警察は『引きこもりの息子が同居人の姪を襲おうとしている現場に直面し、ショックと失望がないまぜになった状態での突発的だがある種必然的な犯行』という私が描きたかったシナリオへとすんなりたどり着き、そしてそれをあっさりと信じてくれた。
私は殆ど何も言わなかったが、叔父がすべてを語ってくれた。
凄惨な話だが特別な話でもない。
叔父の動機も犯行のきっかけも通常の人間の想像力の範囲内だし、死体の手跡や犯行の現場といった全ての証拠も彼の供述を裏付けている。私を疑うことは科学的にすら不可能だ。
自作の鍵や私物が少ないことについて尋ねられた時は、絞り出すような声音で「彼は寝ている私や私の私物に気持ち悪いことを」と言うだけで、彼らは私に都合のいいように想像力を働かせてくれた。
それ以来私には女性の警察官のみが付くようになり、私は彼ら彼女らから最大限の尊重をもって扱われた。
*
違和感に目覚める。胸をまさぐられている。悲鳴をあげて突き飛ばす。猛烈な不快感。
床に這いつくばるそれ。汚濁。嫌悪感。何も理解していない顔。
猛烈に膨れ上がった殺意。
爆発、そして___全能感。
この世のすべてが自らの思いのまま。
あの時の感覚は最高に気持ちがよかった。
私は警察から与えられたホテルの一室で昨夜のことを思い返す。
不快感、嫌悪感、そして憎悪、殺意。混然一体となったそれらが、防衛本能をトリガーに爆発した時、私の内側から途方もない力があふれ出した。
そしてその力の奔流は、私の内側に刻まれた何かに触れると、その性質を変化させた。
純粋な力から、人を操り、隷属させる力へと。
この力が何なのかは分からない。
唯一分かっていることは、この力を使えば、人の精神を操ることができるということ。
単純に動きを止めたり、人を殺させたりすることは勿論、記憶や意識の改ざんさえできる。
現にこの力で操られた私の叔父は、何の疑いもなく自分の意思で息子を殺したと信じている。
それと、この力に目覚めてから一つ、不思議なことがあった。
署の廊下の隅、電信柱の陰、ビルの隙間、その他、鬱屈として、暗く、湿った場所に、目に見えない存在を感じるのだ。
どれだけ目を凝らしても肉眼では見ることはできないのに、力を使うと確かにそこにあることがわかる。そしてそれらは全て、嫉妬や怒りといった負の感情を湛えている。
私はそれらを霊のようなものだと考えることにした。
精神のみでこの世に存在する、肉体を持たぬ亡霊たち。
どうやら人という生き物は、死んでもなお、この世と感情に囚われ続ける生き物らしい。
私は備え付けの鏡を見つめ皮肉気に笑う。
鏡の向こう側で、美しい少女が嗜虐的に嗤っていた。
*
授業中の教室は静かだった。
チョークと黒板がぶつかる音、ノートにシャーペンを走らせる音、教科書をめくる音。雑多な音に溢れてはいるが、その場にいる者は寝ているか集中しているか退屈しているかのどれかで、静寂とは異なる、教室特有の静けさがあった。
やたら声が良いせいで生徒を眠りに誘うことで有名な教師の、それでなくたって眠くなる関数についての授業を聞きながら、私はこれからの生活について考えていた。
中学二年から生活していた家は殺人の現場となってしまった。今まで扶養者だった叔父は最低でも五年は塀の中から出てこられない。
警察は身寄りのなくなった私を引き取ってくれる親類を探しているが、見つからないだろう。私は施設に入ることになるだろうが、長居をする気はない。
タイミングを見て抜け出し、自由に生きることにする。
学校には通いたいから、適当な物件を探すことにする。アルバイトは続けるつもりだが、人が一人生きていくのには貯金を切り崩してもすぐに限界を迎える。金策を考えなければならない。
ふと、こんなことなら叔父に息子を殺させたうえで自身も自殺させればよかったかと思うが、それでは私に捜査の目が向くことになっていたかもしれないとも思う。
どちらにしろ、叔父には財産と呼べるようなものは何もなかっただろうし、なけなしの預金も賃貸物件を汚した後始末のクリーニング代で吹き飛んだことだろう。自殺までさせるのはリスクが大きすぎた。それに、私自身、叔父にはそれほどの恨みはなかったし___
私は思考を切り替える。
目下考えるべきは金策。ただ、私はそれほど心配していなかった。なぜなら私には力があるから。
他人を意のままに操るこの力を使えば、人が一人生活していくのに必要な諸々など、容易く確保できるに違いなかった。
私は退屈しのぎにその方法を考え始めた。
住む場所の確保を考えよう。
不動産業者を操って手ごろな賃貸を借りる…借りる際の書類はいくらでも偽造できるだろうが、数字までは操れないから家賃を払っていないことがいつかは発覚する。偽造も素人がやったのではかえって証拠を残すことになる。
では大家もろとも操る…家賃の振り込み記録がないのはおかしい。仮にそれに疑問を抱かせないようにできたとしても(まず間違いなくできるだろうが)、直接操った不動産業者と大家本人以外がその事実に気が付いた場合、その人物も操らなければならなくなる。これでは気が休まる暇がない。
書類の偽造や家賃の未払いが発覚したとしても、業者と大家に会うたびに彼らの脳内の私の認識を歪め、顔と名前を覚えさせなければ私の身元はばれないか。いや、周囲の住民全員の認識を歪めることは現実的ではない。可能不可能でいえば可能かもしれないが、私の力では監視カメラは誤魔化せない。背格好、年齢、顔はすぐにばれる。賃貸に関わる者を操るのは却下か。
では単純に金銭を得るだけならばどうだろうか。
コンビニ強盗…監視カメラは誤魔化せない。却下。銀行強盗…同じ理由。却下。
通りすがりの人間を力で操り金銭を譲ってもらう…小遣い稼ぎとしてなら有かもしれないが、それで生活するだけの金銭を得ようとするのはあまりにリスクが大きい。
財布の中身を把握しているのは本人だけとは限らない。いや、募金したと思わせればいいか。
頻繁に場所を変え一度に受け取る金銭を調節すれば発覚もしないのでは。ここは首都東京。電車で二駅も離れればそこには所得も仕事も何もかもが違う人々が住む。
案としては良いかもしれない。監視カメラの場所のチェックさえ確実にできれば、それなりに現実的かもしれない。金策の一つとして考えておこう。
そこまで考えたところでチャイムが鳴り、授業が終わった。私は弛緩した空気の中で、この力を使ってできることを想像し、微かな興奮をおぼえていた。
結論から言って、私の考えたいくつかの金策は、全て実行されることはなかった。
私の母の従妹叔母が、私を引き取っても良いと言い出したからだ。
*
タクシーの窓に切り取られた景色が、後ろへと流れていく。都会のつまらない景色。ビルや商業施設は多いが、それだけだ。東京の風景は、私にとっての原風景にはならない。じゃあ何が私の原風景かと問われると、さあなんでしょうと答えるしかないので、それは結局私に故郷がないのが原因なのかもしれなかった。まあ、そんなことはどうでもいい。私はより実利的で生活的なこと。ざっくり言えばこれからのことについて考えようと、頭を切り替えた。
今向かっているのは、私の引き取り先。麻布十番にある一軒家だ。聞いたことのない地名だが、地図を見ると随分都心にある。そこそこお金持ちと予想されるが、どうなのか。
麻布十番にある引き取り先。そこには、70代の女性とその孫が、二人で暮らしている。
孫の年齢は17。学年は私と同じ高校2年。性別は、男。
性別は男。
その言葉に、その属性に、私の中から嫌悪感が沸き上がる。私と同年齢の男。青年と少年の間にいる男。動物界脊索動物門哺乳綱サル目ヒト科ヒト属sapiens種、男。
同じようなやつだったらどうしよう。
私は考える。
私が叔父に殺害を命じた私の従兄と、同じような人間だったらどうしよう、と。
祖母の話によると学校にはきちんと通っており、成績は優秀。人好きのする優しい少年らしいが、真偽のほどは分からない。孫へのひいき目がどれだけ入っているのか知れないから、というよりも、もっと単純なことで、たとえまともな人間でも、特定の状況においてはまともじゃなくなるからだ。
死ぬ間際まで私を性の対象としてしか見ていなかった従兄も、初めはまともだった。今となっては私自身も少し信じられないが、少なくとも彼と出会った当時の私にはそう見えていた。しかし共に生活するにつれて、彼は内側に秘めていた利己的な欲求をさらけ出すようになっていった。
今度の同居人も、そうならない保証はない。
ふと、私は思う。
このような心配や危惧というのは、私が私だから生じるのだろうかと。
私の中にある異性を惹きつける形質が、すべての原因であり、また、この心配事の究極的な源であり。
まともな人間がまともじゃなくなる特定の状況というのは、私という「欲望をさらけ出させる存在」が、共に生活しているという状況を指すのだろうか、と。
私は自嘲した。
なぜこんな自罰的な考えが浮かんだのだろう。
見るたびに視姦してくるのも、私物をくすねるのも、下着を白濁液で汚すのも、全て従兄が自分自身で行ったことだ。私が彼にさせたことではない。
性暴力に遭った女性の中には、自分に非があったと思い込んでしまう女性もいるらしい。私の受けた被害が性的な傷害といえるのならば、この自罰的な考えはそのような被害者特有の症状の現れといえるのかもしれなかった。
私は漫然とそんなことを考えながら、都内の街並みを眺める。
ふと、携帯が震えた。メールが一件。差出人は、引き取り先の遠縁の祖母。
『お疲れ様。今どのあたりかい。お夕飯、お寿司とおそばとピザならどれがいいかな』
どうやら私が来ることで気を遣ってくれているらしい。私はその気遣いを好意的に受けとめた。
『お気遣いありがとうございます。その3つならお寿司が良いです。18時には着くかと思います。これからよろしくお願いします』
寿司なんて小学生以来食べていない。私は豪勢な食事ができそうなことに気分が上向いた。最後の一文を付け足すかどうかは迷ったが、加えてもそう不自然はないし、私はそれを付した上で送信ボタンを押した。
たとえ本心では、引き取られることを迷惑に感じていても。
アプリを切り替え、マップを表示させる。目的の住宅はもうすぐだ。二つ折りからずいぶん進化したそれ(当然費用はその辺の人から拝借した)を撫でながら、私は今一度思考する。
同年代の男と生活しなければならないという心配事はあるが、もしも嫌悪感や身の危険を感じたら、そいつの精神をゲイにしてしまえばいい。
何度かの実験で、記憶だけでなく嗜好についても操作が可能なことは分かっている。性的嗜好をいじったことはまだないが、ほぼ確実に可能だろう。遠縁ではあるが一応親類の人生を大きく歪めるのはやや気が咎めるが、昔みたいに、毎日視姦されるよりはずっといい。
それに、殺しはしないだけありがたいと思ってほしいものだ。
タクシーの窓に切り取られた景色が、住宅街へと変わってくる。ふと、とある邸宅の塀の陰で、野良猫がまぐわっているのが目に入った。
それを見て、私は『永続的な精神の去勢』はできるのだろうかと思い、それについて考え始めた。
*
引き戸を開けようとすると、がちりと音が鳴り手に抵抗が感じられた。鍵がかかっている。後ろ手に鍵を取り出し、開ける。ただいまー、と言うが返事はない。
たたきを見ると靴が一つもなかった。
でかけているのか。
リビングの座椅子に適当にかばんを放り、キッチンへと向かう。冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注いだ。
なみなみと注がれたコップを持ち座椅子に腰掛けると、ふと座卓の上にメモが置かれているのに気が付いた。
『駅まで迎えに行ってきます。』
誰をだろうか、というのが率直な感想だった。
俺も祖母も、俺たちの顔を見にわざわざ訪ねてくるような親類はおよそ考えられない。おそらくは祖母の友人だろうが、それにしたってかなり珍しい。
俺は祖母が事前に何も言わなかったことを少し不思議に思った。
ふと壁掛けの時計を見る。
夕方時。夕飯の準備を始めるころだ。先ほど見たキッチンには夕飯は準備されていなかった。ということは十中八九、今日は出前を取るのだろう。
思いがけず沸いた豪勢な夕食の予感に俺の気分が上向いた。
祖母の友人が来るならやはり寿司だろうか。それとも最近できた高級そうな蕎麦屋か。あるいは歳の割にジャンク好きな祖母ならばピザの線も有り得るか。
などと考えていると、表に車が止まる音がした。次いでばたんとドアが閉まる音も。
俺は飲み干したコップをシンクに置くと、財布を持って玄関へと向かった。
たたきで靴をつっかけていると、タイミングよくチャイムが鳴る。俺はわくわくしながら、玄関の引き戸に手をかけ、お疲れ様でーすと言いながら引き戸を開けた。
*
料金を払ってタクシーを降りる。背後でばたん、とドアが閉まった。
革製の長財布をパンツのポケットに仕舞いながら、私は目の前の家を見る。
まず目につくのが、大きな門。扉は開け放たれており、内部が見える。
10mほど先には引き戸の玄関。門から玄関までは整然と石畳が敷かれている。家を囲む塀は高く、瓦屋根の上から葉の細い和風な木が生い茂る。
門に表札もインターホンも見当たらなかったため、私は敷地の内部へと足を踏み入れた。
内部は純和風だった。盆栽をそのまま大きくしたような木、淵を石で固められた池、庭の裏へと続く飛び石。
私は知れず深くため息を吐いていた。
まるで、ここだけ違う世界のようだ。
通りを走る車の音は遠く、微かに耳に届く程度。目に映る物全てがそのコンセプトを統一されている。
これは領域だ。
外界と切り離された空間。個人によって作り出された、あるいは切り出された究極的な私的空間に、それ以外のどんな言葉を当てはめればよいのか、私には分からない。
庭を通り、玄関の前に到着する。引き戸の横にインターホンと表札があるのが分かった。名前を確認する。
『土御門』
ここで間違いない。
私はこの家が本当に私の引き取り先であったことに微かな喜びを抱いた。私はフルコースより懐石料理派だ。食べたことはないが。
インターホンを押す。ピンポーンと鳴り終わる前に、玄関の中から人の気配がした。
丁度出てくるところだったのだろうか。
私は気持ち姿勢を正した。扉の向こう側で引き戸に手をかける気配がする。がらり、と引き戸が開かれた。
「おつかれさまでーす」
気の抜けた声とともに、私と同年代くらいの男が出てきた。