実りの季節を抱きしめて 実りの季節シリーズ3 作:きゃら める
終章 未だ熟さぬ実りのために両手を空けて
* 1 *
じっと待っていた彼のもとに、琴音は戻ってきた。
シートの数センチ上に出現した彼女は力を使ってゆっくり降りることもできず、トサリと小さな音を立ててシートに身体を沈み込ませた。
「お帰り」
「……ただいま」
疲れた様子の琴音は彼のかけた笑みに弱々しいながらも笑みを返す。突っ伏していたハンドルから身体を起こして、琴音と同じように彼はシートに身体を預けた。
「どうしたんだ?」
「……わたしが浩之さんに会うことはもう二度とありません。それだけです」
「そっか」
答えにならない答えに納得しながら、彼は琴音の肩に手を回し抱き寄せる。思っていた以上に冷たい身体に驚きながら琴音の顔を見つめる。
「……大丈夫。いろんな力を一度に使ったから、少し疲れてるだけ」
できる限り笑おうとして失敗し、浅すぎる息を続ける琴音のことを、彼は両腕で抱きしめる。
琴音が浩之のことを想っていることを、彼は知っていた。浩之のもとに行けば、どれほど無理をするかも、彼にはわかっていた。
「莫迦。僕の前では強がる必要ないだろ?」
「……疲れました。それに、お腹が空きました」
「なんだそりゃ?」
額に軽くキスをしてやると、琴音は安心したのか身体を預けてきた。
――いまからやっと、僕と彼女の本当の関係が始まるんだ。
抱きしめた身体にはだんだんとぬくもりが戻ってきていた。それとともに小さな寝息が聞こえてくる。
満足そうな寝顔をしばらく眺めて、シートにしっかり座らせた彼はシートベルトを締めてやる。自分もシートベルトを締めてから、エンジンをかけて静かに車を走らせ始めた。
――ありがとう、琴音。
*
真澄が家に帰り着いたときには、外はすっかり暗くなってしまっていた。
鍵を使って玄関の扉を開き、誰もいないだろう家の中に「ただいま」と声をかけて入った。
お帰り、と答えが返ってきて、真澄は驚く。
「お母さん? 仕事は?」
「今日は休み。真澄にどうしても話したいことがあったから」
ひとつしかない部屋の真ん中に座って、母親は電灯もつけずに真澄のことを見ていた。
「でも今日は出勤の日でしょ? 仕事しないと暮らしていけないっていつも言ってるのに」
電灯のスイッチを入れながら部屋に入ると、万年床だった布団は片づけられ、母親は正座をしている。家の中では乱れっぱなしの髪も整えられていて、薄く化粧をしているのも見えた。
「どうしたの? お母さん」
いつもと雰囲気の違う母親に――なぜか綺麗だと感じる彼女に問う。らしからぬ真剣な目をしている彼女の前に座って答えを待った。
「離婚した後わたしは、真澄をできるだけちゃんと育てようと頑張ってきた。それこそ自分のことなんて捨ててた。お金の不自由はさせたくなかったし、できるだけ一緒に過ごそうとも思ってた。でも実際仕事ばっかりしてて、真澄と話をしてる時間はあんまり取ってこれなかったわね」
いまさらなにを、と真澄は思う。
真澄にとって母親は、仕事と家で裏表のある、だらしのない人という印象しかなかった。自分を育ててくれることには感謝していたけれど、見習いたいと思うところはひとつとして見つからなかった。
「わたしも辛かったの。結婚してからはいい思い出なんてひとつもないのに、あの人を失った後のわたしは辛くて、仕事ばっかりになっちゃった。ゴメンね、真澄」
「……」
母親の謝罪に応えを返さず、真澄は睨みつけるように彼女の顔を見る。
「そんなわたしが言うのはなんだけど、ひとつだけわがままを言ってもいいかな?」
「え?」
――お母さんがわがままを?
いつも真澄に与えてくれるばっかりだった母親。そんな母親がわがままを言うなど考えられなかった。
「結婚したいと思う人がいるの」
「うそ……」
思わず言ってしまって口をつぐむ。はにかんだような、困ったような顔をする母親は、どこか自分と同い年くらいの女の子のように見えた。
「お店で出会った人なんだけど、独身で、わたしのことを真剣に考えてくれる人。年下なのに頼れるし、真面目で、わたしのお店になんて来そうにない人なの」
もじもじと膝を動かし顔を赤くしてうつむく母親は、かわいくて、そしてきれいだと思った。
――恋してるんだ、お母さん。
「その人、優しいの?」
そう訊いてみると、母親は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「すごく優しい人。あなたのことを話しても、大丈夫だよ、って言ってくれたの。ちょっと気が早くて、自分の分の判を押した婚姻届を渡されちゃったけど……」
胸がいっぱいになった。
目の前の母親はあかりほど素敵な女性ではなかったけれど、真澄がいままで感じてきたよりもずっとかわいくて、きれいな人だった。
「お母さんっ」
呼びながら胸に飛び込んでいく。抱きとめてくれた母親の胸は暖かかった。
「ゴメンね、真澄。ゴメンね」
「違うよ、お母さん」
謝られて真澄は胸の中から顔を上げる。
「ありがとう、って言って」
「うん……。ありがとう、真澄。本当にありがとう……」
「ありがとう、お母さん……」
抱き合ったまま、真澄と母親は何度も何度も「ありがとう」と言いあった。
*
すべてが終わって落ち着いたのは、夕方を過ぎてすっかり夜になってしまっていた。
病院は大騒ぎ。検査や診断でずいぶん時間がかかって、あかりさんはいまでも病院に残っている。朝までには帰れるだろう、って言って笑っていたけど、どうなるかわからなかった。
――あかりさんも大変ですね。
親類、ということになっているわたしとお父さんはこれ以上残っていられず、いまは車で家に帰っている。お父さんが運転する車の助手席で揺られながら、緊張してばかりで疲れてきてしまったわたしは、だんだんと眠くなってきていた。
「マルチ」
呼びかけられて顔を上げると、運転しているお父さんがちらりとわたしのことを見る。
「お前は人間になって幸せか?」
「え?」
問われた内容に眠気が吹き飛ぶ。
「私はお前を人間にした。その機会があったからだ。お前は私の娘で、メイドロボとしてだけではなく、もっともっと長い時間、お前の成長を見ていたかったんだ。けれどもそれがいいことばかりとは言えないのかも知れないと思う。お前が本当に人間になることを望んでいたのか、そればかりか、私は自分の欲望のためだけにメイドロボとしてのお前をつくってしまった。本当にお前は幸せなのか、私にはわからない」
「……」
ラジオもつけずに走る車の中は静かだった。お父さんの口調もまた静かだった。
「私は人間になったお前の父親になった。だが父親というものがどういうものなのかわからなかった。――藤田君の身体のことを、私は彼の口から聞いて知っていた。お前に話すかどうかは好きにしてくれと言われていたのでどうするべきか考えていたが、私には言うべきか言わないべきか答えを出すことができなかった。マルチ、お前がいろんなことで悩んでいたのも知っていたつもりだ。だが私にはそれを聞いてやることができなかった。私はお前になにもしてやることができなかった。私はお前の幸せを、見つけてやることができなかった」
車を運転しながら、お父さんはゆっくりとした口調で話していた。
――こんな風に話すのは、初めてかも知れない。
お父さんと真剣な話をしたことはもちろんあった。でもそれは浩之さんのことやわたしの身体のことで話していたのであって、お父さんの気持ちをちゃんと聞いたことがあったわけではなかった。
自分がいま幸せかどうか。
そのことを思って頭を巡らせてみたけれど、すぐではなにも思い浮かんでこなかった。幸せでないことについて考えてみると、学校のことや物語のこと、自分の身体のことなど、いろいろ浮かんでくる。けれどそれはいま幸せと感じることができないことであって、この先にも同じ思いをするものではないはずだし、これから先、いろいろ考えていこうとするものだった。
「わたしはたぶん、いまは幸せではないんだと思います」
考え続けて、出てきた言葉がこれだった。
「そうか」
と答えて、お父さんは黙ってしまう。
幸せか、と聞かれて答えるとしたらいまの通りだったけど、それだけでは正確な答えにならない。わたしは言葉を続ける。
「わたしは『いまは』幸せではないんだと思います。いまは幸せでなくても、いつか幸せだと感じるときがくると思っています」
お父さんの横顔を見つめて、わたしははっきりと言う。
「幸せはたぶん、誰かからもらえるものではないんだと思います。浩之さんのように、幸せを感じることができる場所をつくることはできるんだと思いますけど、でも、そこで幸せを感じているのは感じてる本人なんだと思います。浩之さんと一緒に暮らしていたときのわたしは幸せでした。でも一緒に場所にいたあかりさんは幸せではなかったんだと思います。みのりさんの身体をもらった後のわたしは、まだ幸せだと感じる場所がありません。だからこれからいっぱい考えて、そう感じられる場所をつくっていこうと思うんです」
「マルチ……」
小さくわたしの名前を呼んで、なにかをこらえるように唇を噛みしめる。
「人もメイドロボも、生んでくれる親を選ぶことはできません。わたしはお父さんの手で生まれました。そして人間として一緒に暮らしています。こんなにわたしのことを想ってくれているお父さんと一緒に」
こらえきれなくなったのか、お父さんは瞬きを何度もして、それから車を道路の脇に止めた。シートベルトをはずして身体ごとわたしの方を向いて、言う。
「私はまだまだ父親というものがわからない」
「わたしも、人間というものはよくわかりません」
「お前にとっての幸せがどんなものなのか、見つけられる自信がない」
「わたしにとっての幸せはわたしが見つけるものなんだと思います。もし、お父さんが手伝ってくれるなら、すごく大きな幸せが見つけられそうな気がします。人間のことを知らないわたしには、ひとりでは自分の幸せも見つけられないような気がします」
じっとわたしの目を見つめるお父さん。見つめられている目に、わたしはたぶんこれからお父さんに言うだろう気持ちを込める。
「私は怖がっていたんだな。人間になったお前はメイドロボのときのようにいろいろなことを知ることができなくなった。話をすればわかることも、父親であることに怖がっていた……」
すっと微笑んで、お父さんは笑う。
「マルチ。お前は人間になってよかったか?」
微笑みを返したわたしは、でも胸に上がってくる気持ちにお父さんに抱きついていく。
「よかったです。人間になれてよかったです。お父さん。お父さん、ありがとう――」
お父さんとずっと呼んできた、人。呼んでいたのに、なぜか言葉ばかりのような気がしていたお父さん。
それがいま、本当の気持ちでお父さんと呼んでいる実感があった。
「ありがとう、お父さん……」
強くお父さんに抱きしめられながら、わたしも強く、強くお父さんに抱きついていた。
*
「どうだった?」
読んでいる途中の経済記事という名のゴシップ誌から目を上げずに訊く。
「挨拶が先なのではありませんか? ただいま、ショージ」
「ったく、堅っ苦しくなりやがって。俺の側にいながらなんでそんな風になれるんだ」
「挨拶……」
食い下がるセルフに仕方なく雑誌から顔を上げて言う。
「お帰り、セルフ。マルチはどうだった?」
「どうだったと言われましても答える言葉がありません。マルチさんはマルチさんです」
相変わらず変化のない無表情――こいつに優しく微笑まれても反応に困るが――でセルフは言う。
ちなみにセルフが帰ってきたのは俺の自宅。つまりは俺はセルフと同棲している。なんとなく表現がアレなのはともかくとして、一緒に暮らしているのは変わりない。夕食なんかもこいつにつくってもらってるわけだが、昨日一晩こいつが長瀬の家に泊まりに行ってる間は、俺も休みを取って羽を伸ばしていた。
秘書は何人もいるが、情報の正確さと仕事の手際についてはセルフに並ぶ奴はいない。こいつが身近にいようといまいと、俺のサポートできる位置にいなければ最近は仕事にならない、と言う適当な理由をつけて、全部のスケジュールをキャンセルして旅行に行っていたわけだが、長瀬の家からの帰りしなに研究所やら本社を回ってきたこいつは、明日からのスケジュールをみっちり詰めてきたことだろう。
――明日からは死ぬほど仕事しねぇと許してくれないだろうな。
書類鞄をソファに置いてジャケットを脱いだセルフは、座ることなく行ってしまう。俺がなにも言わなくても、空っぽのコーヒーカップを見て新しいコーヒーを淹れに行ったんだろう。
コーヒーを淹れて戻ってきて、セルフは俺の向かいのソファに腰を下ろした。そうしてから改めて訊く。
「マルチはどうだった? 会って話して、なにか変わったところはあったか?」
「外見はともかく、セリオの記録の通りの方でした」
つまらないことを言うセルフを俺は睨みつける。
「そんだけか? おめぇはセリオじゃねぇ。セリオんときの印象なんてなぁどうでもいい。お前が感じたマルチがどんなだったか訊いてるんだ」
「……」
手にしたコーヒーカップを軽くもてあそびながらセルフは沈黙する。
旧世代の、受けた命令をこなしていくだけの非自立行動型のメイドロボには見られなかったことだが、とくにBCHMとAHSを搭載した時代のメイドロボには学習による個体差が発生する。社長邸という名ばかりの小さな一軒家にこいつと一緒に過ごしている間に見つけたことだったが、セルフが考え込んでいるときは必ず手でなにかをいじっている。
人間の脳味噌に似た構成をしているとはいえ、しょせんコンピュータで情報の処理をしているメイドロボが「考え込む」ってのは不思議な話だが、メイドロボたちは難解な答えを求められたとき、確かに考え込むように沈黙する。
記録上は自己の経験記録や外部からの情報を要素として最適な解答をシミュレートしている、ということだが、それは果たして人間も同じようなことをしているんじゃないか、と思う。
「強い方だと感じました。心を持つメイドロボとして生まれたマルチさんは、様々なことを考え、悩み、それを乗り越えようとする力を持っている方だと感じました」
やっと出てきたセルフの答えに俺は唇の端をつり上げて笑む。
「なんのために悩みやらなんやらを乗り越えていくんだ?」
「――おそらく、夢のためだと思います。メイドロボであるわたくしにはない、夢のためにマルチさんは強くあるのだろうと思います」
「お前に夢がないって? だからセルフ、お前は弱いとでも言うのか?」
中途半端な答えに突っ込みを入れる。セルフはまた沈黙して、しばらくしてから口を開く。
「わたくしはメイドロボです。次世代型のAHSを搭載していても、メイドロボであることには変わりありません。それを証拠に、わたくしのつくる食事はマニュアル通りの味を出すことはできても、その道のプロのつくるものに劣ります」
「確かにな。このコーヒーだって、ゲンゴロウの奴が適当に淹れるコーヒーにすら負けるかも知れねぇよ」
言って俺はセルフの淹れてくれたコーヒーを飲む。美味しいには美味しいが、それだけの味しかしなかった。
「セルフ、お前はたぶん間違ってるぜ。お前はマルチに夢があるから強いと言った。だが夢ってなぁなんだ? 生きるための前提か? 至るべき目的か?」
「わかりません。ですがメイドロボであるわたくしには――」
「違うってぇの」
コーヒーを飲み干してカップをテーブルに置き、セルフの目を見据える。
「夢ってなぁおそらく簡単に持てるものなんだ。誰でも持てるし、メイドロボだって夢なんてなぁ持ってるはずだ。たったひとつでいい。やりたいと思うことがあれば、それはたとえ小さなものであっても夢だ。逆に夢を持たねぇ奴は生まれも育ちも人間でも、人形と変わらねぇ。てめぇはいまなにがしたい? なにを望む? ちっぽけなものでもいい。お前の夢はなんだ?」
「……」
冷たくなってきているはずのコーヒーをひと口飲み、セルフは言う。
「――もっと、美味しいコーヒーが淹れられるようになりたいです。ショージが美味しいと言ってくれる食事がつくりたいです。マニュアル通りに失敗のない食事をつくることは可能です。ですがそれ以上のものをつくってみたいと考えることがあります」
裂けそうなほど唇をつり上げて俺は笑う。
「今度暇を見つけてどっかの料理人のとこにでも修行に言ってみな。行きたい場所がありゃあ俺が紹介してやる。俺をうならせるようなものをつくれるようになってみろ」
「ならば一度、『マルチ』で仕事をしてみたいです」
思わず吹き出して、大きな声で笑った。
「なにかおかしいことでもありましたか?」
「いや、違ぇよ。あぁ、今度あそこで仕事ができるよう話を通しておいてやるよ」
立ち上がってセルフの隣まで行き、頭に手を乗せてやる。くしゃくしゃと髪をかき混ぜてやると、表情のないままうつむいた。
そんなセルフのことが、俺にはかわいいと思えた。
「あるじゃねぇか、お前にも。ちっぽけなものかも知れねぇが、夢がな」
「――はい」
* 2 *
ただいま、という声とともにお店の扉が開けられる。仕事の手を止めて見てみると、制服姿のままのみのるが入ってくるところだった。
「お帰り、みのる。早速だけど手伝って」
「えぇっ!?」
大げさなリアクションで驚いて見せて、みのるは数歩入ってきた店の中を後ずさる。
「オレ、いま帰ってきたばっかりで昼飯もまだだぜ?」
「ひと息ついたらなんでもつくってあげるよ」
「それに今日は友達と約束が……」
「また女の子?」
じっ、とみのるのことを見つめながら止めていた手を動かし始める。どうも望み薄のようだった。
高校に入ったみのるは口では言わないけど、私の勘では女の子にけっこう人気があるみたいだった。浩之ちゃんよりも人に優しくできるみのるは、浩之ちゃん譲りの真面目さも手伝っていい感じの男の子に育っていると思う。――親莫迦な表現かも知れないけど。
でもみのるが誰か特定の女の子とつきあってる様子はない。誰とも分け隔てなく接しているような気がしていた。
――中途半端な優しさは、罪でもあるんだけどな。
浩之ちゃんの事例からそんなことを思うけど、たぶんみのるのことだから、真面目な気持ちをうち明けてくる相手には、真面目な言葉を返すんだと思う。
「あかりさんの手伝いができないなんて、そんなに重大な用事なの? みのるくん。はい、これここに置いておきますね」
「えっ、いや、それはその……」
そんな声とともに店の奥からやってきたのは真澄ちゃん。いろいろあって調理師免許を取った彼女は、いまはこの「マルチ」で私の手伝いをしてくれている。
本当は真澄ちゃんは「マルチ」の従業員ではない。調理師免許を取って来栖川グループのフード部門に就職した彼女は、研修を兼ねた出向という形で私が預かる形になっている。
――真澄ちゃんには昔から弱いんだよね、みのるは。
高校に入ってすぐに「マルチ」を手伝うようになった真澄ちゃんは、みのるにとってお姉さんのような存在になっていた。だから彼女の言葉にはみのるも滅多に逆らえない。
「きょ、今日は外で食事するよ。お、オレ急ぐから」
「春でも来たのか? みのるくんにも」
入り口近くの常連さんの言葉に顔を真っ赤にして、みのるはそのまま店を飛び出していった。
「あの反応はもしかして……」
「どうだろうね。今度訊いてみなくっちゃ」
真澄ちゃんと微笑みあってから仕事を再開する。
「マルチ」は現在、昔の場所から移転して前のお店からほど近い国道沿いのところで営業している。お店の広さはふた回りほど大きくなって、一緒に仕事をする人の数も増えていた。といって正規の従業員は私だけ。あとは来栖川からの出向の人や試作型メイドロボなんかで構成されていた。
お店の場所が変わっても内装の感じも、メニューの内容も大きい変化はない。それにお店にある雰囲気も変わりはなかった。
それともうひとつ変わらないことがある。
ここにはもういないけど、「マルチ」のマスターはいまでも浩之ちゃんで、たとえどんなことがあろうとも、ここは浩之ちゃんのお店だった。
「はい、あかりさん。ホットハムチーズサンド、あがりました」
「ありがとう」
真澄ちゃんがつくってくれたお皿を手に取って、それから私が淹れたホットチョコレートのカップを手に、バイトの女の子やメイドロボに頼まずに自分でお客さんのもとにそれを持っていく。楽しい会話と笑い声の合間を縫いながら向かったカウンターの隅には、ひとりの女性が座っていた。
「はい、どうぞ。そう思えば久しぶりだね。仕事の方は順調?」
「お久しぶりですね。はい、仕事の方は順調ですー。忙しすぎて家からあまり出られないくらいなんですよぉ~」
振り返った女性はお皿とカップを私の手から受け取る。クセのない長い髪と、背は比較的小さいけれどすらりとした身体の彼女の浮かべる笑みは、このお店の中でも一番くらいに素敵な笑みだった。
「そう思えば今日でしたよね」
「え? そうだったね。すっかり忘れてた」
女性に言われた言葉を一瞬考えて、すぐに思いつく。
「そうだよ。今日はあの人が帰ってくる日だよ」
私は彼女とにっこりと微笑みあった。
*
「どうかされましたか?」
「ちょっと野暮用」
言ってオレは止めてもらった車から飛び出す。駅前の道は太くてそれほど邪魔にはならないが長くは停めていられないから、小走りに本屋に入って目的の本を買って車に戻ってきた。
「確か今日が発売日だったな、って思ってな」
軽く息を切らせながら後部座席の扉を閉めると、待っていたセルフは車を発進させた。
「セルフは買ったのか? この本」
「家に帰ればもう届いていると思います」
カバーをかけてもらった文庫本をバックミラー越しに見せてやると、セルフからはそんな素っ気ない答えが返ってきた。
セルフにはここのところオレ専属の秘書として仕事をやってもらっていた。音山さんが社長秘書として使っていただけのことはあり、スケジュール管理は完璧、地方に出張していることが多いオレの身の回りの雑務についても、完璧以上にこなしてくれていた。
なにより驚くのは、セルフの淹れるコーヒーはオレ顔負けなくらい美味しいこと。料理に関しても一流のプロにも勝るとも劣らない工夫を凝らしてくる。
――セルフくらい料理ができるメイドロボが増えれば、メイドロボがシェフのお店をつくっても悪くないな。
なんてことを思ってしまうほどだった。
――でもセルフには決定的に愛想がないのが減点かな。
口調や仕草から人柄とでも言うべきものが見え隠れしているのに、セルフには表情がない。それが性格なのだろうから仕方がなかったが、もう少し愛想があってもいいような気もしていた。
「着きましたよ」
「あぁ」
言われなくてもわかっているその場所。車から降りて駐車場から正面玄関の方に回る。見上げた店の看板には、「喫茶 マルチ」という文字が書かれていた。
一緒に車を降りたセルフとともに、オレは店に入った。
――変わらないな、ここは。
土曜の昼時の店内には、昼食を求めてきたお客さんでいっぱいだった。ただ食事をするばかりでなく、楽しげな会話がそこかしこで花咲き、笑顔と笑い声があふれていた。
「あ……。お帰り」
「ただいま」
カウンターの内側で仕事をしていたあかりと目が合って、はしゃぐでもなく静かに挨拶を交わす。
「お仕事はどうだった?」
真澄ちゃんが気を利かせて仕事から解放されたあかりが寄ってくる。
「あぁ、終わったよ。若い連中ばっかりで、跳ねっ返りな女の店長といろいろもめたけどな。逆にそれが元気のもとになって、噛み合ってくればそんなに苦労はなかったよ」
「そっか。よかったね」
お客さんの手前、向かい合って話し合うだけだったが、本当ならひと月振りに会うあかりのことを抱きしめてやりたかった。
「待ってるよ、今日は朝から、あそこで」
あかりに視線で示されて振り向くと、カウンターの隅にひとりの女性が座っていた。
言葉もなくにっこりと笑む彼女に、オレもまた笑みを返した。
手にしていた本のカバーを外し、彼女に見せて言う。
「読ませてもらうぜ」
「そんな、恥ずかしいですよー」
顔を赤くして、でも嬉しそうに微笑む彼女。
オレが手にした本の背表紙には、長瀬マルチという、作者の名前が書かれていた。