飛び散った脳漿。拳を引き上げるとねちゃりと何かの液体が糸を引いた。
頭部を失い動かなくなった呪霊。生々しいそれから視線を切り、背後を振り返る。
「血が……」
塀の陰で倒れ伏す末那。意識はなく、頭部の傷口からは今も血が流れ出ている。流れた血を吸い取り、シャツが赤く染まっていた。
『術式反転・他我』
即座に術式を起動する。瞬間、情報が脳に溢れ出す。反転した術式が、目の前の末那についての情報を、俺の脳に洪水の如く流し込んできた。
渦巻く情報を観察し、選り分け、まとめあげる。術式が作り出す流れの中で、俺は末那の状態について判断を下していった。
傷口:左側頭部。頭蓋未到達。
出血:継続。
出血量:体重の1%未満。
脳の損傷:なし。
呼吸・脈拍:頻度減小。
体温:35.8℃。
状態:脳震盪。
一時間以内に死亡する確率:低
「……ぶはっ!」
術式から帰還する。ぐらぐらと揺れる頭を押さえ、俺は通報のために携帯端末を取り出した。
術式反転・他我。範囲内の情報を取得する。対象を定め、その対象の情報のみを取得することも可能。最大効果範囲はおよそ1km。範囲を狭めるほど詳しい情報を取得することができ、最小効果範囲においては分子レベルの認識が可能。
ただし、この術式は情報を持ってきてくれるだけ。脳にぶち込まれた情報を意味のある形にするには、俺自身が術式が送り込む生の情報を自前の脳で解釈しなければならなかった。
「はい、場所は……」
人探しやもの探しならば、解釈の必要はそれほどない。ぶち込まれた情報から、ウォーリーを探せをするだけだ。問題は人間などの複雑な仕組みを認識し、その状態が示す意味を把握しようとする場合。雑多かつ膨大な情報は勿論インデクシングなんてされていないため、自分でパターンをつかみ取りデータの意味を読み取るしかない。それはランダムな数字の列から法則や公理を読み取ろうとする行為に似ており、俺の脳に負荷を与えた。
「はい、お願いします」
通話を切る。思わず、深くため息を吐いた。頭から出血している末那を見た時はひどく狼狽したが、取り敢えず最悪の事態だけは免れた。俺は安堵し、携帯端末を服の中にしまった。
「……!」
悪寒。第六感が告げたそれに逆らわず、横たわる末那を抱きかかえる。横に飛ぶと、凄まじい風圧が頬を叩いた。
ばきゃあ!と塀が崩れ落ちる。俺の耳に、ひゅんっ、ひゅんっ、と空気を切り裂く音が届いた。
鞭だ。鋼鉄の如き鞭が、俺と末那を襲い、延長線上にあったコンクリの塀を切り裂いたのだ。俺は末那を抱いたまま、攻撃してきた者を睨む。腕の中の少女を強く引き寄せた。
「あ~、ほんと。嫌になっちゃうよな~」
暗闇の中、皮肉気な声が聞こえてくる。ずりゅり、と鞭が動き、掃除機のコードみたいに引き戻されていった。
視線の先で、俺が脳漿をぶちまけさせたつぎはぎ顔の呪霊が、悪意に満ちた目で俺を睨んでいる。その頭部は完全に再生されていた。
「女がぶっ壊れだと思えば、駆け付けた人間もぶっ壊れかよ。インフレか?ゲームバランス狂ってるよ」
呪霊が苛立ったように言う。
はっきりとコミュニケーションの取れる呪霊。
間違いなく、特級に分類される呪霊だった。
(……くそっ、馬鹿か、俺は)
呪霊の襲撃。可能性の一つとして予期していた事態。しかし目の前の状況は俺の想定をはるかに上回っている。
特級呪霊。一級のその先に位置付けられた呪いの中の呪い。
直近で相対したのは五条さんに連れられた【なまはげ】。あの時は実際に戦っていないのに呪霊が発するプレッシャーだけで大いに精神をすり減らされた。
あれと同じ、特級に分類される呪霊が俺を敵とみなし、殺意のこもった眼で睨んでいる。呪霊は軽薄そうな笑みを浮かべてはいるが、その腹の中では闖入者たる俺に対しブチ切れていることが容易に分かった。
(俺も同じだよ)
抱きかかえた末那。その左足の付け根には、青黒い筋のような跡が残っている。強く握られたことによる、内出血の跡。目の前の呪霊が付けた跡だ。こいつはまるで物を扱うかのように末那の足を掴んでいた。だから初撃をぶちかます前にその腕を千切ってやったのだ。
怒り、不快、嫌悪。沸き上がった感情に身を浸す。呪霊が末那に何をしようとしていたのかは分からないが、碌でもないことなのは確実だろう。俺は冷静でいるように努めつつ、沸き上がった怒りを呪力にくべた。腹の奥底に溜まった負の感情が呪力となって俺の全身を浸していく。
「土御門阿頼耶。無下限呪術のない五条悟。義理の妹のために馳せ参じたってか?かっこいいねえ」
呪霊が言う。唇を歪め、憎々し気な表情だった。俺は眉を潜める。
呪霊の態度が不快だったから。ではなく。
呪霊が俺と末那を知っていることが不可解だったから。でもなく。
(無下限呪術のない五条悟ってなに!?どゆこと!?)
呪霊の放った言葉が純粋に衝撃的だったから、だ。
「無視かよ。お前ら土御門ってのは人の話を聞かないやつらの一族なのか?」
苛立ったような呪霊。放たれるプレッシャーが増す。しかし俺の脳内は先ほどの衝撃的な発言の方でいっぱいいっぱいだった。
無下限呪術のない五条悟。この呪霊は確かにそう言った。聞き間違いではない。と、思う。ちょっと待てよ。俺は臨戦態勢のまま頭の中を整理する。
俺はこの呪霊とは初対面のはずだ。こんなびっくり人間みたいなやつがいたら確実に覚えている。土御門、という単語が珍しい姓ではなく、一族の名前であると認識できているということは、何らかの呪詛師とつながっているということだろう。ソロの呪霊なら土御門をそれと認識することはできない。
呪詛師とつながりのある呪霊。
その呪霊が俺を認識して、無下限呪術のない五条悟と言った。
ということは。
(え、俺って呪詛師界隈でそんなふうに呼ばれてんの?やっだはずかしっ!)
俺にとってとても恥ずかしいことが起こっていることを意味していた。
やだ。いやだ。その呼ばれ方は非常にいやだ。誠に遺憾。まじ遺憾。よりによって五条さんと比べられて、その下位互換的に呼ばれるとか。いやまあ、俺が彼の下位互換なのはその通りだし、なんなら日本にいる全ての術師は彼の下位互換なんだけれども。それでも、その呼ばれ方は釈然としない。すごくしない。
だってなんかその呼ばれ方…………『術式以外は五条悟並の強さ』みたいに、勘違いされそうじゃん?
術式なしで五条さんと戦ったら、俺は死ぬ。呪力だけの戦闘でも、あの人は馬鹿みたいに強い。だからその勘違いされそうな呼び方はやめて、俺のことは『呪力の籠った路傍の石』程度の認識でいてくれないだろうか。
「スカウトに来といてなんだけど、お前らって別にいてもいなくてもいいんだよね」
呪霊が何かを吐き出した。枝のようなものだ。どこか不吉な雰囲気のそれを睨みながら、俺は末那を抱く腕に力を込めた。
「だから、死ねよ」
肉の弾丸。瞬き一つの間に、視界がぶよぶよした肉で埋め尽くされた。
「しっ」
民家の上に飛び乗り、肉の壁を回避する。動きを予見されたのか、着地と同時に鞭が飛んできた。
『術式反転・他我』
効果範囲:10m
対象:空間内の物体全て
髪の毛がはらりと落ちる。迫りくる鞭を、紙一重で回避していた。
『多重魂』
呪力が高まる気配。肉の壁で呪霊の姿は見えない。しかし術式が脳に叩き込む情報の中から、呪霊が枝のようなものを混ぜ合わせているのが分かった。
『撥体』
質量にものをいわせた、面での攻撃。
特級らしい理不尽な攻撃だ。
しかし。
「ふっ」
『他我』の指定範囲、俺を中心とした半径10m。
俺を中心とした、ということは。
当然、俺自身も、その中に含まれる。
迫る肉の壁。下にいる呪霊から上にいる俺に向けて放たれたそれに対し、俺は足を突き出した。
そっと。
階段を降りるかのように。
「は?」
俺の体が宙を舞う。急速に離れていく呪霊との距離。つぎはぎ顔の呆気にとられた表情を眺めながら、俺は『他我』の有効範囲を500mに拡張した。
呪霊が放った高速の肉の弾丸。点というよりは面でのそれに、俺はタイミングを合わせて足をかけ、
「っと」
途中、電柱や民家の縁を使い、角度を調整する。着地時の末那に与える衝撃を、少しでも弱めるために。
地面が近づいて来る。足を突き出すように前に出すと、浅い角度で地面と触れ、アスファルトの上を滑った。
背後を振り返る。『他我』が送る情報通り、誰もいない歩道が続いていた。
呪霊は逃走する俺と末那を追わなかった。旨みがないと感じたのか、それとも単に興が削がれたのか。どちらにせよ末那を抱えた状態であの呪霊を祓うことは不可能なので、俺は追撃がないことに一先ず安堵した。
「末那……」
腕の中の少女を見る。今だ意識はなく、その両目は閉じられている。美しい髪が血に染まり、湿った毛先がその頬に張り付いていた。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえてくる。俺は音のする方向に向けて歩き出した。
*
「有り得ない」
真人は遠ざかる男を見つめ、胸中に生じた思いを吐露した。
『多重魂・撥体』
複数の魂を混ぜ合わせ、その拒絶反応によって生じた勢いを使い、肉の壁を射出する技。点ではなく面での攻撃であるところや、射出の方向が直前まで読めない性質等を持つ、『無為転変』を極めた先の、いわば真人の奥義とも呼べるもの。
その奥義を、現在空中を舞い真人から遠ざかっていく男は、回避するでもなく、迎撃するでもなく、自身と自身の抱えた少女が加速するために、利用した。
真人はその瞬間を思い返す。
男の視界外から、撥体が迫りくる。角度的には確実に見えていないはず。しかし男はまるで知っていたかのように、ふいと足を振り出した。
そして男は、そう、まるで。
エスカレーターに乗るかのような気楽さで、迫りくる肉の壁に乗った。
遠ざかっていく男と少女。真人には彼らを追撃する意欲はなかった。
(ふざけやがって)
仮にここで追撃し、追いついたとしよう。執拗に攻撃を繰り返せば、二人の片割れ、末那を殺すことはできるかもしれない。しかし、末那を殺したその後、怒り狂う阿頼耶を正面から相手にし、確実に勝てるという自信が、真人にはなかった。
「無下限呪術のない五条悟、か」
真人はその呼び名が眉唾ではないことを、深い実感と共に理解した。
同時に、彼は己の中の殺意が確固たるものに変容していくのを感じていた。その殺意の確かさは、彼が虎杖悠仁に対して抱くものに匹敵するほどであった。
「土御門兄妹、お前らはいつか殺す」
誰もいない住宅地。暗闇に包まれた場所で、誰にともなく、真人は宣言する。今日接触した、今代の土御門一族。彼らは己が必ず殺す、と。
首を鳴らし、体の調子を確かめる。削られた魂は、裏切った内通者を処分しに行くまでには回復する。自身の消耗度合いを確かめると、真人は仲間が待つ拠点へと歩き始めた。
月の光が、その姿を青白く映し出している。しかし、その姿を見ることができる者は、今この場にはいなかった。
あいつ、領域使えんのかな。つかそもそも術式はなんだよ。真人はふと浮かんだ思考を巡らせながら、彼らとの次の戦闘のことを思った。
*
爽やかな風が頬を撫でた。
青々とした草の絨毯が、地平線の果てまで広がっている。
「ここは……」
呟き、辺りを見回す。見渡す限り草原が続いているだけで、それ以外、建物も、動物も、何も、ここにはなかった。
「あれ?」
ふと、それに気が付く。見渡す限りの草原。清涼とした空気の流れるその世界に、私が入っていないということに。
「境界……?」
足元を見る。草原は丁度、私の足元で終わっていた。私が足を立たせている場所には、草が一本も生えていない。首を回して後ろを見ると、私が立つ側は、土くれだらけの荒野だった。
「どこだろう、ここ……」
草原と荒野。対照的な二つの世界は、定規で線を引いたようにきっちりと分けられている。その境界ははるか彼方まで続いていた。
ここがどこなのか。分からないが、何となく、じっとしていたくなかった。歩いていれば何か分かるかもしれない。取り敢えず辺りを散策しようと決め、歩き出す。
足を上げ、振り降ろす。荒野の居心地が悪かったため、草原の方に入ろうと、二つの世界の境界をまたいだ。
「え?」
私は目を見開いた。草原の世界に踏み入れようと足を上げ、草のカーペットと足の裏が接触した、瞬間。
私の足は荒野を踏みしめていた。
「なにこれ」
私は足を振り上げ、再度草原に踏み入れる。しかし足の裏が草に触れた瞬間、私は草原の一歩手前で、荒野の世界を踏みしめていた。
何度境界をまたごうとしても、同じ結果になるだけ。私は草原の世界に足を踏み入れることができなかった。
「まだ無理だよ」
ふと、声が聞こえた。少女の声だ。私は声のした方向を見る。草原の世界から聞こえていた。
「君は善?それとも悪?」
声が言う。童女のような響きだった。
「どういう……」
私はその質問の趣旨がわからなかった。
善か、悪か。それは当人が決められることではない。私が善だと思って行動しても、悪だと思って行動しても、その行動の意味や意義が変わるわけではない。私は私の思うままに生きるだけであり、そこに、私は善だからこうしよう、とか、悪だからこうしよう、みたいな指針は、存在しなかった。
声は私の無理解を見てとったのか、質問を変えた。
「じゃあ、こうしよう。君は被害者?それとも加害者?」
「え」
その質問は、完全に意識外からの一撃だった。私は質問に動揺している自分がいることに気が付き、唇を噛んだ。
「加害者、被害者、どっちかな?」
声が言う。童女のような響きは変わらないが、真剣そうな響きが加わっていた。
「加害者か、被害者か……」
私は呟く。その二択は、妙に私の心をざわつかせた。
「それを決めたら、この世界も変わるよ」
声は言う。この声の主は、この世界の何を知っているのだろうかと私は思う。
確信的に言葉を投げつける声の主。姿の見えないその存在の正体は、一体誰なのか。ふと私は、草原の世界で、次々と土がめくれあがっていることに気が付いた。
同時に背後で、地面が割れる音が聞こえる。世界が、崩壊しかかっていた。
「荒野か、草原か。加害者か、被害者か、悪か善か」
薄れていく世界の輪郭。同時に私の意識も攪拌されていく。
けれども草原から聞こえる声だけは、はっきりと耳に届いた。
「決めるのは君だ」
世界が崩れる。意識が浮上する。
ほどけていく世界の中、ふと、誰かに呼ばれたような気がした。
*
目が覚めた。
病院の匂いだ。つんとくる匂いと、機械のような冷たい匂いが混ざり合った、独特の匂い。頭を動かすと、ごわごわとした感触が返ってきた。
(あれ……?)
目覚めた瞬間の体勢のまま、ぼんやりと宙を見つめる。何か夢を見ていたような気がするが、不思議と内容を思い出すことはできなかった。
(手……動く……足……動く)
もぞもぞと手足を動かし、伝わる感触と意識を繋げるようにして、感覚を確かめていく。
ふと、急激な喉の渇きを覚えた。
「えほっ、げほっ」
唾液を飲み込もうとして失敗し、盛大にむせる。そもそも口の中が乾ききっていた。
(誰か来るのを待つか……)
ぼんやりとした頭で、そう考える。
ふと、自分で人を呼べばいいのではないかと思い至った。
私はのろのろとした動作で布団をはがすと、手首を確認する。左腕に点滴の管が入っているが、右腕には何もなかった。
感覚的には起き上がれそうなのだが、下手に動くのが怖かったため、私は目覚めた時の体勢のまま、枕元を右手で探る。幾ばくも無いうちにナースコールを見つけた。
弱弱しい力でそれを押し込む。特に音は鳴らなかった。
「…………ふぁ」
そうして人を待っていると、ふと欠伸が漏れた。同時に、今は何時だろうと思い、時計を探す。
「あ」
病室内に視線を巡らせると、一人の男がいることに気が付いた。それまでは暗くて気が付かなかったが、パイプ椅子に座り、うなだれるようにして眠っている。
暗闇に目が慣れてくるにつれ、その人物の輪郭がはっきりしてきた。
阿頼耶だ。
阿頼耶が、病室の隅で、椅子に座って眠っていた。
かしゃん、と、病室の扉が開かれる音がした。次いで、ぱたぱたと足音が聞こえてくる。視線の先で、阿頼耶がびくりと身を跳ねさせ、目を覚ましたのが分かった。
「末那さん、意識ははっきりしていますか。この指が見えますか」
看護師の女性が語りかけてくる。私はそれらに頷きを返す。立ち上がった阿頼耶が、そんな私をじっと見つめていた。
*
「ええ、はい、自在に形を変え、鋭利な鞭のようなもので……」
病院の外。清潔感をイメージさせる外壁に背を預ける。信号機が鳴らすピヨピヨ音が、どこか遠くから聞こえてきた。
『つぎはぎ顔で、人型の呪霊……真人と呼ばれる特級呪霊ですね』
「まひと……」
伊地知さんが言った単語を反芻する。つぎはぎ顔の呪霊の名は、まひと。まひと、ま、ひと。
真人、か。
『術式の名は無為転変。人間の魂に触れ、その形を操ることで、肉体を変形させます。阿頼耶くんが見た、枝のようなものは……』
伊地知さんは言い淀む。俺は眉を潜めた。枝のようなもの。人間の魂を操り、肉体を変形させる術式。そして、肉の弾丸。それらから導かれる事実。
あの枝のようなものは。
「……ストックした人間、てことですか」
『……はい』
伊地知さんが肯定する。苦々しい声音だった。
(胸糞悪い)
後味の悪さが広がる。俺が回避し、逃走のために足蹴にした肉の壁。あれらはみんな、元人間だったということか。
(すみません)
両目を閉じ、黙祷を捧げる。呪霊に弄ばれ、最後は俺に足蹴にされた人たちへの、せめてもの弔いだった。
『彼と接敵し、逃走できたことは幸いでした。末那さんの容体は……』
「頭の手術が終わって、先ほど目を覚ましました。直ぐにまた眠りましたけど、命に別状はありません」
『よかった……』
ほっとしたように、伊地知さんは言う。
俺だけではなく、非術師である末那まで巻き込んでしまったことに、責任を感じているようだった。
「呪霊、真人は、俺と末那のことを知っていました」
そこで止め、続く言葉を、声を潜めて言った。
「情報が、洩れているのでしょうか」
真人は言った。『義理の妹のために馳せ参じたってか?』
加えてこうも言っていた。『お前ら土御門ってのは、人の話を聞かないやつらの一族なのか?』
『……誠意のない言葉だと思います。けれども、すみません』
言えない。
伊地知さんは、苦しそうにそう言った。
「……いえ、気にしないでください」
伊地知さんに対しそうは言ったが、俺の唇は強く噛み締められていた。
呪霊は確実に俺と末那を個人として認識し、襲い掛かってきた。辻斬り的な、突発的な襲撃ではない。それは帳が降ろされていたことからも明らかだ。
加えて、土御門は単に珍しい姓名ではないということすら、あの呪霊は知っていた。
それらが示す事実。
呪術界の上層部に、呪霊か呪詛師と通じている者がいる。
土御門の意味。それを知る者は少ない。安倍晴明が全人類にかけた呪いを、克服できた者たち。彼らのみが、土御門を名乗ることを許される。そしてそのことを認識するためには、土御門を名乗ることを許された者から、直接、あるいは間接に聞かなければならない。そこで許されるのは又聞きの又聞きまで。
御三家と呼ばれる術師の重鎮ほど、土御門を知る確率は高まる。
あるいは。
俺はもう一つの可能性を思い描く。
俺が高専に協力していることを疎ましく思う者が、当てつけのために末那を狙った。
苦々しい思いが胸を満たした。末那が襲われた原因は俺であり、土御門に引き取られたこと。ならばかつて彼女を苦しめた地獄は、今や命の危機すらもたらす、別の地獄に変わったということか。
『お気をつけて』
伊地知さんはそう言うと、通話を切った。何も聞こえなくなった携帯端末。耳に当てていたそれを持ったまま、俺はだらりと腕を下げた。
かつん、端末と壁がぶつかり、音を立てる。車のライトが項垂れる俺を照らした。
巻き込んではいけないと、思っていた。
そう思っていたのに、末那は今回、呪霊に襲われ、殺されかけた。
どれほど怖かっただろうか。
頭の裂傷だけではなく、肋骨には罅まで入っていた。恐らく、あの呪霊に吹き飛ばされた時に負ったものだろう。
加えて、頭部の裂傷は確実に跡が残るらしい。見えにくい場所とはいえ、末那の体には消えない傷が残ってしまった。
「くそっ!」
壁を叩く。ばき、と端末から嫌な音が聞こえた。
残ってしまった、じゃねえだろ。てめえのせいだろ、なあ、土御門阿頼耶。
お前が、どっちつかずの態度でいたから、だから末那を呪いから引き離すこともできず、彼女を守り切ることもできなかったんだろうが。
呪力が沸き立つ。自分自身への怒りによって燃え上がった呪力は、めらめらと俺の身を焼いた。
冷たい風が頬を撫でる。夏の終わりと、秋の訪れが近づいている。
誰もいない病院の裏。時折通り過ぎる車のライトに照らされて、アスファルトの隙間から生えた小さな花が、俺の目に映った。
力を抜き、沸き上がった呪力を霧散させる。青白いそれは燐光をまき散らし、ほどけて、消えた。
*
「経過は良好です。意識の混濁も、認知能力の低下も見られません。明日には退院できるでしょう」
病室。ベッドの上で身を起こす私に、ではなく、ベッドの脇に立っている小夜に対し、白衣の男が言った。
「本当に、ありがとうございます」
小夜が男に頭を下げる。私も軽く会釈しておいた。
男は人を安心させるような笑みを浮かべると、では、と言い残し、病室を出ていく。彼の残り香として、消毒液の匂いが鼻に届いた。
「体調はどう?末那ちゃん」
備え付けの椅子に上品に腰かけた小夜が、そう言う。その瞳は慈愛に満ちており、私は心が暖まるのを感じた。
「うん、大丈夫」
笑みを浮かべる。小夜はそうかい、と何度か頷くと、頭痛は?吐き気はない?と訊いてきた。
「大丈夫。なんともないよ」
小夜の瞳に目を合わせる。彼女は慈しむような手つきで、私の頭にそっと触れた。
彼女の手が、私の髪を撫でていく。手術のために剃られた部分に触れると、美容院、行こうね、と言った。
左側頭部の裂傷。頭蓋までは到達していなかったその傷は、既に抜糸を終え、塞がりつつある。痛みはあるが、我慢できないほどではない。むしろ本当に辛いのは、これから傷が塞がっていくにつれ、増していくであろう痒みの方だった。
「末那ちゃんは美人さんだから、どんな髪型でも似合いそうね」
小夜が言う。美人と言われることほど不快なことはないのだが、彼女のそれは私の心にするりと入り込み、暖かな気持ちにさせた。
「うん、美容師さんと、相談してみる」
私が言うと、小夜は「そうね、それがいいわ」と言い、穏やかな笑みを浮かべた。
本当は髪型なんてどうでもよかったが、不思議と、小夜が勧めるなら行ってみようと思えた。
「阿頼耶は……」
ふと私が、この場にいない同居人の名前を出すと、小夜はぱっと顔を輝かせた。
「下で飲み物を買って来るって。もうそろそろ着くと思うよ」
小夜が言う。その表情は晴れやかだった。
阿頼耶について話す時、小夜は嬉しそうにする。それは孫を愛しているからだと思っていたが、最近になって、私という新参者が同居人の阿頼耶と関わっていることが、小夜にとっては嬉しいのだということに気が付いた。
小夜と話していると、病室の扉が開かれる。ぺたぺたと足音がなり、ラフな格好の少年が姿を見せた。
「はい、祖母ちゃん、お茶」
ペットボトルを3本抱えた阿頼耶が、その内の1本を小夜に差し出した。小夜は「はい、ありがと」と言い、それを受け取る。阿頼耶はあいよと言うと、その細い指でもう1本のボトルをつかみ取った。
「これ、良かったら……」
言い、阿頼耶が私にペットボトルを差し出す。季節の変わり目、涼しくなってきた時分であるためか、オレンジ色のキャップだった。
「あ、どうも」
ボトルを受け取り、謝意を伝える。両手で包み込むようにして持つと、手のひらにじんわりと熱が伝わってきた。ちらりと阿頼耶の様子を窺うと、同じタイミングでこちらを見たのか、ベッドの脇に立っている彼と目が合った。
「…………」
「…………」
阿頼耶から、ではなく、私の方からふいと目を逸らした。手元のボトルに視線を落とす。妙なくすぐったさを覚えながら、キャップを開け、暖かいそれを一口含んだ。
今回の一件について、私は記憶を失ったことになっている。なっている、というか、目覚めた直後は実際に記憶を失っていた。数日して出来事の全貌を思い出したが、私は看護師や刑事たちに、あえてそれを言いだそうとは思わなかった。今思い出したのですが、私を襲ったのは黒い袈裟を着た似非仏教僧と、つぎはぎ顔の軽薄な男でして…………あ、つぎはぎ顔の方は”呪霊”といって、普通の人には見えないのですが__なんて、説明できるはずもない。小学生でももう少しましな話を作る。
それに、聴取に来た男の刑事に対して、「4足歩行の化け物を見た気がする」と言ったところ、彼は微妙な顔をした後で、私の頭に巻かれた包帯を見ると、何やら得心がいったように頷いた。男は去り際、どうかお大事にと言い残し、それ以来、私の聴取に来ることはなかった。どうやら、頭をぶつけたショックで妄想と現実の区別がつかなくなった、可哀そうな子だと思われたらしい。
そのため病院内の者や警察関係者からは、私は路上で襲われ、血を流して倒れていたところを、阿頼耶によって救い出されたことになっている。
ふと、私はその事実認識がそれほど間違っていないのではないかと思った。
私は袈裟を着た男が、『殺せ!』と叫んでいたことを思い返す。彼は真人とかいう霊__ではなく呪霊__に牙を剥こうとした私を、何の躊躇もなく殺せと指示した。元バイト先の気色の悪い男を、能力を見せるためだけに殺したような者たちが、片割れに牙を剥いた私を、殺さずに放置するだろうか。
私は思う。絶対にない、と。
ということは、私はあの時、確実に彼らに殺されるはずだった。なのに今、私は病院のベッドで身を起こし、小夜と雑談し、阿頼耶が買ってきたお茶を飲み、思考を巡らせることができている。
それはつまり。
(阿頼耶があいつらと戦って、私を連れて逃げた。ってことか)
私は阿頼耶をちらりと見る。彼は由美たちが置いて行ったお見舞いの品々を、なぜか興味深そうに眺めていた。
ぱっと見の彼の印象は、色が白く、やや童顔。線が細く、犬や猫すら殺せるようには見えない。
ただ、その細い体をよくよく見ると、何と言うべきか、妙に倒れなさそうな、丈夫そうな印象を抱いた。
(刃物とか通らなさそう)
私はその思い付きを否定した。流石に行き過ぎだ。刃物が通らないとしたら、それはもう、そういった種類の新しい人類だった。
(傷がない、足も引きずってない……戦って、勝った?)
阿頼耶の様子から、私は彼があいつらと戦い、勝利したのではないかと考える。隙を見て逃走した、ということも十分に考えられるが、私にとってそれは、戦って勝つことと価値としては同じようなものだった。
なぜなら私一人では、あそこから生きて帰ることすらままならなかったのだから。
『力』が有効とみるや、即座に服従から敵対に切り替えた。呪霊の方は良いところまで殺しかけたが、結局袈裟の男に暴力で負けた。
私は思う。あいつら二人と真正面からかち合って、私という荷物を抱えて逃げる。それはむしろ、戦って勝つことよりも、余程離れ業といえるのではないだろうか、と。
(強いんだ)
どこか抜けていそうな少年、今となっては命の恩人である少年についての認識を、私は改めた。
「退院したら食べたいものとか、あるかしら」
ふと思いついたように、小夜が言う。私はちらりと考えて、入院する前から食べたいと思っていたそれを口にした。
「初めて来たときの、お寿司が食べたいです」
小夜が笑みを深めた。由美が置いていった謎のキーホルダーを眺めていた阿頼耶も、くすりと笑う。邪気の籠っていない、暖かな笑みだった。
彼らの笑みを見て、私の中に沸き上がってきた思い。切なさにも似たそれは、暖かく私の心を照らしていた。
*
「ここか」
明大前駅、その周辺。何の変哲もない住宅地に、五条悟はいた。
「ほ~ん……」
時刻は夕方。下校中の小学生たちが「なにあれかっけえ!」「目隠し!目隠し!」と興奮し、五条の脇を通り過ぎていった。
「よいしょ」
五条はしゃがみ、アスファルトを注視する。ふと、目隠しを引き上げた。
「なるほどねぃ~」
青い瞳を輝かせる。秋めいた風が通り抜け、その白髪を揺らした。
確認すべきことが確認できたのか、五条は立ち上がる。下げていた目隠しを元に戻すと、どこかに向けて歩き始めた。
「阿頼耶には申し訳ないけどねえ」
足を振り出しながら、五条は言う。その口元に、軽薄そうな笑みはなかった。
「呪詛師 町田末那、いっちょ討伐といきますか」
五条は歩く。電線に止まっていた鳥が一斉に飛び立ち、ざわざわと羽音をまき散らした。
__少女が蒔いた種は、成長し、身をつけ、正義の目を引き。
__やがて、最強の青い目にすら映り込んだ。
__因果応報の歯車が、動き出そうとしていた。