実りの季節を抱きしめて 実りの季節シリーズ3 作:きゃら める
第三章 茂る葉、揺れる葉、輝いて
* 1 *
カーテンの隙間から明るい光が射し込み始めて、暗かった部屋を少しずつ明るくしていた。
大きなベッドでひとりで眠るのは寂しくて、少し寝ては浩之ちゃんのことを捜したりしていたけれど、いまは寂しさを感じない。
「……」
天井を見つめながら夜の間ずっと私は考えていた。
いろんなことを考えていて、答えがはっきりしないけど、でもやろうとしていることは決まっていた。
身体を起こして見てみた時計の針は六時を少し過ぎたところ。いつもならもう店で仕込みを始めている時間だった。
「開店がちょっと遅くなるかも知れないけど、いいよね、浩之ちゃん」
ベッドから出て手早く着替える。
今日着るのは部屋着でも外行きのスーツでもない。お店で仕事をする用の地味なエプロンドレスだった。
「自分でやれることを少しずつでもやってみよう」
口に出して心を決めて、寝室を出ようとする。
ふと思った私は、クローゼットからもう一着エプロンドレスを取り出す。それはサイズの小さいマルチちゃんのもの。
必要になるとは思えなかったけれど、なんとなく持っていった方がいいような気がして、クリーニングから帰ってきたままのそれを紙袋に入れて手にした。
「行ってきます、浩之ちゃん」
そこにはいない彼に声をかけて、扉を閉める。
大変になることはわかっているのに、なぜか今日は初めて開店したときのようにわくわくした気持ちがあった。
*
「おいしくないですか? わたくしのつくった食事は」
「いえ、そういうことではないんですけど……」
ダイニングテーブルにはご飯とみそ汁に丸干しイワシの焼いたもの、それとお父さんが淹れてくれたコーヒーなんかが並んでいる。別に珍しいわけではない、わたしでもつくるような朝食だった。
けれども並んでいるのは三人分。それぞれわたしとお父さんと、それからセルフさんの前に置かれていた。
「どうしたんだ? マルチ。冷めてしまうよ」
言ってお父さんはご飯を頬張る。
「ん……。やはりメイドロボが調理師免許を取れないのは当たり前かな。失敗はしないが成功もしていない味、ですかね」
「そうですね。同じ献立の食事をショージに連れられて食べたことはありますが、見た目は雑でもわたくしがつくるものよりも美味しかったです」
そう言ってセルフさんは綺麗に骨を取り除いたイワシを口に運んだ。
メイドロボは食事ができない。ずっとそう思っていた。けれども目の前のセルフさんはゆっくりとした速度ではあるけれど、わたしと同じ朝食を口にしている。イヤーセンサーがあるから嫌でもメイドロボであるのはわかるのに、それが食事をしている様子を見るとなんとなく違和感があった。
見ていても仕方ないので、わたしも手を動かして食事を口に運ぶ。
――おいしい。でもなにか違う……。
口にしたイワシはちょうどいい焼け具合でいいけれど、どこか物足りないものを感じてしまう。ご飯もふっくらとして美味しいはずなのに、同じように物足りない感じがしてしまった。
「次食事を一緒にするときは、マルチさんにつくってもらうことにしましょう。お願いします、マルチさん」
「あ、はい。頑張りますー」
わたしの様子に気がついたのか、セルフさんに言われて慌てながらもそう答えた。
朝食を終えたわたしたちは、コーヒーカップを手にリビングに移って、みんなでソファに座りながらテレビを見始めた。日曜日の朝はあまり面白いと思う番組はなく、お父さんとセルフさんは黙ったまま二十四時間経済や技術関係のニュースを流している番組を見ていた。
黙ってテレビを見ながら、わたしはこっそりセルフさんの顔をのぞき見る。
見た目にはわたしと一緒に試験をしていたセリオさんとまったく変わらない。セリオさんだったときに比べて口調がなめらかで、カジュアルなシャツとスカートを着ているという以外、表情のない顔も一緒で、セリオさんと名前を呼んでしまいそうになったりもしていた。
お父さんは以前からセルフさんのことを知っているようだったけれど、その話を聞いたこともなくて、詳しく彼女のことを教えてくれることもなかった。
――どうしてここに来たんだろう。
昨日の夜、自己紹介をし終えたセルフさんはわたしに会いに来た、と言っていた。どういう理由で会いに来たのかは詳しく聞いていなかったから、セルフさんがなにをしにきたのかはわからなかった。
「長瀬さんに淹れていただいたコーヒーは独特の味がしますね」
「適当に淹れているだけだからまぁ、美味しくはないだろう」
「インスタントのものに比べれば、やはりコーヒーメーカーで淹れたコーヒーは美味しいですよ」
そんなやりとりをしつつコーヒーを飲み終えたセルフさんはソファから立ち上がる。
「少し外に出ませんか? 天気もいいようですし」
「え?」
セルフさんの視線はお父さんではなく、わたしのことを見ている。もちろんわたしを誘っているのだけれども、不意を突かれてしまってカップを手にしたまま立ち上がって、答えが返せなかった。
「お話をしながら、街を案内していただけませんか?」
「行っておいで、マルチ。私は留守番しているよ」
「……はい、わかりました」
どんな話をするのだろうと思いながらコーヒーを飲み終えて、外着に着替えるためにリビングを出た。
*
夜では終わりきらずに、真澄はテストの直しを朝起きてからもやっていた。けれども早々に疲れてしまって、家を出て当てもなくぶらぶらと街を歩いていた。
――みのりであればこんな苦労はしないんだろうな。
テストのやり直しは半分も終わっていない。どうやっても真澄ではわからないところがでてきて、途中で投げ出してしまった。頭のいいみのりならばこんなこともないだろうと思ってしまう自分が嫌だった。
ただぶらぶらと、真澄は歩き続ける。
午前中は母親も眠っていて、洗濯も掃除もできない。やることもなくて仕方なく外に出てきていた。
当てもなく歩いていたはずなのに、気がつくと「マルチ」の側までやってきていた。初めて「マルチ」を見つけたときのように、歩いているうちに看板が見えてきて、ふらりと入り口に立った。
「あれ?」
ここのところずっと閉店していた「マルチ」。それなのに今日は店内には明るい光と楽しそうに話をしている客がいるのが見えた。
「いらっしゃいませーっ」
誘われるように扉を開けてみると、浩之のものではなく、あかりの声がした。見回すと知っている顔がほとんどで、カウンターの内側にはあかりがひとりで忙しそうに仕事をしていた。
「あっ、真澄ちゃん、だったよね? 久しぶりだね。なんにする? 浩之ちゃんほど美味しくできないと思うけど、なんでもできるよ」
他の人の注文も入っているようで、言いながらも手が止まっていないあかりは、それでも真澄に笑みを向けてきてくれる。
――今日のあかりさん、どこか違う……。
カウンターの席に座りながら少し早い昼食を頼んだ真澄は、元気のいい返事を返して仕事に戻ったあかりのことをじっと見ていた。
レンジに置かれたフライパンにはそれぞれにつくりかけの料理があって、下のオーブンでもなにかを焼いている様子だった。その隣ではサイフォンとティポットの準備が進められていた。
それほど大きな店ではないから入れる客の人数もたいしたことはなかったが、ひとりで切り盛りするには半分も席が埋まれば充分すぎるほど忙しい。浩之に比べて全体の手際がいまひとつよくないように見えるあかりは、客と話している余裕がないほど動き回っていた。
「えぇっと、ピザトースト、できたよっ」
「お、それオレのオレの。いま取りに行くからそこに置いて」
「はいっ」
「スペシャルブレンドは?」
「こっちこっち。今日はあかりさん特製ブレンドかな?」
できあがった料理を客に手渡してはにっこり笑うあかりに、真澄は見とれてしまう。
――そっか。マスターに似てるんだ。
いつも控えめで、ケーキづくりと手伝いをしていたあかりは浩之に比べて一歩引いていて、店の中では目立つようなことがなかった。笑っていてもそれは穏やかな笑みで、浩之の優しい笑みに比べて印象が薄かった。
それが今日は浩之の代わりに前に出ていて、客のみんなに優しい笑みをかけてくれている。その笑みは浩之のものと同じように見えていた。
――あたしもこんな人になりたいな。
「はい、真澄ちゃん。お待たせっ」
「ありがとうございます」
笑みとともに渡されたミックスサンドを受け取って、真澄もまた笑みを返していた。
* 2 *
千客万来。
その言葉がまさにぴったりのようなお客さんの入りだった。
布団から出るのが遅かったから近くの市場に駆け込むように食材を買い集めてきて、とって返して店でケーキの準備をし、生地を寝かしている間に掃除をして、あらかた終わったと思ったときには普段の開店時間を二時間も過ぎていた。ずいぶん開けていなかったから誰も来ないかと思ったけど、ひとり常連さんが来て、ふたり目が来たとしている間に、店はあっという間にいっぱいになっていた。どうも常連さんの間で話が回ったらしく、浩之ちゃんがいないにも関わらず知った顔が代わる代わる来店してきていた。
浩之ちゃんのことは、店の誰かが聞きつけているのかも知れなかった。それを証拠に、誰ひとりとして彼のことを訊ねてくる人はいない。浩之ちゃんが開いていたときと同じように、みんな笑顔で話をして、食事をして、穏やかな空気が店内を包んでいる。
「あかりさぁん、お冷や頂戴ぃ~」
「はーい、ただいまっ」
「こっちは会計ね。ごっそさん」
「はい。ありがとうございました」
「また来るよ、絶対に」
ニッと笑ったいつも昼食を食べに来る常連さんの顔に、思わず胸が詰まってしまう。
――浩之ちゃんがつくってきたのは、こんな空間だったんだ。
ずっと側にいて見てきたつもりだったのに、私は今更ながらにそんなことを感じている。浩之ちゃんのことを手伝ってきたつもりでいたのに、実際こんな空間ができるようなことを、いままでなにひとつしてきてこなかった自分を感じていた。
「今日のあかりさん、素敵ですね」
集めた食器を手にしてカウンターの内側に戻ってきたときに、後ろからそんなことを言われる。振り返ってみるとそこには笑顔の真澄ちゃんがいた。
「そう、かな?」
浩之ちゃんに倣って作業の手を止めずに真澄ちゃんの顔を見る。
確か彼女は母子家庭で、母親が忙しくて食事をつくっている暇がないからこの店に来ている、という話を浩之ちゃんとしていたのを憶えている。小学生なのに大変だな、と思っていたら新しく入ると言っていた中学が始まる少し前から来なくなっていた。
「まるで、マスターみたいです……」
――この子は浩之ちゃんのこと、知らないんだな。
うつむいた真澄ちゃんの表情から、それを読みとっている自分がいるのに気がついて、驚いてしまう。
『お客さんとの距離を大切にしたい』
浩之ちゃんはそんなことをいつも言っていた。
――これがそういうことなのかな。
みのるの世話の合間とは言え、毎日店にいたはずの私。けれどこんな風にお客さんと近い距離にいたことはなかった。店の中にあるひとつひとつのことが、いつも見ていたはずなのに、初めてみるもののように思えていた。
――私は、なにもしていなかったんだ。
浩之ちゃんの側にいて、浩之ちゃんの夢の手伝いをしているつもりだった。でも実際こうしてお店にひとりで立ってみると、そこは私の全然知らない空間で、私が手伝っているつもりでしかなかったことを実感していた。
――浩之ちゃん。
心の中でつぶやく彼の名前。
帰ってきて欲しかった。今更気づいた浩之ちゃんの夢の形を、私にも手伝わせて欲しかった。
「どっ、どうしたんですか? あかりさん」
真澄ちゃんの驚いた声に、店内のお客さんが一斉に私の方を向く。あふれ出してしまった涙を隠すように後ろを向いて、カップを取る振りをしながら目尻を拭いた。
――浩之ちゃんって、こんなにすごい人だったんだ。
一番側にいたはずなのに気づかなかった自分が情けなくなってくる。もう一度浩之ちゃんと一緒にこのお店で仕事がしたくてたまらなかった。
――少しくらい遅れてもいいから、絶対、絶対帰ってきてよ、浩之ちゃん。約束を守ってね、必ず。
そう彼に呼びかけながら、振り返って笑む。
「なんでもないよ。さぁ、他に注文はある?」
身を乗り出していた真澄ちゃんは安心したように椅子に座った。それを待っていたかのように、次々と注文の声が挙がる。
うれしさに涙が出そうになりながら、注文を伝票に書き付けていった。
*
セルフさんはなにも喋らずに歩いていく。わたしはその後ろをくっついていくように歩いていた。
――話をしようって、どんな話だろう。
そうセルフさんが言っていたのに、実際外に出て一緒に歩いていても、彼女が話を始める様子はなかった。
セリオさんもそうだったけど、セルフさんも無口だった。同じようだと考えれば気にしなくてもいいのかも知れなかったけれど、わたしに会いに来たという目的が気になって仕方がなかった。
「このバスですね」
駅前まで来たセルフさんは、迷うことなくちょうどやってきたバスに乗り込む。遅れないようにわたしも乗り込んだ。
街を案内してほしいと言っていた割に、セルフさんにはどこか目的の場所があるようだった。
セリオさんと一緒のときはそんなことはなかったけど、セルフさんだとなんとなく気後れしてしまう。見た目は一緒でも少し雰囲気の違うセルフさんの隣に、変わることのない顔色をうかがうようにして見ながら座る。
バスに揺られながらしばらく。外を見ていたセルフさんがやっと口を開いた。
「話がある、と言いましたけれど、本当は話したいことがあったわけではありません。ショージ――音山社長に会ってみるかと訊かれたので、会いに来ただけです」
「そうなんですか……」
一層話しづらくなってしまって、それ以上口を開いていることができない。ちらりとセルフさんに顔を見られて、思わずうつむいてしまった。
「ここで降りましょう」
降車ボタンを押してセルフさんが言う。完全にバスが止まってから席から立って、ふたり一緒にバスを降りる。
「ここは……」
見覚えのある場所だった。
「マルチさんの方がご存じですね、ここは」
駅からほど遠くない、家があるわけでもない停留所。わたしも知っているそこで、セルフさんは林の中に入っていく。
林を抜けると丘がある。そこはみのりさんがよく来ていたという丘。わたしもまた来ることがあるここは、夕日が綺麗な丘だった。
セルフさんは見晴らしのいい丘に一本だけ立っている木に近づいていく。
「いい景色ですね、ここは」
「……はい。もう少しして夕焼けになると、もっと綺麗ですよ」
「そのようですね。ショージもそう言っていました」
セルフさんと並んで丘から見える風景を眺める。しばらく一緒に眺めていて、いたたまれなくなってわたしの方から口を開く。
「どうして、わたしに会いに来られたんですか?」
「先程も言ったとおり、ショージに言われたから、というのが本当のところです。――そうですね、もし理由と言えるものがあるとしたら、わたくしの中にあるセリオさんの記録のマルチさんを、確かめてみたかったから、という感じでしょうか」
「セリオさんの記録?」
「はい」
身体ごとわたしの方を向いて、セルフさんは言う。
「わたくしは来栖川HMの技術の粋を集めてつくられたボディに、試作型二機のセリオの記録を移植された実験型、そして近い未来型メイドロボのコンセプトモデルとして開発されました」
「実験型?」
「というのは予算を捻出するためのこじつけで、ショージの趣味と私欲のためにつくられたメイドロボです」
「え? えっと?」
言われたことがよくわからなくてセルフさんに向けた目を見開いてしまう。
「わたくしには汎用ロボットとなるべく開発中の次世代メイドロボ、ミノリに搭載される予定の新コンセプトAHSを搭載し、食事ができることからわかるとおり、ストマックエンジンと味覚を含むスメルセンサーを採用しています」
「すごいんですね、セルフさんは……」
「すごいというよりむしろ、いま現在来栖川HMにあるメイドロボ向けの技術を単純にすべて詰め込んだ、という感じです。それもショージの趣味で、あの人が仕事の合間に趣味で設計していたメイドロボを実際につくった、ということのようです。だからこのように――」
向けられたセルフさんの顔がにっこりと笑う。
セリオさんの顔をしていることも、セルフさんのいままで話してきた性格と口調を考えても、その笑みにはすごく違和感があって、思わず「うわ……」と悲鳴に近い声を出してしまった。
「表情をつくることもできますが、しません。ショージには思うとおりにしろ、と言われていますので」
「……」
あまりの違和感に声が出せずに沈黙してしまう。
だんだんと日が傾いてくる。それでも空が赤くなってくるまでにはまだまだ時間があった。セルフさんは丘から下に広がる風景をじっと見ていた。
「ショージは、わたくしをメイドロボとしてつくったわけではない、と言いました。わたくしはメイドロボではなく、ショージの友達である、と」
「友達?」
「はい。わたくしには友達、という定義はよくわかりません。辞書に書かれた言葉の上ではわかりますが、実際に友達がどんな関係なのか、それを行動で表すことはできません。ショージのもとで秘書という仕事をしながら、彼と生活を共にし、友達というものがどんなものであるのかを学んでいけと言われました。だからわたくしは、いろいろな情報を経験して学び、友達というものを知っていこうとしています」
「友達というものを知っていく……」
「はい」
そこまで言い終えて、セルフさんは口を閉ざす。なにかを考えているのか、ずっと黙っていて、その横顔を見ていても表情は見えないから、なにを考えているのかもわからなかった。
しばらくしてから、セルフさんは再び口を開く。
「本当のところ、友達というものを知る前に、わたくしはわたくし自身というものがわかっていません」
「自分がわからない?」
「はい」
見つめられた瞳に、なにかが映っているような気がする。セルフさんがなにかを伝えようとしているような気がした。
「わたくしには試作型セリオ一号機二号機の記録が移植されています。そしてこの身体にはセルフという名前をショージからもらいました。けれどもなにかの拍子にセリオの記録が再生されることがあります。マルチさんのことを検索したときや、ショージのこと、長瀬さんのことを考えたときに、希にセリオの生の記録が再生されることがあります。果たしてわたくしはセリオの一号機なのでしょうか、二号機なのでしょうか、それともやはりセルフなのでしょうか。その定義付けをしようとすると、処理が混乱することがあります。けっきょくのところ、その答えは出ないかも知れないと考えることもあります。セリオ一号機であること、二号機であること、そしてセルフであること、そのすべてを考えた上で、『わたくし』というものがあるのかもしれません。そのことは友達というものの定義も含めて、いまの記録が新しいボディに移植され続け、なにかのときにいまそれを考えている『わたくし』というものが消えてしまうそのときまで、考えていくつもりです。――ちなみにマルチさんは、どんな存在なのでしょうか?」
問われて考え込んでしまう。
セルフさんの言葉を聞いたいまでは、自分が人間であるということも、メイドロボであるということも、正解とは言えないような気がしていた。
「ショージが前に言っていた言葉があります」
「どんな言葉ですか?」
「大人であることは子供ではなくなることではない。子供時代のなかった大人はひとりとしていない。大人になるということは子供をやめることではなく、強いて言うならば子供であることを卒業すること。つまり大人であるということは子供であるということを含んでいる。子供であったという過去は、大人の中に生き続けているものだ、と」
「大人であることは子供であること……」
少しだけ、わかったような気がした。もしいまの言葉をわたしに当てはめるとしたら――。
「わたくしはセリオ一号機であり、二号機であり、そしてセルフであること」
「わたしはメイドロボであって、人間であるということ、ですか?」
「そしてそれがおそらく、自分であること、なのではないでしょうか?」
身体が人間になっても、メイドロボだったときでも、わたしはわたしだった。そのどちらかであるかを考えていても、わたしがわたしであることは変わらない。
――そんなに悩むことじゃなかったのかな。
「夕焼けになってきましたね」
言われて見てみると、西の空がだんだん赤くなって、丘から見える畑や林がだんだんとその色に染まっていこうとしていた。
「きれい、ですね――」
「はい――」
セルフさんと見る夕焼けは、きれいというひと言しか出てこないくらい、きれいな風景だった。
その風景も、だんだんと揺らいで見えなくなってくる。涙があふれてきて、頬を滑って顎から落ちていった。
でもその涙は、いままで流してたのと同じ涙なのに、なぜか暖かいと感じることができた。
* 3 *
来るときに使った駅とは違って、帰りのバスの終着は学校に行くときにいつも使っている、浩之さんの店に近い駅の方だった。
音山さんの夕食をつくらなければならないと言って、セルフさんはわたしと別れて電車に乗っていった。一緒に乗ればよかったけれど、なんとなく「マルチ」が見たくて、わたしは暗くなってきた商店街を歩いていく。
少しだけだけど、浩之さんに言われた言葉の意味がわかるような気がした。
――人間であることやメイドロボであることよりも、わたしがわたしであること。
気がついてしまえば難しいことではないように思えた。それなのにわたしはずっとそんなことに悩んで、足踏みをしていたような気がする。
――明日からはもっといろんなことができるかな?
軽くなった足取りで、お店に向かっていく。
お店に行ってもなにがあるわけではないのはわかっていた。でもお店ならばどこよりも浩之さんに近い場所のように思えて、今日気づいたことを報告しに行きたかった。
「開いてる?」
近づいてきたお店には、灯りがあった。ガンだという浩之さんが退院してきたわけではないだろうと思いつつ近づいていくと、窓際に座っているお客さんの姿が見えてきた。
――まさかっ。
走りよって扉を開けると、確かに「マルチ」は開店していた。ディナーメニューがちょうど切れるか切れないかのいまの時間、店内にはほとんど満員くらいのお客さんがいて、浩之さんがお店を開いていたときと同じように、楽しい会話と、笑い声と、暖かい空気があった。
カウンターの方を見てみると、浩之さんの姿はなかった。でもまるで浩之さんのように笑っているあかりさんが、忙しく仕事をしているのが見えた。
「ちょうどいいところに! おぉーい、あかりさん。マルチちゃんが来たよぉーっ」
「え? マルチちゃん?」
料理を手にちょうどカウンターから出てきたあかりさんがわたしのことを見る。驚いたような顔はしかし、すぐに笑みに変わる。
「ゴメンッ。マルチちゃん、手伝って」
「え?」
「見ての通りお客さんがいっぱいなの。私ひとりじゃ手に負えなくなってきてて……。あ、制服なら奥に持ってきてるから、手伝っても大丈夫ならすぐに着替えてきて」
言ってすぐにあかりさんはカウンターに下がってしまう。慌ただしく新しい食器を出す棚には、もう洗い終えた食器がほとんど残っていなかった。
薄く汗を浮かべながら、浩之さんのような笑みを浮かべて仕事をしているあかりさん。状況がわからなくて見ているうちに、わたしも立っているのがもどかしくなって、小走りにカウンターの中に入っていく。
「ありがとう、マルチちゃん。お願いね」
「はいー」
すれ違うときに笑顔で言われて、わたしも笑顔とともに返事を返した。
最後のお客さんが帰るまで開店していることにしていた今日、店を閉めることができたのはいつもの閉店時間を一時間以上も過ぎた頃になってからだった。
扉の外にクローズの札をかけて、照明を暗めにし、やっとひと息つく。
「お疲れさま、マルチちゃん」
あの時間から入ってもらったマルチちゃんだけど、久しぶりにウェイトレスとして走ってもらったからずいぶん疲れたみたいだ。スツールに座ってカウンターに突っ伏したまま、声をかけても顔を上げる様子はない。もしかしたら寝ているのかも知れなかった。
午前中から仕事をしていた私ももちろん疲れている。でもそれは気持ちのいい疲れで、浩之ちゃんのことを心配して気をもんでいたときに比べれば、疲れていないようなくらいのものだった。
カウンターの内側に入って大きめのマグカップをふたつ用意する。これだけは浩之ちゃんにも負けない自信がある、ホットチョコレートをふたり分つくり始めた。
「あ……。わたし、寝てました?」
暖めたチョコレートのいい匂いがしてきた頃、カウンターに突っ伏していたマルチちゃんが身体を起こした。
「みたいだね。はい、マルチちゃん。ホットチョコレートだよ。これだけは浩之ちゃんにも負けない味だから、飲んでみて。疲れた身体にもちょうどいいと思うよ」
カップを手渡しながら、自分の分のホットチョコレートをひと口飲む。疲れている上にお腹の空いていた身体に、暖かいチョコレートが染み込んでいくような気がするほど美味しかった。
「おいしいですー。あかりさんの言う通り、このホットチョコレートは浩之さんのよりも美味しいかも知れないですね」
「単純にお腹が空いてるからかも知れないけどね」
言葉を交わして笑いあう。
浩之ちゃんが倒れた当日に病院で会って以来のマルチちゃん。あのときは私の心が彼女のことを受け入れられなくて、話をすることなんてできなかった。もう何年も会っていなかったような彼女はでも、やっぱりマルチちゃんなんだとその笑みを見て思う。
「あかりさん。わたしは――」
ホットチョコレートを飲み終えたマルチちゃんが口を開こうとするのを、私は押しとどめる。
「ダメだよ、マルチちゃん。私はマルチちゃんのことを認めてあげない。マルチちゃんがどんなに浩之ちゃんのことを想っていても、私が浩之ちゃんの妻だもん。たとえ好きだったっていう過去形の言葉でも、マルチちゃんの口から聞きたくはないよ」
「……そうですね」
力なくうつむいてしまう彼女。
――こんな風にマルチちゃんと話すのって、初めてだな。
私にとってマルチちゃんは、ずっと敵とも言える存在だった。そしてそれは、いまも少なからずそうなんだと思う。
小さな頃から浩之ちゃんのことだけを見てきた私は、マルチちゃんが現れたことによって、その気持ちを伝えることができなくなった。それがいまは逆に、私がいることで彼女は浩之ちゃんに必要以上に近づくことができない。
構図だけを見れば安っぽいドラマのようだけれども、それが私とマルチちゃんの関係だった。ただひとつドラマと違うところがあるとすれば、私とマルチちゃんが衝突する事はなかったこと。
浩之ちゃんのことが好きな私は、同時にマルチちゃんのことも嫌いにはなれなかったし、たぶんマルチちゃんもそのような感じだったんだと思う。
だから私とマルチちゃんは初めて、こうやってふたりきりでお互いのことを話すことになる。
「ひとつだけ、いいですか?」
「うん」
「……わたしは、浩之さんに振られたんです」
「え?」
意外な言葉に少し驚く。うつむいたまま話す彼女の言葉に耳を傾けた。
「あの日、わたしはまたご主人様と呼びたい、って言おうとしたんです。そしたら浩之さんは最後まで言わせてくれずに、笑って『ダメだよ』って……」
「そうだったんだ。でもそれは私も同じかも。あの日浩之ちゃんと約束したの。『必ず帰ってきて』って。約束したのに、帰ってきてくれなかった。マルチちゃんの前で倒れて、そのままだった」
ふたりしてうつむいて、なにも言えなくなってしまう。
飲み干したホットチョコレートは、もう冷たくなってしまっていた。
「なんか、似てるよね。振られちゃったマルチちゃんと、約束を守ってもらえなかった私。浩之ちゃんはひとりだけずるい。女をふたりもこんな気持ちにさせて」
「でも浩之さんは素敵な人で、すごい人です」
「うん、そうだね」
必死な口調のマルチちゃんの言葉に、私は笑って答えた。
「今日このお店をひとりで開くまで、私は間違ってた。浩之ちゃんの側にいて、彼の手伝いをしてるつもりだったけど、なにもしてなかったんだって気づいたの」
「わたしも、たぶん浩之さんにすがってただけなんだと思います。人間になったわたしはなにをしてもうまくいかなくて、もうあの頃には戻れないのはわかっているのに、浩之さんと一緒にいれば大丈夫なんだ、って勝手に思ってただけなんだと思います」
「そっか」
飲み終えているマルチちゃんのカップを取って、自分の分と含めて流しに浸ける。
「そろそろ、わたし帰りますね」
それを機に立ち上がって、彼女は店を出ようとする。
「待って、マルチちゃん」
振り向いた彼女に言う。
「明日もお店、開けようと思うんだけど、また手伝ってくれる? ひとりじゃやっぱり大変で。学校が終わった後でいいんだけど」
「絶対、絶対手伝いに来ますー。朝から手伝わせてほしいくらいですよ~」
満面の笑みを浮かべて彼女は答えてくれる。
「いいの?」
「もちろんですよ。わたしもこのお店が好きですから」
「ありがとう。――もし、もしね、マルチちゃん」
――たぶん、いまなら言える。
私とマルチちゃんの距離がわかったいまなら、ちゃんと言えると思う。思い切って言葉を口に出してみた。
「もし浩之ちゃんが帰ってきて、お店を本当に再開したときも、手伝ってくれる?」
「手伝わせて下さい。わたしはもっと浩之さんから、教えて欲しいことがありますから」
浩之ちゃんが運ばれた病院で、惚けていたマルチちゃん。お互い見つめ合うことができなかった目は、いまはしっかりとお互いのことを見ている。
「そのときはわたし、浩之ちゃんのことの夢を手伝える気がする。見ていただけのいままでと違って、ちゃんと彼のことを手伝えるような気がする」
「わたしは新しいことを始めようと思います。メイドロボだった過去と、人間のいまを持っているわたしだからこそできることを、ゆっくりと探していこうと思います」
にっこりと、お互いに笑いあった。
長い間知っているようで知らなかったふたりが、やっと理解しあえていると感じることができた。
「頑張ってください、あかりさん」
「マルチちゃんもね」
「はいー」
笑みを残して、マルチちゃんは行ってしまった。
残された私はカップを洗いながら少しだけ泣いた。
「こうなったら浩之ちゃん、約束通り帰ってこないとダメだよ」
* 4 *
『あ、いまカウントゼロ。打ち上げです。ゆっくりと船体が空に向かって昇って行って、――もうあんなに遠くに……』
「あ……」
テレビに映るロケットの打ち上げの映像を見ていて、声が出てしまう。白い煙を残して空に昇っていくロケットは、あっという間にカメラの映像の中で小さくなって、見えなくなってしまった。
『今回も成功のようですね』
『まだわかりませんが、いまのところ問題ありませんね。少しして軌道に乗ったと報告がくれば、とりあえずは成功でしょう』
『さて、報告が来るまでのしばらくの間、今回の計画の経緯を説明していきましょう』
お父さんがよく見ているテレビのチャンネル。そこでは今日、リアルタイムで大きなイベントが行われていた。ロケットの発射、というだけではなく、わたしにも興味のある話題だった。
画面が移り変わって、スーツを着た女性と白衣姿の男性が現れる。ふたりの背後には壁の代わりに映像が重ねられていて、それにはすでに打ち上げられている宇宙基地の様子が映っている。
『これが去年暮れに打ち上げられた基地の様子ですね』
『はい。見ての通り外観も――、はい、内部も、普通の宇宙基地とあまり変化はありません。でもこの基地はみなさんも知っての通り、空気循環機能はなく、食事も用意されていません。ロボット専用につくられた宇宙基地です』
基地の内部の映像に切り替わって、中で仕事をしているロボット――メイドロボをもとにつくられたという汎用ロボット――が仕事をする様子が見えて、わたしは思わずソファから乗り出して見てしまう。
『ロボットの利点は空気や大量の水、食料といったものが必要なく、昨今のメイドロボであれば人間とほとんど同じミッションをこなすことができます。二機以上のロボットが乗り込めばお互いにメンテナンスをすることも可能です。ロボットにとって不要なものを置いていく分、少し大きめのソーラーセルを積み込んでおけば重大な故障が発生するまで活動を続けることができます。それにいまだになくすことができない事故の発生も、人間でなくロボットであれば置き換えることが可能ですからね。死んでしまった人間は帰ってきませんから』
『――そうですね。リスクを少なくすることによって、これまで以上に宇宙開発が進むようになりますね。それと今回の打ち上げは、どういった目的のものなのでしょう?』
『今回の打ち上げはこの宇宙基地の拡張です』
後ろの映像が切り替わって基地の全体を映す。男の人が指し示した場所には、赤い色でマークが残っていく。
『ここと、ここ。それとここに今回打ち上げた新しい部品が取り付けられます。その部品とはずばり、ただの宇宙基地だったここが中継基地になるためのものです』
『中継基地、というと?』
『今後五年の間に、月に基地ができます。観測施設や発電施設、実験施設はもとより、人間が住むための居住区もつくられる予定です』
『ついに人類が本格的に月に進出する事になるんですね』
『えぇ。まだ先の話になりますが、でもあっという間です。いま子供である人たちが大人になる頃には、もしかしたら社員旅行で月に、なんてことがあるかも知れません』
『そのための今回の打ち上げであり、そのためのロボット開発、ですね』
『はい。日本の社会に受け入れられ、成長を遂げたメイドロボは汎用ロボットとなり、月開発の先行者として、そして近い未来には火星開発や、金星水星探査に、宇宙に広がっていくようになると思います。日本での市場で開発が行われてきたメイドロボは、いまではアメリカや中国、ヨーロッパでの開発競争も激化しつつあります。おそらく未来には、我々の行くべき場所にはメイドロボたち、汎用ロボットたちが道しるべをつけていて、ともに歩んでいく時代がくるでしょう』
――みなさん、頑張ってらっしゃるんですね。
テレビの映像では女性と男性がいなくなって、基地の内部がまた映っている。そこでは黙々と仕事をしているロボット――宇宙用に開発されたアヤノさんの姿が見えた。
――わたしも負けてはいられませんね。宇宙に行く方々にも、あかりさんにも。
胸の前で手を握りあわせてテレビを見ながら、わたしはそう思っていた。
――いつかわたしも、みなさんに微笑んでもらえるようなことがしたい。ゆっくりとでいいから考えていきたい。
じっとテレビを見ながら、わたしはそんなことを考え続けていた。
――どこか変わりましたね。
テレビに見入っているマルチの様子を見ていると、それに気がつく。
一昨日までは家に帰って食事をするとすぐに自分の部屋に引っ込んでいたマルチだったけれど、今日はそんなこともなく、興味がある番組をやっているにせよずっとリビングにいる。そしてなにより、今日の彼女は楽しそうだった。
――親はなくとも子は育つ、ですかね。
今日セルフとでかけていろんなことを話したのだろう。それに帰りしなには「マルチ」を手伝ってきたという。あかりさんが開いたという藤田君の店でどんなことを感じたのかはわからない。そしてあかりさんとどんな話をしたのかも。けれども今日一日の体験は、マルチにとっていい方向に向かう要因となったのだろう。
なにか心のもやもやとしたものが吹っ切れたかのように、夜に帰ってきたマルチは元気のいい挨拶をしていた。これまでのどこか覇気のない空元気ではなく、疲れている様子だったが、以前持っていた元気を取り戻したように見えた。
――どんな話をしたんでしょうね。
マルチの様子を横目で見つつ、新聞を広げながら私もまた笑顔がこぼれていた。
――けれど実際、まだ私はなにもしていませんね。
三津木君に会って話をして、少しは心の整理ができたと思う。これから先私がマルチになにかするとしたら、それはおそらく、藤田君に問題が起こったときだろう。
「父親一年生、か。難しいですね」
「どうかしたんですか? お父さん」
小さく口に出した言葉が聞こえたらしい。
「なんでもないですよ、マルチ」
振り向いて不思議そうな顔をしている彼女に、私は笑みを返した。
――父親として、私もマルチ以上に努力しなければなりませんね。
新聞の文字を追いながらそんなことを考えていた。
そうするべき時が、すぐ近くに迫っていることも知らずに。