Tales of Willentia テイルズオブヴィレンティア 作:さかなのねごと
長い船旅に揺られた体は、少しよろめきはしたものの、しっかりと石畳を踏み締めた。乾いた潮風に緋色の髪を靡かせながら、アスハは今しがた降りてきた船を振り返る。そこには、護衛としてアスハをここまで連れてきた兵たちが数人いた。
「本当にご苦労だったね。世話をかけてしまった」
「そのようなことはございません。お気に召されるな」
折り目正しく頭を下げる兵たちに、アスハはこっそり、苦い笑みを浮かべる。しかしそれもつかの間、再度顔を上げた彼女の顔には明るく穏やかな表情のみがあった。
「ありがとう。では、私は行くよ」
「はい。御無事の帰還をお待ちしております」
深く頭を下げる彼らに、うん、とだけ返して、アスハは歩みを進めた。町の外れに船を着けたこともあって、周囲に人気はほとんど無い。静かな昼下がりの港町を見渡して彼女は吐息を溢した。
あまり木材が流通しないからだろう、砂を固めて粘土にしたーー所謂日乾しレンガが使われた建物は、石灰が混ぜられているからか、陽の光を浴びて白く滑らかな光を弾いている。それだけでは味気無かったであろう街並みは、色とりどりのタイルや織物で飾られている。火の皇国のものとは何もかもが違う。建物も、装飾も、行き交う人々の服装も。
「闇の公国、か」
アスハがこの国を訪れたのは、これが初めてではない。それでも自国のそれとはあまりに異なる文化を前に、視線が移ろうのを抑えられない。
闇の公国ーー大公が治めるこの国は、世界の最南部に位置する島国である。大陸のほとんどを砂漠が覆い尽くしていることもあり、昼夜で寒暖差が大きく、日中はやや露出度の高い、エキゾチックな装束が目に留まった。頭にはターバンやベールを纏い、股下が深く足首までゆったりと広がるズボンを履くという闇の公国独特の衣装は、さらさらとした薄手の生地で作られながらも決して安っぽくはなく、光を受けて繊細な光沢を見せている。
辺りを見渡しながら歩いていたアスハは、いつの間にか人通りの多い港まで来ていた。闇の公国の者に限らず、さまざまな国の民族衣装を纏った人々で溢れている。記憶のそれよりも多い人数に首を傾げるも、すぐに思い至る。
「そうか、今はシャドウリデーカン……鎮魂祭か」
この世界、メルセディアにおいては、1年が12の月に分けられている。1年の始まりをシャドウデーカンとし、それからウンディーネデーカン、ノームデーカン、イフリートデーカン、シルフデーカン、レムデーカンと続き、1年の折り返しとなるこの7の月はシャドウリデーカンと呼ばれる。それぞれの月には、名に表される大精霊の力が強まり、それぞれにちなんだ祭礼が執り行われるのが常だ。
シャドウリデーカンーー死と始まりを司る大精霊シャドウの力が強まるこの月では、毎年鎮魂祭が行われる。水盆に張った水に月光を浴びさせ、死者の形見と闇の
(つい先日、私もやったばかりだったな)
伏せた目蓋の裏に、あの日の光景が甦る。灯りを落とした部屋の中、襖を開けて招き入れた月光で水盆を満たしたーーその水鏡に映る、母の笑顔。
(……母様……)
水鏡越しでは、死者の声は届かない。だからアスハには、あの時母が何を思っていたのか、何を言ってくれていたのか、なにもわからない。仕方ないと割り切っているが、心が曇ったのも確かだ。
だが、しかし。この地でなら、そうではない。
「この、シャドウの力が溢れるこの地、この時ならば……」
このシャドウリデーカンで、この闇の公国で行う水鏡の儀ならば、死者の姿を見るだけでなく声を聞くこともできるのだという。だからこそ、この時期に訪れる人々は多くなる。皆、死者の声にすがりたいと願っているのだ。
アスハもまたその一人であるがゆえに、思い悩むように唇を噛んだ。母の声を聞きたい。母が幼い日のように自分の名を呼んで、励ましてくれるのを聞きたい。そう望みながらも動けないのは、葛藤に苛まれているからだ。
(今の、こんな私を見たら、母様はどう思われるだろう?)
皇族の一員であるにも関わらず、魔導機関に夢中になるだけでなく、そのために一人で魔物の元へ赴き、勝手に危機に陥り……今こうして、たった一人きりで旅に放り出されている。
どうしたの?と問われるだろうか。その時自分は、きちんと落ち着いて、誤魔化さず、笑うことができるのだろうか。情けないと、失望されはしないだろうか?
そんなことを考えているうちに、視線がどんどん足元に落ちていく。街行く人並みの外れで、アスハはひとりだった。一人立ち尽くして、昼下がりの柔らかな日光に落とされた影を、ぼんやりと見つめている。
そんな時だった。
「どうかしたのか」
声を掛けられたのが自分だとは気づかず、アスハはしばらくぼうっとしていたが、しばらくしてはっと顔を上げた。その途端、こちらを窺っていた視線と視線が絡んで、彼女は大きく目を見開く。
目の前に立っていたのは、アスハと同じ年頃ぐらいに見える少年だった。いつの間に近づいていたのか、なぜ声を掛けてきたのか、という驚きはあったものの、彼女の瞠目する理由は別にある。
(……白、い……)
その少年の髪は白く、目は白銀だった。すべての色が抜け落ちたかのような混じりけのない“白”の姿を、このメルセディアでは【色無し】と呼ぶ。精霊の祝福の証として髪や目に精霊の色を宿すこの世界においては、【色無し】とは精霊の祝福を受けない者として、長らく差別の対象だった。今はそれほどではないものの、そもそも【色無し】は珍しく、アスハも出会ったのは初めてだったのだ。
そんな彼女の驚きに気づいた様子もなく、少年はじっと窺うようにアスハを見つめている。そうしてまた口を開いた。
「具合でも、悪いのか」
「え?」
「……どこか、痛めたとか」
「い、いや、違うよ。なぜそんなことを聞くんだ?」
アスハの問いに、少年は首を傾げた後、また彼女を真っ直ぐに見つめた。
「ーーきみが、辛そうな顔をしていた」
真っ直ぐな白銀の目に、見透かされてしまったかのようだった。少なくともアスハはそう感じて、一瞬息を飲む。が、すぐに取り繕ってみせたのは彼女の矜持ゆえだった。
「そんなことはないよ。ぼうっとしていただけだから」
「そうなのか?」
「うん。心配させたようだね、すまない」
「すまない、は、いらない」
ふるふると首を横に振って、少年の追求は終わったようだった。それでも彼の眼差しは変わらず、アスハに注がれている。責められているような厳しいそれではないが、なんとなくアスハは視線を反らした。
反らした視線の先では、人々が行き交っていた。この国に住まうシェドの他に、鎮魂祭のために訪れたのだろう異国の民たちがそれぞれの装束を靡かせて歩いている。訪問客に品を売り込む商いの声に、今日の宿の場所を探し訪ねる声と、死者の思い出話をする声とが聞こえてくる。そんな穏やかな賑わいの中で、ふと、
「ーー、ーー……、ーー!」
悲鳴が、聞こえた気がした。遠く遠く、か細く儚い、それでも悲痛に満ちた声。アスハは驚きに目を瞬かせて、その悲鳴はどこから聞こえてきたのか探ろうと耳を澄ませた。
瞬間、彼女の背筋を、鋭い寒気が駆け昇る。
「ーーッ、う、あ……!」
悲哀、憤怒、憎悪、諦観、絶望ーー世界中のそうした感情をかき集めて煮詰めて固めたような、そんな陳腐な表現では言い尽くせないほどの、重苦しい感情の波。おおよそ正常なものではない、歪みきったムジカの音律。それがアスハの鼓膜から入り込み、彼女の内側をガンガンと揺らす。頭痛に、吐き気。自分の在り方すら歪ませてしまいそうな響き。それに何より、心を引き裂かれるような痛みに、アスハは耳を塞いで膝をつく。
そんな彼女の肩を支える手があった。痛みに耐えてうっすらと目を開けると、先ほどの少年が気遣うようにアスハを見ていた。そんな少年の眉間にも皺が寄っており、彼もアスハと同じく、この不協和音に苦しんでいるとわかる。
(それなのに、なぜ……)
どうしてこんな、見ず知らずの者を案じているのか。案じて、くれるのか。
アスハが疑問に思っていると、いつの間にかあの響きが止んでいた。は、と緊張のほどけた吐息を漏らし、アスハは立ち上がる。そうして少年に向き直った。
「……すまない、また、心配をかけてしまったね」
「すまないはいらない、と言った。……それより、大丈夫なのか」
「それは私の台詞だよ。君こそ大丈夫なのか?君にもあの音は聞こえていたようだけれど」
「問題ない」
にべもなく答えた少年は、淡白なその表情を変え、すっと鋭く目を細めた。その視線の先をつられるように見たアスハは、大きく瞠目する。
「きっ、きゃああああ!!」
「魔物だ!魔物が出たぞぉぉ!!」
つい先ほどまでいつもの日常を送っていた港町が、悲鳴と怒号に溢れていた。逃げ惑う人々の向こうに、黒い、人型の“何か”が蠢いている。
それは人型ではあるが、体は腐りきって土塊にまみれていた。よたよたと覚束ない足取りを進めるたびに、腐敗した体の一部がぼたりと地面に染みを作る。胸が悪くなるような腐臭とムジカの歪みは、まだ遠いこの距離からも感じる。
「グール……!?」
ムジカが歪んで魔物と成る。その中でも死者の魂がねじ曲がって在るべからず体に宿ってしまったものは、
なぜグールが、しかも街の中に出るなんてーーと、困惑に浸る時間は無かった。グールが手当たり次第に街の人にその両腕を伸ばす。その動きは緩慢だが、人々の中には恐怖のあまり腰を抜かしている者もいる。
「い、いや、いやああっ……!!」
幼い少女がぺたんと座り込み、ぼろぼろと涙を流しているのを見た瞬間、アスハの心は決まっていた。逃げ惑う人々の波に逆らうように駆け、腰に差した刀の鯉口を切る。
「魔神剣!」
地を疾る斬撃がグールの足を止める。痛みに呻いているその隙に、アスハは少女の前に立ち塞がった。グールを遠ざけるように斬り払いながら、背後の少女に呼び掛ける。
「そこの君、立てるかな?」
「あ……う、うん……」
「うん、偉いね。立って、走って、街の人と一緒に行くんだよ」
穏やかな声に促され、少女がふらつく足で立ち上がる。その様子を背後で感じながらも、アスハは眼前の魔物から目を反らさない。痛みから立ち直ったらしいグールが自分を睨み付けるのに対して、刀を構え直す。
「大丈夫。怖い魔物は、絶対に追ってこないからね」
声色は優しく、視線は厳しく、意思は固く、アスハはグールに対峙する。今度こそ少女が駆けて行ったのを背中で聞きながら、彼女はふッと鋭く腕を振り抜いた。
「虎牙、破斬ッ!」
宙に浮いたその体を、再び地に叩き落とす。そんな斬撃を喰らったグールは、先ほどのダメージもあり呻きながら地に溶けていった。残された黒の
「はっ、……せやあッ!!」
2体目を無に還して、辺りを見渡す。グールたちは徐々に距離を詰め、アスハに襲い掛かろうとしている。それでも守るべき街の人は既に避難しきったらしく、ほとんど姿は見えない。それはアスハを安堵させ、同時に僅かな隙を生んだ。
背後の物影から現れたグールに、反応が一瞬遅れる。辛うじてその鉤爪を受け止めたが、それに乗じて襲い来る新手に対し、アスハは無防備だった。晒された彼女の首筋に、どろりとした屍の腕が迫るーーその前に、
「月閃光」
陽の光の下で、月光が輝いた。そう錯覚させるような斬撃が、アスハの目の前でグールを斬り裂く。低い構えから一気に振り上げられた大鎌が、三日月の軌跡を描いたのだ。
「……君、は、」
そこにいたのは【色無し】の少年だった。細身の体に似合わぬほどの大鎌を両手に、白銀の眼差しで敵を射抜いている。呆然と呼び掛けるアスハを見て、名を問われたと思ったのか、彼は静かに口を開いた。
「ぼくの名は、ミライ」
「……ミラ、イ?」
「そう。だけど今は、それよりも」
ぶん、と大きく弧を描いて、ミライと名乗った少年は大鎌を構え直す。そうして、アスハを庇うように進み出た。
「今は、こいつらを倒す」
その言葉に恐れや迷いは一切ない。真っ直ぐな声色に、アスハは鼓舞されたかのような心地で唇を引き締めた。ミライの隣に進み出て、切っ先をグールの群れに向ける。
「……ああ!」
1人と1人は2人で並び立ち、同時に地を蹴った。
第4話 白 了