「あかん、戦略以前の問題や。」
予選のタイムが書かれたシートを手に、奈臣は頭を抱えていた。
(俺かて昨日までのジュニアカデットクラスのコースレコードまで、後コンマ1秒に迫るタイムを出しとるんやで?せやのに光介とは2秒差ある…どないせぇっちゅうねん。)
大きくため息を吐く奈臣に声をかける者がいる。
「奈臣、ちょっといいか?」
その声に目を向けると、そこには涼介がいた。
「なんや?」
「今日のレースの作戦と言える程のものじゃないが…」
「かまへん、今は藁にもすがりたい気分や。」
肩を竦めながらそう言う奈臣に涼介は苦笑いをする。
だが涼介は直ぐに表情を正して告げた。
「奈臣、自分の走りを捨てて光介の走りをトレースするんだ。それでついていく事が出来れば、勝機が生まれるかもしれない。」
涼介の言葉を聞いた奈臣はポカンとした顔をする。
そして…。
「昨日、オカンも同じことを言うとったわ。」
そう言うとプッと吹き出して笑い始めた。
「そうか、余計なお世話だったな。」
「いや、正直言うて助かったわ。どうにも踏ん切りがつかんかってん。おかげで腹が決まったわ。」
自身で顔を張る奈臣に涼介は笑みを浮かべる。
「きついぞ。」
「あいつをライバルやと思った時から覚悟はしとるつもりや。」
「そうか。」
きつい。
何が?
光介の後ろについてその走りをトレースすれば思い知るからだ。
圧倒的な差を。
走りをトレースしてもついていけないかもしれない程の技術の差を。
奈臣はもう一度顔を張る。
何度も張る。
心の中にいる怯える自分を追い出すために。
「…よっしゃ!」
涼介は力強く立ち上がり歩き出す奈臣の背を見送る。
(羨ましいな…。)
心中に沸き上がった思いに涼介は首を横に振る。
そして小さく息を吐くと、彼も自身の顔を張ったのだった。
◆
光介と奈臣のデビュー戦…その本戦が始まった。
ローリングスタートをきっちり決めた奈臣は光介の後ろに張り付く。
そして第1コーナーから光介の走りをしっかりとトレースしてレースを進めていく。
しかし…。
「くっ!?」
コンマ1秒にも満たない僅かな差ではあるが、コーナーを1つ抜ける度に2人の差が徐々に広がっていく。
(わかっとったことや!落ち込んどる暇があったら集中せぇ!)
光介の走りを可能な限りトレースする事で、奈臣は未体験のスピードレンジでコースを攻略していく。
そしてレースも中盤に差し掛かった頃、奈臣は不思議な現象を体験していた。
(…なんやこれ?)
眼に映る世界から色が抜け落ちている中で、光介だけが色彩鮮やかに浮かび上がっているのだ。
故に良く『観える』。
光介の走りをほぼ完璧にトレースしてコーナーを抜けた奈臣の背を、ゾクゾクっと快感が走り抜ける。
(なんやこれ…なんやこれ!?)
今の奈臣は『ゾーン』と呼ばれる状態に入り込んでいた。
初めての体験に困惑しながらも奈臣は前を行く光介の走りに集中する。
1つ、また1つとコーナーを抜ける度にゾクゾクっとまた快感が奈臣の背を駆け上がる。
いつしか奈臣はレースのことを忘れ、ただ走ることに夢中になった。
このマシンと一体になった様な感覚をもっと感じたい!
もっと…もっと…!
そんな奈臣の思いは突如終わりを迎える。
光介が周回遅れをオーバーテイクした事で、一瞬その姿を見失ったからだ。
奈臣の眼に映る世界に急激に色が戻りだす。
「…っ!?あかん!」
先程までと違い今度は背中を危機感が駆け抜ける。
即座に蹴り飛ばす様にブレーキを踏み減速する。
「くうっ!」
奈臣は周回遅れに追突しそうになりながらも、なんとか無事にコーナーを抜ける事が出来た。
しかし…。
「…こらもうアカンわ。」
周回遅れへの追突を避けることは出来たが光介との差が致命的に広がってしまい、流石に奈臣も勝利を諦めるしかなかった。
(まぁ、ええわ。収穫もあったしな。)
奈臣の身体にはゾーン状態の時の走りの感覚がまだ残っていた。
(こいつをモノにしたら確実に成長出来る。光介、今回のレースはお前のもんや。せやけど、俺達の勝負はまだこれからやで。)
その後、奈臣は身体に残る感覚をモノにしようとレース中に色々と試し始める。
そのせいでポジションを1つ落として3位でフィニッシュしてしまうが、彼は胸を張って表彰台に上がったのだった。
次の投稿は11:00の予定です。