのり、もっともてちゃうかも知れないね」
「それは……」
笑っている真澄に対し、みのりは困ったような顔をしている。ふたりの様子を見ている琴音には気づかず、手前で曲がって階段を上っていった。
担任をしているクラスの生徒だから、琴音はもちろんみのりの成績を把握している。休み時間や放課後に生徒と接するようにしている琴音は、生徒が話している噂についてもある程度耳にしていた。
「ふぅ」
軽くため息をついてプリントの束を抱え直し、みのりたちの背中を見送った琴音は職員室へと足を向ける。すれ違う生徒と軽く挨拶を交わしながら職員室へと入り、自分の席に着いてプリントを積み上げた。
机の一番下の抽斗を鍵を使って開け、中から別の書類を取り出して広げる。
それは各教科の教師から渡された採点済みの答案用紙。先輩の教師に託されたそれは早めに生徒に返却しなければならない上、点数の転記も済んでいなかった。
「残業時間、あとどれくらいついたかな……」
渡されているのは三つの教科。転記作業は単調な上手間が必要で、時間もかかる。自分の仕事も別にあるというのにその作業ばかりにかまけていては、時間制限を越えてしまってサービス残業で仕事のどれかを処理しなくてはならなくなる。できれば早めに終わらせたかったが、琴音はそういった作業が比較的苦手だった。
「姫川先生、今日の仕事の後は空いてます? もしよかったら今晩食事でもどうです?」
同い年くらいの男性教師に声をかけられて顔を上げる。
「まだ仕事が残っていますから……」
「あんまり根を詰めると身体にも悪くないですよ」
「そうなんですけどね。今日中にも終えてしまいたいですから、食事はまた今度で」
「……そうですか、残念」
言葉のままの表情をして立ち去っていく男性教師の背中を見送る。
――なんでまたこんな時期にわたしを誘うんでしょうね。
琴音のいまの立場を知っているはずの彼がどんなことを考えているのかはわからなかったが、取り合うつもりはなかった。気を取り直して止まってしまった転記作業に戻る。
「……」
動かし始めた手がまた止まってしまった。
手に取った答案に書かれていた名前は「長瀬みのり」。教科は数学。
単純な計算問題はもちろんのこと、文章題においても正確な答えが書かれている。解答を書く欄を間違えるというそそっかしいミスがあったために満点は逃しているものの、それを除けば完璧な答案だった。
――さすがですね。
教科ごとにまとめておいた他の答案用紙も抽斗から探って、みのりのものを見てみる。
国語の文章題、文章理解という点では若干苦手な部分は見えるが、手元にある三つの教科においてみのりは満点か、わずかなミスをしているだけだった。
――理論思考、記憶力は平均を大きく上回っている。
琴音が担当している社会の実力テストでもわかっていたことだったが、みのりの学力は中学生レベルを超えている。学力ばかりでなく、頭の回転の良さ――もしくは頭の使い方そのものが一般の中学一年生のレベルを大きく上回っていた。
「でもそれが、あの子にとっては苦痛になっていますね」
クラスに少しずつではあるけれど馴染みつつあるが、ふとしたときに寂しそうな顔を、辛そうな表情を見せているみのりの様子を振り返り、琴音はつぶやく。
答案をしまって琴音はまた転記作業を再開する。もうひと息でこの教科は終わりであったから、早めに済ませてしまいたかった。
「いろいろ大変なようですね、あの子も」
先程よりも手早く作業を進めつつ、琴音は誰にともなくつぶやいていた。
* 3 *
玄関の扉を開け靴を脱いで廊下に上がる。担いでいたショルダーバックを下ろしながらリビングに入って、倒れ込むようにソファに座った。
「ふぅ」
安堵と疲れで思わずため息が出る。
今日はみのるをお母さんのところに預けて、ひとりで出かけていた。バッグの中には行ってきた先で渡された資料や書類がいっぱい入っていた。
「いつのまにこんなに……」
私が知らない間に、浩之ちゃんはたくさんの保険に入っていた。ガンの告知を受けてからじゃ入れない保険もあったから、たぶん彼は自分の身体のことを事前に予感してたんだろう。
このまま浩之ちゃんが戻ってこなくても、当分の間お金の心配をする必要はなかった。
――残される私たちのことを考えて……。
そういうことなんだろうと思う。でも、そんなことをするくらいだったら、私にちゃんと話しておいてほしかった。浩之ちゃんのことに気がついた後も、本当に深刻なことだったら必ず話してくれると信じて、なにも訊かなかった。
――結局、それが悪く出てしまった。
今更だけど、なんで訊くことができなかったのかと悔やんでしまう。もし訊くことができていたら、なにかできたかも知れない。
――でもあんまり、できることはなかったんだろうな。
堅苦しいスーツの上着を脱いで、キッチンに入ってお湯を沸かし始める。
浩之ちゃんはおそらく、いろいろ考えた上で私に話してくれなかったんだと思う。そう思って納得できるわけじゃないけど、彼なりの判断という意味では、間違いはなかったんだと感じる部分はあった。
「そんなことよりも――」
私の胸の中にあるわだかまり。それは身体のことを話してくれなかったのとは別のこと。
浩之ちゃんがいつもしていたように、コーヒーを淹れる。カップに注いでダイニングテーブルに着いて、ブラックのまま熱いコーヒーをひと口、すするように飲んだ。
「浩之ちゃんは約束を守ってくれなかった」
口にだしてそれを言う。
そそっかしいし、どこか抜けてるところがあるから、浩之ちゃんが約束に遅れてくるのはいつものことだった。でも彼はどんな形であっても、一度口にしたことは守ってくれていた。
だから私はずっと浩之ちゃんのことを信じてこれた。けれども今回は、浩之ちゃんは約束を守ってくれなかった。
「私は、浩之ちゃんに振られたのかな……」
手の中でカップをもてあそぶ。カップを通して感じられていたコーヒーの温かさは、だんだんと失われていった。
「振られちゃったのかな、私……」
何度も何度も、私はそんな言葉をつぶやいていた。
*
深呼吸していた上級生の男の子が意を決したように振り返って言う。
「僕と、つきあってください」
ちょっと背が高い、真面目そうな男の子。確か名前は長谷川勇作といったはずだった。
テスト結果が張り出された翌日の今日、真澄さんの言葉が的中したのかのように机の中に入っていた五通目の手紙。一時間目と二時間目の合間の時間に校舎の裏に来てほしいと書かれてあったので授業が終わってすぐに来てみると、長谷川さんが待っていた。
答えを待っている長谷川さんは、真剣な目でじっとわたしのことを見つめている。
――どこか浩之さんに似ているな……。
返答を考えるよりも、わたしの中にはそんな思いが浮かんでいた。
壁と特別教室に挟まれたここの校舎裏には日差しも入ってこないから、休み時間でも人が来ることは滅多にない。休みに入って騒いでるみんなの声も、遠くに聞こえるだけだった。
「長瀬さん……」
長谷川さんのことを見ているようで見ていなかったわたしは呼びかけられて、我に返る。
「ありがとうございます」
そう答えて一歩後ろに下がる。
こんな風に男の子から告白されたのは二度目だったけど、前回もいまと同じように断っていた。
――わたしが好きなのは……。
そのことを考えて、途中で止めてしまう。
考えてはいけないことだった。もうわたしは振られてしまったんだから。
「誰か好きな人でもいるんですか?」
「え?」
一歩踏み出した長谷川さんが訊いてくる。
「それは……」
思わず浮かんでくるのは、浩之さんの顔。考えてはいけないと思っているのに、浩之さんの顔しか浮かんでこなかった。
「もしいないなら、僕と――」
「ゴメンなさいっ」
もう一歩近づいてくる長谷川さんが怖く思えて、わたしは踵を返してその場を走り去ってしまっていた。
*
並んでいるタクシーの脇を抜けて、病棟の方へと向かって歩いていく。面会時間が始まった病院は入院患者と面会の人がたくさんいて、私はその人たちの間を縫うように歩いていく。
一般病棟の入り口を左に見ながら、私はそこに向かわずに病棟とつながった別の建物の方に向かっていった。
昨日は保険会社を回って疲れたのに、今日は今日で病院に来ていた。本当は連日みのるをお母さんに任せるのは済まないと思っていたし、遊んで上げたいとも思ってる。それに浩之ちゃんのことでいろいろ動くのは、なにより気持ちが削り取られていくようで、歩く足がどんどん重くなっていくのを感じていた。
浩之ちゃんはいま、家族か家族の同伴でしか入れない救急病棟の方に入院している。普通ならそんなところには長くはいれないはずだけど、芹香さんが配慮してくれたらしい。倒れてからずっと救急病棟の特別室に浩之ちゃんはいた。
建物の入り口の前まできて、立ち止まる。
あと一歩動けば自動ドアが開くところで、私はそれ以上動けなくなってしまっていた。
――浩之ちゃんにどんな顔をして会えばいいんだろう。
もちろんいまの彼は意識がないし、本人確認のためにも見舞いの度にも顔は見ている。でもいつもこうやって足が止まってしまう。
――私は、振られたんだ。
結婚している私と浩之ちゃんの間でその言葉は適切ではないかも知れないけど、約束を守ってくれなかった彼のことを考えると、そんな思いが浮かんできて、足をこれ以上進めさせなくしていた。
ふと、視界の隅で車が止まるのが見えた。
一般病棟の患者を迎えに来たにしてはロータリーの中途半端な位置で、ちょうど救急病棟の前。駐車場はもう少しロータリーを回ったところだから、私と同じようにここの病棟に用事がある人なのだと思う。
立ち止まり続けているのもヘンな感じだったから車の方を見てみると、降りてきたのはどこか見覚えのある顔の女性だった。
――確かあの人は……。
車から降りてきたのはひとり。そしてその視線は私に向いている。
「お久しぶりです、神岸……。藤田あかりさん、ですね。少しお話をしませんか? ドライブしながらでも。気晴らしくらいにはなると思いますよ」
高校時代に何回か会ったことがあるだけだったけど、面影が変わらないその女性――琴音さんの申し出に、気を張りつめすぎていた私は流されるように足を動かし始めていた。
*
「みのり、食べないの?」
真澄さんに呼びかけられて我に返る。
「あっ、食べます」
いつのまにかわたしはボォッとしていたみたいだ。お弁当のサンドイッチを手にしたまま、口に運ぶのを忘れてしまっていた。
この前遊びにいったのに続いて、珍しくわたしは真澄さんに誘われて、ふたりで屋上に上がって昼食を食べていた。
一時間目の後の休み時間に長谷川さんに告白されて以来、わたしは授業もなにも手に着かなくなっていた。長谷川さんに告白されたことよりもなによりも、あのとき思い浮かんできた浩之さんのことが頭から離れなくなっていた。
「みのり?」
「――えっと、はい。食べますぅ」
また止まってしまっていた手を動かして、サンドイッチを口に運ぶ。
今日の朝は少ししか食べてこなくてお腹は空いていたはずなのに、いつもよりたくさんつくってきたサンドイッチはけっきょくほとんど食べられなかった。
「食べないと午後の授業、お腹空いて大変だよ」
「そうですね」
「元気も出ないよ」
「そうですね……」
屋上のベンチに真澄さんと並んで座りながら、真澄さんの言葉に相づちだけを打って、わたしはずっと青い空を見ていた。いろんなことが頭の中に浮かんできて、なにかを考えようとしているのに、なにも考えることができなかった。
「告白されたんだ? みのり」
「え!?」
突然言われて飛び上がるほど驚いてしまった。膝の上に置いてあったランチボックスが転げ落ちてしまう。
真澄さんを見ると、真剣な目でわたしのことを見つめてきていた。
「告白されたんでしょ? 一時間目が終わった後に。その後から様子がヘンだったもんね、みのり」
「……はい」
叱られたわけでもないのに、気持ちが沈んでうつむいてしまう。
「長谷川先輩、だよね? たぶん」
「なっ、なんで知ってるんですかっ」
二度目の驚き。いつもなら笑顔を見せてくれそうな真澄さんはでも、いまも真剣な目をしていた。
「いい人だよ、長谷川先輩。みのりは面識ないかも知れないけど、勉強できるし、運動もそこそこだし、真面目だしね。けっこう他の子たちの間でも噂が立つくらいに、ね」
「そうだったんですか」
「ちなみに知ってるのは本人から相談されたから。つきあってる人はいるのか、って」
「……」
真澄さんの目を見ていられずに視線を逸らして落ちたランチボックスを拾う。見られているのを意識しながら、私はうつむいていた。
「みのりって好きな人、いるの? ラブレターもらったの、何通目? 告白されたのはふたり目だっけ? 長谷川先輩なんかはけっこういい感じだと思うけど、なんで友達からでも、つきあわないの?」
問いつめられても、返す言葉はない。どう答えていいのかわからなかった。
浮かんでくるのは浩之さんの顔。
好きな人と聞かれて答えられるとしたら、浩之さんしかいなかった。
「いままでで何度だったかな。相談されたの。あたしはクラスの中でもみのりの友達、ってことになってるみたいだから、みのりこと見てる男の子とかから訊かれたりするんだよね。好きな人がいるならいるでいいんだけど、知らないって答えたら、調べてほしい、って言われたこともあるの。けっこう迷惑かな、ってね」
いつもよりすごく厳しい感じの真澄さんの言葉。どう答えようかと迷って、手にしたランチボックスを抱きしめるように身体に引き寄せて、考えながらわたしは言う。
「好きな人は、います」
「誰なの?」
訊かれて真澄さんの顔をちらりと見て、睨みつけられるような視線にまたうつむく。
「それは……、言えません。でもわたしは、ずっとその人のことが好きだったんです。前は一緒に暮らしていて、あの人も、わたしのことを好きでいてくれたんです」
話している間に涙が出そうになってくる。
浩之さんと一緒に過ごした幸せな時間。そのひとつひとつを思い出してしまいそうになって、涙をこらえながら次の言葉を口にする。
「でも別れてしまって、その人は別の人と一緒になったんです。わたしもそれを望んでいたんです。その人のことは忘れなくちゃいけないのに、思い出してしまうんです。長谷川さんに好きと言われて、その人の顔が浮かんできて、まだ好きなのかもしれない、って考えてしまって……」
涙はもう止まらなかった。頭の中がぐちゃぐちゃになって、ただ止めどもなく話し続けてしまう。
「でもわたしは振られてしまったんです。もう一度一緒にって言ったけど、ダメだと言われてしまったんです。それなのにわたしはあの人のことを忘れられないんです。顔を思い出してしまうんですっ。――わたし、どうしたらいんでしょう。どうしたら、どうしたら……」
「みのりって、けっこう贅沢なんだね」
「え?」
不意に言われて、わたしは真澄さんの顔を見る。
表情のない顔で真澄さんは言う。
「だってそうじゃない? それだけ幸せな時間があったんでしょ? 自分で望んで他の人とくっつけたんでしょ? それなのにいまさらその人が好きなんて、告白するなんて、贅沢じゃない。全部、全部自分で捨てたんじゃない」
彼女の言葉が頭に入ってこなかった。いままで自分のことを話していていろんなことが頭の中に回っていたわたしは、なにを言われているのかわからなかった。
言っている間に必死な顔になってきた真澄さんは、わたしのことを責め続ける。
「知ってるよ、あたし。みのりってマルチって呼ばれてるんだよね」
ビクッと肩が跳ね上がるのがわかった。
「学校ではみのりだけど、マスターやあかりさんや他の人からマルチって呼ばれてるよね」
――なんで知ってるんだろう。
クラスの人がわたしのことをこっそりメイドロボだとか、マルチ、と呼んでいることは聞こえてきていたから、知っていた。でもそれはあくまで悪口であって、わたしのことを「マルチ」だと知って言っていることではなかった。
でも真澄さんは、わたしのことを知っている。
「クラスの子が言うこと、当たってるじゃない。みのりはマルチ。メイドロボなんだよね。メイドロボが人間みたいな幸せを持ってるって? その上一度別れた人とよりを戻したいって? みのりはかわいいよ。頭もいいよ。男の子に好かれるような性格してるよ。あたしとはぜんぜん違う。あたしが持ってないものをみのりは全部持ってるのに、それ以上なにを望むの? 自分をメイドロボだって、マルチだって卑下して、悲劇のヒロインにでもなるつもり?」
「わたしは、そんな――」
反論をしようとしたけど、言葉は出てこない。真澄さんの剣幕に圧倒されてしまっていた。
「みのりのこと、嫌い。だいっ嫌い」
「……」
「あたし、お店で仕事をしてるみのりのこと、見たことあったの。みのりが好きなのって、マスターだよね? 喫茶店の浩之さん。あたしもあの人のこと好きなの。もっと側にいたかったの。そう思ってたらみのりが現れた。どこからともなく現れて、あたしが好きなマスターの側に当たり前のようにいるようになった。あたしができないことを、やりたいと思うことをなんでもできちゃうのに、それでも足りないの? そんなわがままなみのりのことなんて大嫌い」
立ち上がってわたしを責め続ける真澄さんは、いつのまにか泣いていた。返す言葉もなく彼女のことを見上げているしかなかった。
「ずっと前からみのりのこと――、マルチのことなんて嫌いだったの。いまのマルチのことは、もっと嫌いっ!」
言い捨てるように、真澄さんはわたしに背を向けて三階につながる階段へ向かって走っていった。なにも考えられずに呆然としていると、いつから見ていたのかわたしたちと同じように食事をしていた人たちの視線を感じた。
ひとりになりたくて、ベンチから立ち上がろうとしたけど、足に力が入らなかった。
わたしのことを見ている人たちは遠巻きにしているだけで、声をかけてくる様子はない。立ち上がることができないわたしは、ランチボックスを抱え込むようにして身体を丸めて泣いた。
午後の授業の予鈴が鳴るまでずっと、わたしは泣き続けていた。
*
穏やかな日よりの昼下がり、私は本を探して本屋や古本屋を巡り、買った本を読みながら昼食を摂った。その後はぶらぶらと街を歩いて家に帰るだけだった。
マルチは学校に行っているためいない。平日の昼間は仕事をしていて食事を忘れるか、昼食を自分でつくるのが億劫で外で適当に済ますのが常だ。
来栖川HMの顧問研究員という仕事は決して暇なわけではない。けれども現場にいたころに比べて仕事量は確実に減っている。マルチのことも心配ではあるが、家でうなっているだけでは腹も減る。
街の風景ほど穏やかではない気持ちを抱えつつ、私は家に向かって歩いていっていた。
「ん?」
「おっと、見つかった」
正面から歩いてくるなんとなく見慣れた輪郭の人物がいると思ったら、三津木君だった。私が彼を見つけたのか、彼が私が見つけていたのかわからないが、近づいてきた彼は気恥ずかしそうに笑う。
「休みの途中、だったかな」
「えぇ。家に帰ってみたはいいんですけど、なんとなく気が抜けてしまって……」
「婚約者の方はいいんですか?」
「あぁ、それは問題ないです。あいつもいまは仕事の時間ですから。っていうか週末にでも合わせて休みにしてくれないと、ちゃんと会う時間もないですよ。夜には会う予定ですけど、それまではまぁ、この辺をぶらぶらしてろ、って言われてて」
「なるほど」
話ながらとりあえず私は家に向かって歩く。三津木君も私と並んで歩き始めた。
「マルチはどうです? 元気にしてますか?」
まだまだ若い三津木君は私の遅い歩調に合わせるのに苦労しながら、訊いてくる。
「そうですね、元気は元気、ですよ。身体の方には問題ありませんね。……でも、いろいろ悩んでいるようですよ。メイドロボから人間になったわけですから、当然なのかも知れませんが」
「マルチでも悩むのかぁ」
意外そうな顔をして、三津木君は空を仰ぐ。
「今度家に来てみるといいですよ。休みの日にでも来てくれれば構いませんし」
マルチに縁の深い三津木君には、藤田君の家にいたときから人間になったいままでの彼女の経緯を話してある。けれども実際彼は、一度として人間になったマルチに会いに来たことはない。
そして藤田君のいまの状況もまた、簡単にではあるが、話してあった。
「折を見て伺わせてもらいます。――いまは大変そうですからね」
「そうですね……」
私もまた三津木君にならって空を見上げながら歩く。
これから先、近いうちに藤田君に変化があるだろう。それは悪い方向への変化。そうしたとき自分はマルチに対してなにができるのか、いまだに見えないでいた。
――藤田君の身体のことさえ話せなかった私が、マルチに対してなにかできるのだろうか。
そう考えると答えを探すのは難しく、実際そういうことになったとき、なにもできないのではないかと思えてしまう。
「――ちなみに、父親って大変なものですか?」
「どうしたんですか? 突然」
恥ずかしいような困ったような顔をしている三津木君。突然そんなことを訊かれても私も困ってしまう。
「いや……、なんていうか、僕もそのうち、父親になるのかな、って思って……」
「そういうことですか。でもそれは私に訊くよりも、三津木君の両親に訊かれた方がいいと思いますよ。私は両親に育てられたと言えるほど一緒にいた時間がありませんし、マルチの父親としては突然十二歳の娘を育て始めて、まだ一年も経っていないわけですからね。そんなことより考えてみれば、あれだけ仕事で休日をつぶしていた三津木君がいつのまに恋人をつくっていたのかの方が気になりますけどね」
「まぁ、それはその……」
苦い笑いを浮かべて三津木君は言葉を濁した。
「それもマルチが縁というかなんというか、ね」
「どういうことです?」
興味が沸いてきて、言いづらそうな彼を問いつめてみる。
私にじっと見つめられてそれでも言葉を濁して逃れようとしていた彼は、ひとつため息をついてから話し始めた。
「ちょうど一年くらい前に高校の同窓会があったんですよ。クラス単位の奴じゃなくて、そのときのは全クラスの幹事役がまとまって学校の体育館でパーティするってんで、それまで行かなかった僕も顔を出してみたんです」
「ほぉ」
「懐かしい顔に会って昔話したりして、少し疲れたんで隅っこで休んでいたら、彼女が隣で同じように壁にもたれてたんです。知らない顔だったんで別のクラスの女の子だってのはわかったんですけど、なんて言うか、その……」
「かわいい人だった?」
意地悪に突っ込むと、恥ずかしそうに顔を赤くする三津木君。
「かわいいって言うか、美人、かな。た、タイプとしてですよっ。特別すごい美人とかそういうことは……」
「で、声をかけた?」
「……えぇ。最初はなんてことない自己紹介から始まって、世間話をしてて。それでなにかの拍子にマルチの話になったんですよ。でも彼女、マルチのことがものすごく嫌いだったんです」
「マルチのことが、嫌い?」
「そりゃあもうだいっ嫌い、って感じで。僕は僕でマルチみたいなメイドロボをつくりたくて来栖川に入ったくらいですから、会場の隅っこで言い合いになりましたね」
懐かしむように言いながら、三津木君は笑みを浮かべる。
「けっきょく同窓会が終わってみんなが二次会に行ってるのに、僕と彼女は言い合いで喫茶店までもつれ込んで、そこが閉店になったらファミレスに梯子して……。最後は空が明るくなるまでなんだかんだで言い合ってたんですよね。半分喧嘩腰だったりして、話かみ合ってないんですけど、それでもふたりしてそんだけマルチのことを話してたんです」
「――ヘンな話ですね、それも」
「そうですね、確かに」
声を上げて笑う三津木君はまだ恥ずかしそうにしていたけれど、楽しそうだった。家がもうすぐであるのを家並みで見ながら、彼の話を聞き続ける。
「そんなこんなでその後も会って話すようになって、マルチの話が出てはケンカみたいになって、でも詳しく話を聞いているうちにマルチが嫌いなのは逆恨みみたいなものなのがわかってきて……。それでいまは僕も彼女も、マルチが目指していたような、微笑みが増えるようなことがしたい、って仕事をしてます」
ニッカと笑った彼は、たぶん婚約するまでの人を得たからだろう、幸せそうな感じがした。
「マルチは、大変でしょうね」
唐突に話を変える三津木君。
「メイドロボから人間になる感覚ってのは、さすがにわかりませんね、僕には」
「そうですね。それで彼女もいろいろ悩んでいるようですけど……。もしかしたら、人間にするべきではなかったのかも知れない、と思うこともありますよ」
「うぅーん……」
私の言葉に考え込んでしまう三津木君。しばらく考えながら歩いて、それから顔を上げる。
「でも大丈夫だと思いますよ」
「そうですか?」
「マルチは、マルチですから。人間にならなかった方がいいかどうかってのは本当のところわかりませんけど、マルチなら、人間になってよかったって思うようになりますよ。いつだって前向きだったじゃないですか、マルチは。沈んでることはあっても、たぶんあいつは、いつか前を見ることができるようになると思いますよ」
「そう、ですね」
――私ももう少し、マルチのことを信じてみよう。
向けられた三津木君の笑みに、私もまた笑みを返すことができていた。
それからすぐに三津木君は用事があると言い、私の家が見えてくる直前で駅の方に戻っていってしまった。
――そう思えば三津木君は私のことを待ち伏せていたんでしょうか?
彼の家はこの近くにあるわけではない。偶然で会うにしてはヘンな気もした。
――件の彼女の職場がこの近くにあるのかな。
そう思いながら家に近づいていくと、門の前に立っている人影が見えた。
背が低めで髪が長く、なぜかスーパーの買い物袋を手にしている彼女の横顔には、見覚えがあった。
「なぜ、君が?」
「失礼ながら待たせていただいておりました。マルチさんにお会いしたいと思いまして」
振り向いた彼女の顔からは、どんな感情も読みとることができなかった。
*
行き先も告げずに走り出した車は病院の近くからずいぶん離れて、国道までやってきていた。国道を少し走って脇道に入り、小さな喫茶店の駐車場で止まった。
その間ほとんど私は彼女とほとんど話さずにいて、私たちが座った窓際の席に注文したコーヒーが運ばれてきてやっと落ち着いて顔をあわせることができた。
「実際会ったのは、高校のときに二回だけでしたね、あかりさん。よく憶えてらっしゃいましたね」
「えっと、浩之ちゃんから、話は聞いていたから……」
そうですか、と言って彼女――姫川琴音さんは笑った。
「ここのコーヒー、けっこう美味しいんですよ。藤田さんが淹れるコーヒーとはまた少し違って」
「お店に来たこと、あるんですか?」
「固くならなくていいですよ。一応先輩なわけですから。――お店には一度だけ。二週間ほど前に」
言って姫川さんはコーヒーをブラックのままひと口飲んだ。
姫川さんの話は浩之ちゃんから少しだけど聞いていた。彼女とどのように出会い、どういったことがあったのか。気持ちについてははっきりとは言われてなかったけど、状況を聞けば彼女の気持ちがどんなものだったかは想像できた。
――でもなんで、私のところに来たんだろう。
「あかりさん、悩んでらっしゃるようでしたから」
「え?」
心を読んだかのように姫川さんに言われて驚く。
「あっ、力を使ったわけではないです。たぶんそんなことを考えているかな、って。冷める前にコーヒーをどうぞ」
――顔にでも出ていたんだろうか。
口に寄せたカップ越しにのぞき込むようにして、笑っている姫川さんの顔を見ていた。
「あっ、おいしい」
「あかりさんもそう思います? 喫茶店としては普通の値段のコーヒーですけど、豆の保存や淹れ方が丁寧だからだと思います。ここは紅茶もおいしいんですよ」
にっこり笑った姫川さんに思う。
――きれいな人だな。
高校生だった彼女を見たときにはそこまで思わなかったけれど、大人になった彼女はすごく美人だと感じた。長い髪と整った顔もそうだけど、落ち着いた雰囲気がそう思わせるのかも知れなかった。
そんな彼女に見つめられながら、私は訊いてみる。
「やっぱり姫川さんは、その、力が……」
「えぇ、ありますよ。藤田さんに助けてもらって、制御できるようになりましたから」
超能力。それが姫川さんにあると浩之ちゃんから聞いていた。制御できなかった力を、自分の意志で使えるようになったと。
――だったら……。
「たぶん、あかりさんが考えているようなことはわたしにはできません」
また心を読んだように彼女は言う。
「じゃあ浩之ちゃんのことは……」
「わたしの力、いわゆる超能力は、たぶんあかりさんが考えているようなものとは違います。なんと説明していいのかわかりませんけど、人が普通に目が見えて、音が聞こえて、手でものをさわれるように、普通の人にはない目でものが見えたり、さわれたりするような感じです。そんなにすごいことができるわけではないんです。人よりほんの少し多くのものが見えたりするくらいです。だから藤田さんが健康だった頃まで時間を戻したりすることはできません。もしそんなことができたとしても、藤田さんが自分の死を受け入れ、納得しているのだとしたら、生き返った彼に生きる気力は残されていないでしょう。生きる気力を失った人には、生きていることは苦痛でしかないでしょうから」
「そうですか……」
「ご期待には添えませんね」
落胆してうつむいてしまう私に対して、姫川さんは静かにコーヒーを飲んでいた。
「藤田さんのコーヒーも美味しいですね。わたしは――、一度しか飲んだことがありませんけど、丁寧に淹れてある以上に、藤田さんの優しい気持ちが入っているようなコーヒーでした」
カップを見ながら姫川さんが言う。
彼女の言うことはわかる。なぜか私が浩之ちゃんと同じようにコーヒーを淹れても、同じ味にはなったことがなかった。酸味が強いブレンドでも、渋みの強いものでも、浩之ちゃんが淹れると、ひと口飲むと柔らかさを感じる。どうしてなのかわからないけど、私の淹れるコーヒーと、浩之ちゃんが淹れるコーヒーは違っていた。
「わたしは浩之さんに救ってもらったんです。わたしの力は、わたし自身で制御できる力でした。最初はわたし自身の力であることすらわからなくて、そこから教えてもらって、自分の意志で使うことを覚えたんです」
すっとカップから目を上げて、私の瞳を見つめる姫川さん。
「好きでした、浩之さんのこと」
ドキリッ、と心臓が大きくはねた。
嘘を含んでいない瞳に、私は飲まれてしまう。
「ずっと悩んできたことから救ってくれたんです。誰もが嫌ったわたしに微笑みをかけてくれたんです。救ってくれたから好きになるというのは、違うのかも知れないですけど、わたしは浩之さんがずっと側にいてほしいと思ったんです」
毅然としていた瞳が揺らめき、悲しみが浮かんでくる。
「でも振られたんです、わたしは。思い切って告白したんですけど、藤田さんの心にはもう、マルチさんがいたんです。マルチさんのことを恨みました。ロボットなのに浩之さんの心を奪ってしまった彼女のことを。人と同じ心を持っていたとしても、ロボットが初めて好きになった人の心にいることを妬みました」
――この人もマルチちゃんの存在に苦しんできたんだ。
私はマルチちゃんのことを嫌いになることはできなかった。でも私の中にも、マルチちゃんに対する嫉妬があったことは、否定することができない。
「振られたけれど、私はそれでも浩之さんのことが好きでした。微笑む人が増えてほしいという彼の願いを聞いて、わたしもなにかできないかと思って、いまは学校の先生をしています」
コーヒーを飲み干した姫川さんはカップを置き、微笑む。
「わたし、結婚するんです」
「え?」
言って幸せそうな笑みを浮かべる彼女。
「彼の仕事が落ち着くのが来年の春なので、実際結婚するのはもう少し先ですけどね。力のことも受け入れて、それまで以上に制御できるように手伝ってくれたんです。制御できるといっても前はふとしたときに力を使ってしまうことがあったんですけど、いまではそんなこともなくなりました。普通なら羨んだり、妬んだりされたりするんですけど、その人は藤田さんのように普通に力のことを受け入れてくれました。そして、結婚しようって言ってくれたんです」
――姫川さんて、かわいい人なんだ。
はにかんだ表情にそんなことを思ってしまう。
高校生だったときのように気弱そうなところはなくて、普通の女性としての幸せをつかんだのだと思う。
「浩之さんに出会う前のわたしでは、こんな人並みの幸せが得られるなんて考えつきもしませんでした。浩之さんがわたしを変えてくれたんです。こうして笑えるようにしてくれたんです」
にっこり笑った姫川さんは、普通にどこにでもいるような、素敵な女性に見えていた。
「いまではマルチさんのことも妬んではいません。もし藤田さんがマルチさんに出会っていなかったら、わたしは彼に救ってもらえていなかったかもしれませんから」
「そう、ですね……」
――浩之ちゃんの夢の形のひとつが、いま目の前にあるんだ。
まるで輝いているかのようなまぶしさを感じる琴音さんの笑顔に、そう感じる。
いつも浩之ちゃんと一緒に喫茶店に出ていたわたしだったけど、こんなことを感じたことはなかった。いつも騒がしくて、でも微笑みがあふれていて、和やかな雰囲気のお店を見てきた。
――わたしは本当に見ていただけなのかも知れない。
浩之ちゃんがつくってきたものが本当はどんなものだったのか、見たい気がした。横で見ていただけでは感じることができなかったものを、私も感じてみたいと思った。
「病院に戻りますか?」
微笑みながら言う姫川さんに「はい」と答えて、すこしぬるくなってしまった――でも美味しいコーヒーを飲み終えて席を立った。タッチの差で姫川さんより先に伝票を取って、彼女と微笑みあいながらレジへと向かっていった。
三度目のお辞儀をしたあかりが救急病棟の自動ドアの中に吸い込まれていくのを、琴音はじっと見つめていた。
後ろでタクシーが客を乗せたのを確認して、琴音は自分の車を発進させた。
バックミラーに映る自動ドアが小さくなっていくのを見ながら琴音はつぶやく。
「藤田さんの思惑ほどには、ものごとは簡単に進んでくれないようですよ」
* 4 *
開いたノートパソコンのエディタソフトの表示には、改行とスペースしか打ち込まれていなかった。
隣に広げてあるノートは構想を書き込むためのメモとして使っていたけれど、そこにもたいしたことは書いてなかった。
「ふぅ」
ため息をつきながらノートパソコンを閉じて、構想ノートと一緒に鞄にしまう。図書室に差し込んでいた西日はいつのまにか赤みを帯びてきていた。
授業が終わってからずっとここにいて、ノートパソコンを広げているのに、なにも書くことができなかった。
「浩之さんと一緒にいた頃は、あんなにたくさん思いついたのに……」
メイドロボだった頃、浩之さんに読んでみたいと言われて、わたしは物語を書こうと思った。メモをつくって、内容を考えて、物語をつくろうとしてたときがあんなに楽しかったのに、いまはひと文字も書くことができなくなっていた。
長谷川さんのこと、真澄さんに話したこと。今日はいろいろあってすぐには家に帰りたくなくて、図書館で物語をつくろうと思ったけど、けっきょくわたしが得ることができたのは、メイドロボのときのように書くことができない、といういつも感じていることだけだった。
これ以上は下校の時間になってしまうので図書館にはいられない。鞄を手にして学校を出る。
――わたしは本当に人間なんだろうか。
繰り返し考えてしまうこと。
人間になれば、メイドロボだったときよりもたくさんのことができると思った。もっと浩之さんの側にいられると思った。
でも実際、いまのわたしはメイドロボみたいだと言われ、物語がつくれないくらい、なにもできていない。クラスの人とも馴染み切れずに、微笑みが増えてほしいと思っていても、なにもできないでいた。
――人間にならなかった方がよかったのかな。
メイドロボだったときの方がいろんなことができていたくらいなら、人間になんてならなければよかったと思ってしまう。
駅に着いて、定期券で改札を抜けてちょうど来た電車に乗り込んだ。帰宅時間のいまは混み合っていて、吊革につかまったわたしはため息をつく。
窓の外はそろそろ暗くなってきていた。窓に映る自分の顔と、左右に立っている疲れた感じの男の人たちの顔は、どこか似ているような気がした。
――わたしはこのままなにもできないで過ごして行くんだろうか。
ふた駅揺られて電車を降り、すっかり暗くなった駅前の商店街を抜けて歩いていく。いつも寄っているスーパーの前で立ち止まって鞄の中の財布を取りだし中を見てみたけれど、夕食の材料を買えるほどお金は入っていなかった。
――お父さんに夕食、待ってもらわないといけないな。
あんまり遅くなるといけないから、少し急いで家へと帰る。家に帰り着いて門をくぐってみると、ダイニングに灯りがついているのが見えた。
「なにか自分でつくったのかな」
この時間お父さんは自分の部屋にいることが多い。ひとりで暮らしていたからお父さんも食事くらいは自分でつくれるけれど、わたしと暮らすようになってからはお父さんが夕食をつくったことはほとんどなかった。
遅くなりすぎたかなと思いつつ玄関に入ると、家の中にはいい香りが漂っていた。
「シチュー、かな?」
靴を脱いだわたしは、ただいま、と声をかけながらダイニングの方に入っていく。そこにはコーヒーカップを手にしたお父さんがテーブルに着いていた。
「お帰り、マルチ。もうすぐ夕食だよ」
にっこりと笑ったお父さんが夕食をつくっている様子はなかった。ただいま、と挨拶を返しながら不思議になってキッチンの方を見ると、ちょうど人が出てくるところだった。
「お帰りなさいませ、マルチさん」
「え?」
その人を見て驚いてしまう。その顔に見覚えがあったから。
量産型とは少し違う長めのイヤーセンサーをしているその人は、メイドロボとしてわたしが生まれたときに一緒に開発されていた、試作型のセリオさんだった。
「セリオさん?」
「いいえ、わたくしはセリオではありません。初めまして、という方が正確でしょう。初めまして、マルチさん。わたくしの名前はセルフです」
わたしの知っているセリオさんとまったく同じ表情のない顔で、その人――セルフさんは挨拶をした。
*
机の上に並べたテストの答案を見て、真澄は思わずため息をつく。
今日返ってきた三つの教科の点数はどれも赤点ではなかったが、おそらく平均点にすら達していないものがふたつ、もうひとつもけっしていい点数とは言えなかった。
「ふぅ」
もうひとつため息をついた真澄は、本立てに立てたファイルを取って中からテストの問題を引っぱり出す。
ノートと教科書も開いて、間違っている問題をひとつひとつ見ていく。
――みのりなら、こんなこと必要ないんだろうな。
わかる範囲で正解を探しながら、そんなことを思う。
入学してすぐに行われた実力テストや授業の中で行われた小テストの結果で知っていたが、みのりは頭がよかった。いい高校に入ろうと思ったら二年になったら進学塾に通うのが普通だけれども、みのりならばそれも必要ないのだろうと思う。
顔も真澄のような少し角張った形とは違って、本人が言うよりもかわいいと感じるし、人に嫌われるような性格もしていない。奥手なところがあって、真面目で謙遜する感じがクラスの女子には受けが悪いけれど、輪に入ってくるようになればみんなと友達になれるだろうと思った。
――あたしができないことが、みのりにはたくさんできる。
それなのになぜ彼女がなぜあんなに自信がなさそうにしているのか、真澄にはわからなかった。
――それにみのりは、マスターの側にいられた。
彼女は憶えていないようだったが、中学に入る前に真澄は喫茶「マルチ」で夕食が摂ることが多かった。なによりマスター――浩之と話していると楽しくて、ディナーメニューが終わりになっていても紅茶一杯で閉店までいることが多かったし、何時間いても心地よい雰囲気があそこにはあった。
しかしそれも、みのりがウェイトレスとするようになってからは、行かなくなってしまった。
ガチャリッと鍵を開ける大きな音がして、扉が開けられる。
入ってきたのは真澄の母親。足取りもおぼつかない様子でやってきて、ただいま、という言葉も早々にショルダーバッグを放り出して派手な色をしたスーツを脱ぎ散らし、敷かれたままになっている布団に潜り込む。
「お母さん、テストが返ってきたの」
「あ、ゴメンね。起きたら見るから、机の上に置いておいて」
顔も上げずに言って、身体を丸めるようにして寝入ってしまう。
仕方なく真澄は散らかった服を拾ってハンガーにかけ、鞄も洋服ダンス代わりのチェストの上に置いた。母親の近くを通ると、強いお酒の匂いが漂っていた。
この家に父親はいなかった。真澄が物心つく前に母親は離婚して、母子ふたりで生活している。母親はスナックかなにかのホステスをしていて、昼過ぎに起きて夜遅くに帰ってくることが多い上、お酒を飲んで帰ってきて、すぐに寝てしまうことがほとんどだった。
――マスターはどうしたんだろう。
「マルチ」はここ一週間以上、営業をしていない。お店に人影はなくて、浩之の連絡先を真澄は知らなかったし、他に顔を憶えあっている常連の人はいたけれど、みんな大人の人ばかりで、連絡を取り合うような仲の人はいなかった。
真澄は浩之のことが好きだった。大人の男性である浩之は大きく見えて、誰にでも優しく、気配りができて、なにより笑顔が素敵だった。もし自分に父親がいるとしたら、あんな人ならばいい、と思って、彼が仕事をしている様子をずっと眺めていた。奥さんのあかりも素敵な女性で、みのるとともに三人でいる姿は、本当に幸せそうだった。
――対してうちのお母さんと言えば……。
下着のままシャワーも浴びずに、酒臭い匂いを漂わせて眠っている母親。若くして結婚した母親はまだ三十と少しで、真澄が見ても顔やプロポーションは悪くないと思えたが、家にいる様子は女のかけらも感じられなかった。
――お母さんもあかりさんのような人だったらよかったのに。
そうすれば浩之のような男性にも出会えたかも知れない。いまからでも出会って、再婚もできるかも知れない。けれども振り返って見る母親の寝姿からは、そんなことがありそうな気配など感じられなかった。
――あたしもあそこで仕事ができればな……。
自分も「マルチ」で仕事ができれば、もっと浩之の側にいられると思った。素敵な男性で、幸せな家庭を持つ浩之の側にいられれば、自分も幸せになれそうな気がしていた。
みのりはどこからともなく現れて、自然に浩之の側にいるようになった。同年代の女の子が自分よりも浩之の側にいることが見ていられなくて、真澄は「マルチ」に行かなくなってしまった。
「マルチのクセに」
つぶやきを漏らして、止まっていたテストのチェックをやめてノートと教科書を閉じてしまう。
長瀬みのりという名前があるのに、店ではマルチと呼ばれていた彼女。それは店と同じ名前であり、同時に来栖川の廉価版のメイドロボの名前であることを真澄は知っていた。
小学校を卒業し、同じクラスにみのりがいるのを知って、彼女に近づいた。自分よりも浩之の側にいる人がどんな女の子なのかと思って。
――今日あの子、泣いてたな。
好きな人がいると言って泣いていたみのり。一緒に暮らしていたというのが浩之だろうことは想像できたけれど、相手にも好かれていたというのはよくわからなかった。
だんだんと知っていくみのりのことが嫌いになれなくなっている自分を感じていた。真澄よりもたくさんのものを持っているはずなのに、浩之の側にいるはずなのに、おそらく真澄よりも多くのことで悩んでいる彼女のことを、もっと知りたいと思っている自分がいるのを感じていた。
「マルチのクセに」
もう一度その言葉をつぶやいてみたけれど、前ほど憎々しい気持ちを込められなくて、真澄はため息をついて机に突っ伏した。