実りの季節を抱きしめて 実りの季節シリーズ3 作:きゃら める
第四章 吹く風、大風、揺れる未熟の果
* 1 *
昨日結局残してしまった片づけや閉店後の掃除は、やっとのこと終えていた。今日は早く起きることができたから、材料の買い出しも余裕がもてたし、開店準備の方も充分時間がとれていた。
みのるはお母さんのところに預けてある。できたら今日は少し早めにお店を閉めて、起きていたらみのるといっぱい遊んで上げたかった。
「さて、今日はどこまでできるかな」
学校の後にはマルチちゃんが手伝ってくれるから、夕食時のラッシュは昨日よりも楽になるだろうけど、開店からお昼を過ぎるまでのモーニングとランチはディナータイムほどでないにしろ、ひとりではやっぱり厳しいと思う。
――でも、やりたい。
そう思える自分が嬉しかった。少しでも浩之ちゃんの手伝いをしよう気力が出てきた自分に微笑みが漏れる。
開店時間まではもう少し。ケーキを焼いているオーブンの様子を見ながら、自分の分のコーヒーを淹れようと準備を始めた。
「まだやっていませんか?」
そう言いながら入ってきたのは、長瀬さん。マルチちゃんのお父さんだった。
「えぇっと、営業の方はまだですけど……。どうぞ、ちょうどコーヒーを淹れるところでしたから」
二杯分ぎりぎりのできあがったコーヒーをふたり分用意したカップに注ぎ、自分の前とカウンターに着いた長瀬さんの前に置く。
「さすがに本職の淹れるコーヒーは違いますね」
カップを鼻に近づけて香りを楽しんだ後、長瀬さんはブラックのままコーヒーをひと口飲んだ。
――どうしたんだろう。
今日ここに長瀬さんがやってきた理由を考えながら、私もカップを傾ける。
長瀬さんとは浩之ちゃんと一緒に何度か会っていた。落ち着いた感じの丁寧な人で、亡くなってしまった妹さんを想ってマルチちゃんをつくった来栖川HMの技術者、ということしか印象には残っていない。会ったときは浩之ちゃんと話していて、あと私が知っているのは未婚のまま人間になったマルチちゃんの父親となった、というくらいのものだった。
「お代は後で――」
「それはいいんですけど、あの……」
口を開いた長瀬さんに控えめに訊いてみる。今日、ここにやってきた訳を。
「どうも自分で淹れるコーヒーではここまでの味は出ませんね。やはり本職のもたまに飲みにこなくては……。ともあれ、今日はひとつお願いがあって来ました」
「お願い?」
「えぇ、もしあかりさんに頼むことができれば、ですが」
「……」
コーヒーを飲みながらほころばせていた顔を引き締め、長瀬さんが言う。
「マルチのこと、しばらくお願いできませんか?」
「――え?」
言われて一瞬言われた意味がわからなくて、疑問符を返してしまう。
「私はマルチの父親ですが、私は両親に育てられたという記憶がありません。実際両親は私ではなく仕事にばかりかまけていましたからね。結婚もしたことがない私には、子供というのがよくわかりません。どうやって育てていいのかわからないんですよ。だからその――」
長瀬さんの言いたいことはだいたいわかった。この人はいろいろと不安があるのだろうと思った。
未婚というのは本当なんだろう。マルチちゃんや他のメイドロボの開発にかまけていたという話も聞いていたから、女性ともあまりつきあったことがないのかも知れない。それでいきなり十二歳の女の子が子供にできたら、どう扱っていいのかもわからないと思う。
――でも違う。
私だって、子供を育てるのはみのるが初めてなんだから。
「ダメですよ、長瀬さん」
カップに目を落としていた長瀬さんにそう答えた。
「子供を育てるって、難しいと思います。私も実際、みのるを育てていてそう思います。やり方なんてわからなくて、毎日のようにお母さんに訊いてばかりです。ひとりでも大変なのに、もうひとりなんて――」
「ですが私は、私には……」
驚いたような顔をした長瀬さんがもう一度同じようなことを言おうとしたけど、カップに口をつけてそっぽを向いて相手にしてあげない。
あきらめたように息を吐き、話を始める長瀬さん。
「もしかしたら、マルチは人間にするべきではなかったのかも知れない、と思うこともあります。人間になりたい、とマルチが言うから、私もマルチに人間になってほしいと思うから、彼女が人間になれるよう手を尽くしました。けれども果たしてそれは本当によいことだったのか、考えてしまいます。そんな私が彼女をどう育てていいのかなんてわかるはずがありません」
「そうでしょうか?」
ちらりと目だけで長瀬さんのことを見、長瀬さんの言葉に答える。
「マルチちゃんは、やっぱり長瀬さんの子供なんだと思います。長瀬さんがどう思っていようと、マルチちゃんは長瀬さんのことをお父さんと呼んでいますよね。長瀬さんのことを話すときのマルチちゃんは、けっこう誇らしそうにしていましたよ」
「そうだったんですか……」
消沈したようにまたうつむく長瀬さん。ずいぶん年上の男の人なのに、どこか子供っぽく見えてしまうのはなぜだろう。
「マルチちゃんに、いま私に話してくれたこと、話して上げましたか?」
「マルチに?」
「えぇ。ある程度の年齢になったら女の子はお父さんと話すのが苦手になるものでしょうけど、いまのマルチちゃんはそうじゃないと思います。そりゃああの子も女の子ですから、いろんな気持ちになってることもあると思います。でもマルチちゃんはあんなにお父さんのことを好いているんです。少しずつでも、話していけることはあると思います」
「ですが私にはマルチにどうやって話していいのか。いままでずっと話そうと思っても話せませんでしたし」
――考えがループしてしまっているんだ。
まるで少し前の自分のことのようだった。琴音さんと話して、浩之ちゃんの夢の形を見て、マルチちゃんと話して、私は少しだけど変わった。
いまの長瀬さんはその前の自分を見ているようだった。気づく必要があることはほんのちょっとのことなのに、そこでつまづいてしまう。同じ考えばかりが頭の中を回って、やろうと思うのに、思っているだけで行動することができなくなってしまう。
思い出してみれば、前に浩之ちゃんも同じようなことを言っていたような気がする。
――人生のスランプ。
そんな風に浩之ちゃんは自分のそんな状態を話していた。
私が少し前までそうだったように、長瀬さんも人生のスランプにはまっているんだろう。
「いままで話せていなくても、これからがあるじゃないですか」
浩之ちゃんにはたぶんもうない未来。でも長瀬さんとマルチちゃんには、それがある。
一瞬泣きそうな気持ちが胸にこみ上げてきたけど、私は精一杯笑んだ。
「いままで話せていなくても、これからがあるじゃないですか」
言って一瞬うつむいたあかりさんは、顔を上げて笑みを見せてくれる。
おそらく未来という言葉に藤田君のことを重ねたんだろう。それでも彼女は笑っている。
――強い人ですね。
素直にそう感じる。
――こんな女性を置いていってしまう藤田君は、罪つくりな人ですね。
あかりさんの笑みに誘われるように、私もまた微笑んでいた。
「では違うお願いをしてよろしいですか?」
「マルチちゃんのことはでも――」
「マルチの父親はやはり私ですね。それ以外のことをお願いしようかと思いまして。女性であるあかりさんにしか頼めないことです」
顔に疑問符を浮かべているあかりさんに言う。
「マルチも人間の年齢では十二歳です。そろそろひとりの女の子としての悩みなどが出てくるのではないかと思いまして」
「あ、なるほど」
納得の言葉を口にして、あかりさんはおそらく冷めてしまっているだろう、コーヒーを口にする。
「手っ取り早いところでは、……そうですね、女の子の下着のこととか、メイドロボのときの記憶では基礎知識があるでしょうけれど、細かいことでいくと私には相談できないでしょうし、まだ学校には馴染みきっていない様子ですから、身近な女性にそれは頼むしかないかと」
「そうですね……。中学生になればかわいいのが欲しくなったりするでしょうし、胸だって少しずつ大きくなるでしょうから……」
「んー。胸については、みのりのことを考える限り、あまり大きくならないような気が……」
「え? 長瀬さん、妹さんの、見たことあるんですか?」
「いやっ、その、わたしは……」
指摘されてしどろもどろになりながら答える。
しばらくそんな話で盛り上がりつつも、私は考える。
――あかりさんがこんな強い女性であることを知っていれば、もっと早くに話ができたんでしょうけどね。
「もうひとつ、よろしいですか?」
「はい」
弾んだ声で応えるあかりさんに、私は真剣な目を向ける。
「私は藤田君の身体のことを、本人の口から聞いて知っていました」
あかりさんもまた真剣な顔になり、唇を濡らすようにカップを傾ける。
「マルチちゃんに浩之ちゃんのこと、話して上げられなかったんですね」
「えぇ。知っていながら話せませんでした。あかりさんにも話す機会もあったのに、話せませんでしたね」
飲み終えたらしいカップを置き、あかりさんはうつむいて言う。
「浩之ちゃんのことは、側にいて気づいていて本人に訊けなかったことですから……。でもマルチちゃんには話すべきだったのかも知れません。いや――、どうだったんでしょう」
考え込んでしまったあかりさん。私も飲み終えていたカップを取って自分の分と含めて流しで洗い始める。そうやってしばらくしてから、彼女は話し始めた。
「浩之ちゃんは、ずるいんです。そりゃあ話を聞いていたらどうなっていたのかわかりません。最後までお店を営業していたかったという彼の考えもわかります。でも気づかれるのがわかっていて話してくれなかった。マルチちゃんも気づいていたと思います。長瀬さんはどうするべきだと考えているんですか?」
振り返ったあかりさんに問われ、私は正直に答える。
「謝りたいです。言えなくて済まない、と。――いや、言うべきか言うべきでないかわからなくて、話せなかったというのが本当です」
「だったら、そう話せばいいんじゃないですか? マルチちゃんは話せばわからないような子じゃないですよ。浩之ちゃんが倒れてしまったいまだからこそ、長瀬さんがどうするべきだったのか、マルチちゃんがどうしてほしかったのか、訊くことができるんじゃないですか? それでもし、話して欲しかったと言われたら、そのときに謝ればいいんじゃないかと思います」
――本当に強い方ですね。
「すみませんね、あかりさん。いろいろと」
「嫌ですよ、長瀬さん」
話しすぎたと思って謝った私に、あかりさんが指摘する。
「長瀬さんは今日、私に謝るようなことをしていたんですか? 謝りたいと心から思っていますか? むしろ私は嬉しかったです。全部話していただいて。言い過ぎたかな、と思うことはありますけど」
洗い物を終えて私と正面から向き合ったあかりさんは、はっきりとした言葉で言う。
「ありがとうございます、長瀬さん。私なら、いえ、いまの私だから、ありがとうって言えます」
「私からも、ありがとう、あかりさん」
互いに言って、笑いあった。
そして電話が鳴った。
浩之ちゃんの容態、急変。
そのときが来た、と思ったけれど、思っただけで頭に入ってこなかった。病院から早く来て欲しいと言われて受話器を置いて、呆然としているところに長瀬さんに内容を問われて話して、それでも足が動かなかった。
マルチちゃんを呼ぶか、と問われて頷き、長瀬さんに急かされてお店の戸締まりをし、長瀬さんと別れてエプロンドレスのままとりあえず家に向かって走っていった。
――そう思えばチョコの焼きケーキ、焼き上がってたはずだな。
止まらなくなっている足を動かしながらも、でも電話の内容が頭に入ってこない私はそんなことを考えていた。
* 2 *
昨日とは少しだけ変われた自分を感じる。
目が合ったクラスメイトのひとりひとりに、挨拶をすることができた。
たったそんな些細なことだったけど、いままではできなかった。ほんの少しずつでもいいから変わっていこうと思い始めたからこそ、できなかったことをすることができた。
真澄さんとはあの日以来、まだ話していない。
いまも後ろの席にいて、集まった友達と話しているのは聞こえているけど、まだ彼女に話しかけるまでのことはわたしにはできなかった。
――いつかまた、話せるようになるだろう。
心に決めながら、ホームルームの予鈴が鳴り終えた教室で、わたしは授業の準備を始めていた。
「おはようございます、みんな」
ホームルーム開始のチャイムが鳴る前に、姫川先生が教室にやってきた。時間に厳しい先生は、いつもならチャイムとほとんど同時にやってくるのに、今日はそれよりも早かった。
「ちょっと、長瀬さん」
「え?」
入り口のところで立っていた姫川先生に呼ばれて、急いで自分の机に戻ろうとしているクラスメイトの合間を縫ってそこに向かう。扉があって見えなかったけど、そこにはお父さんが待っていた。
わたしに聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、お父さんが言う。
「藤田君の容態が急変した。いつ、どうなるのかわからない。一緒に病院に行こう」
一気に言われた言葉の内容を、わたしは理解できなかった。「え?」と疑問を返してしまってから、その意味が伝わってくる。
どうすればいいのかわからなかった。頭の中が真っ白になって、膝の力が抜けそうになる。
「しっかりしなさい、長瀬さん」
「は、はい……」
なぜかすごく怖くて、はっきりと喋ることもできなくなっている。
「長瀬さんにとってその人はかけがえのない、大切な人でしょう? 行ってきなさい。行かなければ後悔することになりますよ」
姫川先生はそう言って、わたしの背中をぽんと叩いた。
「鞄を取っておいで」
背中を叩かれて元気が出たのか膝の震えもなくなって、自分の机に戻って荷物をまとめてクラスのみんなの視線を受けながらお父さんの待つ扉のところまで行く。
「行ってらっしゃい。長瀬さんの本当の気持ちを伝えてきなさい」
「はい」
元気づけられるように言われて、わたしはお父さんと一緒に教室を出た。
みのりが先生に呼ばれて入り口に行き、そこに待っていた男の人になにかを言われて顔が青ざめるのまでは、真澄の位置からでもよく見えた。
会話の内容まではわからないけれど、深刻な話をしているのだけはわかる。
――マスターのこと、かな。
みのりがあれほど自分を失った様子を、真澄は見たことがなかった。真澄が知っていることでなにかあるとしたら、それは浩之のことしかない。
昨日昼食を食べ終えて店を出た真澄に、一緒に出てきた少し話したことがある常連の人がこっそり教えてくれた。浩之が重い病気で入院中で、普通では面会できないようなところにいる、ということを。
――マスターになにかあったんだとしたら……。
机に戻ってきたみのりが焦ったような手つきで教科書やノートを鞄の中にしまっていく。なにがあったのか訊こうかと思ったけれど、あの日以来みのりと話していず、いま思い詰めたような顔をしている彼女に、真澄は話しかけることができなかった。
みのりが行ってしまい、ちょうどホームルーム開始のチャイムが鳴って姫川先生が出席を採り始める。連絡事項やプリントを配っている間、真澄はだんだんといても立ってもいられなくなってきていた。
ホームルームを終えた姫川先生が教室を去り、一時間目の授業が始まるまでのわずかな時間。
――行こう。
真澄は鞄もそのままに席を立った。
「どうしたの? 真澄。もうすぐ先生来るよ?」
「うん、ちょっとトイレ」
友達がかけてきた声にそう答えて、真澄は急いで下駄箱に向かい、外履きに履き替え、校庭を通らなくてはならない正門を避けて、裏門へと向かった。
浩之の話とともに、彼がどこの病院に入院しているのかも聞いていた。たぶんみのりは車で向かっているだろうけれど、学校から歩いても行けなくはない距離だった。
近くにある用務員室を通り過ぎるときも、職員室の裏を通るときも誰にも見つかることはなかった。裏門から学校に出ることに成功した真澄は、早足から駆け足になって、病院へと向かう。
行ってどうするかなど考えてもいない。ただ足だけが先へ先へ動いていた。
*
「そう、浩之が……。わかったわ。ありがとう」
言い終えて綾香は受話器を置いた。振り返ってみた芹香は、先に会話の雲行きを読みとって悲しそうな表情を浮かべている。
「浩之の容態が急変したわ。たぶん、限界だって」
芹香にはわかっているだろうことを、ちゃんと口に出して伝える。綾香の耳に聞こえた「そう」という返事は、いつになく小さな声だった。
来栖川屋敷の中の一室。そこは来栖川グループ役員としての芹香の仕事部屋。綾香はそこで芹香の秘書のような仕事をこなしている。
部屋の隅にある電話機のところから芹香のいる執務机まで、綾香は力が抜けそうになるのを感じながら歩いていく。
「けっきょく、浩之の思惑通りね。莫迦だわ、あいつ」
執務机に両手をついてうつむく。「そうですね」と辛そうな声で応える芹香の顔を、見ることもできなかった。
「奇跡でも起きればいいのに」
無理だと思いながらも、それを願ってしまう。願っても奇跡など起きないことは、浩之の身体の状況を聞いていた綾香にはわかっていた。
「奇跡は、起きません」
しっかり聞こえる声の芹香の言葉に、綾香は顔を上げる。表情は乏しかったけれど、わずかに微笑んでいるような表情の彼女は立ち上がり、大きく取られた窓を開け外を眺める。
「風が強いですね、今日は」
言葉に釣られて外を見ると、裏庭の木が風にあおられて揺れていた。
「奇跡は起きません。けれど、すべてがあの人の思惑通りに進むとは限りません」
その言葉の意味を、綾香は理解することができなかった。
* 3 *
服装を整えた私は、お母さんのところで眠っていたみのるも連れて病院に駆けつけた。
みのるはまだ眠そうにしていたけれど、もし浩之ちゃんがこのまま意識を取り戻さずに逝ってしまうのだとしたら、できるだけこの子も側にいさせたかった。
まだ朝の早い時間、病院までタクシーで乗り付けて、救急病棟へと急ぐ。
この前浩之ちゃんに会うときに感じた抵抗はいまはない。自動ドアがゆっくり開くのももどかしく感じながら、病棟内に駆け込んだ。
看護士の姿も見ない静かな廊下を走るように歩いて特別室の前まで行くと、担当の先生が待っていてくれていた。
何度か来ていたガラス越しにベッドが見える特別室の中で、浩之ちゃんは苦しそうに息をしていた。先生が状況を説明してくれているけど、半分も頭に入らない。ただただ、浩之ちゃんのことを見ていた。
――帰ってきて、浩之ちゃん。約束を守って。
ガラスに張りつくようにして彼の様子を見ながら、私は祈っていた。祈ることしかできなかった。
「マァマ?」
私の必死な様子にみのるも心配そうな顔をしていた。抱き上げて浩之ちゃんを見せる。父親の苦しそうな姿に、この子もまたなにかを感じ取っているようだった。
――約束したよね、浩之ちゃん。遅くなってもいいから、帰ってきて!
たぶん届くことがないだろう祈り。
わかっていてもそれしかできない自分が悲しくて、私は泣いていた。
*
お父さんの車で病院に着くまでの間、わたしは早く浩之さんの様子を見たくてたまらなかった。でも病院に到着して、駐車場から救急病棟の前まで来たところで足が止まってしまう。
「マルチ?」
先に自動ドアの前に立ったお父さんが振り返ってわたしのことを見る。
わたしは怖くなっていた。
――振られてしまったわたしが、浩之さんにどんな顔をして会えばいいんだろうか。
浩之さんとまた一緒に過ごしたいと思う。あかりさんと約束したように、お店の手伝いもしたいと思っていた。
そう思っているのに、足は動いてくれない。震えてしまって、ここから一歩も先に進むことができなかった。
「先に行っててください。すぐに、行きますから」
「場所はわかっていますか」
「車の中で聞きましたから……」
心配そうにわたしのことを見ながらも、お父さんの気も急いている。
「じゃあ先に行っているよ。すぐに来て下さい」
「はい」
お父さんは自動ドアの向こうに行ってしまった。残ったわたしは、ドアの近くの壁に背をもたせかける。深呼吸をしても、気持ちは収まらなかった。
――浩之さんに会いたい。
そう思ってる。思っているのに、足は動かない。
「会いたい。会いたいよ、浩之さん……」
会わせる表情のない顔を、わたしは両手で隠して泣いた。
*
「さて、と」
荷物をまとめて席を立つ。まだ昼休み前で授業中だから、職員室には人が少ない。そのうちに学校を出ようと鞄を手にロッカーから上着を取り出して羽織った。
「あれ、姫川先生、どちらに?」
「先々週からのスケジュール通りに、今日は早引けです」
「そうだったんですか」
若い男の先生が驚いた顔をしているのを横目に見ながら職員室を出て、職員用の下駄箱で靴を履き替えて裏門から学校を出る。そこにはすでに車が待っていて、迷うことなく琴音はその車に乗り込んだ。
「出すよ」
「えぇ」
静かに車は走り始める。琴音がどこと言わなくても、運転手は目的の場所を知っている。
学校近くの細道を抜けて、二車線の道路まで出たところで、運転手の男は琴音に訊く。
「けっきょく、どうするつもりなんだ?」
「わかりません。わたしにできることは少ないですから……」
「本当にできるのか? その、なんだ――」
「それはあの人次第です。わたし自身が、あの人のことをずっと恨んできましたから、本当にどうなるのか」
「そうか。――いいんだな?」
訊かれて少し考えた琴音は、しかししっかりと頷く。
その後ふたりは言葉を交わすことなく、車は走っていく。
* 4 *
全力疾走はあっという間に息切れして、それでも早足になりながら真澄は病院へと向かっていた。
置いてきた鞄のことや、授業のことなどもう頭の中になかった。ただ浩之のことを考えて、急いで、病院に着いていた。
――でもどうしよう。
病院に来たまではよかったが、救急病棟にいるという以外、真澄は浩之のいる場所を知らなかった。それにもし知っていたとしても、おそらく家族の人と一緒でなければ顔を見ることさえもできないだろうことはわかっていた。
「あ……」
先に気づいたのは、相手の方だった。
「真澄さん? なんで……」
「みのり……」
どういう理由でか、救急病棟の入り口にみのりが立っていた。真澄のことに気がついて、彼女は寄ってくる。
「みのり、なんでここに?」
病院にいるということは浩之になにかあったんだろうということはわかっている。一緒に来ていた父親の姿がないから入れないというわけではないだろうし、ひとりでこんな場所にいる理由が真澄にはわからなかった。
「真澄さんこそ。学校はどうなされたんですか?」
「……。それよりも、マスターに、浩之さんになにかあったの? みのり」
みのりの質問には答えず、質問を返す。真澄の存在に驚きの表情を浮かべていたみのりは、暗い表情をして下を向いた。
「容態が悪くなったそうです。ずっと眠っていて体力がない浩之さんは、もう……」
「だったらなんでこんなところにいるのよっ!」
思わず叫んでしまう真澄。驚いて顔を上げたみのりは、じっと真澄の目を見つめ、見つめているうちに表情が崩れて涙を流し始めた。
「わたし、振られているんです。浩之さんにあわせる顔がないんです。会いたいです。会いたいですけど、どんな顔をして会ったらいいのかわからないんです」
言ってみのりは嗚咽を漏らす。
――みのりって莫迦正直だよね。
真澄以上に不安を抱えていて、会いたいだろうに、それなのに会わせる顔がないと涙を流す彼女に、真澄はこんなときと思いながら笑みがこぼれてしまう。
「行こうよ、みのり。あたしも行っていいなら、着いていってあげるから」
肩に手を置いて扉の方に促そうとしたけれど、みのりはそれをはねのける。
「なんでそんなに優しいんですか? 真澄さんはわたしのことが嫌いって言ってたじゃないですかっ。初めて友達ができたと思ったのに、真澄さんに憧れていたのに、そんな気持ちはわたしだけだったんですね!」
気持ちをぶちまけるようにみのりは言う。
「憧れる、って?」
「誰とでも話すことができて、明るくて、いつでも元気な真澄さんがうらやましかったんです。わたしはそんなことできないから……」
「そっ、そんな! みのりだって、頭がよくて、かわいくて、もててるじゃないっ。あたしはみのりがうらやましかったんだよ」
「だってそれは、わたしがメイドロボだったからです」
みのりの告白に、真澄はぽかんと口を開けてしまう。
「わたしはメイドロボだったんです。マルチだったんです。メイドロボだったわたしは、浩之さんと一緒に過ごしていたんです。メイドロボの寿命で浩之さんと別れて、お父さんが参加した研究で人間として戻ってきて……。長瀬みのりというのは、お父さんの妹さんだった、この身体の元の持ち主の名前なんです。だからわたしは、長瀬みのりじゃなくて、長瀬マルチなんです!」
しゃくり上げながら一気に言って、みのり――いや、マルチは真澄の呆然とした顔を見る。
「本当なの? それ」
「本当です。メイドロボだったからわたしは勉強ができたり、みのりさんの身体だからかわいいって言われているだけです」
「……」
マルチの目に嘘がないことを認めて、真澄は半分あきれてしまう。
現実にそんなことがありえるとは思えなかったけれど、マルチが嘘をついているようには見えなかった。それに彼女が奥手であった理由もわかる気がした。
「みのり……、うぅん、マルチ。あのね、あたしにはお父さんがいないのね」
「え?」
今度は真澄の口から出た告白に、みのりは驚きの声を上げる。
「小さい頃に離婚したってだけだけどね。それでたまたま見つけた喫茶店で浩之さんのことを見て、こんな人がお父さんだったらな、って思ったの。そう思ってるときにマルチが現れて、あたしが行きたかった浩之さんの側に居座ったから、妬んだの」
「……」
涙を止めてぽかんとした顔をしているマルチの肩に手を置き、言う。
「お互いにお互いのこと、うらやましがったり、妬んだりしてたんだね、あたしたちって」
「そうですね……」
クスリッと笑みが漏れてきて、声を上げて笑ってしまう。マルチもまた釣られて声を出して笑った。
「友達と言っていましたけど、わたしは真澄さんのこと、ぜんぜん知らなかったんですね……」
「あたしもマルチのこと、ぜんぜん知らなかった。お互い様だね」
「はいー」
にっこり笑ったマルチに、真澄も笑みを返した。
「行こうよ、マルチ。って、マルチでいいの? 呼び方」
「いいですよ。メイドロボの身体をしていても、人間の身体でも、わたしはマルチですから」
「じゃあマルチ。一緒に行こうよ。もしあたしも行っていいなら、だけど。浩之さんに頑張れ、って言ってあげようよ」
「そうですね……」
少し考えるようにうつむいて、顔を上げたマルチは微笑んだ。
「頑張ってほしいです。帰ってきてほしいです。もう一度浩之さんと話したいです。だから頑張れ、って言いたいです」
「うん」
マルチに手をつかまれて、いいのかと問う暇もなく、真澄は救急病棟の中へと入っていった。
*
「マルチ? その子は?」
「友達の真澄さんです」
真澄さんと一緒に家族控室に行くと、お父さんとあかりさんがソファに座っていた。
「いいですよ。真澄ちゃんも浩之ちゃんのこと、最期まで見てくれるんだね」
「違います」
疲れたように言うあかりさんの言葉に応えたのは、真澄さん。
驚いた顔をしているお父さんとあかりさんを後目に、手をつないだままでいるわたしと真澄さんはお互いに微笑みあい、言う。
「わたしたちは、浩之さんを応援に来たんです」
「あたしはもう一度あの店で働いているマスターを見たいんです」
「わたしも浩之さんと、もっともっと話したり、一緒に仕事がしたりしたいです」
お父さんはまだ呆然とした様子だったけど、あかりさんは立ち上がって笑ってくれた。
「そうだね。私も、浩之ちゃんに約束を守ってほしいから。頑張って、って応援しなきゃね」
応援しても浩之さんの身体がよくなるわけじゃないのはわかっていた。でもまだ死んでほしくなかった。いろんなことを浩之さんに望みたかった。
あかりさんも真澄さんもわたしも、そしてたぶんお父さんも思ってるその気持ちを伝えるために、頑張れって浩之さんに言いたかった。
「行こう、マルチちゃん、真澄ちゃん。それから、長瀬さんも。浩之ちゃんを応援しよう」
「はいっ」
真澄さんと一緒に応えて、みんなで控室を出る。
遅れて出てきたお父さんを振り返ってみると、笑って頷いてくれていた。
五人一緒に浩之ちゃんの病室に行くと、担当のお医者さんは嫌な顔ひとつせずに、いままでは入れなかったガラスの内側に入れてくれた。
いろんな機械がつながっている浩之ちゃんは苦しそうにしている。そのベッドを取り囲むように立って、みのるを抱いた私とマルチちゃんが彼の手を握った。
目を閉じたまま荒い息をしている浩之ちゃん。その顔はずいぶんやつれてしまって、入院前の姿からすると痛々しかった。
「頑張って、浩之ちゃん」
声をかけながら手を強く握る。なにも反応はないけど、みんなで応援の声をかけ続ける。
――みんな、こんなに浩之ちゃんのことを見ててくれるよ。
声と一緒に、心の中で呼びかける。
――みんな浩之ちゃんのことが好きなんだよ。
頑張れ、頑張れ、と病室の中に声が満ちてくる。荒い息が安らかになることはない。ピッ、ピッと鼓動を知らせる音もまた、不規則だった。
――浩之ちゃんは約束してくれたよね。帰ってきてくれるって。私のことを幸せにしてくれるって。
苦しそうな顔を見つめている間に、涙があふれてくる。いつのまにかみんな、涙を流しながら応援していた。
――浩之ちゃんは約束を破ったことがなかったよね。いつも私のことを信じさせてくれたよね。遅れてくることはあっても、約束を破ったことはなかったよね。
呼びかけている間にだんだんと間隔が長くなっていく鼓動。
「頑張って。頑張って」
少しでも気持ちが伝わるように、浩之ちゃんの手を額に当てて目をつむりながら応援する。
鼓動の停止を告げるピーーーーッという音が聞こえた瞬間、誰かが肩に手を置いたような気がした。
そして、時が止まった。
*
あかりのちょうど背後の虚空に、琴音は姿を現した。
肩に手を置いたのに気づいたようにあかりが顔を上げたけれど、そのままの格好で止まる。あかりだけでなく、部屋にいるすべての人が時間が止まったように動かなかった。
息のない浩之の顔をのぞき込み、琴音は言う。
「全部、見ていましたよね、浩之さん」
浩之からの応答はもちろんない。それでも琴音は言葉を続ける。
「浩之さんの思っていたようになりましたか? みなさんはあなたの死を受け入れていましたか? 知っているでしょう? 浩之さん。わたしはあなたにすべてを見せてきました。だからあなたにはわかっているはずです。あなたの出した答えは、正解でしたか?」
のぞき込んだ浩之の顔は、どこか笑っているように見えている。まるで自分の死を受け入れ、満足しているかのように。
「あなたはわたしを救ってくれました。力を受け入れることを教えてくれました。そのことには感謝します。でもあなたはわたしを抱きしめてくれなかった。あのときのわたしには浩之さんしか考えられなかったのに、わたしの想いを受け入れてくれなかった。助けられれば気持ちが傾いてしまうことくらい、わかっていたはずなのに、それなのにあなたはわたしを抱きしめてくれなかった……」
言いながら琴音は泣いた。それでも浩之の顔をじっと見、想いを語り続ける。
「わたしは、あなたを恨んでいます。あのときわたしを受け入れてくれなかったあなたのことを。そしてこんなに心配してくれて、応援してくれる人たちの気持ちをないがしろにするあなたのことを。生きるって、そんなにきれいなことですか? そんなに満足な顔をしていられるほど、気持ちよく過ごせるものなんですか? わたしにはそんなことはできません。もっと、もっともっとと思って止みません。それを教えてくれたのは浩之さん、あなたです。醜くあがいてでも努力を重ねて、生きることに執着して、やりたいと思うことに向かってぶつかっていく。それを教えてくれた浩之さんがあきらめるんですか? あなたがこんなところですべてを終わりにしてしまうんですか? そんなこと許しません」
琴音は泣きながら笑った。息をしていない顔でまるで心を見透かしたように微笑んでいる浩之のことが憎らしかった。
「浩之さんに振られた後、わたしは泣きました。力のことで泣いたことよりも、浩之さんに振られたことの方がわたしには辛かった……。絶対に、絶対に許して上げません。一生かかっても恨み続けます。わたしの苦しみを、浩之さんも感じて下さい」
そっと物言わぬ浩之の顔に自分の顔を寄せ、琴音はつぶやくように言う。
「もっともっと苦しんで下さい。わたしが感じた以上に。あかりさんやマルチさん以上に。そして知って下さい。あなたの回りに、あなたのことを待っている人がどれほどいるのかを」
悲しみの色を湛えた瞳で笑って、浩之の口元の人工呼吸器をはずした琴音は告げた。
「それでもあなたのことを好きと感じる自分が、辛かった。だからこれで終わりにします。さようなら、浩之さん」
静かに唇を重ねる。
時間が、動き始めた。