人を呪わば恋せよ少女   作:緑髪のエレア

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引き摺り出される罪

 そよりと爽やかな風が通り抜け、髪の毛を揺らしていく。風に乗った香気を逃すまいと深く呼吸すると、思いがけない冷たさに少し驚いた。

 アスファルトの上で足を止め、空を仰ぐ。突き抜けるような快晴。筆を走らせたような薄い雲がちらほらと見えた。

 

 そういえば今朝のニュースでお天気お姉さんが言っていた気がする。なんでも今年は冷夏だったため、秋の訪れもその分早くなると。俺は夏が終わったことを理解し、止まっていた足を再度動かす。どこかの庭にでも植えてあるのか、ほのかに金木犀の香りがした。

 

「おはよ~」

「はよー」

「おっす」

「うぃっす」

 

 登校中の生徒たちは互いの顔を見つけると挨拶を交わす。一人の女子生徒が小走りで別な女子生徒に近づき、わっ!と声をかけた。驚かされた方はびくりと身を震わせ、声の主を把握すると「もう~」と小突く。その顔は笑顔だった。足を晒した彼女たちは今日寒くない?と気温の変化を確かめ合いながら校門を抜け、校舎へと歩いていく。ぼんやりとその光景を眺めていた俺も、のそっと足を振り出し、のそりのそりと校門へと歩いていった。

 

 登校中の生徒の波。祐天寺駅から日白高校へと歩く生徒たちで、歩道はごった返している。校舎へと歩く生徒たちの様子は様々だ。だるそうに足を振り出す者、友人とはしゃぎながら歩く者、地面を見つめながら黙々と歩く者。皆それぞれの面持ちで歩いている。髪型も雰囲気もばらばらな彼らの間に強いて共通点を探すのであれば、歩道を歩く彼らは全体的に浮ついていた。

 

「ね、明日ひまなつ公開だよ。見に行く?」

「行く行く~」

「あ、それ私も気になってた!」

「窪田くん主演でしょ?私も行く!」

「バルト9でいいよね?」

 

 ゆっくりと歩く女子の一団は映画に行く約束を取り付けている。今日を乗り越えれば明日は土曜日だ。歩きながら友人と会話している者たちは、彼女たちのように休みの予定について語らっている者が多かった。

 

(休みの予定か……)

 

 タイルを踏みしめ、校舎に入る。下駄箱から内履きを取り出しぽいと放る。靴を履き替えると、教室に向けて歩き出した。

 

(まあ、またボランティアかなあ)

 

 ぺたぺたとワックスの塗られた廊下を歩きながら、俺は休日の予定を思い浮かべる。ボランティア先のビル群が脳裏に広がっていた。

 

(精神操作の呪詛師、か)

 

 下駄箱の傍にあるドでかい鏡を通り過ぎ、階段へと向かう。朝練の後なのか、ジャージ姿の男子たちがそんな俺を追い越して行った。

 いつぞや五条さんから警告を受け、その後討伐作戦に招聘されることになった件の呪詛師。その討伐作戦は今もなお継続中だが、残念なことに成果はない。加えてここ数週間は呪詛師本人どころかその被害者すら一人も見つけられていなかった。

 

(こんだけやばい呪詛師…………どんな面してんだろ)

 

 悪辣な呪詛師。俺はその容貌を想像する。

 

 目元に隈を染みつかせ、ガンギまった目でナイフをぺろぺろ舐めるサイコキラー。

 目じりに笑い皺を刻んだ好々爺。

 フードを目深に被り無精ひげを生やした、小汚い中年。

 

 段々頭の中がむさ苦しくなってきたところで、ふとその姿がぱっと浮かぶ。

 

 ――――極度の男性嫌いを患っている、スーツ姿の女性。

 

(女性…………そうか、女性も有り得るのか)

 

 ふとした思い付き。けれどもこれまで排除していた可能性。俺はその可能性を頭の中で転がせた。

 もしも、件の呪詛師が女性だったら――

 

 階段を上りながら、俺は想像する。ほわんほわんほわーん、と、俺の脳内であらやくん劇場が開演された。主演は当然、絶賛追跡中の精神操作の呪詛師だ。

 

 ――赤いドレスに、耳にはピアス、足元は高めのヒールで、手には薄いハンドバック。ゴージャスな格好の彼女は夜な夜な都心に足を運び、人の多い繁華街を練り歩く。賑やかな通りを歩いていると、ふと彼女の嗜虐心をそそる人間が目についた。彼女はその男に近づくと、ただ一言『ついてこい』と言う。言われた男はぼんやりした顔で彼女の後を追い、路地裏に消えていく。

 ふと、女が路地に消える直前、その相貌が露わになった。ネオンに照らされて見えた顔、はっとするほど美しいその顔は、意外なことに殆ど化粧をしていない。素のままで十分に美しい女は、その茶色がかった髪を揺らしこちらを振り向く。彼女は俺の存在を認めると、その赤い唇を嗜虐的に歪め――

 

(…………なんで末那なんだよ)

 

 眉を顰めた。唇を噛み、それ以上の想像を打ち切る。俺は自分に対し舌打ちをした。

 

(なんで…………んなこと有り得ねえのに…………ああ、くそっ)

 

 頭を掻きむしりたい衝動を抑える。踊り場で男子生徒が語らっていた。彼らの横を通り過ぎ、階段を上り切る。どこからかブラバンの音が聞こえてきた。

 

 微かに届く楽器の音を聞きながら、俺は教室に向けて歩く。今しがたの想像を振り払うようにかぶりを振った。けれども脳裏には、ネオンに照らされて怪しく嗤う末那の姿が残像のようにこびりついていた。

 末那は非、術師だ。だからこの想像は有り得ない。なのに俺の頭の中では、彼女が呪詛師として術式を使い、無辜の人間を弄ぶ様子がはっきりと思い描かれていた。

 想像上の彼女は男から金銭を奪い、いらなくなった財布を路地に放る。彼女は男に顔を近づけると、その耳に呪詛を流し込んでいった。

 

『お前は豚だ』『時計を怖がれ』『食事で手を使うな』『虫に発情しろ』『ゲイになれ』『性器を認識できない』『苦しめ』『電車を見るととても悲しい』『舌を噛み切れ』『クライアントは糞野郎だ』『首を吊れ』『お前は鬱だ』『飛び降りろ』『この世の全てに絶望しろ』『自殺しろ』『生きる意味を失え』『死ね』――

 

 

 

 

 

 *

 

 

 チャイムが鳴った。国語教師の松浦は「ここテストに出るかんな、復習しとけよー」と野太い声で言い、チョークを置く。彼は手についた粉を払うと、開いていたテキストを閉じ、重ねる。教科書を始めとした数冊のテキストを分厚い手で持つと、ごつごつと足音を立て教室を出て行った。

 

(…………?)

 

 どでかい図体とがさつな振る舞い。それらの外見とは裏腹に繊細な授業を展開することに定評のある国語教師松浦が出て行くと、教室内は弛緩した空気に包まれる。気だるげにスマホをいじる者たち、数人で集まって昨日見た配信について語り合う者たち、グループ外の者には分からない暗号のような言葉で会話する者たち。彼らはそれぞれに領域を定め、その範囲内にいる者とだけコミュニケーションを取っていた。

 

(…………なんか……見られてる……?)

 

 そんな中、俺は心の中だけで首を捻る。どこかから見られているような気がした。

 

「……、…………」

「………………っ…」

「………………」

 

 視線を感じる方向。俺は顔を向けずにちらりとその方向を見やる。次いで何気ない動作でバッグから次の授業の教科書を取り出した。物理の教科書を机に置くと、頬杖を突き窓の外を眺める。窓枠に切り取られた住宅街が見えるが、俺の脳裏には先ほど見た光景が焼き付いていた。視線を感じた方向にちらりと目をやった時、一瞬だけ見えた光景。

 

 教室の隅、女子生徒たちが顔を寄せ、何やら会話している。彼女たちは俺の方をちらりと見ては、仲間内でひそひそと囁き合っていた。

 

(なるほど、モテ期か)

 

 女子、内緒話、ちらちらと向けられる視線。それらの要素から導かれる結論。それすなわちモテ期の到来。誰だってこれらの要素を並べられれば容易くその解答にたどり着くだろう。俺は気分が高揚したことを自覚した。っか~そっか~!!時代、俺に追いついちゃったか~!っべ~、どうしよ???

 

(…………なわけ)

 

 モテ期だわっしょいと舞い上がる自分自身に突っ込みを入れ、ため息を吐く。頬杖を突き窓の外を眺めた。多分だけど俺に視線を向けていた彼女たちの会話はこんな感じだ。

「あ、陰キャくんがいるよ~」

「ほんとだ~つかいつも一人だよね?友達いないのかな?かわいそ~~~」

「作んないのかな??」

「作れないんじゃね(笑)」

「ちょ(笑)ゆっこひど(笑)」

「でもそんな感じする(笑)」

「わかる(笑)」

「いっつも本読んでるよね(笑)」

「オタクじゃん(笑)」

「キモ(笑)」

「でもさ、意外とああいうタイプが大学でチャラくなったりして(笑)」

「陰キャオタク大学デビュー(笑)」

「でも友達はできない(笑)」

「高校で友達出来ないやつが大学でいきなり友達出来るわけないんだよなあ(笑)」

「(笑)」

「ぼっちくんドンマイ(笑)」

「でも大丈夫(笑)陰キャくんには二次元がある(笑)」

「俺の嫁ってやつ?キモ(笑)」

「ぼっちくんまじ妻帯者(笑)」

「幸せ者(笑)」

「一生童貞なんだろうなあ(笑)」

「いっしょうどうてい(笑)」

「やば(笑)お腹痛い(笑)」

「ゆっこ(笑)ひど(笑)」

「ぼっちくんにも人権あるし(笑)」

「え~~~(笑)でもそんな感じしない?(笑)」

「まあ分かる(笑)」

「Vtuberにスパチャしてそう(笑)」

「それ分かりみ深すぎ(笑)」

「それ絶対親の金(笑)」

「ちょ(笑)ぼっちくんニート(笑)クソニート(笑)」

「社会問題(笑)」

「陰キャコミュ障ニート親のすねかじり童貞ぼっちくんとか(笑)生ける社会問題の見本市(笑)」

「ちょ(笑)ゆっこギャグセン高杉(笑笑)」

「(爆笑)」

「(嘲笑)」

「(大爆笑)」

 

(…………おそらあおい)

 

 窓枠に切り取られた住宅街の向こう。鮮やかな空が広がっている。きらりと何かがよぎった。俺の涙だった。

 あ、鳥。

 

(妄想はおいといて………………妄想だよな?…………末那と噂になったのは、もうひと月以上前だし……)

 

 羽ばたく鳥を見ながら、俺は同居人の少女を思い浮かべる。俺自身が注目されるような出来事に心当たりはない。ならば俺ではなく美少女の方か、と視線の理由に当たりをつける。が。

 

(うーん)

 

 なんだかそちらも違う気がする。学校で彼女と接触したことはあの初邂逅以来一度もないのだから、噂話好きの彼女たちにしたって俺と末那を繋ぐ要素は何もないはずだった。

 

(まさか…………)

 

 目を見開く。あまりよろしくない可能性。俺はそれを胸中で言葉にする。

 

(一緒に住んでいることがばれた……?)

 

 まさかまさかの可能性。最悪中の最悪だった。

 

(もしそうだとしたら……………………いや、本当にそうか…………?)

 

 俺は再度首を捻る。どうもそれも違うような気がした。俺は何故そう思ったのか、自らの思考を探ってみる。

 冴えない男子と誰もが魅了される美少女が同棲。高校生活やってても中々ないゴシップだ。今の時代スマホを突っつけば娯楽には事欠かないが、とはいえ誰だって身近なスキャンダルには心惹かれる。俺たち高校生はいつだって異世界転生やテロリストやアルマゲドンを夢想し空想し妄想しているものなのだから。

 

 事件に憧れ、テロに憧れ、ここではないどこかに憧れて。そうして俺たちは退屈を紛らわせている。麻薬のようなコンテンツの奔流に身を浸らせて、現実から目を背けている。

 何故なら俺たちは皆、自分にスポットライトが当たっていないことに薄々気が付いているから。ライトを浴びられるのは生まれながらに特別な才能を持っている一握りの者たちか、彼らにたまたま近かった者たちだけなのだ。高校生になった俺たちはそれに気が付き始めている。

 

 そして多くの場合、俺たちはそのライトを無理矢理自分に向けさせるスキルも、家柄も、努力の積み重ねさえも持ってはいないのだった。

 

 自分がライトを浴びられないのなら、ならばせめてライトが当たった場所に群がりたい。群がって面白可笑しく楽しみたい。そうしてここに非、日常があるのだと。

 私たちは普通の高校生が体験できないことを体験できているのだと。

 僕の境遇は、環境は、生まれは、生活は、あの漫画に、あの小説に、あのアニメに、あの芸能人に、あのアイドルに、あの配信者に。少しだけ近いのだと、そう思いたい。

 つまるところ俺たちは皆、画面の向こう側にいる、魂の限り人生を謳歌している者たちを見て、自分は彼らと同じくらい人生を楽しめているのだと、そう思い込みたいのだった。

 

 恐らくは10代に特有の執念にも似た青い欲望。しかし、俺に視線を向ける彼女たちからも他のクラスメイトたちからも、それらは感じ取れなかった。

 

(じゃあ、なんだ…………?)

 

 美少女でないなら何なのか。俺は空を泳ぐ鳥を目で追いかけながら、視線の理由を再度考えた。

 

(…………通知?)

 

 ふと、スマホの震えに意識を引き戻される。画面を見ると、震えの回数から分かっていたがメッセージの通知だった。ロック画面に表示された短冊形のそれをタップすると、ぐいんと緑の画面がせり出してくる。

 

(え…………?)

『一つ、お聞きしたいことがあるのですが』

 

 画面に表示された簡素な文章。けれども俺はそのメッセージの送り主の名前を見た時、確かに自分の目が見開かれたのが分かった。

 

(末那から…………!?)

 

 画面上部に記された文字列。アカウント名を示すそこには、はっきりと「町田末那」と書かれてあった。

 予想だにしない、完全に意識の外から来た一撃。

 その一撃に何と返信すればいいのか。俺は返信欄で文字列を書いては消してを繰り返す。急速に頭を回転させながら、ああでもないこうでもないとスマホを突っついた。

 

『いつも昼食は教室で済ませていますか?』

 

 そうこうしている内に末那から次のメッセージが来る。速さ的に俺の返事を待つつもりはなかったようだ。俺は変に返答して会話のテンポを乱さなくてよかったと安堵した。

 

『というより、お弁当は昼休みに食べていますか?』

 

 ひゅぽん、と補足的な内容が送られてくる。俺はたどたどしい手つきで返信を入力した。

 

『昼休みはいつも教室にいます。弁当はその時食べています』

 

 送信ボタンを押すと瞬時に既読が付いた。数秒も経たず、次のメッセージが送られてくる。

 

『分かりました』

 

 了承の言葉。続きを待つが、数十秒経っても新しいメッセージは送られてこなかった。

 教室の扉が開かれ、白衣の中年男性が姿を見せる。席を立っていた生徒たちは教師の登場で席に戻り始めた。俺は時計をちらりと確認すると、まだ二限目の始まりまで余裕があることを確認する。握りしめていたスマホを机に置き、末那からのメッセージを待った。

 

「…………」

 

 秒針が一周し、二周目に入る。授業開始まであと半周というところになっても、俺のスマホは震えなかった。

 

(…………俺の昼休みの予定…………?)

 

 続くメッセージがないということは、末那の目的は達成されたということか。俺はスマホを持ち、末那とのやり取りを見返す。他人行儀な文章のやり取り。それらのやり取りから彼女の意図を読み取ろうとした。

 

(『教室で済ませていますか』……………………昼休みに俺がどこにいるかを知りたかった…………?)

 

 画面を睨み、むむむと頭を捻る。

 

(………………俺と鉢合わせたくないから?)

 

「教室にいるか」は、「教室以外にいるか」と読むこともできる。俺と会いたくないからその俺の動向を尋ねた。そう考えるのはしっくりくる気がした。

 良くも悪くも、俺は末那にとって身近な異性だ。身近、といっても今のところ物理的にと付くが、それでも彼女が日常において俺という異性を目にする頻度は高い。トラウマのフラッシュバック、あるいはPTSD。それらについての知識はないが、触れ合う頻度が高いからといってその人物に対してだけは耐性がつくような、そんな単純なものではないだろう。

 

(でも………………『弁当』か…………)

 

『というより、お弁当は昼休みに食べていますか?』

 補足的に送られてきたメッセージ。俺はそのメッセージに首を捻る。いつも昼休みは教室にいるのか?と訊いた後でこう訊くということは、末那にとって俺が昼に弁当を食べるかどうかが重要だということだろうか。

 

(………………分からん)

 

 頭をかき、窓の外を眺める。今度は鳥が二匹、番いのように仲良さげに空を飛んでいた。

 

 俺と鉢合わせたくないのならば、弁当をいつ食べるかと訊く必要はない。確かに食べている間は拘束されるので、その間は俺が昼食を摂っている場所にさえ末那が行かなければ俺と鉢合わせることもないが、その尋ね方には違和感が残る。どうしても俺と会いたくないのならば、昼休みという時間的に限定された振る舞いを尋ねるのではなく、俺が属している委員会とか部活動を尋ね、そこから俺がよく行くと考えられる場所をあらゆる時間帯において避けるのが、最も俺と出会う確率を減らせるのではないだろうか。

 

 そこまで考えたところで、授業開始を知らせるチャイムが鳴った。俺はスマホを仕舞い、教科書をぺらぺらとめくる。中年の教師が授業の進捗具合を確認し、今日の内容に入っていった。

 俺は漫然とそれを聞きながら、距離感の掴めない同居人のことを思う。それが俺と会いたくないからだったとしても、「メッセージを送ってもいい」程度には忌避されていないのかと思うと、少しだけ救われた気がした。

 

 

 *

 

 

『お昼休みに伺うので、席で待っていてもらえますか。私が行くまで、お弁当を机の上に出さないようにしておいてください』

 

 

 *

 

 

 チャイムが鳴り、教師がチョークを置く。教科書を確認し進み具合を確かめると、彼女は課題を告げて去っていった。

 生徒たちは課題の範囲を書き留めると、それぞれの行動に移る。購買に走る者、早弁したのかボールを持ち中庭へ行く者、机を動かし、友人と弁当を広げる者。彼らを横目に見ながら、俺も昼食を摂ろうと傍らのバッグに手を伸ばした。

 

 バッグに伸ばした手。ふと、その動作がぴたりと止まる。末那から送られてきていたメッセージがフラッシュバッグのように脳裏によぎった。別に忘れていたわけではないが、ついいつもの習慣で弁当箱に手が向いてしまった。

 

「どしたん、あらやん」

 

 隣の席の男子が不自然な体勢で固まった俺に声をかける。俺はバッグに伸ばしていた手を引っ込めると、ついさっきまで開いていた教科書をもう一度開いた。

 

「ああ、いや、ちょっと」

 

 歯切れの悪い返事をし、教科書の表面を撫でる。白い背景にゴシック体で公式が強調されていた。

 

「なんや、もう課題やってまうのか。ほんと真面目やなあ」

「ああ、まあ…………ね」

 

 もにょもにょと返事をし、俺はノートを開く。そのまま数式を書き連ねていった。えーっと、サインコサインタンジェント……すいへいりーべーぼくのふね……これは元素記号か。

 

「え?」

「お?」

「あれっ」

 

 そうしてノートに記号だか数式だかポエムだかわからないものを書き連ねていると、ふと教室がざわめく。抜き打ちテストを告げられた時のような、完全に虚を突かれた時のどよめき。俺は周囲から聞こえるそれらを努めて無視し、ただひたすらノートに向かってペンを動かした。

 

「なんだろ」

「用事?」

「委員会とか?」

 

 ざわめく教室。交わされる憶測の言葉に意識を向けないようにしながら、俺はひたすらに元素記号を書き連ねていく。

 えーっと、水35ℓ、炭素20kg、アンモニア4ℓ、石灰1.5kg、リン800g、塩分250g、硝石100g。イオウ80g、フッ素7.5g、鉄5g、ケイ素3g、その他少量の15の――

 

「あらやくん」

 

 ――元素ぅえあ?

 聞こえた声。それは透き通っていて、俺の耳にするりと入り込む。女性の声だ。教師で俺を「あらやくん」と呼ぶ者はいないので、この声は正確には俺と同じ高校生の少女のものだった。

 

 正直俺は、教室内がどよめいた時点でその声の主がここに来るであろうことは予見していた。一限目と二限目の間に送られてきていたメッセージ。その指示通り、俺は机の上に弁当を出していない。何のための指示なのかは分からないが、彼女なりに考えがあってのことなのだろうと思い、その理由を追及することはしなかった。あるいは聞けば彼女は教えてくれたのかもしれないが、今朝見た瞳が。怯えた表情が。俺に「訊く」という選択肢を採ることを躊躇させた。

 

 それは、「詰問するようになることが嫌だった」というわけではなく。

 結局のところ、彼女からどんな理由を聞かされようが。

 彼女の言う通りにするという選択肢以外を、俺が採ることはないのだから。

 だからまあ、別にいいか、と。俺は彼女に理由を問うことはなく、その不可思議な指示に唯々諾々と従うことを決めたのだった。

 そんなわけなので、教室内がざわついた瞬間、俺は何が起きているのかを理解した。誰が侵入ってきたのか、その人物は誰を目当てにしているのかを。

 そうしてその人物は俺の席の隣まで来た。数か月を共に暮らしているのだ、気配で分かる。そうして彼女は、俺にこう呼びかけた。

 

 あらやくん、と。

 

 その瞬間、俺を襲ったのは強烈な違和感だった。

 例えるならそれは――――動物の求愛。鳥がメスを呼ぶような、犬が寂し気に鳴くような。そんな、声をかけた対象に己の全部を預けてしまうような響き。そういう響きが、あらやくん、と、俺を呼ぶその声音に込められていた。

 

 拒絶でも無関心でも無遠慮でも諦観でもなく。

 己の価値全てを預けるような響き。

 端的に言って。

 その声は。その縋るような声音は。

 とてつもなく、甘かった。

 甘く、甘えた声だった。

 

「……………………ナンデショウ」

 

 出来の悪いAIみたいな口調で言いながら、俺はギギ、ギギギ、とロボットみたいな動きで振り向く。それはあるいは、恐る恐る、と言ってもよいのかもしれない。もしくはそれとも――――怖る怖る、とも。

 およそ甘い声への反応としては最も似つかわしくないであろう動作で、俺は声のした方向を振り向く。振り向いた先、手を伸ばせば触れられる距離に、その人物はいた。

 俺を呼んだ人物。俺をとんでもなく甘えた声で呼んだ人物。

 美しい少女だ。

 俺はその姿を見て、改めてそう思う。

 整った鼻筋、透き通るように白い肌、艶やかな唇。初めて見た時と変わらない、可憐で美しい少女。出会った時と変わったところがあるとすれば、少し髪が伸びたくらいか。

 彼女は制服に身を包み、その両手を体の後ろに回している。少し垂れ目な瞳を潤ませ、その表情に小さじ一杯ほどの不安を滲ませると、俺に対しこう言った。

 

「お昼ご飯は…………まだ、だよね?」

 

 瞳を潤ませ、更には少し不安げに、少女はこてん、と首を傾ける。可憐な仕草。人によってはあざといとも取れる仕草。しかし「あざとい」ということは、それだけ異性を惹きつける仕草であるともいえる。なぜならそれは、「この人に己を好きになってほしい」という心の現れだと解釈できるから。目の前の異性の関心を全て己に向けさせようとする意志。あるいは最愛の恋人の興味を何とかして引こうといういじらしい乙女心。純粋で健気で、でもはっきり好きだとは言えない、けれども自分のことはちゃんと見ていてほしい。そんな恋する乙女の純度百パーセントの「好きアピール」が、その仕草には込められていた。

 それを見て。

 その仕草を見て。

 意外なほど――――そう、それは本当に意外だったのだが――――少女から混じりけのない好意(のようなもの)を立て続けに向けられて。

 思わず抱きしめたくなるような少女に、そんな想いを向けられて。

 俺は。

 

 ――――鈍器で殴られたかのような衝撃を受けていた。

 

 くらくらする脳みそ。とんでもないインパクトを持ったその光景は、もはや物理的な衝撃を伴って俺の頭を揺らす。しかしこれは、この衝撃は、目の前の少女の可憐さにやられたからとかそういうことではなく、いやもしかしたらそれもあるのかもしれないが――――というかそっちの方が遥かに幸せなのかもしれないが――――そういうことでは多分全くなく。

 

 己の全てを預けるような声音。加えて自らの所持する武器を全て使って目の前の人物の気を引こうという純度百パーの乙女心。

 そんな感情を、美しい少女に。

 共に暮らしてはいるものの殆ど接点のない少女に。

 かつて俺をプリンタや冷蔵庫を見るのと同じ目で見ていた少女に。

 今日の朝怯えた目で俺を見ていた少女に。

 衆人環視の元で向けられるという状況は。

 ――――いったい、何を意味するのだろうか。

 

(怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い)

 

 完璧な少女のこの上なく可愛い仕草。首をこてんと傾け、さらさらな髪が頬にかかる様子はそれだけで雑誌の表紙を飾れそうなほど可憐で愛らしい。目の前の少女は可憐である。それもこの上なく。ここまでは俺も異論はない。空の上で五条さんもうんうんと頷いている。

 けれども、その腹の内も外見と同じように愛らしいか。正直、俺はそうは思えなかった。五条さんも首を横に振っている。その顔つきは神妙だった。殴りてえ。

 

「…………ウン、マダダヨ」

 

 俺は黎明期のAIみたいな口調で返答する。多分だけど今のAIの方がもうちょい高性能。しかし俺のそんなプログラム未満の感情しか込められていない返答を聞いた末那は、どういうわけか華やぐような笑みを浮かべた。怖い。

 

「じゃあ、あの…………これ」

 

 そうして、後ろ手に持っていたものをおずおずと俺に差し出す。その仕草に導かれるまま手元を見ると、そこには薄い水色の巾着が。箱のようなものが入ったそれを、彼女は白くしなやかな手でつまみ、俺に対して差し出していた。

 

「…………?」

 

 殆ど反射的にそれを受け取る。両手で持つと、巾着に包まれた輪郭がはっきりと手に伝わってきた。

 

(…………弁当?)

 

 祖母ちゃんが作った弁当。末那用に量が少なめになっているはずのそれは、しかし俺の手に妙にずっしりとその重みを伝えてきた。

 

「あ…………っと」

 

 末那が何かを言い淀む。胸にかかる髪をつまみ、視線を明後日の方向に向けた。

 俺は巾着を持ちながら、その可憐な仕草を見つめる。頭の中はもうしっちゃかめっちゃかだ。「何でこんなことするの…………?(泣)」という疑問から、「あびゃ~まなたんかわええんじゃあ~(泣)」という可憐さへの賛辞、そして「怖いって。あと怖い(泣)」という恐怖。渾然一体となった感情は試験管内の化学反応が収束するように一つの極致へと至る。「泣きたい(泣)」

 打たれ弱いことに定評のある俺は殆ど泣きながら末那を見る。俺が見つめる中で彼女はふと顔を上げると、そのぱっちりした目で俺のことを真っ向から見据えた。俺は彼女の瞳に自分の姿を発見する。黒く澄んだ虹彩に映し出された俺は、とても小さく矮小な存在に見えた。

 突き刺すような視線で俺を捉えながら、彼女は一歩、俺に向かって踏み出す。軽やかな動作だった。

 

(…………っ)

 

 直後、ふわり、と甘い匂いが鼻先を掠める。甘い、キャラメルのような匂いだ。俺はその甘さに覚えがあった。

 それは家でのこと。廊下を通った時、洗面所に入った時、夕食後に食器を片づけている時、帰宅し自室に向かうためリビングを横切り、その際ソファに座る末那の側を通り過ぎた時、そんな時。日常においてふとした瞬間に香る匂い。温度を伴った甘い匂い。

 末那の匂い。

 それが、末那が俺に対し一歩近づいたことで、はっきりと俺の嗅覚に訴えてきていた。

 

WTF(What the Fuck)!?)

 

 俺は混乱の極みにある頭で「何故」と問う。何故同じ柔軟剤を使っているはずなのにこんな匂いがするのだろうかと。女子だから?それとも美少女だから?多分一生かけても解き明かせないであろう謎を抱きながら、俺はその甘ったるい香りから逃れようと身を引いた。けれども椅子の上にいる俺にはハナから逃げ場なんてない。そんな動作で稼ぐことが出来たのはほんの数cmで。

 互いの体温が感じられるほどの至近距離。睫毛の本数すら数えられそうな距離で、彼女は内緒話をするように、けれども隣の人間や耳をそばだてている人間には聞こえるくらいの声で言う。

 

「…………卵焼きの感想、教えてくださいね」

 

 ぽしょり、と。告げられた言葉は、やっぱり甘くて。彼女は呆然とする俺に少しだけ笑った。身を離す時、彼女の髪が俺の頬をくすぐる。ぞわりとした感覚。俺の総身が震える。恐怖と混ぜ合わされたその震えは、しかしほんの少しだけ快感のようでもあった。

 詰めた時と逆の動きで一歩下がった彼女はくるりと後ろを振り返り、教室の扉へと歩いていく。モーゼが海を割るように彼女の進行方向にいる生徒たちが彼女を避けていった。

 

「…………っ」

「…………♪」

 

 教室を出る直前、彼女は振り向き、ひらひらと手を振る。それが誰に向けて振られたものなのか。俺を含め、分からない人間は少なくともこの教室内にはいなかった。

 

「………………」

「………………」

「………………」

 

 水を打ったような静寂が教室内に降りていた。隣のクラスの喧騒が廊下越しに聞こえてくる。時折笑い声が差し込まれ、それが滑稽な己を嗤っているように思えてしまった。

 凄まじい空気の中、俺は渡されてからずっと手の中にあった水色の巾着に視線を落とす。弁当。弁当だ。俺はここに来て漸く末那の指示の意味を完全に理解していた。

 人を殺せるんじゃないかってくらいに突き刺さる視線の中、俺は手の中の弁当を机の上に乗せる。爆弾処理みたいな手つきでそっと巾着から取り出した。

 檸檬を爆弾にして雑貨屋を吹き飛ばす文豪は教科書にいるが、弁当を核弾頭にして同居人を蒸発させる女子高生がいたとは。事実は小説より奇なりというのは、間違っていなかったようだった。

 

「…………いただきます」

 

 途方もなく益体もないことを考えながら(あるいはそれは現実逃避なのかもしれない)ちっっっさい声で言い、弁当を開く。几帳面に食材が詰め込まれた弁当箱には、確かに卵焼きが入っていた。俺は箸のケースを開き、水色のそれを取り出す。末那用の箸は俺のものよりも少し小さく、俺は掴んだ卵焼きを取り落としてしまった。

 

 

 

 *

 

 

 チャイムが鳴った。本日最後の授業、その終了を示すチャイム。俺はバッグを持って飛び出そうとし、ふと立ち上がりかけた体に急ブレーキをかけた。まだHRが終わっていない。この学校は私服登校が許されるくらいには自由だが、サボりに関しては厳しかった。てかアニメのキャラクターが皆サボりすぎ。

 

「おい~すHR始めんぞ~」

 

 担任が教室に入ってくる。彼女は教室内をざっと見渡して何も異常がないことを確認すると、「校舎の裏で覆面の不審者が出没したので気をつけるよーに」と言い残し、そのままふらりと去って行った。彼女が教室から出て行った瞬間、がたがたと椅子を引く音が鳴り響く。清掃のため、全員教室の片側に机を移動させにかかった。

 幸い、俺の席は机を移動させる側である教卓に近い。俺はぱぱっと机を移動させると、通学用のバッグを手に取った。

 

(っしゃ帰ろう今すぐに)

 

 そうして今度こそ迅速な帰宅のために一歩を踏み出す。俺を邪魔できる者は誰もいなかった。

 雷の呼吸一の型、霹靂いっせ――――

 

「なあ」

「おい」

「ねえ」

 

 ――――ん?踏み出そうとした俺の目の前に、いつの間にか3人の男子生徒が立ち塞がっていた。なにこれ強制イベント?

 通り道を塞いだ彼ら。その風貌はそれぞれ異なる。一人は生徒会長っぽいしっかり者タイプ。もう一人はいがぐり頭の体格のいい野球部タイプ。そして最後に正統派の爽やかイケメン。彼らは教卓の後ろを通り過ぎようとした俺の前に、瞬きする間に現れていた。瞬歩?

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

 事前に打ち合わせをしたわけではないのか、彼らは俺の目の前で何やらやり取りを行う。数秒して合意が採れたのか、一人の男子生徒が口を開いた。いがぐり頭の野球部タイプ。3人の中で一番強そうなやつだった。

 

「あらやくん?ってさ」

 

 彼は俺の名前を呼ぶ際、語尾にクエスチョンマークを付けて言った。多分俺の名前が分からないので、昼休みに末那が呼んだ名前をそのまま言ったのだろう。二言目には「押忍!」とか言いそうな彼にくん付で呼ばれるのは絶望的な違和感があった。

 

「――――町田さんと、どういう関係なの?」

 

 そう言うと、彼は俺を見下ろした。彼の両隣に控えている二人も、同じような目で俺を見る。彼らの瞳は真剣を通り越してもはや攻撃的ですらあった。野球部っぽい彼も言葉こそ友好的だがその口調と態度には有無を言わさぬ響きがある。俺は心の中で「まま~~~!」と泣き叫んだ。

 

「……………………ああ、えっと」

 

 シリアスな瞳から逃れるように視線を降ろし、頬を掻く。どこともつかない場所を眺めた。

 昼休みのあれがあってから、一応俺はこういう者たちが現れるであろうことは予想していた。それはつまり、俺と末那の関係を詮索する者たち。そういう者に捕まらないよう手早く帰宅しようと思っていたのだが、どうやら俺は彼らの執念を甘く見ていたようだった。いや、俺が甘く見ていたのは町田末那という少女が持つ怪しげで退廃的なファムファタル的魅力のほうか。

 教卓の後ろ、放課して間もない教室で、俺を見下ろす3人の男子生徒たち。彼らの瞳には見下ろす俺を嘲るような色があった。

 問いかけたのにも関わらず何も言わない俺にしびれを切らしたのだろうか。生徒会長タイプの男子が苛立ったように口を開いた。

 

「だんまりかい?もういい。この際だからはっきり聞こうか。有り得ないことだと承知してはいるが、念のためだ。あらやくん。君は町田さんと――――交際しているのかい?」

 

 言い、彼はくい、と眉を上げる。目の前の人間を自分よりも下の者だと疑っていない態度だった。

 

(うわあああああああああああああ)

 

 俺は苦虫を噛み潰した顔になるのをぎりぎりのところで堪えた。正直3人にそれぞれ呪力パンチをお見舞いしてやりたかったが、ほのぼのした教室に頭部を失った遺体を3つ作り出すことになるのでやめておく。明日の朝刊を彩る意欲はそれほどなかった。

 

「…………末那が望めば、直ぐにそうなると思う」

「彼女が望めば?っは、そんなの答えになってな…………え?」

 

 しばし思考し、俺はそう言った。茫洋とした答え。というかそりゃ誰だってそうだろうよという俺の回答に、案の定生徒会長が苦言を漏らす。しかし俺がさりげなく言ったことに気を取られたのか、彼はその切れ長の瞳を見開いた。

 

「じゃ!」

 

 同じく、俺の回答に驚いている野球部タイプとイケメンを尻目に、俺は教室の出口に向かう。下の名前を呼び捨てで呼んだだけでここまで驚かれるとかどんだけ男子と関わりないんだろうかと末那の交友関係の徹底具合にちょっと引いたが、そんな思考はぶん投げた。後ろから何か聞こえた気がするが全て無視し、廊下に出る。廊下は帰宅する生徒でごった返していた。ふはは、このように人の多い廊下ではやつらも大きな態度は取れまい。俺は通行する生徒とぶつからないよう小走りに切り替え、一目散に下駄箱へと向かった。

 

(早く、早く帰るんだっ!一刻も早く安全な場所へ――――早く――――)

 

 せかせかと足を動かす。後ろから「おい!」「逃げんな!」「チョ待てよ!」と苛立った声が聞こえてきた。一人ふざけてない?

 

(あばよ~~~とっつぁ~~)

 

「あ、あらやくん」

 

(~~~ん?)

 

 ルパンの気分で逃走していたのもつかの間、俺はギギ、と硬直し足を止めた。教室を出てからまだ数歩しか歩いていない。それは俺を呼んだ少女が隣のクラスに所属している都合、至極必然のことだった。

 教室の出口からほど近い場所。隣の教室の入り口に、末那は立っていた。

 立って、その手をふりふり振っていた。廊下に立つ、俺に向けて。

 

「あ、お、おう」

 

 たった一言で帰宅を熱望する俺を引き留めた彼女は、引きつる俺の表情筋を見てくすりと笑う。なんか怪しい笑みだった。例えるならそれは、お気に入りの玩具を見つけた時のような、あるいは隠れている猫を探し当てた時のような笑み。無邪気ではあるのだがその笑みを人に対して向けているあたりがなんかもう蠱惑的だった。だから怖いって。

 

「ふふ、『おう』」

 

 彼女は笑みを含ませ、俺の口調を真似る。その仕草と声音は普通の高校生のものだった。可愛い(錯乱)

 彼女は廊下で立ち尽くす俺を「邪魔になっちゃうよ」と隅に誘導し、自分も教室の出口を開けるように移動する。ふと何かに躓いたのか、彼女はととっ、とステップを踏むように体勢を崩した。その手が体を支えるものを探し、近くにあった俺のブレザーの胸元を掴んだ。

 

 見かけの動作よりも意外と強い衝撃に、俺の体が揺れる。けれどもいくら勢いがあっても、体重の軽い末那を術師である俺が支えきれないはずもない。ブレザーを掴んだ末那は俺が体勢を崩さないと知ると、一瞬あれ?という顔をした。

 

「…………っ」

 

 ぐい、とブレザーが引っ張られ、体勢が前に傾く。なんで!?と思う間もなく、俺は彼女の髪の毛に思いきり顔を突っ込ませる。息を止める暇も心の準備もなかったため、俺はキャラメルのような甘い匂いを盛大に吸い込んでしまった。

 

「…………駅まで歩きます。詳しい話は家で」

 

 身を硬直させる俺に対し、彼女は耳元で素早く、かつ囁くような声音で言うと、ぱっと身を離した。そのまま目を泳がせ、ぱたぱたと手を振る。ブレザーを掴んだ手で自身の髪を梳き、あはは、と今あったことを誤魔化すように笑った。その仕草がどこからどう見ても「男子と急に接近して恥じらう乙女」にしか見えなくて、俺は今しがた耳元で業務連絡みたいな指示を冷たい声で囁いた者と、目の前の少女が本当に同一人物なのか疑わしく思った。

 

(…………女はみんな女優、か)

 

 遠い目をしながらつくづく演技力の高い末那に感嘆する。ハリウッドどころかボリウッドまで狙えそうだった。なんでだよ踊んのかよ。

 

「あのさ………………この後予定とか、ある、かな」

 

 言い、末那はちらりと上目遣いで俺を見る。乙女チックな仕草。しかしその裏に「分かってるよな」という圧がある。俺は(そこからやんの!?)と驚き、かつさっきの男子生徒たちとは比べ物にならない程の圧に肝を冷やしながら、首を横に振った。

 

「いや、ないよ」

 

 俺が言うと、末那はぱっとその表情を輝かせた。

 

「じゃあ…………」

 

 そうして何かを期待した目で俺を見る。そのまっすぐな眼差しに射抜かれた俺は、「分かっておりますとも」と頷いた。ええ、ええ。全て分かっておりますとも。このやり取りも全て、周囲に聞かせるための――――いわばパフォーマンスだと。

 

「…………」

「…………」

 

 廊下には人が多い。そのため隣り合って進むことはできない。俺と末那は前後に分かれて下駄箱へと向かった。

 

「………………おいあれ」

「………………え?どれ?」

「……………………一緒に帰るのかな」

「……………………たまたま並んでるだけだろ?」

「ばっかちげえよ………………あの隣のはあらやっつって………………」

「……………………は?まじ?」

「それどこ情報?どこ情報?」

 

 生徒たちでごった返す廊下を歩く。ちらほらと俺と末那を見て噂する声が聞こえた気がしたが努めて意識から排除した。

 下駄箱に着き、靴を履き替える。校舎を出ると、人の波ができている。駅まで続く生徒の群れ。俺と末那はどちらからともなく足を振り出し、駅へと歩き始めた。

 

「…………あらやくんは」

 

 生徒が作る波に乗っかっていると、ふと末那が口を開く。

 

「趣味とか、あるんですか」

 

 一瞬何を言われたのか分からず、俺は傍らの末那を振り向く。彼女は生徒の波に沿って歩きながら、顔をこちらに向けていた。

 

「ああ、うん。読書とか…………」

 

 彼女の問いかけに応えながら、俺は自分の顔が引きつっていないか心配になっていた。

 

「読書!いいですね。私あんまり本とか読まなくて」

 

 俺の陳腐な回答に対して末那は朗らかに相槌を打つと、その話題を広げていく。

 

「どんな本を読むんですか?」

「…………まあ、普通に。太宰とか、夏目漱石とか……」

「夏目漱石かあ……私、『こころ』以外読んだことないです」

「ああ、俺も『こころ』から読み始めて…………教科書のやつ」

「ああ、あれ。遺書の部分ですよね、教科書に載っているのは。私のクラス、そろそろ終わりそうなんですけど…………あらやくんのクラスはどうですか?」

「俺のクラスはまだ終わらないかな…………今は「魔法棒のために一度に化石された~」ってところだから、まだ2,3回はやると思う」

 

 授業の内容を思い出し、そう答える。末那は記憶をさらうように指先でこめかみに触れた。

 

「Kがお嬢さんへの恋心を先生に告白するところですね。あのあたりはすごく重苦しい感じがしました」

「確かに………………記憶力いいね」

 

 末那が俺の言った僅かなフレーズからどの場面かを言い当てたので、俺は彼女の記憶力の良さを称賛する。ふと、真面目に授業を聞いていれば今の末那くらいのことは当然にやってのけるのだろうかと思ったが、別にどうでもいいやと投げ捨てた。

 

「…………ありがとうございます」

 

 俺の言葉に末那は驚いたように目を見開いたが、数秒して顔を背け、前を向く。賛辞への礼の言葉は常よりも固く、他人行儀な響きがより強かった。

 

「…………あらやくんは、『こころ』の中で好きな言葉やシーンはありますか?」

 

 そのまま10mほど歩いたところで、再度末那が口火を切る。俺はちらりと脳裏の記憶棚を探った。

 

「そうだな…………陳腐かもしれないけど、やっぱあれかな」

 

 商店街が見えてきた。あれを抜ければ駅はすぐそこだ。寄り道しているのか、それとも道幅が広くなったためか、通りを歩く生徒の波は少しだけ薄くなっている。どこまでこの演技を続ければいいのかは分からないが、生徒の眼がなくなるまでやるのだとしたら、一先ず駅が区切りになりそうだった。

 

「先生が「私」に言った…………『鋳型に入れたような悪人は世の中にいない』ってところ。………………えっと確か、『鋳型に入れたような悪人は世の中にいませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくとも普通の人間なんです。それがいざという時に、急に悪人になるから怖いんです。だから油断ができないんです』………………かな」

 

 商店街に入る。制服姿の高校生だけではなくスーツ姿のサラリーマンや私服姿の大学生らしき者たちも周囲の人いきれに混じり始める。東横線沿いに多いカルディコーヒーの脇を通ると、視線の先に祐天寺駅の看板が見えた。

 

「細かい部分は違うけど…………多分こんな感じの言葉。それが一番心に残ってるかな」

 

 コーヒーの香り。香ばしいそれに金木犀の匂いが混じり驚く。街路樹にはなかったから、やはり住宅のどこかに植えてあるのだろうか。

 

「鋳型に入れたような悪人…………」

 

 末那が呟く。その横顔は物思いに耽るようだった。なんとなく、末那は漱石の『こころ』以外の作品も読んだことがあるのだろうな、とこの時思った。

 

「どうして、そう思うんですか」

「え」

「あらやくんは…………どうして、その言葉が好きなんですか」

 

 そう問いかける末那は真剣そのもので。これが演技ではないことが分かった。

 

「そう、だな」

 

『こころ』の中で、何故その部分が好きなのか。惹かれたことを覚えていたとしても、その理由をはっきりと言語化したことはなかったことに気が付く。俺は自身の心の内側を探った。

 

「…………俺も、そう思うから」

「…………」

 

 子供じみた回答だと、我ながら思う。けれどもどれだけ頭の中を探っても、それ以上の言葉は出てこなかった。

 

「鋳型に入れたような悪人はいない…………俺はそれを、生まれながらの悪人はいないって解釈したい。それは、えっと…………つまりは…………どれだけ教育を受けても、どれだけ愛に触れても、善を知ることができない人間なんて、この世には一人も存在しない…………そう考えたい、ってこと。結論ありきの解釈だけど…………こんな考え方は、「先生」の言葉の本質を失わせてしまうのかもしれないけれど…………でも、理想主義でもなんでもいいから、俺はそう思いたい。だから、そう解釈したい。それが、この言葉に惹かれる理由だと思う」

「…………」

 

 末那はしばらく黙っていた。何を考えているのか、その頭の中にどんな思考が渦巻いているのか、俺には分からない。けれどもその姿に、俺の言ったことを真剣に咀嚼してくれている横顔に、俺は彼女の誠実な心の現れを感じた。

 

 そして、それだけで十分だった。

 

「…………ああ、あと」

「…………?」

 

 末那の様子を見ていてふと思ったことがあり、俺は口を開く。それはいわば俺の原点とも言うべきもの。俺がボランティアで呪霊を狩り、高専の手伝いをするようになったきっかけの出来事。

 それがあった後、俺は『こころ』の一節に救われたのだ。ならば今ここでそれを語るべきではないのか。先の彼女の問いかけに誠実に応えるのならば、むしろその出来事をこそ語るべきではないのか。

 

「どうしても、忘れられない人がいて」

 

 絞り出すようにそう言った。言ってから己の声の震えに気が付いた。誰にも語ってこなかったつけだろう。それを言語化し他人に告げることそのものに対し強いショックを感じていた。

 

「その人が…………」

 

 ショックを押し殺し、俺が言葉を続けようとした時、ふと、末那の表情が硬くなっていることに気が付いた。

 

(あ、)

 

 遅れてその意味に気が付く。昼休みのこと、そしてこの通学路。末那の目的は判然としないが、それが“自分には親密な仲の異性がいる”と周囲に知らしめることであるとは、何となく理解している。

 なのに。密度は低くなったとはいえ同じ高校の生徒たちがいる場所で。

 異性役の俺が“忘れられない人がいる”なんて言うことは。

 どう考えても、彼女の目的と乖離していた。

 

「…………ごめん、何でもない」

「…………」

 

 謝罪する俺に、末那は何も言わなかった。その横顔からは俺の言葉を真剣に咀嚼しようとする色は消え失せ、作り物のような無表情があるだけだった。

 俺は「はは、」と乾いた笑いを漏らし、

 

「ごめん、つまんなかったよね。()()()()は――――」

 

 毒にも薬にもならないような世間話をしようとした時、ふと末那が前を向いたまま言った。

 

「いえ、興味深かったですよ」

 

 そう言う彼女の口調は、業務的なもので。それは今日行った彼女とのやり取りの中で、最も冷たく、突き放した声音だった。

 

 

 *

 

 

 雑居ビルの屋上。コンクリートの外壁にもたれかかりながら、猪野琢真は目の前の光景に舌打ちした。傍らには一級術師の七海健人が彼と同じように眼下の光景を眺めている。七海は猪野のように舌打ちをすることはなかった。

 

「どんな神経してんだか…………」

 

 言い、猪野は不快感を示すように首をこきりと鳴らす。彼はビルの屋上から見える光景に生理的な嫌悪感すら抱いていた。

 

「呪詛師町田末那…………最重要討伐対象…………」

 

 猪野と七海、そしてここにはいないが冥冥。計3名は、精神操作の呪詛師こと、町田末那を監視していた。

 監視対象は学校から駅に向けて歩いている。彼らの目に当該監視対象は男子生徒と仲睦まじげに歩いているように見えた。

 それを見て、猪野は眉を顰める。額にかけた覆面の中に指を入れ、額を掻いた。

 

「確か――――」

 

 猪野の声はビルの屋上に止まる烏を通じて冥冥の耳にも入っている。彼はそれを特に意識せずに言った。

 

「明後日の討伐作戦。いきなり攻撃じゃなくて、先ずは対話から入るんでしたよね」

 

 言い、彼は足元のコンクリートを靴の裏で擦る。

 

「即時殺害でいいと思いますけどね」

『――――それは無理だよ。猪野琢真くん。なんせ上が決めたことだ。私たちはそれに従う義務がある。プロとしてね』

「ええ――――プロとして、オーダーには従う義務があります。分からない貴方ではないでしょう」

 

 電話口から冥冥が。傍らに立つ七海からは直接、猪野の発言を窘める言葉がかけられる。猪野は「俺だってそんくらい分かってますよ」と言い、

 

「でも…………プロである前に………………いや、呪術師である前に。一人の人間として、彼女は生かしておくべきじゃないと思っただけです」

『……………………』

「……………………」

 

 猪野の言葉に、二人の一級術師は返答しなかった。その沈黙が、二人が猪野の言葉に真っ向から反対しているわけではないことを暗に示していた。

 呪詛師 町田末那。

 彼女は殺されても仕方がない。その犯した罪によって。少なくとも猪野は、猪野の心は、彼女の行いに対してそのような印象を抱いていた。

 

『…………呪術師は人材不足。呪いを祓う手は常に足りていない。多少のやんちゃには目を瞑る。上は割と真っ当な判断をしたと思うよ』

 

 冥冥が通話越しに意見を述べた。次いで七海も口を開く。

 

「…………そうですね。被害に遭った方々は皆男性。命に関わる後遺症もない。加えてプロファイラーは彼女が女性を標的にしたことはないだろうと結論付けている。彼女の母親と、育った環境…………そして実の従兄から受けた性的な嫌がらせ。それらによって産まれさせられた怪物。いわば彼女は環境の被害者とも言えます。何故悪に至ったのかを考慮せずに罪を論じるのは危険ですよ。猪野くん」

「………………はい」

 

 七海の整然とした物言いに猪野は不承不承頷く。そもそも上からの命令なので、猪野一人がごねたところでどうにもならない。それは猪野も分かっている。彼は高専がまとめ上げた被害者の情報も、高専が雇っているプロファイラーの分析にも目を通した。プロファイラーたる彼らの結論は、当該呪詛師はその精神性において多少の難はあるが、致命的な良心の欠如までは見られない。したがって殺人を犯した可能性は低く、女性を標的にした可能性は更に低い。

 それを踏まえた上で、彼女の対処としてまずはスカウト――――勧誘から入るというのが、最終的に上層部によって決定された事項だった。

 

 しかし。

 

(同級生の女の子をあんなふうにした後で、同居人の男子とラブコメできるって…………)

 

 その精神性が、兎にも角にも気持ち悪ぃ。それが猪野琢真の偽らざる本音だった。

 

「………………そういえば、勧誘には誰が行くんすか?」

 

 ふとした疑問。猪野はそれを二人に尋ねる。

 

「五条さんですよ」

「まじか」

 

 簡潔に言う七海。それに対し猪野は少なくない驚愕の念を抱いていた。

 それだけ上も警戒しているということか。いや、彼女がそれほど有用だということか?

 五条悟の派遣について、猪野はその意図を思案する。彼が実行に当たるのならば、事態がどう転がるにせよ少なくとも犠牲者が出るようなことは避けられそうだった。

 

(哀れ…………少年…………何も知らずに)

 

 猪野は監視対象の隣にいる同居人の少年に同情の念を抱いた。討伐作戦に参加している彼が、その討伐対象が隣にいて、しかも数か月共に暮らしていたと知ったら…………果たして彼は、そのことに対してどう思い、どう感じるだろうか。

 

(…………伊地知さんは今日の夜伝えるって言ってたけど………………いや待てよ。もしかしたら、全部を知ったあの少年が、()()()()()()()()()()()()()()()()…………!)

 

 猪野は少年が少女を手にかけることを危惧したが、それに気を配るのは己の仕事ではないし、自分に思いつく危険を上層部や有能な伊地知が思いつかないはずもないかと、その心配を打ちやった。

 

 

 

 *

 

 

 豊かな香気が漂っていた。ナッツとチョコレートを合わせたところに、一筋のほろ苦さを加えたような香り。素晴らしいフレグランスだ。俺は陶然とした心持で深く呼吸する。目を閉じれば、産地であるグアテマラの農園がどこまでも広がっていた。

 

「コロンビアコーヒー…………そもそもコーヒーって銘柄があるんですね」

 

 ……………………豊かな香気が漂っていた。ナッツとチョコレートを合わせたところに、一筋のほろ苦さを加えたような香り。素晴らしいフレグランスだ。俺は陶然とした心持で深く呼吸する。目を閉じれば、産地であるコロンビアの農園がどこまでも広がっていた。

 ちなみに、想像上の農園はさっき想像したものと寸分違わず同じである。地図帳以外で農園とか見たことがなかった。

 ヤカンを置き、フィルターを取り外す。抽出を終えたそれは水分を含み、もったりと重くなっていた。

 

「まあ、俺もよく分からないんだが…………祖母ちゃん曰く、これが一番飲みやすいらしい」

 

 手早くフィルターを捨てると、ポッドを手に取る。琥珀色の液体が揺れていた。

 末那は豆の入った袋を置くと、キッチンの端にもたれかかり、俺の手元を見る。俺はボッドを傾け、カップにコーヒーを注いでいく。ふわりと湯気が立ち昇った。

 注ぎ終えたカップをトレイに載せる。ダイニングのテーブルにトレイを置き、カップを手に取る。どこに置くか少し迷い、結局いつも夕食の時に二人が座っている場所に置いた。

 

「…………」

「…………」

 

 椅子を引き、俺と末那は向かい合わせに座る。どちらからともなくカップに手を伸ばし、互いに無言で口を付けた。傾けると、熱く苦い液体が口の中に広がる。ふわりとコーヒーの香りがした。

 

(…………にが)

 

 お子様舌な俺はカップを置き、机の上の焼き菓子を引き寄せる。祖母ちゃんが買ってきたどこかのマドレーヌ。貝の形をしたそれは中央にオレンジが埋め込まれてあった。なにこれおしゃれ。

 

「…………美味しい」

 

 ふと、カップの表面を見つめながら末那がぽつりと言った。それは、注意していなければ聞き逃してしまうくらいの声音。数秒後には本当に口にしたのかも分からなくなってしまうような淡い言葉の切れ端は、しかし確かな質感を持って俺たちの間にひらりと落ち……………………そして俺の心に微かな震えを引き起こした。

 

「…………良かった」

 

 今度は俺がぽつりと言う。末那の発した微かな感嘆。反応を期待して言ったわけではないであろうその言の葉に、俺はそう回答した。別に何も言わなくてもよかった。というか自宅に到着し演技を終えた今、俺と彼女の距離感にあっては何も言わない方が“らしい”。けれどもそこで俺は返答することを選択した。何故と問われても分からない。ただ彼女のあまりにも無防備なその呟きを、呼気と共に消えゆくままにしておくことが、なんだか惜しいと思ってしまったのだった。

 

「…………」

「…………」

 

 しばし無言で時だけが過ぎる。空調の音が低くうなっていた。

 

「――――今日のことは、何というか」

 

 ふと、末那が口を開く。手の中のカップの縁を指でなぞりながら、彼女は今日の出来事について説明し始めた。

 

「面倒な人に絡まれまして」

「…………」

 

 やっぱり。というのが俺の偽らざる心境だった。

 

「朝の教室で、その人が写真を突きつけてきたんです。彼女は何故か、私が………」

 

 ふと、末那は左のこめかみに触れた。そこにある薄いガーゼ、そして傷跡に。

 

「…………怪我をして倒れている写真を持っていました。それで、その写真を突きつけて言ったんです」

「………………なんて」

 

 末那は微かに身を震わせると、感情を排した声で静かに言った。

 

「レイプされたのか、って」

「――――っ!」

 

 目を見開いた。動悸が速まったことを自覚する。怪我をしている写真を突きつけ、レイプされたのかと教室という公衆の面前で指摘する――――なんて、悪意。

 そんな悪意を向けられたことを、しかし末那はあくまでも感情を排した声で、坦々と語った。

 

「そんな…………」

 

 絶句する俺。末那はなおもカップの中、黒々としたコーヒーの表面を見つめていた。

 

「その、そいつ…………その言ったやつ、は。教師に報告したりとかは……」

 

 聞いてから、俺は己の浅慮を恥じた。レイプされたのかと公衆の面前でクラスメイトに尋ねられた。そう教師に相談したい者がどこにいるのだろうか。「で、本当にされたの?」デリカシーも教養も欠如した教師だとしたら、そのような配慮に欠けた質問を真顔でする可能性だってある。俺は教師というものを呪霊と呪詛師の次に信用していなかった。

 

「ああ、いえ。それは大丈夫です。彼女とは和解しました」

「わか…………え?」

 

 再度、俺は絶句する。和解。わかいと言ったか。和解。どちらかが…………この場合は末那に対して常軌を逸した質問をした女子生徒が、己の非を認め、そしてそれを末那は許し受け入れたと、そういうことだろうか。

 

「あ、ああ、そう、なんだ。それは…………よかった」

 

 常識を超えた展開に「よかった」と言ってしまって良いのかまるで分からなかったが、末那は特段気を悪くした様子もなく、「ええ」と頷いた。

 

「それで…………彼女に追及された時に、つい、本当のことを言ってしまいまして」

「本当のこと……?」

 

 俺は末那の言った「本当のこと」がどういう意味かわからず首を捻る。怪我の事。呪霊に襲われたこと。しかし末那はその時の記憶を失っている。ということはそれをそのまま伝えたのだろうか。

 記憶がない、と。

 

「あらやくんに助けてもらった、と」

「…………あ」

 

 末那がカップから顔を上げ、俺を正面から見てそう言った瞬間、全てが繋がった気がした。弁当を出すなという不可解な指示も、末那が昼休みに弁当を自分が作ったことにして持ってきたことも、そして帰路において親密な仲を装ったことも。

 つまり彼女は。

 怪我の写真を突きつけられ、暴行されたのかという問いに対し。

 襲われたことまでは事実だが、その先は免れたと。怪我こそ負ったが、最悪の事態だけは避けられたと、そう言ったのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 彼女は作られた不名誉を、事実で覆い隠した。あるいは吹き飛ばした。

 つまりはそういうことだった。

 

「…………それで、あの行動を」

 

 俺は全てに合点がゆき、そう呟く。ふと俺を見ていた末那が再度視線を落とした。そうして彼女は急に力を失ったように、ぽつりと言う。

 

「…………あらやくんには、ご迷惑をおかけしたと思っています。今日だけじゃない。きっと週明けも」

「やめてくれ」

 

 ――――末那の言葉を、俺はそう言って止めさせる。かぶりを振り、恐らくは俺の方からは初めて――――彼女の瞳を真正面から見つめた。

 

「迷惑だなんて思ってない。異常な状況で最善の選択をしたと思う。変な遠慮とか罪悪感とか持たずに、いくらでも俺を使ってほしい」

 

 末那は目を見開いた。

 

「…………ありがとうございます」

 

 それは、帰路で言われたのと同じ言葉だったけれども。そこに宿った温度は、全く異なるものだった。

 沈黙が降りる。けれどもこれまでのものとはまるで性質が違っていた。

 

「…………あ、それで、その……」

 

 ふと、沈黙を破り、末那が何かを言いかける。何度も口を開いては、躊躇うように閉じる。それを数度繰り返す。その様子を見ながら、もしもこれも演技なんだとしたら、俺は一生、彼女の本音と嘘を見抜けないだろうと思っていた。それくらい、その振る舞いは……………………彼女の『素』に、最も近い気がした。

 

「話は変わるのですが…………少し、言わなければならないことがあって」

「…………?」

 

 末那の言うことに首を傾げる。まだ何かあったのだろうか。俺は彼女の口が動くのを待った。

 ふと、震え。

 

「…………ごめん」

 

 着信音を鳴らすスマホを取り出し、通話拒否を選択する。着信の相手が伊地知さんだったため少し迷ったが、末那との会話を優先した。

 

「…………」

 

 すると、再度着信が鳴る。画面を見るとまた伊地知さんだ。拒否しようとした時、末那が「出ていいですよ」と言った。

 

「あ、いや……」

 

 躊躇う俺に、末那は『素』の表情のまま、ふわりと――――驚くほど無防備に、はにかむようにして――――笑った。

 

「私の話は――――いつでも、できますから」

「……………………ごめん、すぐ戻る」

 

 その笑みに、その優し気な微笑に、一瞬、心を奪われる。しかし舌を噛み強制的に正気を取り戻すと、俺はスマホを持って席を立つ。通話ボタンを押しながら、廊下に続くドアを開いた。

 

「…………もしもし」

 

 薄暗い廊下。そこでスマホを耳に当てる。すると思っていたよりもずっとシリアスな声が聞こえてきた。

 

『阿頼耶君ですね?』

(…………?)

 

 開口一番、本人かを問われる。訝しみつつ、俺は答える。

 

「ええ、はい。阿頼耶です。伊地知さんですか?」

 

 意趣返しというわけでもないが、聞かれたのだからこちらも聞いておくかという程度で訊き返す。

 

『…………すみません、余計な質問でした。君が真正の土御門阿頼耶なのか、それすらもこちらには分からない。ただ、今の質問は君を心配してのことだと、どうか理解してください』

「…………?」

 

 伊地知さんの言っている意味がわからず、俺は首を傾げる。

 

「あの…………?」

『阿頼耶君、一つ質問があります』

「はいなんでしょう」

 

 伊地知さんの唐突な宣言に俺はそう答える。先の言葉の意味も、伊地知さんの置かれている状況も何も分からないが、電話を連続で掛けてきたあたり緊急事態っぽいので、俺は彼の言うことを素直に聞くことにした。

 

『近く、電話口の声を拾えるような場所に――――町田末那は、いますか』

「…………いえ、いません」

 

 伊地知さんの言ったことに、俺は自分の内心が変化したことを自覚した。末那の名が伊地知さんの口から出た瞬間、刀を抜いた時のようなひやりとした緊張感が胸の内を支配した。

 加えて少し、引っ掛かりのようなものも感じていた。電話口の声を拾えるような場所に、町田末那はいますか。

 何故、伊地知さんは末那をフルネームで呼んだのだろうか。

 しかも、土御門ではなく。

 町田、という戸籍上の名で。

 

『いいですか、阿頼耶君。落ち着いて聞いてください』

 

 伊地知さんが言う。この上なく真剣な声。

 

『私たちが追っていた精神操作の呪詛師――――』

 

 そうして伊地知さんは、業務的で抑揚を排した声で、こう、言った。

 

『件の呪詛師の正体は――――君と共に暮らしている、町田末那です』

 

 

 

 

 

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