*
「末那と連絡が付かない?」
新宿駅。大江戸線のプラットホーム。
着信があったのでスマホを見ると、「祖母ちゃん」との表示が。なんぞらほい、と端末を耳に当てた俺に、祖母ちゃんは開口一番、『末那ちゃんと連絡が付かないんだよ』と言った。
電光掲示板脇の時計をちらりと見る。時刻は二二時三〇分。深夜、と言うにはまだ早いが、高校生の少女が一人で出歩くには、十分に遅いと言える時間だった。
『電話も、メールも、一向繋がらないんだよ』
祖母ちゃんが心配そうに言う。
祖母ちゃん曰く、夕飯の後、突然、アルバイトの制服を返しに行くと言って家を出たらしい。それから三時間経っても、彼女は帰って来ないのだという。
『事件にでも巻き込まれたんじゃないかって、気が気がじゃなくて』
末那を送り出したのが一九時過ぎ。それから時計の針が進むにつれ徐々に心配になり、二二時を回った時点で、書置きを残して探しに行こうとした。けれども祖母ちゃんはつい最近腰を痛めていて、とてもじゃないが駆け回って人を探せる状態じゃない。そこで、ボランティア終わりの俺に電話をよこしたのだった。
末那のバイト先は、彼女が以前住んでいた場所から徒歩で行ける距離にあるらしい。俺は祖母ちゃんとの通話を切る。一先ずそのバイト先に向かおうと、ホームの上を走り出した。
末那が以前住んでいたのは明大前。新宿からは3駅だが、走って行ける距離ではない。京王線を使うしかないか。俺は階段を駆け上った。
ホームに着くと、タイミングよく電車が滑り込む。俺は橋本行のそれに乗り込んだ。
到着して直ぐに出られるよう、ドア脇のスペースに立ち、発車を待つ。やけに遅く感じられた。
(事件、か……)
電話口で切々と訴える祖母ちゃん。「事件にでも巻き込まれたんじゃないか」。高校生の少女に対するそれは、ひょっとすると過保護ともとれるのかもしれない。
けれども俺はその心配を、杞憂だと切って捨てることはできなかった。
がちゃこん、とドアが閉まる。閉まる直前、スーツ姿の男が乗り込んできた。
微かな振動を感じながら、外の景色を眺める。そうして揺られていると、現在末那が置かれている状況について、嫌な想像が次々と沸き上がってきた。
・交通事故
・ひったくり
・路上強盗
緊急を要する事態。だが、比較的ましな状況ではある。
・誘拐
・暴行
・監禁
最悪の事態。それらが起きていた場合、俺は一線を越えるだろう。
そして。
・呪霊、呪詛師による襲撃
考え得る中で最悪の事態。仮に精神操作の呪詛師による襲撃だった場合、事態は最悪を極める。どういうわけか、やつは現場に残穢を残さない。そのため追跡のしようがなかった。
「くそっ」
嫌な想像を振り払い、落ち着けと自分に言い聞かせる。突然悪態をついた俺を、スーツ姿の男がぎょっとした目で見ていた。
呪詛師のせいと決まったわけではない。他の可能性だって有り得る。
そう、例えば、バイト先の友人と話が弾んでいて、電話に気が付いていない、とか。
あるいは、給料の計算に手間取っている、とか。
それとも、気になっていた先輩とLineを交換して、そのまま別れを惜しんでいる、とか。
会話を楽しんでいたところにやたら迫真じみた俺が来て、何だこいつはと迷惑そうにされる。そんなことだって、あるのかもしれない。
会話を邪魔されて迷惑そうな顔をする末那。笑顔なんかよりも余程想像しやすいそれを、しかし俺は頭を振って打ち消した。
甘すぎる想像だ。
善人が報われないなんて当たり前。悪辣な者は、より悪辣な者の養分にされ、貪られる。
そんな呪われた世界で、俺も彼女も生きているのだ。
「笹塚~笹塚~お降りの際は足元にお気をつけて」
一駅目に到着し、アナウンスがそれを知らせる。
俺は列車を乗り降りする人たちを見つめながら、拳の力を抜いた。じわり、と止まっていた血が流れていくのが分かった。
これ以上彼女から奪うことは、絶対に許さない。
悪人だろうと、呪詛師だろうと、呪霊だろうと。
誰だろうと。
彼女が光の道を歩む邪魔をするのならば。
俺はそいつを、原型がなくなるまですり潰してやる。
窓の外、遅々として進まないように見える街並みを睨みながら、俺は、末那が迷惑そうに俺を見てくれることを願った。
*
「君は、魂を信じるかい?」
人通りの一切ない、暗い路地。新月でもないのに、どういうわけか月の光は届かず、街灯だけが唯一の光源だった。
「無視か、つれないなあ」
返答がないとみるや、大袈裟にため息を吐く真人。やれやれ、とでも言いたげに首を横に振った。
「……あなた方は」
真人からの問いには答えず、少女が言う。警戒のためか、その眉間に皺が寄っていた。
「真人」
「はいはーい」
夏油が呼ぶ。呼ばれた呪霊、真人は軽く言うと、少女の背に触れている手とは別の手で、ぽいと何かを放り投げた。
どさ、とアスファルトに投げ出されたそれ。投げられた勢いでごろごろと転がり、少女の傍ら、ぎりぎり視界に入る位置で止まった。
「た……すけ……」
男だ。整髪料のついた茶髪、ストライプの制服。末那を脅迫してその身体を弄ぼうとし、逆に弄ばれた男。
彼は混乱していた。好みの女子高生の弱みを握り、その身体を好きにできるはずだった。なのに気づけば、自分の体はずたずたになっているし、脳の奥では今もなお、「苦しむためだけの苦しみ」が、押しては引く波のようにこだましている。
(誰でもいい、誰でもいいから、俺を助けてくれ)
彼は地面を這い、痛む頭で助けを求める。ふと、頭のどこかが、「給湯室にいた自分がなぜアスファルトの上にいるのだろうか」と訝しんだが、今の彼には些末なことだった。
『無為転変』
筋繊維は千切れ、関節は破壊され、脳には消えない後遺症を負った男。
それでもなお、生きようと足掻く男。
生死だけを言えば、彼は既に死んでいた。
「お、ごぁぁあああああ」
グニィ。男の顔が物理的に伸び、人のそれから大きく外れる。
ぐき、ごきゃ、と湿った音を立てて、男の体が二足歩行のそれから四足歩行のそれに変形していった。
「……ぅあ……」
大きな口からうめき声を漏らす。自重を支えきれず、べちゃりと地面に倒れ伏した。
(あ……ぅい……)
小指の先ほど残った意識の中、男だったものはその肥大化した瞳で傍らの少女を見上げる。
暗闇の中、彼の人生で最も心惹かれた少女が、アスファルトに倒れ伏す己を見下ろしていた。
街灯の光に照らされて見えた、端正な顔立ち。ぱっちりとした瞳、艶やかな唇、滑らかな頬、それらの完璧なバランスの中には、年相応の幼さが潜んでおり、それがかえって見る者の支配欲を掻き立てていた。
彼が最も心を惹かれたのはその瞳だ。
この世に何も期待していない眼差し。しかし、その冷笑的で厭世的な眼差しの奥に、こんな世界など壊してやるという苛烈さを秘めている。
彼が人間だった頃は、一度も己を映さなかった瞳。
その瞳が、異形に変貌した今、初めて、己という存在を映していた。
「あ…………ぱ……んつ」
薄れる意識の中、彼は少女のスカートの中を覗く。むしゃぶりつきたくなるような太ももの奥に、うっすらと黒い布が見えた。
脅迫してでも見たかったそれを目に収め、彼は意識を手放す。
こと切れる直前、彼は確かに幸せだった。
(…………へえ)
少女はそれを見ていた。男が人でなくなるという、明らかに人知を超えた光景。そして人でなくなった男が、己を見上げ、満足げにこと切れる瞬間を。
(こんなことまで出来るのか)
たった今死んだ男。それはつい先ほど、少女が楽しんだ男。無論それは男女の交わりなどではなく、少女の側からの拷問だったが。脅迫し、拷問され、最期にはとち狂ったゆるキャラみたいになって、意味もなく殺された男。
少女はその男を、じっと、見つめていた。
「あはっ、才能あるよ、君」
真人が嬉しそうに言う。
彼が言う才能。
異形に変貌した同僚を、恐怖するでもなく、眉を潜めるでもなく、ただただ興味深そうに見つめることが示す、グロテスクな才能。
人を、弄ぶ才能。
「私たちのことについて、少しは知ってもらえたかな」
夏油が言う。
真人の術式のデモンストレーション。それは確かに、男たちの素性や人格を手っ取り早く示すのに、この上なく適していた。
「まあ、少しは」
夏油の問いかけに、少女が答える。
異形に変貌した男と背後の存在を結び付けて考えられない程に馬鹿だというのでなければ、その胆力は大したものだった。夏油はにやつき、少女のいかれ具合を上方修正する。
「お気づきの通り、私たちは悪い奴らだ」
演説するように、夏油は両手を広げた。悪い奴ら、というフレーズで、真人がくすりと笑う。悪いと言われて喜ぶ中学生みたいな態度だったが、実際、彼は相当に悪い奴だった。
「誰も、私たちがやったとは認識できない。だから、誰も裁けない。それをいいことに、私たちは何でもやる。文字通り、何でも、だ」
夏油は続けて、
「能力の練習のために何の関係もない人間を殺すし、会話をするのに煩わしいと思ったら取り敢えず殺す。何物も、何者も、私たちを縛ることなんて出来ない」
言葉を区切る。一呼吸置くと、夏油は少女の瞳を真正面から見つめ、言った。
「君もそうだ、土御門末那。力を得た君を縛るものは、何もない。渇望した自由の味は、さぞ甘露だったことだろう」
少女は夏油を見つめ返し、その言葉に耳を傾けていた。夏油は続けて、
「ただ、残念なことに……その自由を、侵害する者たちがいる」
深刻そうな声音で首を横に振る。芝居がかった仕草だが、不思議と絵になる仕草だった。
「彼らはなんというか、強迫観念のようなものに駆られていてね。非、術師……いわば、君や私たちが持っているような力を、全く持たない者たちのこと、を、守り、保護し、呪いから隠蔽しようとするんだ」
老朽化のためか、街灯がちかちかと瞬く。夏油は掌を上に向け、少女のことを指し示した。
「非術師の保護。それはつまり、君という力ある者から、君の従兄のような者を守るということだ」
少女の顔がぴくりと動いた。夏油はここが少女の琴線と理解し、畳みかける様に言った。
「ふざけていると思わないか?我々は力を持つ者だ。強者として産まれた我々が、なぜ弱者たる力なき者たちを顧みなければならない?そんなものは淘汰という進化の法則に反している。自然じゃない。そうだろう?」
言いながら、夏油は少女の反応を見ていた。従兄、というワードに反応していたようだが、それ以外は終始一貫して無表情を貫いていた。
夏油は再度両手を広げる。その身振りは、少女を自分たちの側に受け入れようとするかのようだった。
「私たちと共に来ないか、土御門末那。応用的な力の使い方、彼らから身を守る術、この世界で生きていくノウハウ、全て教えよう。きっとこれまで想像もできなかったような世界が、君を待っているよ」
自身に満ちた笑みで、夏油はそう締めくくった。
ぴゅう、と真人が口笛を鳴らす。わざわざ三本目の腕を生やし、ぱちぱちと拍手を送った。
「…………」
空々しい拍手の中、少女は静かに立っている。真人のように拍手こそ送らないが、その表情は、少女が夏油の演説に不快感や嫌悪感を抱いてはいないことを伝えていた。
(……どうだ?)
夏油は少女の反応を待った。その脳は少女に姿を見せた時から、絶えず呪力で覆われている。
ふと少女が、紅い唇を開いた。
「取り敢えず、お試しってことでもいいですか」
(釣れた!)
夏油は内心でほくそ笑んだ。
「ああ、勿論。肌に合わないと感じたら、その時点で抜けてもらって構わない」
鷹揚に頷きを返す。その顔は微笑んでいた。
計画の中途で現れた、思わぬ人材。
土御門末那。
その術式、『呪言催眠』
呪力を乗せた言葉で、人の精神を操る術式。
この術式があれば、五条悟にさらなる負荷を与えることができる。夏油はそう考えていた。
「あの」
拠点に向かおうとした夏油の耳に、少女の声が差し込まれる。彼女は夏油ではなく、背後の存在に対して、口を開いた。
「あなた、人間じゃないですよね」
問われた真人は、軽く眉を上げ、口の片側だけに笑みを浮かべた。
「うん、俺は呪霊だよ」
「呪霊……」
少女は真人の言葉を反芻する。話せるのもいるのか、と、口の中だけで呟いた。
「ありがとうございます。それと、逃げたりしないので__
『__離れてもらっても、いいですか?』」
さりげなく差し込まれた『力』。低級の呪いには効かなかったそれが、真人に襲い掛かった。
「うん、いいよ」
真人が少女から離れる。彼女の言葉に、素直に従って。その動作は極めて自然だった。
まるで、青年が電車でお年寄りに席を譲るかのような、あるいは、向かい側から歩いてきた人に道を譲るかのような。そういう滑らかで芝居がかっていない動作で、真人は少女から身を離した。
そしてそれは見る者に、強烈な違和感を抱かせた、
「っ、殺せ!」
異常を認識した夏油が叫ぶ。真人はきょとんとした顔で夏油を見た。
真人には夏油の慌てようが、まるで理解できなかった。
ふと、するりとした動作で、少女が動く。自らが「離れてください」と言った真人に近づき、その腕に触れた。
彼女の口元が、怪しげな弧を描く。
『自殺しろ』
『無為転変』
「…………あぇ?」
真人は訝しんだ。
なぜだ?
なぜ己の胸に、こんなにも大きな穴が開いているんだ?
「ごっ」
『無為転変』
『無為転変』
『無為転変』
腕がはじけ、足が崩れ、眼球が破裂する。術式が発動するたび、真人は身体の一部を崩壊させていった。
(祓われる!)
真人の異常を認識した瞬間、夏油は走り出した。このままいくと真人は祓われる。それは夏油の計画にとって芳しくないことだった。
少女は真人の腕を掴んでおり、こちらを見てはいない。夏油は少女との距離を詰めながら、計算違いに舌を打った。
(なぜ『呪言催眠』が、呪霊である真人に効くんだ!)
『離れてもらってもいいですか』
あの一言で、彼女は確かめたのだ。己の術式が背後の存在に有効かどうかを。
夏油は眉を潜めた。
(彼女は友人に取り憑いた呪霊を祓わなかった。ならば土御門阿頼耶は既に彼女の傀儡か?特定の状況下で望む行動をするように、あらかじめプログラムしていた?腐っても土御門。術式を自覚して数か月の少女に、そんな簡単に操られるか?)
「っ、」
ぐりん、と少女が夏油を見た。瞬間、攻撃を予感し、脳に呪力を集中させる。
『死ね』
少女の術式が、夏油の脳を叩いた。
「……ぐっ」
呪力で防御してなお、がつんと響く衝撃に、夏油は呻く。同時に疑問の答えを得た。
(この強度、天与呪縛か!)
夏油は少女との距離を詰める。意識が他のことに割かれたためか、真人の崩壊は止まっていた。
拳を握る夏油。少女がもう一度呪言を飛ばす。脳が揺れたが、夏油は足を止めなかった。
(あ、まずいかも)
少女は足を止めない夏油を見て、そう思った。
『力』が呪霊に有効。そう分かった時には行動していたが、いささか軽率が過ぎたかもしれない。
(死にたくない)
少女の思考。咄嗟に、彼女は両腕を体の前で交差させた。夏油の打撃を防ぐためだった。
「ぅぐ」
少女の口から、苦しそうな声が漏れる。夏油は直前で打撃をキャンセルし、蹴りに切り替えていた。
夏油のつま先が、少女の腹にねじ込まれる。成人男性の体重と走りの勢いが乗った蹴りは、少女をボールのように吹き飛ばした。
「ぁうっ」
飛んだ先のアスファルトでバウンドし、少女が喘ぐ。一度のバウンドでは勢いは止まらず、民家の塀にぶち当たった。
どちゃ、と地面に落ちる少女。その身体はピクリとも動かなかった。
「やれやれ」
純粋な暴力で少女を無力化した夏油が、額の汗をぬぐう。乾いていたが、気分の問題だった。
「さて、どうしようか」
頭を切り、傷口から血を流す少女。彼女から視線を切り、真人に目を向ける。眼球はぽっかりと空洞になり、四肢のほうも、残っているのは少女が掴んでいた左腕だけだった。
「大丈夫かい、真人」
白々しく問う。同時に、この程度では無条件の取り込みは不可能だと結論した。
「だい、じょうぶに、見えるか」
息も絶え絶えに答える真人。その間も彼の体は徐々に修復され、眼球、腕、足の順番で、その機能を取り戻していった。
「ぐ、う」
修復が完了する。外見だけは元の姿に戻ると、真人は調子を確かめる様に首を鳴らした。
「どれくらいやられた」
夏油が問う。
「……ざっと3割ってとこかな」
首を回し、真人が答えた。その表情は苦々しくゆがんでいる。
たった数秒だ。たった数秒警戒を解いただけで、3割ものHPが削られた。
(ふざけやがって)
真人は己の魂を明確に害した少女に舌打ちをした。
「そんなにか。いやはや、とんだじゃじゃ馬娘だったね」
言い、夏油は街灯に照らされた少女に目を向ける。頭から血を流し、ぐったりと倒れ伏す少女。真人の魂に攻撃を届かせた少女は、たった一度の蹴りで、すでに生死の境をさまよっていた。
(呪力を身に纏えないことが幸いしたか)
夏油は少女のフィジカルの弱さに感謝した。
「イレギュラー、ってことで、いいんだよな?」
真人が少女を顎で示し、問う。その目は鋭く光り、冗談やおふざけを許さない雰囲気を醸し出していた。
「ああ、勿論、イレギュラーだとも」
一言一言を噛み締めるように、夏油が言う。そうかっかするなよと宥めるようだった。
真人はそんな夏油の態度を鼻で笑う。気に食わないが、ここで追及はしない。この協力者が怪しいのは、今に始まったことではなかった。
「天与呪縛、だよな?」
夏油から少女に視線を移し、真人が言う。疑問形になったのは、視線の先にいる少女のような例を、彼がこれまで見たことがなかったためだ。
「ああ、そうだろうね」
真人の問いに、夏油は肯定を返す。そのまま少女の天与呪縛について語り始めた。
「
続けて、
「彼女の術式、『呪言催眠』は、本来は呪力の弱い、非術師のような存在にしか効果がないはずなんだ。けれども呪縛により術式の格が底上げされたことで、術師だけじゃなく、君のような呪霊にまで効力が及ぶようになっている。呪力の流れが非術師のそれなのは、新しい家の住人から自身が術師であることを隠すためだと思っていたが、呪縛によるものだったとは。いやいや、見事に騙されたね。まあ、当の本人には、隠蔽しているという意識はなかっただろうけれど」
夏油はにやにやと笑いながら、動かない少女を見つめた。
「術師、非術師に関係なく操ることができる上、呪霊の場合は、
そこで言葉を区切る。続く言葉を、彼は歌う様に言った。
「『精神操術』、そう呼んだ方が的確だろうね」
*
「『精神操術』……」
真人はその言葉を反芻した。
夏油が持つ『呪霊操術』。高専内に用意した内通者のそれは、『傀儡操術』。どちらも強力な術式だ。
ノーリスクで対象を操る術式に付けられる名が『操術』ならば、あらゆる種類の精神を言葉だけで操ることができるそれは、確かにその名に相応しい。真人はそう思った。
「どうしよう、果てしなく有能だね、彼女」
ここに来てようやく明らかになった、少女の真骨頂。それは五条悟の封印において、多くの便益をもたらすであろうことは、真人にも理解できた。
(俺がもう一人いるようなものか)
ふと頭に浮かんだ思考。真人はその思考をやや修正する。
魂に触れることで、人間の肉体を変形させる真人とは異なり、少女の術式は肉体の変化を伴わない。真人の術式によって異形へと変貌させられた人間は、一目でそれと分かるし、一目でもう殺すしかないと分かる。
しかし、少女の術式で精神を壊された者は、その外見に変化がない。そのため、傍目からはその者が治療により回復可能かどうかの判断が付きづらかった。
(これは……使えるな)
例えば、五条悟の周囲を非術師で固め、こちらが領域展延を駆使して攻める際、ランダムに非術師に彼を襲わせる。五条悟は自身の力で非術師を殺めることを許容できないため、人間の姿をした彼らをすり潰すことができない。無下限の壁はあるが、選択を迷わせ、動きを制限するくらいの効果は見込めるだろう。
(でも……)
真人は倒れ伏す少女を眺める。スカートがめくれ上がり、大腿部が大きく露出しているが、性欲のない真人は特に何も感じなかった。
(そもそも、作戦に参加しなさそうなんだよなあ)
先ほどのやり取り。少女は自身の術式が呪霊に有効と見るや、即座に真人を殺しにかかった。呪言が『死ね』ではなく『自殺しろ』だったのは、彼女の中で呪霊が死ぬというイメージが明確でなかったためだろう。似たような術式を持つ者として、真人にはそれがよく分かった。
(脅せばいいか?ばばあを殺すとかで)
少女の首輪となりそうな老婆を、脳内で思い描く。
しかし。
(土御門、か)
その名前が、真人に人質を躊躇させた。
夏油から聞かされた、土御門の意味と意義。そしてその開祖である、安倍晴明。
知的生命体は、土御門を敵に回すべきではない。
夏油は説明の後、悔しさも苦々しさも浮かべず、ただの事実を共有するように、そう言った。
(「無下限呪術のない五条悟」も、近くにいるしなあ)
真人は「面倒なことになりそうだ」と嘆息した。
接触した少女は有用だ。
しかし同時に、触れれば爆発する弾頭のようでもある。
漏瑚や花御と常にいれば、少女が牙を剥いたとしても、誰かが彼女を殺すだろう。
けれどもその過程で、こちら側の呪霊が一人でも祓われたとすれば、大損以外の何ものでもなかった。
(わざわざ取るべきリスクじゃない)
真人は少女をこちらに引き入れることについて、そう結論付けた。
「『精神操術』は有用だけど、わざわざ引き入れる必要はないよね」
唇を撫で、真人は言った。夏油は顎に手を当てて考える素振りを見せ、口を開く。
「ふむ、そうだね。術式は破格の性能だが、いかんせん我が強すぎて制御できなさそうだ。作戦には使えないだろうね」
首を横に振った。
「殺して良いか?」
真人が言う。
夏油は意外なものを見たという顔で傍らの真人を見た。先の言葉を放った真人は明らかに苛立ち、そしてそれを隠そうともしていなかった。
夏油はそんな真人に対し肩をすくめる。好きにしろ。その態度はそう告げていた。
「んじゃ」
真人が少女に近づく。
少女は今だ地面に倒れ伏していた。頭部から流れ出る血がアスファルトに広がり、制服を汚す。襟の部分が赤く染まっていた。
(殺す)
真人の手が、少女の肩に触れる。柔らかな感触が真人の手に伝わるが、それは彼の殺意を止められる類のものではなかった。
その様子をにやついた顔で眺めていた夏油が、ふと上を見る。微かな違和感。その感覚がはっきりと形をとる直前、
バシュン、という音が響いた。
「っ!?」
夏油と真人、両名が空を振り仰ぐ。驚愕により、真人は術式をキャンセルしていた。
「馬鹿な、帳が、あがった……?」
夏油は瞬時に最悪の事態を想定し、身構えた。
最悪の事態。
それは、今この場に五条悟が到着すること。
「……っ、いや、違う。五条悟ではない」
僅かな情報から、夏油はそう結論付けた。
帳が破られる直前、彼は空を見上げ、その一部始終を見ていた。帳は彼が見る前で、その大部分をごっそりと消し飛ばされ、崩壊させられていた。
仮にこれが五条悟だったら、このような壊れ方はしない。無下限呪術ですり潰されるか、単純に解析されて破られる。
そのどちらでもない、この壊れ方は。
「逃げるぞ」
最悪は免れた。しかしそれは事態が好ましいものであることを意味しない。
なぜなら今の状況は、五条悟程ではないにしろ、帳をたった一度の打撃で崩壊せしめる実力を持った術師が、この場に現着したということなのだから。
(到着が速すぎる……偶然か?)
夏油はなぜこれ程速く術師が現着できたのか訝しんだ。高専の内通者に今日のことは伝えていない。協力している呪霊たちが裏切る動機はない。よって彼は偶々術師が近くにいたのだろうと推測した。
夏油は残穢を残せない。真人はHPが削られている。イレギュラーに重なったイレギュラー。あまりにも不確定の要素が多い。そのため夏油は臆病ともとれる“逃げ”を選択した。
「まじかー」
夏油の指示に、真人が不満を露わにする。到着した術師のレベルは分からないが、その者が単独ならば、確実に自分一人で殺せる。少女の力量が少しイレギュラーだったからといって、この闖入者もそうであるとは限らない。
(ビビり過ぎだろ)
真人は心の中で夏油を嘲笑した。彼の姿は既に消えており、この場には真人と少女だけが残されていた。
(土御門末那。お前はここで確実に殺しておくよ)
真人の手が少女に近づいていく。ふと、より辱めてやろうという気になり、その大腿部を掴み取った。
(足と腕、その後に顔だ。目も当てられないほど醜悪にしてやるよ)
嗜虐的に嗤う真人。呪力も身に纏えない小娘に魂を傷つけられ、かなり頭にキていた。
(虎杖はこいつを見るかな?目立つとこに置いときゃ、誰かがSNSに晒すか。高専は俺との関係を容易に導くだろう。ああ、あいつにだけ分かるようなメッセージを刻むのも……)
少女の太ももを掴み、真人はアイデアを巡らせる。どんな愉快なオブジェにしてやろうかと考えていると、徐々にインスピレーションが湧いてきた。
(顔面は原型を残し、こいつだと分かるようにしておこう。ああ、そういえばこいつは男嫌いなんだっけ。じゃあ基本のモチーフは男性器にして、それを体の随所に配置する形で……)
悪魔的なアイデアが閃き、真人は笑みを深める。アウトラインが完成したため、後は作りながら微調整を加えていこうと決め、術式を起動する。
『無為転変』
ぱき、という軽い音が、真人の耳に聞こえた。
それが、真人の体内で鳴っているものであり。
かつ、己の頭蓋が割れる音であることに、彼は気が付けなかった。
「ごっ、ぁあ!!」
真人の体が、思いきりアスファルトに叩きつけられた。あまりの衝撃により、反作用で体がバウンドし、しばし宙に浮く。
奇妙な浮遊感の中、真人は今の一撃で、魂の形ごと叩かれたことを認識した。
(い、たどり、悠仁かっ!)
真人は闖入者の正体をそう結論する。
己を魂ごと叩くことができる存在を、真人は虎杖悠仁以外に知らなかった。
体勢を立て直さなければならない。彼は片方の腕を闖入者に対し振り向けた。虎杖に掌は使えないが、牽制にはなるだろう。そう思っての行動。
しかし。
(は?)
その瞬間、真人は完全に自失した。
(腕が、ない)
真人の腕。少女の足を掴んでいた腕が、肘から千切れている。同時に、その分の魂が傷つけられていることを、遅れて認識した。
(虎杖悠仁じゃ、ない?)
一瞬だ。たった一瞬で、腕を失い、額に重い一撃を喰らった。そのことが真人に、とある疑問を惹起させる。
虎杖悠仁とは、こんなにも強かったか?
(あ、)
バウンドし、宙を舞い、自由の利かない体。かすむ視界の中、真人はその男を見た。
拳を握り、両目に激情を漲らせた男。
(土御門、あらや……)
どちゃ、と湿った音が住宅地に木霊する。振り抜かれた拳が真人の顔面を正確に捉え、その頭蓋をアスファルトの上で爆散させた。