人を呪わば恋せよ少女   作:緑髪のエレア

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そっか、『死ね』

 清潔な匂いがしている。

 

 東京タワー。都心を一望できる箱を内に飲み込む電波塔は、残念ながらもっと高いタワーが出来てしまったことでお役御免となり、直線を組み合わせただけの単なる鉄の塊になってしまっている。ああ、いや、ラジオかなんかの電波を送信してるんだったっけ? そんなことを隣の席の俺をあらやんと呼ぶ男子から聞いた気がするが、さてそれが本当なのかは分からない。もし本当ならこの巨大な建造物は今なお何かの役に立っているということになるが、そうでなかった場合、一番高いところから電波を垂れ流すというアイデンティティを失ったこの塔は、かつてもてはやされた時代が過去となり、やがては人の記憶からも忘れ去られていくのだろうか……と思ったが、こんなどでかくてなおかつ真っ赤な建造物なんて早々忘れることなんてできないだろうと一秒前の思考を否定する。

 

 むしろこれからは「俺、一番とかどうでもいいんで」とか言っちゃう妥協できる俺かっけえな人間にひそかに愛されたり、「俺は二番手でいい。君が幸せでいてくれるなら……結婚しよう」みたいに素朴な幸せをあなたと築いていきたい系のプロポーズに使われたりするのだろうと思った。

 

 二番手でいいと言った口で結婚しようと申し出るのは中々に頭が悪くて俺的に好みなのだが、そんな求婚の言葉を受け取った女性は「馬鹿なんじゃないの? ほんと…………馬鹿。そんな馬鹿には私がいないとだめね」と柔らかく笑い、そして数年後に「本当の馬鹿はあの時プロポーズを受けた私だったわね……」と寂しく笑うことになる可能性が高い。そしてその様を独身女性たちに嗤われるのだ。そういう不幸な出来事を防ぐためにも、やっぱプロポーズの言葉は「毎朝俺のみそ汁を飲んでくれないか」がベストだと思った。いや働けよ。

 

『術式反転・他我』

 

 瞬間────くだらないことを考えている脳に、膨大な情報が入力され始めた。

 

 熱が出そうなほど頭をフル回転させ、ぶち込まれる情報を処理していく。足に力を込め、飛びかかる準備をした。が、俺が床を蹴るよりも────目の前の最強が呪力を練り上げる方が速かった。

 

『術式順転・蒼』

 

 物質を消失させる程の吸引力が、静謐な展望台に生じる。ブラックホールのように全てを無に帰す力がガラス窓を吹き飛ばし、破壊の余波が俺の身を叩く。飛んできたガラスを腕で防ぎながら、俺は今が殺し合いの最中だったことを思い出し、数秒前の思考を後悔した。

 プロポーズがどうとか考える前に今を生き延びることを考えるべきだった。

 

「よっと」

 

 破片から身を守る俺の前で、五条さんが破壊された窓枠を飛び越える。そのまま彼はふらりと闇夜の空中に消えた。

 

(まずっ、『対象』を直接追いに行ったか────!)

 

 毒づき、窓枠まで駆け寄る。俺を無視し、直接末那を殺しに向かうことにしたのか。最強の男には俺の相手をする理由がないのだから、その判断は合理的といえば合理的だった。

 

(無視、する────? あの五条悟が、目の前に立つ『敵』を────?)

 

 窓枠までたどり着くまでの数秒の間、俺は強烈な違和感に眉を顰める。五条悟は最強だ。その力は圧倒的にして絶対的。どれだけの雑兵が武器を持って襲い掛かってこようと、彼にはその身に降りかかる火の粉を能動的なアクションを起こして振り払う必要すらない。

 

 目の前に立つ『敵』と、戦う必要がない。しかしだからこそ────五条悟は『敵』を叩き潰す。俺ごときの障害なんてクリボーを潰す感覚で轢き殺して行く。

 

 彼がそういう性格であると想定したからこそ、俺は粘着質なクリボーとしてその靴の裏に張り付き、抹殺に向かおうとするその足を、末那が逃げるまで止めさせるくらいのことはしてやろうという意思でいたのだ。

 

 なのに。

 

 今、五条悟は直接末那を追いに行った。眼前に立ちふさがる俺という雑兵を蹴散らすことを選ばずに、任務を果たすうえでの最適解を選び取った。俺は予想と異なる最強の振る舞いに舌打ちする。末那が車に乗り込んでからまだ10分と経っていない。せめてあと20分、時間を稼ぎたいところなのに────。

 

 俺は宙に飛び込んだ背を追おうと窓枠に足を掛ける。そのまま空中に飛び込もうとした瞬間────俺は展望台の内側に向けて飛んだ。

 

 ごしゃあ、と、ゼロコンマ数秒前まで俺が立っていた窓枠が弾け飛ぶ。ぶっ壊れた窓枠が天井を貫通し、タワーのどこかにぶつかって甲高い音を鳴らした。

 

「勘が良いね」

 

 床に這いつくばる俺に、黒目隠しの男が言う。吹きさらしになった展望台の外、足場のない暗闇の中で、いつも通りのにやつき顔を浮かべて宙に立つ最強。

 

『術式順転・蒼』

 

「────っ」

 

 ぐん、と体が前に引っ張られる。宙に浮かぶ最強に向けて、俺の体が台風で吹き飛ぶレジ袋みたいにぶっ飛んでいく。加速度だけで脳が揺れる中、俺の体は巻き込んだ物質を原子レベルで分解する渦へと突き進み────。

 

「おっ?」

 

 目の前で起きた事象に対し、最強が何かを発見した時のような声を上げる。

 

「っ」

 

 ばぢい、と青白い呪力がはじけ飛んだ。首を狙った一撃は無限の壁に阻まれ、肉体まで届かない。インパクトの瞬間、ほんの僅かだけ俺の呪力が無下限を中和したような気がしたが……もしかしたら錯覚かもしれなかった。

 

 完全に意識外から行ったはずの攻撃を完璧に防いだ五条さんは、背後にいる俺に向けて裏拳を繰り出す。笛のような高い音を鳴らして迫る拳を、俺は鉈の刃を立てて受け止めた。手の甲と鋭利な刃が触れるとどういうわけか刃の方が砕け散り、吹き飛んだ破片が散弾銃のように俺の身に迫る。最初の破片が眼球に触れる直前────俺は術式を起動した。

 

「…………どういう原理?」

 

 裏拳を繰り出した時の姿勢からゆったりと展望台を振り向きながら、五条さんが問う。

 

 その端正な顔から、先ほどまでのにやついた表情は消えていた。

 

 展望台の床に立つ俺は、砕け散りもはや用途を果たせなくなった凶器の残骸を打ち捨てる。からん、と硬質な音を立てた。

 

「瞬間移動、ではないよね。さっきも今も消えてから現れるまでラグがあった」

 

 無手になった俺に対し、しかし五条さんはすぐさま追撃を加えることをしなかった。額に手を当て、何かを考えるような表情になると、今しがた自分が見たものがどのような原理に基づいているのかを分析しにかかる。

 

 それなりに高度があるからだろう、強い風が白髪を揺らす中、ふと彼は口を開き、

 

「どちらかと言うと透明化……それも物理的な接触を失わせる類のものか」

 

「…………」

 

 目の前の雑兵が引き起こした現象についての所感を述べた最強は、宵闇に浮かび眼前の小物を見据える。そのまま蒼で引き寄せることもなければ、赫で吹き飛ばすこともしない。戦闘の中にふと生じた空白。実力が優越する者が手を止めることで生まれ得るその間隙に促されるようにして、俺は口を開いた。

 

「……唯識法術」

 

 低い声が喉の奥から滑り落ちる。目の前にいる圧倒的強者が作った間。強者がこのまま殺しては詰まらないからと作ったような間、どうぞ話してごらんなさいとでも言うかのようなその間隙に乗じ、俺は術式を開示することを決める。

 

 ふと、何か違和感のようなものが胸の内に生まれたが、はっきりと形をとる前に自分の声に攪拌されてしまった。

 

「仏教徒が修行のために作ったとされる術式。ただひたすらに己の内側に潜り込むことで悟りを得ようとした僧が、試行錯誤の末獲得したチカラは……発動することで全ての感覚器官を閉ざすことができる」

 

 無残に破壊された展望デッキに、俺の声が反響する。俺が言葉を区切ると、途端に遠くの方で行きかう車の音が静寂を嫌うように浮かび上がった。その対比に眩暈のようなものを覚えながら、俺はチカラの開示を続ける。ざり、と砕かれたガラスと靴の裏が擦れ、耳障りな音を発した。

 

「唯識法術は自分の中に一から術式を構築するため、類型としては結界術やシン・陰流に近く、才能さえあれば誰でも習得が可能。一門相伝や他者に教えてはならないなどの縛りもない」

 

 この辺りのことは御三家であるこの男は既に知っていると分かっていたが、折角口を動かす機会をくれたのだからこちらとしては精一杯話を引き伸ばすだけだ。俺は冗長な言い回しで時間を稼ぐことを意識しながら、続く言葉を言うため、口を開く。

 

「感覚を閉ざす、というのが通常の唯識法術ならば、それを正のエネルギーでもって反転させれば、逆の効果が得られることになる。それが術式反転・他我」

 

 言いながら、俺の背にたらりと冷たい汗が流れた。どうやら『地上』の戦闘の際に分泌されたアドレナリンが、説明のために頭を動かすことで切れてきたらしい。震えそうになる腕を抑えつけながら、俺は口を動かす。

 

「感覚を閉ざすことが通常のチカラ、そしてそれを反転したのが認識を拡張する『他我』」

 

 唇をしめらせ、

 

「…………無下限の『止める力』を強化すると『引き込む力』になる。では、『感覚を閉ざす力』を強化すると……?」

 

 迂遠な言い回し。術式の開示によるメリットを得られるかどうかぎりぎりのラインの言葉の選び方だったが、聞いている最強は不審に思うこともなかったようだ。彼は俺が説明を始めてから一貫して宙に浮き、感情の分からない顔でこちらを見ている。その顔を見て、あるいはこの男はこちらの企みなどとうに得心しており、その上で珍しい術の原理を聞きたいから黙って俺の説明を聞いているだけなのかもしれないと思うが、それはそれで好都合だと自身に言い聞かせた。

 

(────、なんだ…………?)

 

 ふと、先ほどと同じ違和感が胸の奥底に生じる。けれども俺はその感覚を振り払い、強化した唯識法術についての情報を目の前の最強に開陳した。

 

「感覚を閉ざすということは、己の世界に入るということ。それを強化すると、己以外の全てから意味という意味が失われることになる」

 

 続けて、

 

「意味を失ったものに束縛される謂れはない。こちらが世界に対して『認識』という干渉をしないのならば、世界の方からも『存在の保証』という干渉をされる謂れはない。屁理屈のような論理だが、そも術式というものは世界に屁理屈を押し付けるもの。突拍子もないロジックでも、解釈を広げて術式に呪力を流したらそうなったのだから、それはそういうものとして効力を発揮する。唯識法術も同じことだ。世界との接続を否定したら、世界の方でもこちらとの接続を打ち切った。だからその間だけ、術者は世界に存在しないことになる」

 

 もう説明することもなくなってきた。俺が息を継いで言葉を続けようとした時、ふとそれまで黙っていた最強が口を開き、

 

「極限まで己に潜り込んだ結果、己以外の存在を否定する権利を手に入れたわけか。ああ、いや逆か。己以外の存在から否定される権利を手に入れた、ってことね」

 

 俺は身構えた。五条さんは俺が『消える』ロジックを理解した。

 

 俺が消えているのは術式を発動している間だけ。

 

 そして消えた俺は亜空間に入っているのでも別な場所に飛ばされているのでもなく、単に術式の効果であらゆる干渉を受け付けないだけだ。

 

 それが分かった最強は、次にどんなアクションを取るか。

 

 ────領域は、あらゆる術式を中和する。

 

 俺は『それ』を意識し、視線の先にいる長身の男に全神経を集中させる。たらり、と嫌な汗が頬を流れた。

 

(…………カラス?)

 

 緊張の中。

 

 ふと視界を横切ったそれに意識を引かれる。

 

 夜も深いうえに黒い姿なので確証はないが、宙に浮く五条さんの後ろを、カラスが通り過ぎたような気がした。

 

「面白いね」

 

 黒目隠しはそう言って笑い、

 

「じゃあこれもどうにかできるのかな」

 

『術式反転・赫』

 

 強烈な斥力により俺の体が吹き飛ぶ。展望台の壁にぶち当たる直前、俺は術式を起動した。

 

『術式順転・自我』

 

 ふ、と世界から切り離される。視覚聴覚触覚味覚痛覚嗅覚、ありとあらゆる感覚が意味を失う。

 

 何も見えない何も聞こえない何も触れられない世界の中で、俺は唯一存在するこの己を意識する。

 

(……3…………4…………終了)

 

 感覚が戻る。同時に世界との接続が復帰する。存在を取り戻した俺は、タワーの外に投げ出されていた。

 

「やっぱり、発動前の運動量は保存されるのか」

 

「────っ!」

 

 すぐ傍から聞こえた声。俺は意味がないと分かっていながら、両腕をクロスさせて防御の態勢をとる。風を切る音が耳に届いた瞬間、つま先が腕が交差する部分、その中心にぶち当たり、蹴りの衝撃が全身に伝わった。

 

(……!?)

 

 きりもみしながら地面に向かう体。とんでもない速度で吹き飛んでいる俺は、しかし────またしても途轍もない違和感に襲われていた。

 

 地面と激突する。浅い角度で入ったためかごろごろとアスファルトの上を転がった。仮に直角で衝突していれば即死だっただろう。回る視界の中、ふと思う。あるいはこれも、この浅い角度も────? 

 

 転がる勢いを利用し、ばねのように飛び跳ねる。両足が車道の真ん中に触れると、そのまま10mくらい地を滑った。

 

「まだまだ」

 

 足の裏が目の前にあった。咄嗟にバックステップで回避すると、寸前までいた場所に長身の男が舞い降りる。強烈なスタンプによってアスファルトが割れ、細かな破片が宙に浮いた。

 

「よっ、ほっ、せやっ」

 

「っ、ふ、────」

 

 繰り出される掌底二発を顔を傾けて躱す。こめかみを狙った回し蹴りを『順転』で回避した。

 

「しっ」

 

 直後、俺の拳と無限が衝突し、どうっ! と衝撃が五条さんの後方に広がる。

 

『術式反転・他我』

 

 無限に阻まれそれ以上進まない拳。しかし俺が術式を起動すると、ごり、とその拳が僅かに前に進んだ。

 

 ぎゅる、と俺の周りに吸い込む反応が作られる。蒼による直接攻撃。肉体がねじ切られる直前、俺は『順転』を起動した。

 

「……それも『存在の否定』の応用?」

 

 はるか後方にいる俺に向け、五条さんがそう問いかける。

 

 一瞬前まで彼の目の前にいたはずの俺は、10mほど離れた場所に移動していた。

 

「コマ割りみたいに見えたけど……ああ、そういうことか」

 

 俺は何も答えなかったが、五条さんは勝手に理解したようだ。

 

 俺が蒼から脱することができた種は至極単純。『順転』を細かく起動し、その都度保存された運動量を計算、現実世界での動きをイメージする。そこに蒼の引き寄せる力をいい感じに考慮すれば、ある程度の望む方向に移動できるというわけだった。

 

「あの、五条さん、一つ聞きたいんですけど」

 

 離れた場所にいる黒目隠しに、今度は俺から声をかける。

 

 違和感。

 

 展望台で術式の開示を促された時に生じたそれは、蹴りを受け止めた時に大きくなり、そして今気が付いたが────先ほどの掌底と回し蹴りで確信に変わった。

 

「もしかして……」

 

 アスファルトの上で、破壊された道路の前で、俺はその違和感を言葉にする。言いながら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という思いがよぎる。

 

 そして、続く言葉を言おうとした時。

 

 最強の胸ポケットから電話のコール音が鳴り響き。

 

 直後、呪力が湧き立つ気配。

 

『領域展開』

 

「────っ」

 

 世界が、塗り替わる。

 

『────無量空処』

 

  

 

 *

 

  

 

 タクシーが走っている。

 

 窓の外、移り変わる景色には外食チェーンが多く、殆どの店に駐車場がある。地方都市の駅前から伸びる大通りといった風情で、高級な店も小汚い宿もない。整えられてはいるがそれ以上の何かは存在しない景色を、乗員の少女は何を思うでもなくただ漫然と眺めていた。

 

「…………」

 

 ドライバーの女性はそんな少女に声をかけない。ただ黙って前を向き運転を続ける。

 

 信号が赤になり、ブレーキを踏み込む。ゆったりと減速し、停止線の内側で止まった。

 

(…………?)

 

 ただ流れる景色を目で追っていた折、ふと少女は何かがおかしいような気がしたが、何故自分がそう思ったのかを掘り下げて考えることはしなかった。感覚的に、考えた結果答えが明らかになりそうなものではなかったし、窓の外を見て思い付いたことならなおさら土地勘のない自分にその本質を同定できるものではないだろう。それにタクシーに乗ってからずっと頭痛がしている。発熱の時のようなだるさもあるし、今は余計なことに体力を使いたくなかった。

 

 少女は胸の内に生じた違和感を打ち捨てる。頭痛を堪えるようにきつく目を閉じた。

 

 少女は気づけなかった。少女の乗るタクシーが京都になど向かっていないことに。より正確に言えば、京都に向かうならば使うであろう首都高速道路の入り口から遠ざかっていることに。

 

 車が動き出す。信号を越えてしばらく走り続けると、唐突にウィンカーを出し、路上に駐車した。

 

「…………?」

 

 少女────末那は、重い頭を上げ、唐突に車を停車させたドライバーの女性に目を向ける。

 

 鈍痛の纏わりついた頭で思った。自分は何も言っていない。どうしてこのような、駐車場でも何でもない────何の変哲もない場所に車を停めたのだろうか。

 

 末那は車内ミラーに目を向けた。ドライバーの女性が目を閉じているのが見えた。

 

「……東京を抜けました。縛りはここまで。阿頼耶様……言いつけ通り、私は私のやりたいように致します」

 

 女性が漏らした、か細い呟き。しかしそれは確固たる意志の籠められた呟きだった。

 

「……っ」

 

 阿頼耶、という単語で、少女の肩が跳ねる。彼女にとってその単語は、出来る事なら今は────聞きたくない単語だった。

 

「末那様、お伝えしなければならないことがあります」

 

 ふと、女性はミラー越しに末那と目を合わせ、そう言った。

 

「今宵、阿頼耶様は貴女様を逃がすため、五条悟と戦闘し……」

 

 息を継ぎ、

 

「……死ぬおつもりでいます」

 

  

 

 *

 

  

 

 背後でバタンとドアが閉まった。

 

 夜の道。不自然なほど人通りの少ない道。私は降りたばかりのタクシーの前で、ぐるりとあたりを見回した。

 

 左右に並ぶビルの群れ、ぼつりぼつりと立っている街灯、そしてそれらを覆う────妙な薄暗さ。

 

 ────似非坊主に襲われた時────。

 

 バイト先に制服を返しに行った時のことが思い出される。人通りがゼロなのも類似していた。

 

(結界、みたいなものなのかな……)

 

 不気味な街の姿から視線を切り、ドライバーの女性に目を向ける。皺の寄った口元が「お気をつけて」と動いた。

 

 前を向く。色彩のおかしくなった街が広がっている。私は走り出した。

 

 誰もいない街に一人分の足音が響き渡る。ぼろきれみたいなスニーカーとアスファルトが擦れる音。

 

 夜の街を、理外の術がかけられた空間を、私は駆ける。顔を上げずとも見える赤い電波塔を目指して。

 

 足を交互に動かしながら、ふと私は『何故戻って来たのだろうか』と思った。

 

 阿頼耶はカーペットの上で這いつくばる私にこう言った。『どこかで人を襲おうが野垂れ死にしようが知ったこっちゃない』と。

 

 死のうが生きようがどっちでもいい。俺は関与しない。だったら私も、阿頼耶がどんなことに命を使おうが知ったこっちゃない。誰かと戦う? 死ぬつもり? はあ、そうですか。ごめんね、お葬式には出られそうもなくて。

 

 私は奥歯を噛み締める。ぎり、と軋んだ音を立てた。

 

 そう思えれば。そう切り捨てられれば。

 

 どれだけ良かっただろうか。

 

 どれだけ楽だっただろうか。

 

「……はあっ、……はあっ」

 

 大して走ってもいないのに息が切れてきた。呼吸も、足も、思考も、色彩の狂った空間では車軸の取れた水車みたいに空回る。

 

 今の私は一貫した行動の指針を持っていない。脊髄反射的な情動に衝き動かされているだけだ。『阿頼耶様は死ぬつもりです』。女性ドライバーの言ったその言葉に走らされているだけ。確かかも分からない、本当にそんなつもりなのか知れない、確かめられない、そんな確証のない言葉に導かれて、私は天を突く電波塔の残骸に向けて走っている。

 

 何のために行くのか分からない。

 

 あそこは私の死刑執行の場だ。

 

 私は命を捨てに来たのだろうか。

 

 分からない。

 

 もしかしたら、私を拒絶した阿頼耶の前で殺されることで、お前の自己犠牲なんて何の意味もなかったぞと、彼の覚悟をせせら笑ってやりたいのかもしれない。

 

 あるいはお前如きに救ってもらうなんて虫唾が走ると、身の程を知らない匹夫に一言文句を言ってやりたいのかもしれない。

 

 もしくは彼の死体に唾を吐きかけて、ざまあみろこの中途半端野郎と、その意思も覚悟も生き様も侮辱したいのかもしれない。

 

 それとも…………それとも私は────阿頼耶に…………。

 

 分からない。

 

 この足を衝き動かす衝動が何なのか、私には────分かることができない。

 

 大通りまでたどり着いた。この通りを渡ればタワー下の広場に着く。信号は赤。無視して突っ切ろうとした時。

 

 ぐに、と。

 

 私の足が、何かを踏んだ。

 

 そう認識した瞬間、私は後ろに飛び退った。足に伝わる感触が生々しいもので、生理的な嫌悪感が引き起こされたから。

 

 ウサギみたいに跳ねた私の目に、たった今自分が踏んだものが映り込む。

 

 自分の目が見開かれたのが分かった。

 

 親指人差指中指薬指小指。

 

 私が踏んだもの。

 

 それは『手』だった。

 

 手首のところから切断された『手』。

 

 それが、私が横断歩道を渡ろうとして踏みしめたものの正体だった。

 

「…………え」

 

 どうしてこんなものが、とか、本物だろうか、とか、一体誰のものだろうか、とか。思うところは多々あったけれども。

 

 そういう思考が吹き飛ぶものを、私は目の端で捉えた。

 

 横断歩道の上に立つ私から見て、右側の通り。

 

 クレーターのようにアスファルトが陥没している車道の脇の街灯の下に。

 

 犬の死骸のようなものが転がっていた。

 

 ぴたりと呼吸が止まる。

 

 静寂が耳鳴りを誘発した。

 

「…………………………………………え?」

 

 予感が、あった。

 

 あれとこの『手』は、関係があると。

 

 あそこにあるぴくりとも動かない肉塊と、この切断された『手』には何らかの関係があると。

 

 加えて。

 

 もう一つの予感。

 

 死骸と『手』には関係があり。

 

 それら二つは、私に、関係がある。

 

 そういう予感。

 

 だって────だってそうじゃないか。ここは本来、私の死刑執行の場なのだから。その場にある切断された『手』と何かの『肉塊』が、私と何ら関係のないものであるはずがないではないか。

 

 そう、ここは私の死刑が執行されるはずだった場所。

 

 その場所に、その地点に。

 

 偶然、何の関係もない『手』が落ちていることなど、有り得るだろうか。

 

 偶々、体の大きな犬種が車に轢かれて打ち捨てられていただけだと、そう思うのは────あまりに楽観的にすぎないだろうか。

 

 楽観的、というより。

 

 もはやそれは────夢見がちと、そう言えないだろうか。

 

 私の頭にぐるぐると色んな言葉が渦を巻く。

 

 異常な事態、坊主と呪霊に襲われた時と同じでやたら暗く、そして誰もいない道。同居人が向かった東京タワー、そして道路わきにゴミのように捨てられた何かの死骸。

 

 何かの『死骸』、あるいは『肉塊』。ぐっしょりと濡れているように見えるそれ。

 

 ────確かめなきゃ。

 

 恐る恐る、私はそれに近づいていく。

 

 一歩進む。

 

 まだ犬に見える。

 

 二歩進む。

 

 大きな犬だ。

 

 三歩進む。

 

 可哀そうな犬。

 

 四歩進む。

 

 なんだろう、鉄のような匂いがしてきた。

 

 五歩進む。

 

 匂いがきつい。発生源はあれか。

 

 六歩進む。

 

 シルエットが見えた。

 

 七歩進む。

 

『肉塊』は服を着ていた。飼い犬だったのかもしれない。

 

 八歩進む。

 

 だめだ。

 

 九歩進む。

 

 これはもう。

 

 十歩進む。

 

 見るな。

 

 〇歩進む。

 

 ────。

 

  

 

  

 

「………………………………………………………………あ、らや……くん?」

 

  

 

  

 

 街灯の下、安っぽい光に照らされた何かの『死骸』。

 

 目の前で汚いアスファルトの上に横たわる『死骸』。

 

 死骸。

 

 否、それは。

 

 死体。

 

 私を否定し、拒絶し、突き放した人間が。

 

 血の海に沈んでいる。

 

 沈んで、死んでいる。

 

 血に染まった体。

 ぴくりとも動かず、見つめていても呼吸によって上下する気配がない。

 

 この人間は死んでいる。そう直感してしまう光景。

 

 その光景を見て。

 

 私は。

 

 名字を剥奪された単なる『末那』は。

 

 やはり────何を思えばいいか分からなかった。

 

「は、はは」

 

 零れ落ちる。吐息とも声ともつかない何か。

 

 でもそれだけだ。叫びも、嗚咽も、唸りも、歯ぎしりも、私の口からは出てこない。

 

 頭の中に強烈な感情が渦巻いていることは分かる。ぐるぐると、ぐちゃぐちゃと。けれどもそれが何の感情なのかと訊かれて、どういう思いなのかと尋ねられて、こういう気持ちなのかと提示されて、ああ、これですよと言えるものが、私の言葉の中には存在しなかった。

 

 ざまあみろ、なのか。

 

 誰がやったのか、なのか。

 

 殺してやる、なのか。

 

 なんなのか。

 

 分からない。

 

 分からない。

 

「あ」

 

 ふと私はそれに気が付く。

 

 一つだけ。

 

 たった一つだけ、確かなことがあった。

 

 確かな、事実があった。

 

『貴女様を逃がすため、五条悟と戦闘し……死ぬつもりでいます』

 

「あ、はは、あははははははははははははは」

 

 次から次へと湧き上がる衝動に逆らわず、私は腹を抱えて笑った。

 

 ごじょうさとる、が誰かは分からない。恐らくは私の死刑執行人とかだろう。阿頼耶はそいつと戦いに行ったのだ。そう、ドライバーの女性が言ったことだ。

 

 そうだ。

 

 阿頼耶は私を逃がすために戦いに行った。

 

 だったら。

 

 これは。

 

 この目の前の光景は。

 

 私が原因じゃないか。

 

 私が『力』を濫用しなければ、罪に罰を与えなければ、男から金を奪わなければ。

 

 起こらなかったことじゃないか。

 

 そうだ。

 

 私が『力』なんて使わなければ。

 

 起こらなかった現象だ。

 

 絶対に。

 

 余すとこなく。

 

 徹頭徹尾。

 

 これは私のせいだった。

 

 私の────罪のせいだった。

 

「初めまして。誰かのお家の末那ちゃんさん」

 

 ふざけた呼び名で名前を呼ばれた気がし、私はそちらを振り向く。

 

 ペイントツールで塗りつぶしたみたいな暗闇の中、そいつの周りだけ強調表示したみたいに浮かび上がっている。

 

 長身、黒目隠し、白髪。

 

 私はそいつの姿に覚えがあった。

 

 いつかコンビニで阿頼耶と共にいた男だ。

 

 白菜みたいなそいつは軽薄そうな口を開き、

 

「GT五条悟でーっす! わーお。確かに君めちゃくちゃ可愛いね。特にその垂れ目がちな目とか。退廃的で気だるげな雰囲気とマッチしてなんかこう……いいね! まるで留年特級術師の初恋相手が成長したみたいな感じがするなー。ま、危険度的にも執着的にも、りかちゃんには遠く及ばないだろうけどね」

 

 訳の分からないことを立て続けに言った。

 

「ごじょう、さと、る……?」

 

 男の言うことの9割は意味不明だったが、一つだけ、私の意識を引いた言葉があった。

 

 ごじょうさとる。

 

 ドライバーの女性が言った名前。

 

 そしてそれは────阿頼耶が戦いに行った男の名前だ。

 

「名前を知られているなんて光栄だね」

 

 全くそうは思っていない声音で、目の前のごじょうさとるは言った。

 

「じゃあ、これ、は……?」

 

 私がぼろ雑巾のような肉塊を指して言うと、男は「ああ、それね」とにんまり笑い、

 

「────土御門阿頼耶は僕が殺した」

 

 その瞬間、頭の中がすっきりした。天日干しした布団に体をうずめた時のような爽快感が全身を駆け巡る。『力』に目覚めた時と同じ全能感が、頭の先から足の指の先までを浸した。

 

「そっか、『死ね』」

 

 ごじょうさとるは倒れなかった。私の殺意を受けても、体を揺らすことも表情を歪めることもなく、ただただ、尋常の様子でにやつきながら立っていた。

 

 それを見て。

 

 私は思う。

 

 この男は何度『死ね』と言ったら倒れるだろうかと。

 

 そしてこうも思った。

 

 大丈夫。

 

 だって────殺意の在庫は、こんなにもあるのだから。

 

 こんなにも。

 

 たくさん。

 

 溢れるほどに。

 

「第二ラウンドだ」

 

 色彩が狂った世界の中で。

 目の前にいる白菜みたいな頭の男が────にやりと笑ってそう言った。

 

 

 








あと少しだけ続くんじゃ〜。
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