*
「何だ今の」
☆や顔文字、半角カタカナを多用した、凄く頭の悪い文章。そんなひと昔前どころか化石みたいな時代のノリに、どろどろに煮詰まりきった悪意を目一杯詰め込んだような、そんな謎の毒電波をどこかから受け取ったような気がして、俺は痛みを訴えるこめかみを押さえた。
「……勘弁してくれ……」
こめかみをぐりぐりと刺激し、ストレスに(散れ~散れ~)と念を送る。
ただでさえ進路のこととか年々増え続ける呪霊とかで心労がマッハなのに、何でこうトラブルというのは連続してやってくるのだろうか。
距離感が全く分からない新しい同居人、悪意もりもりの精神操作の呪詛師、同居人に残穢があったとかなかったとかいう騒動(祖母ちゃんが詳しく視たが、結局残穢は確認できなかった。祖母ちゃんは適当な五条さんに切れた)そこに新たに謎の毒電波を受信する体質まで加わるのか。
もしかして俺は精霊とか地球の意志的なものに嫌われていたりするのだろうか。地球への敬意が足りないとかで。
今後、プラスチックはちゃんと分別して捨てよう。俺はひそかにそう決意した。
「どしたの、あらやん」
「いや、なんでもない」
前の席から投げかけられた声に手を振って応える。俺は「ちょっと頭痛が」と言い教科書を取り出す。俺のことをあらやんと呼んだ男子は、興味なさげに「ほーん」と言った。
「にしても、あらやん、きみ、町田さんと面識あったんやね」
俺は机に顔面を叩きつけた。がごん、と鈍い音がして、机が盛大に揺れる。「ど、ど、ど、どうしたん!?」と困惑した声が頭上から聞こえたが、俺は何事もなかったかのように起き上がった。
「ああ、町田さんね。面識、うん、なんか、偶然ね……」
動揺を抑え、平静を装い、さもどうでもいいことのように言う。男子は「そ、そうなん?」と戸惑った声をあげたが、それ以上その話題を追及してくることはなかった。
「……え、まじで?……」
「……うん、なんかさっき……」
「……え、付き合ってるとか……?」
「……どうだろ、そんな感じじゃ……」
ざわめきに包まれた教室。それはいつもの昼休みの喧騒ではなく、教室内の人間が全員ひそひそ声で話しているような、そんなざわめき。大声で語ることは憚られるが、語らずにはいられない。そんな雰囲気が今の教室内を支配していた。
トラブルといえば喫緊のものは間違いなくこれだろう。俺は再度憂鬱なため息をもらした。
町田末那。
言わずと知れた美少女。彼女に恋をした男は数知れず。しかし実らせた男は一人もいない。
その美貌はいずれ癌にも効くと言われている、天才的な美しさを持った美少女。
「……は?なんであいつが?」
「……知らない、なんか用でもあったんじゃねえの」
「……殺しとく?」
「……処す?処す?」
学校生活において、彼女が口を開くことは殆どない。
訂正。
彼女が
彼女が男子から話しかけられた場合のデフォルトの対応は無視だ。教師からの連絡など、用件が明確な場合は、はい、とか、いえ、とか、必要最低限のワードで済ませる。
彼女がまともに会話をするのは、入学初日から共に過ごす同じクラスの女子3人だけ。
そんな鉄壁で守られた美少女に、なにやら小走りで追いかけられ、更には腕を掴まれ、あまつさえ顔を近づけ内緒話をした男子が、この教室内にいるらしい。
俺だった。
教室内のざわめきの原因はそれだ。事件はおろか、出来事とすら呼べないような些末事。
そんなことでも、町田末那が行ったというだけでそれは大事件になってしまうのだ。
「……冗談みてえ……」
ざわめきはやまない。
教室内の生徒たちは遠巻きにこちらをちらちら見ては、仲間内でひそひそとささやく。
俺をあらやんと呼ぶ男子以外は、誰も俺に直接話しかけてこない。それは俺がこれまで意図してクラスメイトとの交流を絶ってきたからだ。
なぜなら、呪霊との戦闘は常に命がけ。であるならば命を懸ける場面で友人の顔がちらつくような事態は避けなければならないのだった。
真っ赤な嘘だった。単に前の席の男子以外に友達ができなかっただけだった。
「……なんだろ……二重につらい……」
これが世にいう「ぴえん」というやつか。俺は少しだけ流行に追いつけた気がした。十中八九気のせいだった。
居心地の悪さを誤魔化すように腕をさする。そこは先ほど意外なほど強い力で末那に掴まれた辺り。
俺の腕を彼女が掴んだ時、思わず振り向いた俺が見たのは、驚愕により大きく見開かれた瞳だった。
恐らく彼女は俺が同じ高校に通っていることを知らなかったのだろう。それでいるはずのない姿を見つけたため、思わず追いかけ、その腕を掴んでしまった。
ただ、捕まえたところで特別話すこともない。なぜ同じ高校に通っているのかと詰問したところで、どうせ「そこに高校があるから」とかアルピニストみたいな返答が返ってくるだけだ。
だから彼女は“後で”と言い残し、それ以上の会話を避けたのだろう。もしかしたらそれはこれ以上余計な注目を浴びないようにという、俺への気遣いだったのかもしれないとふと思うが、そんなことは有り得ないと即座に打ち消す。その推測の根拠となる、俺と彼女の関係性があまりに薄かったためだ。
俺は彼女を責めることができない。
学年中どころか隣町の高校に通う男子さえ魅了する美少女。俺にとってその存在は、そんな人がいるのねん程度の重みしか持っていなかった。わざわざ顔を見に行くほどの興味も、話しかけに行こうぜと悪乗りできる友人も、どちらも持っていなかったためだ。
「……しょうがないよ……忙しいんだもん……」
幼児向け番組に出てくるぬいぐるみのような口調でぼやく。勝手にボランティアをやって忙しくしているのは自分自身なのだが、そのような些末なことは全力で棚に上げておいた。
「……なんだ……それだけ…………」
「…………やっぱ……美人だから……」
「……別にどうでもよくない………………」
「………………えー、なんか面白いじゃん……」
「……あれを……こうして…………」
「……ああ…………こっちの方向から……」
「……………決行は今晩………」
「……鈍器で後ろから………………」
クラスメイトたちは依然遠巻きにひそひそとささやいている。
気まぐれにそのささやきに耳を傾けると、その内訳は、純粋な好奇心が5割、妬み、嫉み、嫉妬、やっかみ、的な敵愾心が4割、そして後の1割が、割とマジの殺意。
どれに女子が多くてどれに男子が多いのかは正直確かめたくもない。
というか殺意って、なんで呪霊でも呪詛師でもなく一般人から命を狙われにゃならんのだ。
はよチャイム鳴れ。俺は切にそう願った。
ただ、他人の関係を無責任に噂する彼らのことも、俺は責める気になれない。
この状況で誰か責められるべき人間がいるとしたら、それは間違いなく、この状況をネタとして消化できるだけの関係性をこれまでクラスメイトと築いてこなかった、俺自身であった。
「……転校しよ」
それはそれとして転校はする。
クラスでの立ち位置がゼロがマイナスになったのだから、もう一度ゼロから始めるのは極めて合理的な選択のはずだ。
俺の脳裏に、うぇるか~むと言う某最強黒目隠しの顔がよぎった。
*
暖かい湯が身体をつたい、足元まで流れ落ちていく。ヘッドから流れ出るお湯は、髪の毛に沿って流れを作ると、身体をつたい、その温度を徐々に失わせながら、排水溝へと流れてゆく。
お湯が身体を滑り降りる感覚は心地良く、私は身体の奥の緊張が少しずつほぐれていくのを感じていた。
ただ、少し熱すぎるかもしれない。私は温度調節のノブを掴み、手前に回す。夕焼けのグラデーションのように、緩やかに温度が切り替わった。
温度調節とは逆側のノブを回し、お湯を止める。襟足のあたりに両手を差し込み、髪の毛全体をボニーテールを作る要領で一つにまとめる。浴室の棚に置かれたボトルを数回プッシュし手になじませると、余分な水気を絞った髪に手を差し込み、わしゃわしゃと洗い始めた。
「…………ん」
適当に伸ばした髪は、洗っていると頻繁に手に引っ掛かる。伸びればその分髪の毛同士がこすれて痛むからだろう。単純に髪の量も増えているし、そろそろ切り時かもしれない。今度の休みに切ってしまうか。引っ掛かる部分を適当に一まとめにして洗いながら、そう決めた。
泡にまみれた手でノブを回し、お湯を出す。シャンプー剤が残らないように、念入りに髪を流していく。2分ほどかけて流しきると、コンディショナーと書かれたボトルを手に取った。小夜がしきりに「使いなさい」と言うが、何分効果的な使い方というものを知らないので、適当に数プッシュし髪になじませる。確かに、これをし始めてから櫛の通りが良くなった気がした。
再度髪を流し、別なボトルに手を伸ばす。今度はワンプッシュだけ手に取り両手になじませると、そのまま腕にスライドし、脇、胸、腹と、全身に刷り込むようにして広げていく。手に薬剤のぬめりが感じられなくなるとボトルをプッシュし、全身をぬめりで覆うようにして、身体を洗っていく。
ふと、身体を撫でていた指が、胸のふくらみの先、そこにある柔らかな突起に触れた。
直後、全身に走った不快な刺激に、眉が顰まる。
胸のふくらみの先にぽつんとあるそれは、生物的な意味では哺乳類の証であり、生殖と子育てを行う予定のない者にとっては何の用途にも資さない器官だ。男のそれに至っては本当に無意味だし、女にしても子どもを作る気のない者にとっては、走ると擦れて痛みを発するだけの無意味な器官である。
私は母ほどには育たなかった(別に育たなくていいが)ふくらみの先にあるこの器官について、何となくそう考えていたのだが(”これ”に確固たる哲学を持つ者がいるかは知らないが)、最近になって、というか高校生になって、亜里沙たちが読んでいるような女性向け雑誌を読むようになると、その認識が少しずれていることを知った。
どうやらこの無意味な器官は、生物的な本来の用途とは別に、
私としては借金を負っているわけでもない女性が、金銭のためでも、もちろん子どもを作るためでもなく、男性と性行為をするということの方に驚いたのだが、出版社の異なる複数の雑誌を読んでも、またバイト先の女子大生に尋ねてみても、どうやらそれがスタンダードであるらしかった。特別深い関係にある男女、所謂“付き合っている”状態にある男女は、子どもを作るためではなく、ただお互いに快感を得るためだけに、性行為をする。
私はそれを「もしかしたら遊んでいる人たちの間では、そういうこともあるのかもしれない」程度に考えていたのだが、どうやらその後に見聞きした情報によると、今の社会おいてはそれこそが普通であり、むしろ交際している男女においてはそちらのほうが健全であるらしい。女性向け雑誌が「女だって知りたい、彼との〇〇特集」と称し、性行為について当然のように取り扱っているのだから、一般的な、いわば平均値的な女性たちというのは、生殖目的ではない、快楽目的の性行為を当然のように行い、そしてそれは男女交際とは切っても切り離せない関係にあるようだった。
私でも、性行為が快楽を伴うものであるということくらいは知っているし、交際関係にある男女がそういうことをするのも、まあ理解している。
より速く走り、より獲物を多く捕まえることができるライオンは、そうでないライオンよりも生き残りやすい。そのようなライオンは生きている時間が長い分、他のライオンよりも生殖活動の機会に恵まれる。よって、優秀なライオンの形質(速く走る)は、そうでないライオンの形質よりも、次世代に残りやすい。
ただし、長く生きていたとしても、そのライオンに生殖への欲求がなければ、その優秀な遺伝子が次世代に残されることはない。そのため、優秀だが性行為を好まない個体というのは、進化上何の意味もないことになる。
なので、動物である人間が性行為に快感を感じることは、進化上いわば必然といえる。性交で快感を感じない個体は次世代を残さないので、その形質が次世代に残ることはないためだ。
だから、快感を得るために性行為を行うこと自体には、あまり驚きはない。人間はそうプログラムされている。
私が驚いたのは、石器時代でもないのに、20代の女性が、平均して5人以上の男性と関係を持つということに対してだった。
社会のスタンダードであるらしい、交際人数=経験人数の前提が正しいのだとしたら、5人と交際経験のある女性は5人の別な男と性行為をしたということになる。私は亜里沙が読んでいた雑誌にそのデータが載っているのを見た時、結構な衝撃を受けた。驚きついでに亜里沙たちにどう思うか尋ねると、3人とも(一応は)多いと思うと言っていたので、相当に個人差というものはあるのかもしれないが。
そんなことをつらつらと考えながら手を動かしていると、全身を洗い終えた。私はノブを回し湯を浴びる。ヘッドを掴み、泡が残らないように全身に湯をかけた。
ヘッドを持つ手とは反対の手で身体を撫ぜ、泡を落としながら、私は思う。
精神というソフトの面では、私は普通の性や性行為、それに伴うとされる快感を貪ることに、嫌悪感しか感じない。しかし肉体というハードの面では、私はいたって普通の女性としての身体を持っている。
ならば私も、いずれその快楽に気づく時が来るのだろうか。
全身の泡を落とし終えると、浴室用のゴムで髪をまとめ、湯舟に向かう。大人が優に3人は入れそうなそれに、恐る恐る足を伸ばす。両足を入れると、まとめた髪を胸の側に垂らし、湯に浸からないようにする。私はゆっくりと腰を下ろし、湯舟に全身を沈めた。
ぬるめに設定されたお湯が、染み入るように全身を浸していく。思わず満足げなふへーともはわーともつかない声が漏れるが、心配せずともこの家では風呂に入る際に気配を殺す必要はない。私は湯舟の端に後頭部を預けると、心地よさに導かれるまま両眼を閉じた。
頭の奥に、じんわりとした心地よさが広がっていく。
ぼんやりした頭で思う。
完全に気を抜いた状態で風呂を済ませられるというのは、なんて幸せなことなのだろうか。
音が出ないように衣擦れの音を極力殺して服を脱いだり、水の滴る音が鳴らないようにシャワーの出力を慎重に調整したり、その結果シャワーがお湯にならずに冷たい水しか浴びられなかったり、そのせいでシャンプーが泡立たなかったり、定期的に入浴のために友人の家にシャワーを借りに行ったり、脱いだ洋服を勝手に使われないようビニール袋に入れて浴室に持ち込んだり。そうしたことをする必要が一切ないのだから、その安心感たるや。
この前由美に「雰囲気が変わった」と指摘されたが、その一番の理由はこれかも知れない。
湯舟の中でゆらゆらと手を動かし、掌に伝わる抵抗感を楽しむ。
私も何だかんだで、新しい環境を満喫しているのかもしれなかった。
私は苦笑し、土御門家に来るまでのことを思い返す。
『力』に目覚め、さあ自由に生きていこうと思った矢先、遠縁の、法律上扶養の義務すら存在しない親類が身元引受人に名乗りを上げた時は、殺意さえ覚えたし、同居人に同世代の男がいると聞いた時は心底うんざりしたが、いざ蓋を開けてみれば、ここは理想に限りなく近い環境だった。
最近知ったことだが、麻布は高級住宅街で、そこに邸宅を維持する財力など、物質的な豊かさもさることながら、私は、この家の家主である小夜のことが、それほど嫌いではなかった。生活の中で何かと気にかけてくれるし、必要な物は全て買い与えてくれる。私の大学の学費も、何故か当然のように払う気でいるし、受験に向けて学習塾に通うことを見越し、私よりも熱心に塾の評判を調べたりしている。
そんな小夜に対して、最初は戸惑っていた。けれども最近は、もし私に祖母がいたとしたらこんな感じなのだろうかと思うようになっていた。
単純な話。
無償で愛してくれる人間を、嫌いになることは難しい。
特に意識せず思ったことだが、ふと、その言葉の持つ意味に気が付き、私は一つ新しい発見をした。
__そっか、これが、愛されてるってことか
私は産まれて初めて、誰かから愛されていると確信できている自分に気が付いた。
生前の母から愛を感じなかったわけではないが、彼女のそれはどちらかというと自己愛の部類、自分と同じ顔をした存在を愛している感覚だった。
だから母の意図にそぐわないこと、それはつまり母ならばやらないようなことを、私がやるようになると、彼女の愛は離れていった。
小夜の愛はそれとは違った。
何も押し付けることなく、何かを期待することもなく、ただ私の存在を肯定し、その生に寄り添う。私の幸せのために、その労力を使ってくれる人がいるというのは、なんだか不思議な感覚だった。嬉しいようでいて、その裏でなんだか泣きたくなるような。
ただ、とても心が落ち着く感覚だった。
「…………ふぁ……」
徐々に瞼が重くなってくる。きれいな湯舟に浸かれることも、そこでうとうとできることも。私にとってはそのどちらも、新鮮な幸せだった。
意識が薄れていく中、ふと私は、もう一人の__小夜ではない方の同居人のことを思った。
私と同年代の男。小夜の
小夜とは対照的で、初日以来、彼とは殆ど会話をしていない。
気を遣っているのか、朝食や朝の時間帯に顔を合わせたことはなく、互いに顔を合わせるのは夕食の時だけ。
加えて、私が一階にいる時に彼がリビングの螺旋階段を降りてきたことはなく、トイレや入浴を済ませた後に廊下で鉢合わせたこともないのだから、彼のそれは徹底している。
最初の頃はあまりにも顔を合わせないため不気味に思い、3年間に渡る前環境の生活で刷り込まれた警戒心から、隠れて何かをしているのか、あるいは小夜のいない間を見計らって仕掛けてくるかと身構えていたが、どうやらそのどちらでもないようで、彼はただ単に、私に興味がないようだった。
彼に対して『力』を使い、私に興味を持たないよう去勢した記憶はない。もしかしたら無意識の間にやっていたのかもしれないが、『力』によって操作された精神には、独特の違和感が残る。その人間がその人間であるという一本の筋のようなもの、いわば人格の一貫性とでもいうべきものが失われるのだ。
これを認識するのは難しく、私もクラスメイトにサンプルがいなければ気づかなかったかもしれない。いつぞや交際を申し込まれ、その後私がゲイにした男子生徒は、変わらず学生生活を送っているように見える。が、ふとした時、その行動や言動に違和感が伴う。この人ならここでこうするだろう、というところを、全てほんの僅か外していくような、そんな違和感。
同居人からそれらは感じない。単に私が彼のことをよく知らないから違和感を感じようがないだけかもしれないが、あの違和感はそういった種類のものではない。もっと人間の根幹に迫るもの。いわば魂に生じる違和感とも言うべきもので、それは長年共に暮らしてきた人物か、私のように直接精神をいじれる人間だけが気が付くようなものだった。
兎にも角にも、彼は『去勢』される前から私に興味がなく、そしてそれは私にとってマイナスが限りなくゼロに近づくことを意味していた。そもそも男と生活空間を共有しないに越したことはないのだから、彼が存在していることは、彼がどれだけ私に気を遣い興味を持っていないのだとしても、性別の時点で私にとってマイナスだった。
そんな、染色体レベルでマイナスの存在に対して、今の私は明確に興味を抱いていた。
眠気がいよいよ迫ってきた。薄れていく意識の中、小指の先ほど残っていた自我が、記憶の棚からとある光景を引っ張り出す。
私の部屋で、亜里沙たちと勉強会をした後。彼女たちを駅まで送っている途中に、一人の男が私たちの進行方向から歩いてきた。人通りが少ないわけでもないため、特に警戒せず、男との距離が近づく。そして、男との距離がゼロになり、私たちと男がすれ違った、その瞬間。
亜里沙に取り憑いていた霊が、跡形もなく霧散した。
弾かれたように振り向き、男の姿を探す。ふと男が街灯の下を通り、その風貌が露わになる。円錐状の光に照らされたその姿は、ふらついたようにたたらを踏んでいたが、その背格好、服装、横顔は
どう見ても、同居人のものだった。
小夜ではない方の同居人。
その程度の認識でしかなかった存在が。
その瞬間、一気に私の興味の中心に躍り出た。
____阿頼耶
眠りに入る直前、私はその名前を口に出す。瞼の裏に、学校で彼を見つけ、思わず追いかけて腕を掴んだ時の、彼の表情が浮かび上がる。
意識外からの衝撃に対する純粋な驚き、そして、衝撃の犯人が私であることに気が付いた時の__わずかな、怯え。
その怯えた表情を思うと、不思議と、胸の奥がうずくような気がした。
*
誰もいない住宅地。月明かりと街灯だけが、眠りについた家々を、ぼんやりと浮かび上がらせていた。
一人の男が歩いている。
黒い袈裟を着た男だ。
丑三つ時、一日で最も光が絶える時分に路地を歩く姿は、まるで積極的に闇と同化するかのようだ。
男は集合住宅の階段を上り、とある部屋の前で足を止める。扉を開け中に入ると、土足のままたたきを越え、室内へ。簡素なキッチンを通り過ぎ、部屋の扉を開ける。
穏やかな海が広がっていた。
「や、おかえり、夏油。実験はうまくいった?」
顔に縫い目のある男が、砂浜を歩く男に振り返り、言う。
夏油と呼ばれた男は、外界との明暗差にまぶしそうに眼を細めると、砂浜に置かれたビーチチェアに腰を下ろした。
「なかなか興味深かったよ。思わぬ収穫も得られたしね」
「へー、それは良かった」
顔に縫い目のある男は、鮮やかな液体の入ったグラスを男に差し出す。夏油と呼ばれた男はそれを受け取ると、代わりに数枚のレポートをテーブルに放った。
「これが、仲間に引き入れる予定の子?」
顔に縫い目のある男がレポートを拾い上げ、中身に目を通す。レポートには写真が数枚添付されており、その全てが不自然なアングルから撮られていた。
「綺麗な顔、眉毛を芋虫とかに変えてあげたら、どんな顔するんだろう」
縫い目のある男が嗜虐的に嗤う。レポートには大した情報は書かれていないのか、男はレポート本体ではなく、添付された写真を眺めていた。
袈裟を着た男はグラスに口を付けると、苦笑を浮かべた。
「自分で呪霊を祓わなかったことから、事前に立てた推測に間違いはない。術式もうまく扱えているみたいだし、そろそろ接触しに行くよ」
「レポートの方も見とけよ」そう言うと、男はビーチチェアに深く腰掛ける。穏やかな水平線を満足そうに眺めた。
「つちみかど、か。珍しい名前だね」
縫い目のある男が気のない声で言う。取り敢えず言われたから読んだが、興味が惹かれるものはなかったと、その声音がありありと告げていた。
「……それだけかい?真人」
遠くの海に浮かぶ赤い呪霊を眺めていた男は、レポートの感想が意外だったのか、不思議そうに傍らの男に目を向けた。
「ほかに何か?」
つまらなそうに答える、真人と呼ばれた男。袈裟の男は、いや、なんでもないと頭を振ったが、何かを考え込むように額に手を当てた。
「……そうか、そうなのか…………君達でもそうなのか」
「…………?」
砂浜を見つめ、ぶつぶつとつぶやく袈裟の男。ふと顔を上げると、縫い目のある男に対し尋ねた。
「真人、私があげた日本呪術史の本は、もう読んだかい?」
尋ねられた男は記憶をさらう様に瞳を泳がせる。ややあって該当する記憶に至ったのか、肯定を返した。
「ああ、まあね。なかなか興味深かったよ。特に家同士の争いとかは、流石人間だね。どろどろぐちゃぐちゃで、何とも醜くて誇らしいよ」
独自の価値観で感想を語る男に、袈裟の男が満足そうに頷く。
「それは何より。それじゃ、一つテストをしようか。平安時代、呪術全盛の時代にあって、
縫い目のある男は得心のいかない顔をし、首をひねった。
「引っ掛け問題?どっち、って言われても、あべのせいめいって名前に、聞き覚えがないんだけど」
「__本当に?今まで一度もないかい?」
袈裟の男はそう尋ねる。いつの間にか、愉快そうな笑みを浮かべていた。縫い目のある男はしばらく考え込む様子を見せていたが、やがて結論が出たのか、断定的な口調で言った。
「ああ、ないね」
そうか、ないか。袈裟の男は愉快そうにその返答を反芻した。
やがて男は、ぱん、と手を一つ打ち鳴らす。そして、計画を説明する時の、講義風の口調で言った。
「いい機会だから話しておこうか。日ノ本を代表する呪術師、安倍晴明と、その末裔の一族について、ね」