Tales of Willentia テイルズオブヴィレンティア 作:さかなのねごと
「ーー……」
アスハが目覚めたその時、視界に映ったのは彼女のよく知る天井だった。四季の花が控えめにあしらわれた几帳も、毎晩見ていたものーーここは自分の自室であり寝室なのだと、アスハはまだぼんやりした意識の中で思う。灯り障子から射し込む月の光が、今が夜だと告げていた。
「……すまない、誰かいるかな」
「はい、ここに」
几帳越しに応えたのは、アスハのよく知る使用人の一人だった。アスハは布団の上で上体を起こし、声の方へ向かって口を開く。
「現状を」
「はい。アスハ様は夕刻頃、ミカゲ様とともに秋茜の林道から帰還されました。アスハ様はお怪我を治療されたばかりだとお聞きしたので、しばらくこちらでお休みになっていただきました」
怪我、と譫言のように呟き、アスハは自分の体を見下ろす。あの大猪に負わされた怪我は一つも残っていなかった。焼けつくような痛みも、何も。……兄上が治してくださったのだろうと、アスハは目を伏せながら思う。
「……世話をかけてしまったね」
「どうぞお気になさらず。御身が御無事で何よりでございます」
「ありがとう、……ミカゲ兄上から何か言伝ては?」
「アスハ様がお目覚めになられましたら、氷鏡の間にてお会いになると」
「わかった」
すっと立ち上がると、いつの間にか解かれていた緋色の髪がさらりと揺れる。それを一つに結いながら、アスハは言葉を継いだ。
「氷鏡の間ならば正装の必要は無いだろう。自分で仕度をして向かうから、貴女は先に行って兄上にアスハが向かうとお伝えしてほしい」
「ですが、」
「もうすっかり夜も更けているだろう。これ以上兄上を待たせたくないんだ」
「……承知いたしました」
「ありがとう、頼んだよ」
深く頭を下げた気配を残して、使用人は部屋を出て行った。アスハは帳台を降りながら寝間着を脱ぎ、正装ではないがきちんとした着物を身に纏っていく。
氷鏡の間は本丸御殿の奥部にある。場所をそこに定めたというなら、正式な謁見ではなく親族間のそれだろうと、身仕度を進めながらアスハは考える。天皇である父上はいないだろうなと、きっと、林道でのことでお叱りを受けるのだろうな、とーー。
「……いけない。早く向かわなければ」
落ち込みそうになる視線を無理やり上げて、アスハは鏡台の前に立つ。そこには緋色の髪をシンプルな簪でまとめ、紺地に白い蝶々が羽ばたく着物姿の少女がいた。失礼の無いよう身仕度を確かめてから、うんと頷き、アスハは廊下へ向かう襖を開く。射し込む月光を受けて琥珀色の目が細められた。
白い城壁は宵闇にも目映く浮かび上がり、燈籠の灯りが赤い瓦屋根をぼんやりと照らしている。見上げんばかりの壮麗たる
今はシャドウリデーカンの月であり、四季のあるここ火の皇国では夏季にあたる。そのため水路が張り巡らされた夏の庭では、水芭蕉や杜若の花が咲き乱れていた。白や紫の花びらの合間に、蛍の淡い光が瞬いている。そんな風光明媚な光景を前に、アスハはひそかに息を吐いた。
(……家と言うには、些か豪奢に整い過ぎてはいるけれど……)
皇女として生を受け、教育を受けてきたアスハではあったが、未だに居心地の悪さを感じる時があった。自分の居場所がどこにも無いような心細さを感じるたび、アスハはひとり、そっと目を伏せる。
「相変わらずだな、私は……」
苦笑を浮かべる。心は自嘲にまみれていた。そんな風に思うのはひとえに自分の心が弱いからだと、アスハはわかっている。わかっているにも関わらず変えられないから、今回のようなバチが当たったのだろう。
ーーそんなことを思いながら、アスハは氷鏡の間に辿り着いた。緊張する心を落ち着かせようと深く呼吸する。
「……失礼いたします。アスハです。言伝てに従い参上いたしました」
「入れ」
「はい」
作法に則り襖を開け、広間の奥へと進んでいく。上座に座す彼の人と、その傍らに控えるもう一人の男性を目に留め、額づいて最敬礼を示す。
「ミカゲ兄上、カムド兄上。お待たせして大変申し訳ございません」
三つ指をついて頭を下げるアスハに、彼らが浮かべる表情はさまざまだ。ミカゲは無表情のまま頷き、カムドは優しげに微笑んでみせる。
「アスハ、頭を上げて。ミカゲ兄上が響術で癒したとはいえ、病み上がりには違いないだろう」
カムドはこの皇国における第二皇位継承者であり、アスハにとっては腹違いの兄にあたる。剣士としても名高いミカゲとは異なり、やや体は弱いものの、内政に手腕を発揮している理知的な皇子である。穏やかな気質で、今も妹を気遣いあたたかな言葉を掛けたが、アスハは心中安堵しながらも顔を上げることはなかった。
「お気遣い感謝します。しかしまずは、謝罪を述べさせてください。ーーこのたびは、身勝手にも単身で魔物のいる林道に出向き、ご迷惑をおかけしてしまい、本当に、申し訳ありませんでした」
アスハの謝罪を聞き、カムドは少し眉を下げて傍らの兄を見る。ミカゲはというと、静かな眼差しのまま真っ直ぐアスハを見据えていた。
「アスハ。顔を上げろ」
「ーーは」
その声色にわかりやすい怒りは無いものの、穏やかなものも感じられない。冷えきった氷のような緊張感に、アスハは口許を結んで向き直る。
そんな彼女の前でミカゲは懐から何かを取り出した。ちゃり、と赤と青、黒の
「……お前が秋茜の林道に赴いた理由は、魔導機関の研究のためだな」
中にあるものはすべて把握しているらしい。加えて、アスハの意図もすべて見透かしているかのような目で、ミカゲは続けた。
「また学研街の東雲殿の元へ行っていたのだろう。そこで必要な
「はい、……ですが、兄上。恐れながら申し上げますが、叔父様は関係ありません」
気圧されてはいるものの、それだけは譲れないとアスハは声を張る。きゅっと唇を結んで、膝の上の拳を強く握って。
「今回の件はすべて私の油断が、弱さが招いたことです。……どうか、すべての責は、私に」
「……いいだろう」
アスハの決意を前にミカゲは目を伏せ、しばし思案の海を泳いだ。しかしそれもつかの間、音もなく顔を上げ、アスハを見据えて口を開く。
「ーーアスハ、お前に、巡礼の旅に出ることを命じる」
「兄上!?」
氷鏡の間は静まり返っていて、カムドの驚愕の声のみが響く。当のアスハはというと、彼と同じく驚いてはいるものの、声を無くして呆然としている。
「巡礼の旅、とは……各国にある大精霊の身許に赴き、祝福を賜るという旅のこと、ですね」
「そうだ。魔導機関に現を抜かすことなく、その旅を通して精霊への信仰心を培うのだ」
「……は、い」
「……これはお前の鍛練の旅でもある。伴はつけずに、一人で発て」
「兄上!それではあまりに……!」
「ーー行きます」
カムドの制止を遮り、アスハは言った。彼女はもう呆気に取られてなどいない。静かに落ち着いて、穏やかに微笑んでいる。
「ミカゲ兄上の御命令、謹んでお受けいたします。挽回の機会を与えてくださったことに、改めて感謝を申し上げます」
「……明朝に馬車と船を手配する。手早く仕度をするように」
「ミカゲ兄上、」
「承りました。……カムド兄上も、お気遣いいただきありがとうございます」
アスハは穏やかな、綺麗な笑顔を浮かべた。
「ですがご心配には及びません。私なら、大丈夫です」
綺麗に綺麗に、笑顔を整えてみせた。
ーーー
「アスハ!」
氷鏡の間を後にしたアスハ。回廊を進む彼女を呼び止めたのはカムドだった。足を止めて振り返ったアスハに、彼は眉をひそめる。深い赤色の目に悔恨が滲んだ。
「……すまないね、僕にもっと権限があれば」
「いいえ、そんな。私などにお心を砕いてくださり、ありがとうございます」
アスハは微笑む。それから少し笑顔の色を変えて、また言葉を継いだ。
「……私は未熟者です。今回のことで、それを改めて強く実感しました。巡礼の旅にて、心身ともに鍛え直してこようと思います」
そんなアスハにカムドは何かを言いかけて、堪えるように口をつぐんだ。そんな彼の言いたいことは、アスハにもなんとなくわかる。
ーー巡礼の旅とは世界中を巡る旅。大精霊の身許に向かうには、危険な場所もある。そのような旅に護衛もつけず皇女一人を放り出すなど、本来なら有り得ないことだ。罰にしたってあんまりな所業。大切に育てられ守られる姫君ならば、死ねと言われているのと同じこと。……しかし、
(私は決して、そうではないから)
心の中で呟いて、アスハは目を細める。口元には相変わらず笑みが浮かんでいた。思ったよりもずっと心は落ち着いている。幼い頃から染み着いた諦念は、彼女を絶望や悲しみから遠ざけていた。
「……アスハ、これを君に。兄上から預かってきたんだ」
カムドがアスハに渡したのは、無限巾着だった。叔父からの贈り物を失くさずにすんだ、と安堵する妹へと、彼は微笑みを取り戻して続ける。
「その中に餞別が入っているよ。旅に使えそうなものは、一通り入れてあるから」
「このようなことまでしていただけるとは……ありがとうございます、カムド兄上」
「このようなことしかできない、の間違いだよ。……あ、そうだ」
もう一つ、とカムドは懐から何かを取り出す。その手に握られているのは手紙と便箋だった。
「あまりに急な旅立ちとなったろう。言伝てを残しておきたい者に書くといい」
「……ありがとうございます。ですが、」
「書き終わった手紙は君の部屋に置いておいてくれ。僕の方で届けておくからね」
「! ……重ね重ね、ありがとうございます」
「礼なんていいんだよ、……本当に、こんなことしかできないのだから」
ほっと頬を緩ませるアスハに、カムドはまた苦笑を浮かべる。それからその微笑に寂寥と心配の色を混ぜた。赤い目が、ゆっくりと祈るように伏せられる。
「汝の旅路に、精霊の祝福あれかし。……アスハ、君の無事を祈っているよ。どうか無事に、この城へ帰っておいで」
兄の祝福の言葉に、アスハははい、と噛み締めるように頷いた。いつの間にか月は彼らの遥か頭上に昇り、冴えた光を注いでいる。
もうすっかり夜も更けた。数時間もすれば朝日が昇るだろう。
それがわかっているから、アスハは自室に戻るとすぐに文机に向き直り手紙を認め、旅立ちの準備を整えた。それからはどうしても眠る気になれず、アスハは窓の向こうをぼんやりと眺めていた。
漆黒の空がじわじわと色を取り戻していくのを見つめる、彼女の心は凪いでいた。ただ時が過ぎていくという事実のみを、静かに受け止めている。
「今日、この城を発つんだね」
その事実を正しく理解してはいるが、感情は置き去りにされたかのように遠い。他に何と言うべきかわからず、結局アスハは沈黙を選ぶ。
空が漆黒から濃紺へと変わり、山の端から薄青、緑、黄色、橙へと、見事な色彩を描いていく。もうじき赤に染まるだろうというところで、部屋の外から声がした。出立の時が来たのだと、アスハは静かに立ち上がる。
その時、彼女の目は文机に置かれた写真立てと手紙を捉えた。写真の中で満面の笑みを浮かべる母の姿と、手紙の宛先である叔父と従者の姿とを脳裏に焼きつけて、そして。
「……行ってきます、……」
別れの挨拶をしたところで、返ってくる声は無い。静かな部屋にたった2通の手紙を残して、この日、紅アスハは旅に出た。
第3話 ひとりの旅立ち 了