人を呪わば恋せよ少女   作:緑髪のエレア

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残ったものは

 墨をぶちまけたような宵闇だった。

 帳。

 その内側。

 

 理外の術がかけられた舞台の上に、長身の男と少女が二人、向かい合って立っている。

 

 

 少女、末那の左手には街灯があり、安っぽい白い光が道路沿いに打ち捨てられた肉塊を照らしていた。

 

 肉塊。

 シャワーでも浴びたみたいに真っ赤な血で染められている、何かの塊。

 

 人の形をした肉塊。

 人の遺体。

 死体。

 

 土御門阿頼耶の、死体。

 

 濡れて重くなったフードからは柔らかな黒髪が零れ落ち、捲った袖からは男性にしては白く細い腕が伸びている。血で固くなった髪が張り付いている頬からは赤みという赤みが消え失せ、瞳孔が開いた瞳はどこか遠くを見つめて虚ろだ。何かに驚いたように見開かれたその瞳は、煉獄を見つめ苦悶しているようにも、意外にも穏やかな死後の世界に拍子抜けしているようにも、どちらにも見ようと思えば見ることが出来た。

 

 街灯の下、道路の側に顔を向け、硬いアスファルトの上に横たわる少年。その体は石造のように冷たく凍り付き、ぴくりとも動かない。青ざめた唇、血が抜けて生気を失った肌、唾液を飲み込んで上下しない喉元、自らを抱きしめるように回された右腕、瞳孔の開かれた瞳、そして、数m離れた末那の元まで届く、鉄のような、それでいて生々しい生命の匂い…………。

 

 生命だったものの空気を漂わせ、ごみのように道路脇に転がる少年、土御門阿頼耶。

 

 どちらかといえば、彼は強者に分類された。

 

 被呪者に気取られずに取り憑いた呪霊を祓うほどの卓越した身体感覚、特級の頭蓋を一撃で爆散させる、虎杖悠二に匹敵するほどの膂力、そして、現役の一級術師2名と、十代にして領域に到達した才能マンを無傷で無力化するほどの────圧倒的な戦闘センス。

 

 土御門阿頼耶。無下限呪術のない五条悟とまで称された少年もまた、一つの願望を持ってこの場所に来た。そんな彼は今、何もかもが二番手となった赤いタワーの麓で、今まさに目の前で行われようとしている殺戮の執行を止めることも出来ずに、力を失った体をぼろ雑巾のように横たえ、昆虫のような瞳でただ虚ろを見つめ続けている。

 

 かつて、不幸な境遇にあった少女を慈しむべきものとして見たその瞳が、もう一度彼女を映すことは────未来永劫、ない。

 

 なくなった。

 

 五条悟によって、『土御門阿頼耶』が持っていた全ての機会と未来は────剥奪された。

 阿頼耶の頭蓋からあらゆる言葉は失われ、彼が歩むはずだった道は恒久的に塞がれている。

 

 もはや末那に向けて、『彼』が彼女のことをどう思っていたのかを語って聞かせてくれる者は存在しない。『土御門阿頼耶』が、土御門末那に対しどのような印象を抱き、そしてどのような感情を向けていたのか。それを自分事として語ってくれる者は、この世のどこにも存在しなくなっていた。

 

『彼』は末那を好いていたのか。

 

 それとも鬱陶しく思っていたのか。

 

『彼』は一時でも末那に情欲を向けたことがあるのか。

 仮に『彼』がそれを向けたことがあるとして、それはいつの、どんな時か。それは末那の過去を知った後のことか。それとも知る前、『彼』と末那が初めて会った時のことか。

 

 

『土御門阿頼耶』は。

 

 同居人の少女を────愛していたのか。

 

 家族として、友人として、共に暮らす者として、一番近い他人として、あるいはそれとも────異性として。

 

『彼』は末那を愛していたのか。

 

 それとも────嫌悪、していたのか。

 

 それらの問いに、答えてくれる精神はもはやこの世に存在しない。

 

 解きほぐされることのない意図。答え合わせの機会を失った問い。

 

 問いといえば、これも問いだ。

 

 最後の最後で、彼は何故、説得ではなく────糾弾を、選んだのか。

 

 末那を東京タワーに向かわせる。そう言って伊地知との通話を切った。無論それはブラフ、誤魔化し、嘘の類で、『彼』に末那を執行場所に連れていく気はなかった。

 

 はずだ。

 

 どのタイミングで『阿頼耶』は末那を逃がす決断をしたのか。

『彼』は全部を話すことだって出来たはずだった。

 なのになぜ、そうしなかったのか。

 

 末那をタクシーに向かわせるという目標を、全てを詳らかに説明することではなく、罪を糾弾し、突き放すことで達成しようとした。

 

 それは何故か。

 

 何故『彼』は言葉を尽くさず、末那の言葉に耳を傾けず、強硬的な手段を選択したのか。

 末那の行いを嫌悪したからか。悪辣な者の言葉など耳を傾ける価値がないと判断したからか。あるいは別の真相があったのか。

 

 その問いに答えられる者は、もうこの世には存在しない。横たえられた頭蓋の裏は今や空っぽで、そこに書き込まれていた言葉の数々、そして少女にとっての真相は────既に失われた。

 

『土御門阿頼耶』は死に。

 全ては闇に葬られた。

 解釈を丸投げされた言葉たちは────まるで呪いのように、それをかけられた者を苦しめる。

 

「………………」

 

 末那は伏せていた瞼を上げた。

 

 存在の中心が叫び声を上げている。腹の奥底がマグマのように熱い。心が金切り声で叫ぶ度に、熱さの奥から不定形な力が湧いて来る。身体の中で渦を巻く力。決して外に出ることのない力の奔流を弄びながら、彼女は目の前の人物へと視線を向ける。

 

 しんと静まった暗闇の中、気を抜けば飲まれそうな闇の中で、超越者と逸脱者の視線が交錯する。視線を受けた長身の男は何も言わず、ただ僅かに口の端を上げた。嘲笑するように、罵倒するように。何の期待もしていないが、取り敢えずかかっておいでと、遥か高みから見下ろすような、酷薄な笑み。

 

 嘲り。それを理解した瞬間、激情に燃料が投下され、一層激しく燃え上がる。燃え盛る憎悪は呪力となって末那の内側を浸すが、一秒ごとに感情の爆発に晒されるような凄まじい精神の活動は末那自身の心までも焼き尽くす危険性を孕んでいた。

 

 男と少女が視線を交差させたのは、時間にして僅か数秒の出来事だった。視線を逸らすまでの間に、末那の脳内では万に近い言葉が産まれ、感情が産まれ、殺意が産まれた。

 エンジンの側にいる時のような力の脈動、途方もない万能感、そして己の一部を喪ったかの如き莫大な喪失感を抱きながら────末那はその艶然たる唇を動かす。

 

 

『────殺せ』

 

 

 変化は直ぐに現れた。

 

「────あはっ」

 

 ぬるり、と。

 

 末那の表情が変化する。

 

 スライムが垂れるみたいに、ヘドロが流れるように、末那の顔面からそれまでの表情が流れ落ち、内側から何かが現れる。

 

「んふふふふふふふふ」

 

 無邪気な声を道路に響かせながら、末那はその場でバレエダンサーのようにくるりと回る。

 

「んふ、んふふふ、ふふー」

 

 

『精神操術』

 

 青白い光が産まれた。五条と末那の中間地点からやや末那に寄った地点に産まれた光は、炎のようにゆらゆらと揺れる。光の残像を尾のように残しながら揺らめく光は、それ自体が意思を持っているかのように移動し、その残像で一つの像を作り上げた。

 

『擬制脳』

 

 ラグビーボールを二つ並べ、真ん中を太い管で結ぶ。全体をくるみのようなひだで覆えば、かなり外見は近づくだろうか。

 突如、五条と末那の間に描かれたそれ。

 

 それは人間の脳に酷似していた。

 

 大きめのチラシをくしゃっと丸めたような外見。眼球や脊髄はなく、前頭葉、頭頂葉、後頭葉がまさしく脳というイメージ通りの形をなしており、側部に側頭葉、後ろに運動を司る小脳が付け加えられている。まるで医学部の教科書にそのまま載せられそうなほどに、細部に至るまで正確な脳髄。

 

「んふふふふふふふふ」

 

 末那は楽しそうに体を揺らす。足を入れ替え、頭を揺らし、己の頭の中だけに流れる音楽に沿って踊り続ける。

 

『輝奔・爆』

 

 くるくると無邪気に体を遊ばせる末那が、ふと何事かを呟くと────光で描かれた脳に呪力が灯る。

 

 青白い脳の内側に、かがり火のように灯された呪力。五条が僅かに眉を上げた、次の瞬間。

 

「────っ」

 

 爆散。吹き荒れる呪力。脳を起点に生じた爆風に、瞬き一回の間、五条は視界を封じられる。吹き荒れる呪力の奔流に覆われ、彼はほんの一時だけ────末那の姿を見失った。

 

 呪力の奔流が視界を覆ったのは時間にして3秒に満たない。轟音と共に叩きつけてきた呪力が収まると────最強の視界から少女は消えていた。

 

『擬制脳』

 

 五条の耳に透き通った声が入り込む。素早く声のする方向────背後────を振り返った彼は、そこで僅かな間自失する。

 

 脳の群れ。

 

 青白い線で構成された脳。脳、脳。人格の拠り所たる脳。計算を理解し、実行できる脳。あらゆる文化を創り出した基盤としての脳。

 驚くべき計算機たる脳髄、末那が術式で作り出したそれが、五条の視界を埋め尽くしていた。

 

『輝奔・爆』

 

 異様な光景に、ほんの僅かだけ思考を止めた五条悟。背筋を撫でるような蠱惑的な声音がタワー前の幹線道路に木霊すると、目の前に展開されていた脳の群れ、その一つ一つに呪力が灯り始める。

 

 視界を埋め尽くす脳の群れに、光が灯っていく。

 五条が数秒前に観察した攻撃の前兆。

 視界を埋め尽くすほどの脳の群れ、その一つ一つに光が灯るのを認識した刹那────五条はその場から飛び退った。

 

 瞬間、────音が消える。

 

 帳を揺らすほどの衝撃が四方八方にまき散らされた。

 

 五条は無限で浮かぶと、上空からその光景を見下ろした。道路の真ん中、直径30mはあろうかという大穴が口を開けている。穴の周辺部は瞬間的に熱せられたアスファルトが空気に触れることで急激に冷やされ、沸騰したような奇妙な形で固まっていた。

 

「やるね」

 

 追撃が五条を襲う。槍の形をした呪力の塊を、五条はひらりと手を振るだけで霧散させた。

 

 五条は眼下を睥睨する。視線の先、茶色がかった黒髪が揺れているのを確認すると、不意にその場から消えた。

 

「よっと」

 

 肉が弾けたみたいな音が鳴り響いた。

 五条の拳が末那の頬を貫き、水っぽい音を立てる。

 

「お?」

 

 ふとした違和感。拳を振り抜いたはずなのに、人を殴った気がしない。五条は拳の先にある物体を見て得心した。

 

 青白い脳。

 

 燐光を放つそれが、拳との間にクッションのように挟まっている。

 

『輝奔・突』

 

 バヂイ、と呪力が無限の表面を走った。拳の先にあった脳が槍に変化し、無限にぶち当たる。壊れた槍は呪力をまき散らし、表面を稲妻のように駆け巡った。

 

「機転が利くね、頭が良い。いや────本能かな?」

 

 五条の足の裏が末那の腹にねじ込まれる。華奢な体が嘘みたいに水平方向へと吹き飛び、ビルの壁面に激突した。

 

 ぱらぱらと砕けたコンクリートが末那の髪に降り注ぐ。顔を上げた時、末那が見たのは迫り来る拳だった。

 

 

「…………!」

 

 驚愕の息遣い。それは末那ではなく五条の喉から零れ落ちた。

 

 一瞬の間に四度、末那の顔面に拳が叩き込まれ。

 四度とも、打撃の直前で現れた脳に阻まれる。

 

 マイクロ秒の世界で脅威的な反射神経と脳の生成速度を披露した末那。

 五条の顔が僅かに曇った。

 

「乙女の顔をサンドバッグみたいに。何て失礼な人なの」

 

 打撃の余波だけでひび割れたビルの壁面をバックに、末那が楚々とした笑みを浮かべる。

 

「でも────捕まえた」

 

 端正な顔に無邪気さが宿る。庭で見つけたカマキリをマッチで炙って殺すような、そんな無邪気な邪悪さが。

 

 五条の腕に脳が巻き付く。顔面を殴打した右腕が、青白く、ぶよぶよとした、水風船に似た物体で覆われる。

 

『輝奔・削』

 

 ごり、と、鉄をやすりで削ったような音がした。

 五条の腕に巻きつけられた脳が、呪力をチェーンソーのように回転させる。ごりごりごりごりごりごりごりと、無限を削る音は加速度的に増してゆく。

 

「…………」

 

 無限を中和しにかかる『擬制脳』。五条は無下限を強めようとして

 

『擬制脳』

 

 今度は左足にクラゲのような脳がへばりついた。

 

 右腕と同じく、左足の脳も回転を始める。五条は構わず掌底を繰り出そうとして────動きを止めた。

 

「────あは」

 

『擬制脳』

 

 虚空から脳が産まれる。左腕に纏わりついたそれを、五条は掌底で打ち払った。

 

『擬制脳』

『擬制脳』

『擬制脳』

 

 たん、たん、たん、と、暗闇にアスファルトを駆ける音が鳴り響く。どちゃり、と、行き先を失った脳が三つ、末那と五条の間に落ちた。

 

(…………これは)

 

 五条は右腕を視る。呪力をまき散らし、無限を食い荒らす大きめのモルモットのような脳は、一向に消滅する気配がなかった。

 

「…………」

 

 水っぽい音が鳴り響く。五条が腕を振るうと、纏わりついていた脳が散り散りに弾け飛んだ。

 

「脳同士の接続による効率の向上…………一部の脳による自己補完」

 

 今しがた自身が目にしたものを分析しながら、五条は油断なく末那の動きを注視する。

 

「永遠に呪力を灯し続ける脳のネットワークか。えぐいことするね。呪力が何から産まれるか────薄々気が付いているだろうに」

 

 擬制脳。

 その正体は呪力を産み出す脳みそだ。

 

 末那の術式によってただの燃料として産まれさせられた脳は、術者によって負の感情を抱くよう最適化されている。

 

 恥辱、苦痛、悔恨、刻苦、激しい負の感情を湛えた意識は、それ以外の感情を知らないままこの世から消え去る。

 末那が作り出す青白い脳に、本当に意識と呼べるものが備わっているかは────五条には分からないが。

 

 意識を形作る基盤となるもの。

 

 例えば記憶も、

 思い出も。

 

 今産まれたばかりの脳に備わっている道理はないだろう。

 一切の記憶も思い出も持たない、なのにただ苦しむためだけに産まれさせられた人格。

 

「よいしょ」

 

 パン、と軽い音を立て、五条の左足に纏わりついていた脳がはじけ飛ぶ。

 五条が視線を戻した時、そこには────ひび割れたビルの壁面だけがあった。

 

『擬制脳』

 

 脳が産まれ、無下限にへばりつく。ナメクジのようにくっついた脳は次々に呪力をまき散らして爆散し、血税で敷かれたアスファルトを揺らした。

 

 爆破の衝撃で舞い上がる粉塵で、末那の姿は見えない。

 不意に五条の視界の端を何かがかすめた。

 五条は気配の方向に目を向ける。粉塵の中、柔らかな質感の手がこちらを向いていた。

 

「…………へえ」

 

『擬制脳』

 

 どうやっても攻撃が届かないことを理解した末那は、そこで一つの選択肢を選び取った。

 彼女は無限の表面に手を添えると、その状態で二つの脳を産み出す。

 

 一つは魔法少女のマスコットのように、自身の肩口に作り。

 もう一つは────自分自身を包み込むほど巨大に作る。

 

『輝奔・爆』

 

 五条が楽しそうな声を上げるのと、末那が爆発のトリガーを口にしたのはほぼ同時だった。

 

 瞬間、規模の異なる二つの爆発が末那と五条を襲う。

 

 まず、巨大な脳が超新星爆発のように膨大な呪力をまき散らす。濃密な呪力は五条の無限を中和し、末那の手と最強を隔てている無限層の壁を次々と破壊していく。

 

 次いで、右肩で生じた爆発により、右手がロケットのように押し出される。

 

 目隠しに覆われた頭部へと向かい────

 

 ────その額に触れる直前で停止した。

 

 見えない壁にぶつかったように。

 

 石化する魔法をかけられたが如く。

 

 土御門末那の右手は、最強の一歩手前で静止した。

 

 その右手が、人を操る魔手が、それ以上前方へと進み、薄ら笑いを浮かべた最強の頭蓋に達することは────ない。

 

「言いたいことは」

 

 動きを止めた末那に、五条が問う。至近距離で起きた爆破の影響で焼け爛れた頬を…………皮膚がめくれ、ピンク色の肉が露わになった頬を歪な笑みの形にしたうえで、末那は静かに言葉を選び取った。

 

「心の底から呪ってあげる」

 

 無限が爆ぜた。不可視の力が末那の全身をダンプカーのように蹂躙する。

 

 激痛。耐えがたい痛みの津波が末那を襲い、どういうわけか次の瞬間には引き潮のように引いていく。

 

 末那の意識に闇が迫る。視界から物の境界を失わせる程度の闇ではなく、正真正銘本物の闇が、美しき逸脱者の眼に広がってゆく。

 

 退廃的で厭世的。

 可憐にして醜悪。

 無邪気であり邪悪。

 個として完成されており、同時に極度の寂しがり屋の少女はこの日、最強の手に殺された。

 

 

 *

 

 

 山間の道を一台の車が走っている。闇にとけ込むような黒い車体に、落ち着いた雰囲気の内装。運転手の腕がいいのか、カーブの多い道でも車内の揺れはそれほど気にならない。

 

 伏黒恵は、窓に頭を押し付けてガラスの向こう側に広がる光景を漫然と眺めていた。隣には特徴的なまだら模様のネクタイを身に付けた七海健人がおり、助手席では日下部が寝ている。運転は補助監督員の伊地知が担当していた。

 

「…………」

「…………」

 

 車内に会話はなかった。誰も口を開かず、ただタイヤがアスファルトと擦れる音だけが、背景音楽のように男たちの間で揺蕩っている。元より会話が弾むような面子でもないが、全員が車に乗ってからかれこれ一時間半、未だに誰も口を開いていないのはちょっと尋常じゃなかった。

 

 東京タワーの麓で3人を乗せて以来、彼らの間で発せられた肉声は、出発直前に伊地知が放った「じゃ、出発しますね」だけであり、そのまま無言の男たちを乗せた車は、高専がある奥多摩に向かって西へ西へと疾走を続けていた。

 

 五条悟が直々に集めた3名の優秀な術師たちは、本日一九○○、東京タワーの麓にて『対象』が『協力者』に連れられてやって来るのを待ち、『対象』がタワーに入った後は、不測の事態に備えバックアップとして地上で待機することになっていた。

 

 指示通り麓で『対象』と『協力者』を待っていた彼らは、そこで一人の人物から奇襲を受ける。フードを目深にかぶることで目線を隠した男は、彼ら3人と同時に戦闘し、そして信じ難いことに────彼らを打ち破った。

 

 ────土御門阿頼耶…………『無下限呪術のない五条悟』……か

 

 伏黒は心の内で『襲撃者』の顔を思い浮かべる。加速度的に激しさを増す戦闘中、ふと街灯に照らされて見えた貌は────いつか資料で見た『協力者』のものだった。

 

 少し長めの睫毛、男性にしては白い肌、信念を宿した瞳。呪詛師捜索に協力する際、高専に提出を求められでもしたのか、証明写真みたいな生真面目な顔がこちらを見ている写真を、伏黒はおぼろげな記憶の中で覚えていた。

 

 自分とそう歳の変わらない人間が、普通の高校に通いながらボランティアとして高専に協力している。五条からそのなよっとした少年についてそう聞かされた時、伏黒は「酔狂な人間もいるもんだな」と思った。

 

 ごく普通の生活を送ることも出来るはずなのに。

 わざわざ裏の世界に飛び込んでくる。

 

 その最も大きな動機とは何なのだろうかと、伏黒は少しだけ考えて…………すぐに辞めた。考えてもこんな不可思議な人間の心理など理解できそうもない、と思ったから────というわけではなく。

 

 この人間は自分に近いのではないかという直感が、ふと脳裏をかすめたからだ。

 

 ────だりい

 

 四角く切り取られた外の景色に、面白いものなんてなに一つとしてない。

 

 突如襲い掛かってきた人物。闇にとけ込むためか、黒づくめの服装が残像を残し縦横無尽に駆け回る。七海の打撃、日下部の剣戟を躱した襲撃者は、黒閃連続記録保持者から彼の獲物を奪い取ると、まるで長年愛用した武器のように自在に扱い、伏黒に襲い掛かってきた。

 

 咄嗟に鵺を出したものの、即座に鉈が振るわれ、その馬鹿げた威力により一撃で半壊に追い込まれる。殺られる────そう身構えた瞬間、日下部と七海が横槍を入れ、襲撃者は伏黒の頭上を体操選手のように飛び越えることで、一級術師二名の攻撃を躱した。

 

 あの時、一瞬の間に目まぐるしく状況が変化する中で、伏黒は不思議な程冷静に、今まさに自身を殺そうとしている者の顔を見ていた。

 

 伏黒はその顔を思い出す。

 

 まるで子どもの泣き顔だった。

 

 車体が揺れる。かすかな振動が眠気を呼び起こす。領域を使用した後のだるさを抱えながら、伏黒はもう一度だりいと呟く。

 

 

 

 ぼろ雑巾のようになって血だまりに沈む少年。昆虫のような視線の先に、しみ一つない白磁のような肌にまるで内側から爆発したかのような裂傷を走らせた少女。

 

 酷いボーイミーツガールがあったもんだねと、全てを終えた五条が見つめ合う二人を見て言った。

 

 頭蓋から言葉が消えたまま、視線を絡め合う彼と彼女。その光景が、伏黒の頭から離れない。

 

 離れて、くれない。

 

 焦燥にも似た感覚に苛まれながら、伏黒は思う。

 

 仮に、仮にだ。

 

 何度もそう前置きをしたうえで、伏黒はその想念を言葉にする。

 仮に…………仮に己が、義姉と恩師、そして一癖も二癖もある友人たちに出会えなかったとして。

 そうして高専や呪術界とつかず離れずの距離を保っていた時分に、あの少女と引き合わされたとしたら。

 

 果たして自分は、あれよりもまともな結末を導くことが出来ただろうか。

 

 ────あいつら、まだ起きてるかな

 

 伏黒はスマホを取り出し、時刻を確認する。虎杖はまず起きてるだろうな、と、底抜けの善人でありながら最悪の呪いの器となってしまった、心優しき少年の顔を思い浮かべた。

 

 

 *

 

 

 

 草原。

 荒野。

 

 二つの世界がせめぎ合う不可思議な空間に、土御門末那は呼ばれていた。

 

「ごめん、勝てなかったや」

 

 末那の右腕は無残な状態だった。皮膚の殆どが裂けており、残った部分も火傷のように爛れている。下手なパッチワークのようにまだらに皮膚が残っていた。

 

「別にいいよ、それくらい」

 

 そんな傷をさして気にしている様子も見せず、末那は草原の景色をただぼんやりと眺めている。以前にここに来た時と同じく、その足の裏は荒野の世界に触れていた。

 

「そう? そう言ってもらえるとありがたいけど……」

 

 末那の纏う雰囲気は希薄で、その相貌はどこか儚げだ。

 

「多分、もう殺せないよ、あいつのこと」

 

 あいつ、が誰のことを指しているのか、末那はすぐに分かった。その上で、末那は緩やかに首を振った。

 

「いい。殺すとか殺さないとか、そういうことはもういいの」

 

 末那は何かを諦めたような、それでいていつかの過去を懐かしむような声音で言った。

 草原から伝わって来る困惑の空気。追加の言葉を欲している童女のような声をした存在に、末那は柔らかな唇を笑みの形にした。

 

「奪えば奪われる。侵せば侵される。踏みにじれば踏みにじられる…………理科の授業で習ったでしょ、作用には必ず反作用がある。私はそのことを忘れていた。いや、無視していた。だったら────その結果は受け入れなきゃ」

 

 そっか。末那の回答を受け、童女のような声はそう答えた。そっか。うわ言のように呟く。

 ふと草原からの声の主は何かに気が付いたように声色を変え、

 

「そうだよね。だってもう、あの人はいないんだし。そんな世界で誰かと殺し合ってもなんの意味もないよね」

 

 私たち、弔い合戦ってガラでもないしね。童女のような声はどうでもいいことのようにそう言った。

 

 草原から風が流れてくる。草の匂いを感じながら、末那は自分の心が穏やかになっていることに気が付いた。

 

 つい先ほどまであれだけ猛り狂っていた怒りの衝動が、憎しみの波動が、今や影も形もない。末那はふと、もしかしてあれから大分時間が経っているのだろうかと思った。自分がいつからここにいるのか、末那はよくわかっていない。が、時計のない世界ではそれを確かめる術もない。

 

 まあ、ここに時計があったとしても、正確な時刻を知ることなど期待できようはずもない。なんてったってその時計は────腹時計と大差ないのだから。

 

 ふと、末那は思った。もしかしたら穏やかな心の原因は、時間が経っているからではなく、命が失われかかっているからかもしれないな、と。

 

 消えゆく命の灯火。その最後を無意識の内に感じ取っているから、今の自分はこんなにも穏やかな気持ちでいられるのか。

 

 あるいは末那はこうも思った。単に────出血によって頭に上っていた血が抜けたからかもしれないな、と。

 

「中学生の頃さ、まだお母さんが死ぬ前だから、一年生の頃かな」

「うん」

「お母さんの仕事関係の人が、私に『接待』をやらせようとしたことがあったよね」

「あー、あったね」

 

 何となく、末那は己の過去について語り始めた。

 いくら待っても走馬灯が意識の上に昇ってこないため、自分で語ることにしたのだった。

 

「みゆきさんは疲れてるから、とか、お母さんに楽をさせてあげな、とか、その他にも何だかんだと色々言われて、まだぼんやりとしかお母さんの仕事を知らなかった私は、渋々一回だけ『常連』の相手をすることに同意した」

 

 末那の母親は容姿で所得を得ていた。そして彼女は自身の娘を、自身が勤める店の『店長』に会わせたことがあった。

 

 その頃から、末那の容姿には母親の面影があった。母と違って理知的な雰囲気を身に纏っているし、仕事をさせるには幼過ぎるが、そのどちらもがとてつもない需要を誇ることを、その店の『店長』は熟知していた。

 

「充血した目で私の足を見てくる脂ぎった男に酌をして、まなちゃんはもう生理は来たのと聞いてくるサラリーマン風の男に曖昧に返事をして、10出すからホテルに来てくれとしつこく言い寄って来る男を必死に躱して。そうしてトイレに行く振りをして店長に「もう無理だ」って言ったら、じゃあここで休んでなって空き部屋に連れられて。本当に疲れていたから何の警戒もせずにその部屋で休んでたら、隠し扉みたいなところからさっきのしつこく言い寄ってきた男が入ってきて。それで、そいつは私に覆いかぶさってきたんだった」

 

 それは、母親がついぞ知らないままこの世を去った事実だった。末那はこのことを誰にも言わなかった。言ってどうにかなることでもなかったし、誰かに…………例えば彼女の友人に語って楽になるには、その出来事はあまりに生々しすぎた。

 

「多分、裏で店が何かの取引をしたんだろうね」

 

 童女のような声が補足する。末那は頷いた。

 

「息を荒げて、煙草とアルコールの匂いを漂わせた獣に体を押さえ付けられて…………すごく怖くて、気持ち悪くて、それで、私は」

 

 言葉を切る。

 

「あの時、私は…………私はどう思ったんだっけ」

 

 末那は首を傾げる。爆破の影響で露出した皮下組織に髪が触れるが、さして気にした様子もなく、瞳を彷徨わせて記憶をさらう。

 

 童女のような声が、その時の心情を彼女の代わりに言い添えた。

 

「『死にたい』、じゃなかったっけ」

 

 ああ、そうだった。末那は忘れていた昨日の夕飯を思い出したような声音でそう言った。

 

「あの男が私を犯すのにいくら払ったのかは分からない。知りたくもない。中学生になったばかりの少女を強姦する権利を得るために、未だ初潮の来ていない女の子の体を好き勝手するために、あの営業マン風の男がいくら払ったのかなんて。女の子の一番繊細なところを、性処理の道具みたいにしか思っていない男に、私がどれくらいの金銭で差し出されたのかなんて…………私が────」

 

 末那の声音に震えが混じる。いつの間にか掌が拳の形に握りしめられていた。

 

「私がいくらで買われたのかなんて」

 

 末那はこの世界に来て初めて、その顔を嫌悪に歪めた。

 

「私の知らないところで────私は買われていた」

 

 末那は爪が食い込むほど強く手のひらを握りしめた。力いっぱい殴りつけるものを探して瞳が彷徨うが、ここには草原と荒野以外、何も存在しなかった。

 

 境界で分かたれた世界には。

 末那自身と謎の声以外に、何も存在してはいない。

 

「多分、あの時だね」

 

 童女のような声が懐かしむように言った。

 

「お金と性。その二つへの嫌悪が、私たちの原点になったのは」

 

 末那は怒りに震えながら、もう一度声の主に頷いた。

 

「どうやって逃げたのかは分からない。気が付いたら私は店の外にいて、ぐちゃぐちゃになった髪と乱れた制服に、何故か痛む脇腹を押さえて、街灯の下で立ち尽くしていた」

 

 暗い夜道。繁華街の外れ。住宅と盛り場の境界線のようなところで、末那は立ち尽くしていた。胸の内では、こんなこと早く忘れてしまいたいという気持ちと、この怒りを決して忘れるなという矛盾した気持ちがぶつかり合う。

 

 轟轟と渦巻く感情のぶつかり合いに飲まれ、少女は薄暗い街灯の下で立ち尽くす。立ち尽くすことしか────できない。

 

「そういえばあの時、誰かに声をかけられたよね」

 

 ふと、童女のような声が今思い出したという声音でそう言った。

 

「そうだっけ?」

「男の子だった。確か、『大丈夫ですか』、って聞いてきたの。それで君は、返事の代わりにその子のことを────力いっぱい殴りつけたんだよ」

 

 末那は目を見開いた。忘れてた。唇がそう動く。

 

 童女のような声が続きを語った。

 

「本気で殴ったのにその子がびくともしないのを見て、驚くよりも先に恐怖を感じた。なにせついさっき自分の処女を奪おうとする男から逃げてきたばかりだからね。目の前の人間も、どうやら自分と同年代っぽいけど、その性別が男であることに変わりはない。激昂して襲ってきたらどうしよう。君は怒りから一転、もう一度恐怖に叩き込まれた」

 

 まともそうな人間でも中身までまともとは限らない。つい先ほど自分を犯そうとした男は、街ですれ違ってもなんとも思わないであろう風体をしていた。

 

「それで…………確かあの時、殴った私に、あの男の子は……」

 

 末那は記憶の中の光景を呼び覚ます。あの時、人生で初めて人を殴った後、殴られた少年は殴った自分に向けて────

 

「────あの男の子は自分のことを思い切り殴った君に、もう一度、『大丈夫ですか』って聞いたんだよ」

 

 優しい声音だった。声変わり前のハスキーなトーン。少年は末那のことを本気で心配していた。

 

 その時のことを、自分の心の動きを、末那ははっきりと思い出す。自分を捕食しようとする大人の男から逃げ、その先で自分と同じ…………性的に未分化な少年に出会い、そうして身を案じられた。

 

 その対比が、落差が、奇妙な安堵感を抱かせたことを、末那は記憶の切れ端で覚えていた。

 

「殴られたのにまだ心配するなんて、その男の子、なんだかあらやくんみたいだね」

 

 童女のような声はくすくすと笑った。声につられ、末那も口の端に笑みを浮かべる。ふと、あの少年に会いたいな、と思った。

 

 自分と同年代なら、きっと今は高校生だろう。どんな人間に成長しただろうか。

 

 その少年とその後何をしたのかは覚えていない。公園かどこかで話をしたような気もするし、そのまま別れたような気もする。末那はあったかもしれない少年とのやり取りを覚えていないことを少しだけ残念に思った。

 

「そのあとは、どうなったんだっけ」

 

「そのあとは……」

 

 ひとしきり笑った後、声は続きを促す。末那はその後のことを淡々と語った。

 

「その後は、特に何もないまま進級した。2年生になって間もなく、お母さんが自殺した。浴槽の中で冷たくなった死体を私が見つけた。早朝だった。顔を洗おうとして洗面所に行ったら、浴室からシャワーの音がして不思議に思ったのを覚えてる。人の気配がしないし、呼びかけても返事がなかったから、出しっぱなしのシャワーを止めようと思って浴室に入った。そしたら……」

 

「そこで、お母さんが腕を切って死んでたんだよね」

 

 浴槽からだらりと垂れさがった白い腕。赤く染まった水。ぽちゃんぽちゃんという水滴が垂れる音。発見が早かったためか、腐敗が始まっていなかったのが救いといえば救いだった。

 

「そのあとは?」

「葬儀が終わると、叔父の……お母さんの弟の家に引き取られた」

 

 葬儀はしめやかに執り行われた。あの時期のことは記憶がおぼろげでよく覚えていないが、遠い親戚が全てをやってくれたようだった。

 

 そうして別れの儀式が終わると、末那は新しい家に引き取られた。

 本人の意思とは無関係に。

 取り敢えずそうしておくかみたいなノリで。

 末那は叔父の家に引き取られた。

 

「そこで、君は何をされたの?」

「すごく……気持ちの悪いこと」

 

 初めはうまくやっていた。叔父と従兄と自分、3人の関係性はそれほど悪くはなかった。引きこもりの従兄は末那が来て以来部屋から出るようになり、叔父はそんな息子の変化に期待を抱いていた。末那は従兄から向けられる視線が時折妙な熱を帯びることに気が付いていたが、その時の彼女はそれを黙殺してしまった。母を喪ったことによる喪失感が、家族としての繋がりを求める結果となり、その視線を正しく解釈することが出来なかったばかりか、彼女は積極的に彼と家族になろうとさえした。

 

 してしまった。

 

 純粋な厚意と、母を喪った寂しさを埋めたくてした行為のいくつか。それがどんなふうに受け取られたか、末那は最悪の方法で知ることになった。

 

「あれは最悪だったね。特に下着を汚されたのは堪えた」

 

 草原からの声に怒気が混じる。末那は傷だらけの顔を嫌悪に歪めた。

 

「私をモノとしてしか見ない人間がここにもいると思った。私を意思ある一人の人間だと認めないやつが……獣がいると思った」

 

「人をコンテンツみたいに見る手合いだね…………ああいうのはどこにでもいる。確かバイト先にも一人いたしね」

 

 声が言及した者について、末那は思い当たる節がなかった。彼女はかつてのバイト先にいた男子大学生のことを、綺麗さっぱり忘れていた。

 

「それで?」

 

 声は続きを促す。末那の口調は次第にうわ言のようになっていった。

 

「それで…………バイトから帰ってきて、すごくだるかったからそのまま寝ちゃって……目が覚めたら……」

 

「あいつが、私を犯そうとしてた」

 

「私は力に目覚めて、あいつに『死ね』と命じた。何の抵抗もなくあいつは死んだ。そのまま置いておくと面倒だったから叔父にとどめを刺させた」

 

「その時、きみはどう感じた?」

 

「何も感じなかった。どうでもいいと思った」

 

「それで、適当に生きようと思っていたらあの家に引き取られたんだよね。あの家のことはどう思った? 住人たちは? やっぱりどうでもいいと思った?」

 

 末那は首を横に振った。

 

「どうでもいいとは思わなかった。ううん、思えなくなった。小夜おばあちゃんは優しかったし、阿頼耶はこれまで会ったことがないタイプの男子で、私にとって新鮮だった」

 

「君はどうして────あらやに恋をすることができたの?」

 

 末那は首を傾げた。そのことについて、末那の中ではまだ答えが出ていないはずだった。

 

「恋…………あれは恋だったのかな」

 

 本気で分からない末那は、逆に草原からの声に問いかける。結果は自身への更なる問いだった。

 

「君はあらやとキスできる? ハグは? 愛撫は? その先は?」

 

 ハグ、愛撫、そしてその先一連の行為。

 

 末那にとってそれらの想像は常に嫌悪感と共にあった。

 

 異性と触れ合い、甘い言葉を囁き合い、唇を重ねる。末那は小学生以来、それをしたいと思ったことがない。その意味で、末那の恋愛観は小学6年生で止まっている。

 

 恋愛観は小学生並みだが、知識の方は普通の高校生の少女と変わりがない。末那は恋愛が接触を伴うものだと理解している。知識としてだけではなく、感覚として、誰かに触れたいと思うことだってある。

 

 けれどもその時、触れたいと思った時に末那が心の中で夢想する相手は、いつだって顔も体型も曖昧な、マネキンのような人物だった。具体的な顔や体型をイメージしようとすると、どうしても嫌悪感が先に立ってしまうから。だから末那は、どれだけ有名な俳優だろうと、クラス中の女子が黄色い声を上げるイケメンだろうと、自分がその腕に抱かれている想像をしたことは、これまでの人生で一度もなかった。

 

「そんなの…………そんなの分からない」

 

 年端も行かない少女のように、末那は草原からの問いに視線を落とす。その頬はほんのりと赤みを帯びていた。

 

「ふふ」

「…………なに?」

 

 草原から届けられた笑い声に、末那は顔を上げる。

 

「そんなの、答えを言っているようなものだとは思わない?」

「…………」

 

 末那は再び視線を落としてしまった。声の言うことは的を射ているように思えた。

 

 不意に末那の喉元に熱いものがこみ上げてきた。奥歯をきつく噛み締めて、決壊しないように堪える。

 ぽろぽろと透明な雫が、末那の頬を零れ落ちていった。

 

「これが…………これが罰なのかな。触れても良いと思える人がいることに気が付けたのに、その人とあんな別れ方をして…………もう永遠に会えないことが、私に下された罰、なのかな」

 

 石くれだらけの地面を涙が濡らす。末那は何度も目元を拭ったが、熱い雫は次から次へと溢れ出てきた。

 

「罰、か」

 

 泣きじゃくる末那を見たためか、草原の声は少しだけ柔らかくなっていた。

 

「まあ、その辺りはおいおい詰めて行こうよ。今は考えても仕方がない」

 

 目元を拭う末那の前で、草原の地面がめくれ上がっていく。前回と同じ、目覚めの前兆だった。

 

「それに、罪だなんだって言うなら────」

 

 意識が攪拌され、どこかへと浮かび上がっていくような感覚の中、末那は自身の内側から鳴り響く声を聞いた。

 

 

 

 

 

 

「────きっと、罰はこれからだ」

 

 

 *

 

 

 目が覚めて初めに感じたのは、どうして目覚めることが出来たのだろうかという疑問だった。

 

 目を動かし、自分が何に横たわっているのかを把握する。白いシーツ、薄いピンクのカーテン、清潔さを思わせる匂い。

 

 病室か。

 私は鉛を詰め込んだみたいに重い頭で「意外だな」と思った。

 

 治療したのか。

 

 何はともかく起き上がろうと、私はシーツの中で手を動かす。ごわごわとした感覚。包帯? 右腕全体に巻かれた白い布。数秒して布の意図を理解する。

 

 そうだ、右腕は「爆破」したんだった。

 

「…………っ」

 

 がくん、と、起き上がろうとした体が支柱を失ったテントみたいに崩れ落ちた。匂いまで殺菌したんじゃないかってシーツに顔を突っ込みながら、私は自分の体がどうやら絶不調であるらしいことを知った。

 

 葉っぱの表面を這う芋虫みたいに体をくねらせ、元の位置に戻る。柔らかな枕に頭をうずめると、一仕事を終えたような倦怠感に襲われた。

 

 そのままぼんやりと天井を見る。

 力が入らない。起き上がることも出来やしない。

 しょうがない。

 寝ているか。

 

「…………」

 

 天井は和風だった。

 

 そうして木目を眺めていると、少しずつ意識がはっきりしてくる。同時に色々な想念が浮かび上がってきた。

 

 戦いのこと、白髪の男のこと、『殺せ』と自分に命令した時のこと、自分の中から別の何かが現れたこと。

 空間に響く童女のような声の主のこと。彼女と交わしたやり取りのこと。自分のこと。この私のこと。いつか出会って、でも忘れていた、とっても変で、けれどもすごく心優しい男の子のこと。

 

 あと。

 

 ────阿頼耶の、こと。

 

「…………なんでだろ」

 

 脱色したみたいに真っ白なシーツを握りしめながら、私は呟いた。なんでなんだろう。どうしてなんだろう。男の子が大好きなゲームを取り上げられてなんでお母さんはそんな酷いことが出来るんだろうって悲しむみたいに、女の子がどうしてお父さんとお母さんは結婚したんだろうと素朴な疑問を吐露するみたいに。

 

 なんでだろう、なんでなんだろう。

 

 どうして私は、あんなことをする人間になったのだろう。

 どうして私は、性と金が嫌いになる経験をしなければならなかったのだろう。

 どうして私は、『力』を得たらそれを無造作に振るうようになったのだろう。

 どうして私は……阿頼耶になら、触れても良いと思えたのだろう。

 

 阿頼耶。

 土御門阿頼耶。

 

 私はその些か仰々しい名前を復唱する。

 

 阿頼耶。

 土御門阿頼耶。

 土御門さん家の阿頼耶くん。

 

 優しい人。

 理性的な人。

 人を思いやれる人。

 

 私を守ろうとして、私を糾弾した人。

 私が好きになれそうだった人。

 もう────この世にはいない人。

 

「…………」

 

 頭が痛い。こめかみに心臓が出来たみたいだ。どくんどくん、鼓動に合わせて眼窩を突き刺すような痛みが頼んでもいないのに運ばれてくる。

 

 街灯に照らされて見えた赤。

 鼻腔を突き刺す鉄の匂い。

 生気を失って倒れ伏す体。

 ぴくりとも動かない体躯。

 

 なんでなんだろう。私は呟く。

 どうして私が生きて、阿頼耶が死んでいるんだろう。

 

「……?」

 

 入り口から人の気配がして、私の意識はそちらに向く。かつかつかつかつ、と、一定のリズムでヒールの音が近づいて来た。

 

 気配は私が横たわるベッドの傍までくると、意外にも控えめな動作でカーテンを開く。

 起き上がれない私は、目線だけそちらに向ける。白衣を着た女性と目が合った。

 

「お、起きてたか」

 

 彼女は瞼が上がっている私を認めると、ハスキーな声でそう言った。

 

「調子はどうよ」

 

 無事な左腕で脈を測り、ペンライトで瞳を確認する。一通りのチェックを済ませると、白衣の女性は適当な椅子を引き寄せた。

 

「…………」

 

 何秒経ったか。私が何も答えないでいると、女性は「まあいい」とさばけた口調で言い、

 

「体に異常はない。多少の…………結構な出血はあったが、命に障るほどじゃなかった。後遺症の心配もしなくていいだろう」

 

 用意された文章を読み上げるように、女性はすらすらと私の状態について説明した。

 

 あの時、タワー下で白菜のような頭の男と戦った時点で、私の行く末はいくつかに絞られていた。

 

 その一:私が死亡した場合。

 

 死体を処理されて終了。阿頼耶と共にその存在は抹消され、その消失がニュースになることすらない。

 

 その二:私が生きていた場合。

 

 生きていた、という言い方は適切ではないかもしれない。私の生死はあの男────『ごじょうさとる』に握られていたのだから、正確には『ごじょうさとる』が私を生かした場合、ということになる。

 

 この場合、まず爆破によって盛大な裂傷を負った私を治療するかどうかで分かれる。このように治療したということは、私に利用価値があるということか、あるいは死よりも重い罰を与えたいということになるだろう。

 

 もしくは裁判のようなものに出廷させられ、そこで裁きを受けた上で改めて殺されるという可能性もある。正義の機関ならば手順は大事だ。決められた制度への敬意。それだけが唯一、気ままに力を振るう者とそうでない者を隔てる境界線なのだから。

 

 気ままに振るっていた者が言うのだから────多分、間違いない。

 

 ────今の内に死んでおこうかな。

 

「生かされた」理由によっては、私はそうするだろう。恐らくは死にかけだった私を、彼らがコストをかけてまで延命させた理由。

 

 ────人体実験とか、力を使わされるくらいなら別にいい。でも……。

 

 力……「術式」がどういうものか、私はよく分かっていない。

 ただ、それが人間に宿るものならば。

「術式」もまた、遺伝しない理由はないだろう。

 

 ────「術式」を産む母胎にされるくらいなら…………いっそ……。

 

「何か欲しいもの、ある?」

 

 そんな考えを全部、私は意識の外に追い出した。

 

 女性の申し出に対し反射的に「いや、」の形に口を開いて、包帯が巻かれた右腕に意識が向く。ぐるぐるに巻かれた清潔な布。傷ついた部分の方が少ないような裂傷を負った腕の、その包帯の奥にはどんな醜い跡が残っているのだろうか。

 

 私は頬に触れた。同じく包帯の感触が返ってきた。

 

「────鏡をください」

 

 女性は私の意図を察するとどこか物言いたげな雰囲気になった。幾ばくもなく「くぎさき」と短く言う。ドアのあたりから「ほーい」と女性の声が返って来た。

 

 てっきりこの女性だけだと思っていた私はもう一人の存在に驚くが、そういえば彼らにとって私は危険人物なのだということを思い出す。

 

 声が聞こえてから間もなく、備え付けの机にやたらファンシーな鏡が置かれた。

 

 

 *

 

 

 起き上がるだけで全身の力を使い果たした気がした。

 

 息を切らしながら、私は「くぎさき」という女性が置いていった鏡に目を向ける。

 

 右腕の包帯を少しずつ取っていった。

 

 顔の包帯は白衣の女性が外していってくれた。もう必要ないらしい。右腕の包帯も外したら捨てて良いと言っていた。

 

 鏡を見ると、意外にもさほど様変わりしていない自分の顔があった。頬にも傷があったはずだが、そちらはあまり残らなかったらしい。注意して見ると肌の色が違う部分があるが、すれ違った程度では気づかないほどの微かな跡だった。

 

 私は外した包帯をくるくると丸め、ごみ箱に入れる。出てきた右腕を鏡にかざしてみた。

 

 まだら模様みたいな傷の跡。

 

 黒ずんだ皮膚の周りが突っ張り、皺が寄ったみたいになっている。そうした跡がいくつもあった。

 

 病室に備え付けの時計は音が鳴らない。静かな部屋の中、私はベッドの上で身を起こし、自分に刻まれた傷跡を眺めていた。

 

 

 *

 

 

 高専本部。

 どこかの会議室。

 

「────そうだ、件の少女はどうなった。確か使者との戦闘で負傷し、今は高専にいるとか何とか」

 

「精神を操る術式を持った少女だな。五条家のガキを交渉に遣わせた」

 

「負傷……何故負傷するような事態になったのだ?」

 

「あやつのことだ、自分に向かってくるようけしかけたのではないか」

 

「大いに有り得るな」

 

「呪詛師少女は先ごろ目覚めたそうじゃないか。何と言っているんだ」

 

「まだ何も。沈黙を保っているようです。治療に当たった家入女史によれば、鏡で傷跡を確認したこと以外に、能動的に何かをしたことはないと」

 

「引き続き経過を観察。仮に秩序に唾を吐きかけるようなら秘匿死刑でよかろう」

 

「私は今でも反対だがな。言葉一つで精神を操る術式、それも天与呪縛によるブーステッドだ。今後こちらに牙を剥かないとも限らない」

 

「なに、その時はやつが処理してくれるだろうよ。自分が担任すると名乗り出ているそうじゃないか」

 

「少女の瞬間的な呪力出力は特級並みだ。むしろ私は積極的に歯向かってほしいくらいだね。少女が癇癪を起こした結果、やつの脳に後遺症でも残ってくれればこれ以上愉快なこともあるまい」

 

「ひっひっひ」

 

「…………少年の方はどうなさいますか」

 

「少年? …………ああ、土御門の者か」

 

「どうするも何も、何かをする必要があるのかね」

 

「土御門家の当主からすれば彼はたった一人の孫です。怒りを買うのでは」

 

「放っておけ。所詮は耄碌した老婆だ。枯れ木が燃え上がったところで何もできんよ」

 

「時に、やつは少年を使って何かを企んでいたそうじゃないか」

 

「何か、とは」

 

「こちらの命令を改竄して伝えていたそうだ。少年を追い込むためとか」

 

「悪だくみを共有する相手をぼろ雑巾のように転がすか」

 

「やつらしいと言えばやつらしい。下劣なやり方よ」

 

「それも結局は闇の中だ。彼についてはこれ以上考えても仕方あるまい。次の報告を────」

 

 

 

 *

 

 

「────っていうわけで、呪詛師少女を高専に勧誘することは殆ど決定事項だったんだけど、頭の固い上層部には受け入れに反対するやつらもいてね。そういうやつらはJK呪詛師が持っている術式が怖いってだけなんだけど、その理由をやれ「倫理観に問題が」とか「良心の欠如が」とかぐちぐち言い繕って、さも自分は慎重派だみたいな風情を装うわけよ。まあ普段ならそういうやつらは放っておくに限るんだけど、今回ばかりはそうもいかなくてね…………。なんせ、そいつらが言うことにも────一理あるんだから」

 

 病室。陽光が差す清潔な空間で、五条悟は備え付けの背もたれがない椅子をがったんがったん揺らしながら、今回の経緯について病室の主に語っていた。

 

「文句を垂れる奴らを放っておいたら、「事故」だ何だといって処理しかねない。しかも元呪詛師だから、単純に生徒を殺すよりも心理的なハードルが低い。普段は腰が重いのに、こういうことに限ってはやたらと行動力を発揮する馬鹿が多いしね」

 

 五条は心底呆れたようにやれやれと首を振った。

 

「少女一人を処理するならまだ許せる。でも、その巻き添えで僕の大切な生徒たちまで危険な目に遭わされるのは到底許容できない」

 

 ま、そう単純にどうこうされるような生徒たちじゃあないんだけどね、なんてったってGTGの教え子だしぃ? 五条は両手の人差し指を天に突きつけながら得意げに言ったが、聞いている者からは特にこれといって反応はなかった。

 

 オーディエンスの無反応を特に気にすることなく、五条は語りを再開し、

 

「で、意図的に引き起こされる「事故」を防ぐ……というか辞めさせるためには、大義名分を奪えばいい。この場合は「倫理観がどうたら」ってやつ。少女は倫理観に問題なんてない。ちょっとばかしハイになってただけだ……みたいな証明ができればよかった」

 

 たとえ「事故」でも、それが何故起きたかは上層部に身を置く人間なら皆が知るところとなる。その「事故」に明確な大義がないのであれば、当然それを起こした者は立場が悪くなる。

 秩序を作るべき者が私的な感情で少女を誅するとは何事か、と。

 

「そのために、少し悪だくみをすることにした」

 

 五条はベッドの上に足を振り出した。足を乗っけられたベッドの主にちょっと、と文句を言われるが、さっきのお返しとばかりにそれを無視する。

 

 自分の文句を受け流す自由気ままな最強に、ベッドの主は諦めたようにため息を吐いた。

 

「まず、少女の同居人を精神的に追い込み、僕という最強に挑ませる。勿論僕は最強だからそんな悲壮な覚悟を決めた同居人を問答無用でぶっ飛ばす。そこに到着する呪詛師少女。彼女は倒れ伏す同居人を見て怒り狂う。大事な人を傷つけられた怒りに震えながら、少女は思う。誰がこれをやったのか、と。そこに満を持して現れるGTG。万物から拍手喝さいを浴びながら現れた男は言う。こいつ? ああ、俺が秒で砂にしたけど? 怒りの矛先を得た少女はこの男を殺すと決める。それが現代最強の呪術師とも知らずに…………」

 

 五条は何かを思い出したのか、僅かに言葉のテンポを緩めた。

 

「『大事な人を傷つけられて激昂する少女』っていう画を作ることで、「事故」を画策する者たちから大義名分を奪う作戦だったわけよ。ここまでオーケー?」

 

 親指と人差し指で丸を作る、所謂オッケーサインを見せながら、五条はベッドの主にそう尋ねる。

 尋ねられた人物は一度に全てを理解できたわけではないのかやや首を傾げたが、

 

「────はあ、まあ、オーケー、ってことにしておきます」

 

 曖昧に頷いた。

 

「で、結果としては大成功って感じ。冥さんにお願いしたから物証的な映像も残せたし、これを資料として提出すれば「慎重派」も動きにくくなると思うよ。動きにくくなる、ってだけで、警戒自体は必要だけど、ま、その辺は大丈夫でしょ。優秀な先輩たちが付いてる」

 

 五条はぱん、と手を打ち鳴らし、この話題がこれで終わりであることを示す。

 

「で、君の方だけど────」

 

 呪詛師少女についての話を終えた五条は、ベッドの上で上半身を起こした少年に向き直り、

 

「────高専への転入手続きを進めるってことでいいかな、あらやん」

 

 いつもの薄ら笑いを浮かべてそう言った。

 

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