*
アラームが鳴っている。
徐々に形を取っていく意識の中、スマホを探り当てる。適当にボタンを押すと、調子はずれなテロテロ音は止まった。
もぞもぞと起き上がり、寝ぼけ眼をこすりながら、ふわと欠伸をする。
眠い。
だるい。
頭が重い。
きっと今の俺は死んだ魚のような目をしていることだろう。
俺はベッドから出ると、のそのそと立ち上がる。伸びをするともう一度ふわと欠伸が漏れた。
この疲労。原因は最近始めた新しいボランティアのせいだ。
くそう、こんな思いをするくらいなら、ぼくぁボランティアなんて、ボランティアなんて……しとうなかた!
めそめそと泣き言を言いながら、ふらふらと歩く。
自室のドアを開け、廊下に出る。重い足取りで洗面所に向かった。
大理石でできた洗面台。
脱衣所もかねたそこには、珍しいことに先約がいた。
薄いピンクの寝間着。少し茶色い髪の毛。
顔を洗った後なのか、髪が濡れている。
ぱっちりとした二重の瞳と、透き通るように白い肌。うっすら桃色が差した頬に、白いタオルを当てている。
「あ、」
俺の判断は早かった。
「ごめんなさい」
即座に謝り、洗面所に背を向ける。
びっっっっっくりしたぁ!もう!と、ばっくんばっくんいう心臓を押さえながら、俺は心の中で叫ぶ。
いや、まあ、でも、着替えの途中とかじゃなくてよかった。うん、それは不幸中の幸いだった。
これで末那が下着姿とかだったら、罪悪感だけで胃に穴が開くところだった。
あぶねえあぶねえ。胃が救われたことに感謝しながら、俺は出直すため、自室に向けて歩き出した。
「使いますか」
ぎぎ、と体が硬直し、振り出した足が空中で止まった。
背後から投げかけられた声。
その透き通った声が誰のものなのか、振り返らずともわかっている。わかっている、よね?え、YouTubeとか流してるわけじゃないよね?違うよね?
俺は思わず振り返り、え、と間抜けな声を出してしまった。
「洗面台、使いますか」
振り返った俺に対し、末那がその艶やかな唇を震わせ、再度尋ねる。
「あ、いや、うん。後でいいです」
あまりにも他人行儀に言うと、逃げるように末那から視線を切った。
妙に高く打つ心臓に(収まれ~収まれ~)と念を送り、平常心カモン!と自律神経にエールを送る。
同時に、これは末那なりの歩み寄りなのだろうか、と、俺の中の冷静な部分がこのやり取りの意味を推し量ろうとしていた。
初日と、あと学校で腕を掴まれて噂になって以来、末那と会話をしたことはない。
どんな顔をして彼女の前に立てばいいのか。
いまだ俺の中で答えは出ていない。ここ数か月の末那との関係は、俺のその優柔不断さにあるのだろうか。
と、そこまで考えて、俺は混乱のせいか妙なことを考えている自分に待ったをかけた。
そもそもこのやり取りに、そんな深遠な意味とかあるだろうか。
末那が放った言葉は「使いますか」と「洗面台」だけだぞ。それだけで「これは末那なりの歩み寄りなのだろうか」とか真顔で考えるのは、少々いかれてるんじゃないのか?その思考に意味はあるのか?早とちりがすぎるってものじゃないのか?
というか、ばったり顔を合わせても、マジのガチでお互いに一言も発さないほどに、それほどに末那とのコミュニケーションは断絶していたのか?
俺は考える。
ちなみにこの間、時間にして0.001秒。
極度の集中が時間を切り刻んでいた。
答えは出た。
してたわ。断絶。
「そういえば」
ふと、末那が言う。その言葉に、俺は思考の海から引き揚げられた。
「おはようございます」
俺の目を真正面から見据え、末那は言った。
その顔は、完璧なまでの無表情だった。
冷たく、無機質。それは人間が作るからこそ威圧感のある表情といえる。ぬくもりを信じて触れたら、思わぬ冷たさに心臓が跳ねるような。温度があると思っていた場所が、徹底的に冷え切っていたような。
あるいは単に、全てを拒絶するような。
そんな表情。
ただ、何故か俺は、その完璧な無表情の中で、彼女がほんの少し、うっすらと、笑みのようなものを浮かべているような、そんな気がしてしまった。
「…………え、あっ、おはようございます」
言葉を絞り出す。
俺が言うと、末那は用は済んだとばかりに俺から視線を切り、持っていたタオルを洗面台に置いた。
化粧品らしき小瓶を手に取ったところでふと我に返り、俺は今度こそ踵を返し、自室に向かう。
あれだけあった眠気はとうの昔に覚めていた。
ぺたぺたと廊下を歩く。フローリングに触れる素足がいやに冷たい。
おはようございます。
初めて交わした挨拶。
家族への一歩。
そのはずだ。そのはずなのに、
なぜだ。
なぜこんなにも、悼ましい気持ちになるんだ。
おはようございます。完璧な無表情に、わずかな微笑。
心が暖まるはずのそれには、決定的に何かが欠けている気がした。
*
風が吹いている。
強い風だ。
体重の軽い者ならば容易に吹き飛ばされるだろう。
強風の中、黒い服を着た男が立っている。すらりとした体躯。才気走った顔立ち。つんつんと尖った髪型。
呪術高専1年、伏黒恵が、高層ビルの屋上に立っていた。
傍らには、特徴的なサングラスとまだら模様のネクタイを身に付けた長身の男。七海健人がいる。
彼らは、真剣な面持ちで眼下の街を眺めていた。
地平線の向こうまで続くコンクリートの群れ。
その中に潜む狐を見つけようとするかのように。
「…………きませんね」
「…………ええ」
伏黒が焦れたように言う。
彼らは二人とも、このビルの屋上で、とある人物からの連絡を待っていた。
第5次呪詛師討伐作戦。
それが今、彼らが参加している作戦だった。
作戦の概要はこうだ。
東京のどこかに潜伏する呪詛師。彼又は彼女を捜索する。
発見次第、即時拘束。
抵抗された場合、もしくは抵抗されずとも何らかの危険を感じ取った場合、当該呪詛師を
彼らが待機するビルとは別の場所では、虎杖とパンダ、冥冥と憂憂、狗巻と日下部の、計8名、4チームが待機していた。
伊地知から説明された呪詛師の被害と、その討伐作戦の概要。
伏黒は本作戦の要である協力者からの連絡を待ちながら、今一度それらを脳内で確認した。
伊地知の説明によると、数か月前から、とある奇妙な被害を訴える者が出始めた。
曰く、催眠術によって金銭を奪われた、と。
警察は半信半疑どころか殆ど彼らを信用せず、酷い時は調書すら取らずに門前払いし、いい年をした人間がそのような戯言を真面目な顔で言えてしまう、この日本社会の闇を嘆いた。
この奇妙な被害者たちの話が、警察内部の高専関係者の耳に入った。彼は催眠術というワードと、幸運なことに調書を取ってもらえた被害者たちが、共通して精神に何らかの障害を負っていたことから、呪詛師による被害である可能性に思い至り、本件を呪術高専に通報。
高専は、仮にこれが呪詛師による被害だった場合の事態の大きさを鑑み、本件に特級呪術師、五条悟を派遣。
五条悟が六眼による調査を行った結果、被害者の脳に微かな残穢を確認。
よって当該事件の犯人は呪詛師であると断定。
以降、当該呪詛師を精神操作の呪詛師として危険人物に指定する。
高専関係者、補助監督員、窓、その他協力者に通達。警戒を促した。
当該呪詛師による被害者は、発覚しただけでも23人。
これは氷山の一角であり、呪詛師が精神を自由に操れるのだとしたら、その被害の大多数はそもそも発覚しないと考えられ、総被害者数は100人とも500人とも予想される。
呪詛師の拠点、性別、行動パターンはその一切が不明。
しかし、被害者が負った後遺症の傾向から、非常に憂慮すべきことに、当該呪詛師は急速に成長を遂げていることが予想される。
これまでの被害者が負った後遺症は、
お茶に異様な恐怖心を抱くようになった者。
自分を架空のキャラクターの生まれ変わりだと信じるようになった者。
昆虫にしか欲情できなくなった者。
等の、比較的単純なものであった。
それに対し、最も卑近の被害者は、表面上、精神に異常があるようには見られなかった。
が、高専が手配したカウンセラーとの会話の中で、被害者が「糞野郎」という単語を「顧客」という意味で使っていることが判明。
彼は「顧客との打ち合わせ」を「糞野郎との打ち合わせ」、「顧客第一」を「糞野郎第一」と言っており、本人にその自覚はなかった。
この被害者は、紙に書かれた「顧客」という文字を読む時でさえ、「糞野郎」としか発音できなかった。
その後彼に対しどのような説明の仕方をしても、顧客という単語を認識させ、発話させることはできなかった。
凶悪にして巧者。手口の杜撰さの裏にある、どす黒い悪意と嗜虐心。
被害に遭った者の中には、自分の性器を認識できなくなった者もいた。
彼は尿意を催して便器の前まで行っても、そこからどうしたらよいのかが分からず、何度もズボンを汚すことになった。
ただひたすらに悔しい。
その男性は、突然尊厳を奪われたことに対し、涙を流しながらそう言った。
「…………ちっ」
伏黒は舌打ちをした。苛立つように携帯端末の入った場所を指で叩く。
趣味が悪すぎんだろ。
呪詛師の被害について説明を受けた時、虎杖が言った言葉だ。
伊地知が説明を終えた後、彼は眉間にしわを寄せ、顔も性別も知れぬ呪詛師に対し不快感を露わにした。同席していた野薔薇、狗巻、パンダ、禪院も同じような反応を見せ、そして伏黒もまた同じ思いだった。
許せねえ。
シンプルに、伏黒は呪詛師に対してそう思っていた。
発覚した被害者は、全て男性。しかし推測される呪詛師の術式を鑑みると、女性の被害者がいないと断言することはできない。
むしろ、金銭を奪われた男性たちは幸運な方で、目を付けられた女性は、現在進行形でより悲惨な__産まれたことを後悔するような__被害に遭っているのだと、そう推測したほうが自然とすら思える。
それほどまでに、悪逆の限りを尽くした犯行。
「…………っ」
伏黒の手に力がこもる。
人のこころをおもちゃのように扱い、気まぐれに壊しては愉しんでいる呪詛師に、強い怒りを覚えた。
連絡はまだか。
伏黒は、呪詛師を発見次第、連絡をよこす手はずになっている協力者のことを思った。
被害の全貌が明らかになるにつれて、極めて自然な道理として立ち上げられた、本件呪詛師の討伐作戦。
しかし肝心の呪詛師の居場所が分からなければどうしようもなかった。
けれどもこのまま手をこまねいている訳にはいかない。
呪詛師の居場所が分からないのならば、探せばいい。
当然の帰結だ。しかし、ここで重大な問題が立ちはだかる。
人が多すぎる。
ここは首都東京。日本一人が多い街。
毎日膨大な数の人間が、血管のように張り巡らされた交通機関で、日夜凄まじい頻度で行き来する。
23人の被害者は、それぞれ襲われたと思われる場所も住まいも異なり、呪詛師の根城も行動パターンも、分析し明らかにすることができない。
そのため、まずは呪詛師、あるいは最新の被害者を発見することが急務となった。
呪詛師本人が見つかればベスト。
本人が見つからずとも、被害に遭って間もない被害者が見つかれば、その周辺が犯行現場ということだ。
その数が増えるにつれて、好む現場や時間帯など、呪詛師の行動パターンを分析することができる。
討伐において要となる、呪詛師本人、あるいは被害者の発見。
最も重要だが、同時に最も困難な問題。その問題を解決するために、上層部、というか五条悟が用意した策は、外部の人間に協力を依頼することだった。
どうやら伏黒の担任であるちゃらんぽらんな軽薄男は、御三家だけあって顔が広いらしい。伏黒は自身の担任が強い以外で役に立っているところを久しぶりに見た気がした。そのような探し物にうってつけの人材がいるということで、五条悟はとある人物に協力を依頼した。
伏黒が待っているのは、その人物からの連絡だった。
「…………くそっ」
焦れたように膝を叩く。傍らの七海が、焦っても良いことはありませんよと宥める様に言った。
五条悟が連れてきた協力者。
彼の協力により、被害の現場が都心に集中していること、呪詛師の行動パターンが一見ランダムなようでいてその実規則性があること、呪詛師が犯行に及ぶ時間帯が早朝か夕方であること、等の情報が明らかになった。
そして、彼に協力を依頼して数週間後、この、本命である呪詛師を討伐する作戦が立案されたのだった。
何者なのだろうか。
頭を冷静にするため、眼下の街を睨みながら、伏黒は考える。
どう書くのかは分からないが、彼はつちみかどあらやと名乗った。
つちみかど、という名に聞き覚えはない。珍しい苗字だが、呪術師として有名な一族ではない。
だが伏黒は、あらやという名前には聞き覚えがあった。
阿頼耶識。
五条悟が持つ六眼。
それと同じくらい、有名な概念だ。
唯識論における究極の概念、阿頼耶識。その名を冠する彼が言うには、呪詛師の行動パターンから、次の犯行現場がここ、新宿だと予想される。
しかし新宿は広い。どこで呪詛師が発見されたとしても柔軟に対応できるよう、討伐要員を4チームに分け、それぞれが別々の場所で待機する。機動力のある伏黒は七海と組み、高層ビルで待機することで更に広範囲をカバーしていた。
頭を冷静にするつもりが、気づけば無意識のうちに作戦の内容をさらっていた。
伏黒は強く奥歯を噛み締めた。
彼には忸怩たる思いがあった。
第1次討伐作戦で、協力者が襲われた直後の被害者を発見。その際現場に最も早く到着したのは、七海と伏黒だった。
現場に着いた伏黒は、協力者から、犯人がどんなに高速で移動しようとも、現場の半径100m以内にはいるはずだと聞き、七海と共に捜索した。
しかし、結果として呪詛師は見つけられなかった。暗い路地で倒れ伏し、狂ったように笑い声をあげていた被害者。彼に近い順で、会社員、配達員、女子学生がいたが、その内誰からも呪力は感じられなかった。結果、呪詛師を取り逃がす形になってしまっていた。
伏黒は思う。
今度こそ、このふざけた遊びを辞めさせてやる。
伏黒は、自分が因果応報の歯車であることを、強く、強く意識した。
結局その日、協力者から連絡が入ることはなく。
第5次呪詛師討伐作戦は空振りに終わった。
*
クローゼットを開けると、茶色い紙袋が目に入った。何を入れた袋だろうかと思い、取っ手のついた袋を引き寄せ、中を見る。
「あ」
ストライプの洋服。大きめの胸ポケット。
辞めたはずのバイトの制服だった。
自動ドアが開く。てんとーん、と、聞きなれた入店音が鳴った。
店内には誰もいない。都内とはいえ、住宅地の真ん中にあるコンビニにまで常に客がいるわけではない。
とはいえスタッフの姿すら見えないというのは珍しい。
バックヤードにいるのだろうか。
私はカウンターの内側に入り、その際ちらりとシフト表を確認した。
どうやら今の時間帯、スタッフは一人しかいないらしい。
ふと、ワンオペは違法だったんじゃないかと思ったが、まあそんなことはどうでもいいと意識から切り捨てた。
店長には事前にメールで連絡してある。私は手に下げた紙袋の重みを確認した。
バックヤードに入り、給湯室のドアを開ける。
すると、一人の男がいた。
足を組み、気だるげにスマホを見ている。髪は茶色く染められており、入り口にいる私のところまで整髪料の匂いが漂ってきた。
さっき見たシフト表ではスタッフは一人のはずだった。目の前の制服姿の男がそのスタッフなのだろうか。それとも前のシフトの人間がまだ残っているのだろうか。私はそもそもこの男の名前を知らないため、どちらなのか判別のしようがなかった。
兎にも角にも。面倒なことになる前にさっさと帰ろう。
私は制服を置くため、給湯室の中へ進み出た。
「あれ、末那ちゃんじゃん」
喜色の混じった声。男は馴れ馴れしく私の下の名前を言う。
私は咄嗟に舌打ちしたくなったが、あまりお上品なことではないので何とか堪えた。
「え、どうしたの。今日シフトじゃないよね?あ、ヘルプ?だとしたらまじありがたいんだけど、まじでまじで」
男がまくしたてるように言う。
にやついた顔がたまらなく気色悪い。男の視線は私の顔と胸のあたりを行ったり来たりしていた。
うーん、取り敢えず黙って死んでくれないかなーと思うが、『力』を通していない思念は、何の効力ももたらさない。
無視したら面倒なことになるかな。
私は、カスみたいに薄い記憶の中で、この男が粘着質なことを知っていた。このまま無視して給湯室を出れば、やたらプライドの高いこの男は私を追って来るだろう。そのまま訳の分からない理由で逆切れされても面倒だった。
「制服を返しに」
端的にそれだけ言う。それ以外に言うことも思いつかなかった。
私はすぐに、その返答が失敗だったと気が付いた。
「え、末那ちゃん、辞めんの?」
__私の馬鹿。
「あ、そだ、じゃあさ、Line交換しようよ」
男はスマホを操作し、緑の画面を表示させた。
私は天を仰ぎたくなった。
この手の輩には、少しでも自分についての情報を開示してはならないのだった。
そう、経験から知っているはずだった。
この手の輩は、こちらがどれだけ迷惑そうにしていても、逆切れされるよりはましかと思ってしたわずかな返答を広げて、あれこれと関わりを持ってこようとするのだ。
しかも面倒に思って無視したり、申し出を断ったりすると、今度は露骨に敵意をぶつけてくる。更には仲間内でその敵意を共有したり、他の人間にあることないこと吹き込んで、私の知らないところで私の敵を作ったりしてくるのだった。
複数人にいわれのない悪意を向けられるよりかは、一人からの粘着質な好意に耐えたほうがまし、そう思ってなあなあの受け答えをしていると、こちらに脈がないわけではないと勘違いして、更に増長し粘着してくる。
この世のバグみたいなやつだ。
そして残念で無念で誠に遺憾なことに、私の容姿が引き寄せるやつだった。
『力』に目覚める前の私なら、この辺りのヘイト管理は徹底していたはずなのだが。
私は自分を責めた。これは明らかな油断、気の緩みだ。
『力』を得たことによって芽生えた、目の前の人間はいつでも殺せるという感覚。
その感覚が、私は面倒ごとを引き寄せやすい容姿であるという自覚を薄めてしまったのだろう。
私は反省した。そしてふと、こうも思った。
もしかしてこの油断は、ここ数か月で最も触れ合う人間があまりに無害で、そちらの感覚に慣れてしまったからなのではないか、と。
そしてそれは、もしかしたら幸せなことかもしれない、と。
私は思うのだった。
欲しかった普通の生活。それに慣れれば、当然、私の感覚も変化する。
普通の感覚。
それを持った私という人間は、普通の少女だ。
普通の少女は、普通に遊んで、普通に勉強して。
家に帰れば普通の優しい家族がいて、学校に行けば普通の優しくしたい友人がいる。
そして、
特別でも何でもない、王子様でも石油王でも勇者様でもない、普通の人に、恋をする。
そんな普通の少女に、私はなれるのかもしれない。慣れて、成れるのかもしれない。
そんな予感が、私の胸に灯っていた。
思わぬ過程で気が付いた、私は幸せになれるのではないかという予感。
しかし、今の状況でそれに浸るべきではないのは明らかだった。
「ね、折角出会えたのに、このまま縁が切れちゃうのももったいないしさ、ね」
男が言う。私の反応が芳しくないと思ったのか、やたら甘く、舌足らずな、ねだるような口調だった。
私は鳥肌が立つのを感じた。
普通に気色悪い。
誰かに恋をするとして、こいつは100%有り得なかった。
頭が良いわけでもなく、有能なわけでもなく、霊が視認できるわけでもなければ、それらを祓えるわけでもない。
『力』の実験台に使ったところで大した金銭も持っておらず、私の痕跡を残すだけ。
私は当然のごとく、『力』を使う衝動に駆られる。
しかし最近認識したリスクが、私にそれを思いとどまらせた。
痕跡。
そう、痕跡だ。
『力』を行使すると痕跡が残る。
私はそのことを、つい最近知ったのだった。
そんなわけで、私はこの男に何と言えば、最もコストを最小にして家に帰ることができるだろうかと考え始めた。
Lineをやっていない。少し無理があるか。
嘘のメアドだけ渡して、メーラーデーモンの返信が来る前に帰る。嘘だとばれた時に最高に面倒なことになりそう。
単にスマホを持ってきてないと言ってしまう。露骨に連絡先を渡すことを嫌がっているふうに見えるか?
ふとそこまで考えて、なんだかこんな男のために思考を割いているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
私は嘆息し、服の中のスマホを意識する。
もうLineを渡してしまって、即刻ブロックすればいいか。
「急いでるので」
連絡先を知られるという少しの傷を許容しようと決意したのだが、結局、私の口から出たのはそんな言葉だった。
自分で言っておきながら、びっくり、と目を見開く。
思ったよりも私はこの男のことが嫌いだったらしい。
私は紙袋を机に放ると、踵を返し給湯室を出た。
「え、待って待って」
案の定、男は着いてきた。バックヤードにかつかつと靴音が響く。
客でも誰でもいいから入店音を鳴らしてくれ、と願うが、残念なことに売り場は静かなままだった。
「ねえ」
男の手が、ドアノブに手をかけていた私の、その肩に触れる。
私は本能的に沸き上がってきた嫌悪に顔をゆがめると、短く舌打ちをした。
「え、何それ」
男が開きかけていた扉に掌を叩きつけた。
誰もいないバックヤードに、ガン、という音が鳴り響く。
「今舌打ちしたよね」
詰問するように男が言う。
舌打ちを聞き取ることはできるのに嫌そうな顔は見えないのか。
随分と都合のよい感覚器官をお持ちのようだった。
「舌打ちしたかってきいてんだけど!」
男が威圧するように扉を叩く。先ほどよりも大きな音が鳴った。
男は扉を手で押さえながら、爪でかっかっかっと表面を叩き始める。
私はその間ずっと、扉の表面を見つめていた。
何だろう。
私は自分の腹の中に、この状況にそぐわない感情が生まれつつあることに気が付いた。
少し楽しくなってきたかもしれない。
「あんさ、末那ちゃんさ、いいの?そんな態度でさ。大丈夫?自分のしたことわかってないんだよね?」
男が何やら脅迫めいたことを言いだした。私は興味を惹かれ、男の物言いを聞くことにする。
一体私が何をしでかしたというのだろうか。
かつあげ?性癖の刷り込み?重度の精神障害の植え付け?それとも時限爆弾的な単語の入れ換え?
苛立ったように髪をかき上げ、男が言う。
「末那ちゃんさ。廃棄の弁当とか、パンとか、ちょいちょい盗んでたよね。俺知ってるんだわ。見てたから。ばっちり。あんね、それ、立派な窃盗だから。俺が店長とか、警察とかに言ったら、きみ、前科着いちゃうよ。だって盗みだもん。立派な犯罪だもんね」
何を言っているんだこいつは。
それが率直な感想だった。
廃棄の弁当を持って帰ったことは確かにある。割と何度も。が、それが窃盗にあたると、そして己がしかるべき機関に知らせれば、私には前科がつくことになると、この男はそう言いたいのだろうか。
私はちらりと思考を巡らせた。男の言うことは一部正しい。しかし一部間違っている。
コンビニにあるもの、仕入れたものは、オーナーの所有物だ。
ということは、オーナーが許可しているのならば、それは自分のものにしてよいということになる。なにやら得意げに語っているようだが、その程度の単純な決まりも知らない男に、私はがっかりした。
大学生でこのレベル。
日本の未来は暗い。
私は教育の敗北を嘆いた。
まあ、私はオーナーから許可を貰っていないのだが。
男は始めこそ苛立った様子だったが、自分の発する言葉に勇気づけられたのか、声の端々に愉悦を滲ませていった。
今顔を横に向ければ、きっと下卑たにやつき顔が見られるのだろう。
少し見たい気もするが、多分後悔することになるのでやめておく。ホラー映画とかスプラッタ映画とか、怖いのに、不快なのに、つい見てしまうものが、世の中には沢山ある。私はそれで見たことを後悔する派だった。
「ね、ばれたら困るよね?前科ついちゃうもんね。学校いらんなくなるもんね。いやー、お母さんとかも泣くんじゃないかなー」
黙っている私。それをどう解釈したのか、男は勢いづく。
男の言葉を聞いていると、不思議と楽しくなってくる自分がいた。
一体これはどういう感情なのだろう。
胸のうちで首をかしげつつ、私は演技力をかき集め、精一杯の震え声を絞り出した。
「どうすれば、黙っててくれますか」
渾身の震え声。オプションで怯えたような表情も付ける。
私の頭上で男が息を呑む気配がした。
「あ、いやいや、そんな怖がんないでよ。大丈夫。俺は本当に、君と仲良くしたいだけだから。ね?」
自分の望み通りになったことが余程嬉しいのか、男はなだめるように言った。
どうやら男は、仲良くしたい人間がいたら、その人物に付きまとい、思い通りにならないなら脅迫するべしという価値観で生きているらしい。どんな経験をし、どんな情報収集の仕方をしたらそんな結論に至るのだろうか。
ちょっと頭の中を開いて論理展開を見せてほしいと思った。
「取り敢えずうち来ようか」
男が私の肩に手を乗せる。ぞわりと鳥肌が立ち、肩が跳ねる。
肩に触れられたことで、私の中では楽しさよりも嫌悪感が勝った。私は男とのやり取りを総括する。
ふむ、中々面白かった。
頭の悪い人間がどういうことを考えているのか、それを知るための、貴重な生の情報に触れられた気がする。
私は感謝の気持ちを込めながら、男の手を払いのけた。
お礼はきちんと目を合わせて言うべきだ。
私はそれまで扉に向けていた目線を傍らの男に向け、お礼の言葉を言うべく、口を開いた。
「死ねよごみが」
おっと。
「…………は?」
男の顔がどす黒くそまった。
*
「制服を返しに」
その言葉を聞いて、美少女の来訪にぶちあがっていたテンションが急激に冷めた。
え?返す?ってことはなに、辞めんの?
末那がバイトを辞める。その現実を理解した俺は、急激に焦り始めていた。
おいおいおいおい、聞いてねえよ。うーわまじか。ちょいちょい話して良い感じだったのになー。そのうち絶対やってやろうって思ってたのに、辞められたんじゃそれもできなくなっちまうよなー。
あ、そうだ。
「あ、そうだ、じゃあさ、Line交換しようよ」
ガラケーだった末那がスマホにしたことは知っている。JKならまずはお友達と連絡を取るためのアプリを入れるだろう。
急いでスマホを操作し、友達追加を表示させる。
ああ、いや、電話番号の方が良いか?いや、どっちも聞けばいいか。
とにかく、ここで末那と連絡が途絶えるのは避けたい。相手はJK。学校にはいくらでも盛りのついた雄どもがいやがる。末那みてえな頭の中お花畑な年頃は、たいして自分と釣り合わない相手でも、思春期特有の乳繰り合いてえって気持ちを優先して、近くにいるからって理由で何ランクも下の野郎と付き合ったりすんだ。そんで後から、それを後悔したり、逆に誇ったりする。
それは良くねえ。すげえ良くねえ。そんなん、この世界に対する冒涜だ。
そんなことを防ぐためにも、俺がもらってやらねえと。JKは大人の男に弱い。大丈夫、俺はかなり脈があるほうだ。
何もアクションを起こさない末那に目を向けると、彼女は少しだけ、眉を潜めていた。
どうした、体調でも悪いのか?もしかしてあの日か?
まさか、嫌がってるってわけじゃあねえだろうし。
「ね、折角出会えたのに、このまま縁が切れちゃうのももったいないしさ、ね」
大人の男が、あえて子供っぽく舌足らずに言う。こんなんJKにぶっ刺さりだろまじで。いやー、自分の魅力が怖いわ。こんだけレベルの高い女とも対等に駆け引きできんだから。まじ愉悦。あ、大人っぽい言葉出ちまったw
「急いでるので」
末那が給湯室から出る。その背には、一切の未練も躊躇もなかった。
え?
いやいやいやいやいやいや、ちょっと待てって。まずいってそれは。
「え、待って待って」
末那の背を追い、給湯室を出る。末那は売り場に続く扉に手をかけていた。
売り場に出られるとまずい。店員がJKを口説いてたなんてSNSに晒されでもしたら最悪だ。
「ねえ」
俺は末那の肩を引き留めるように掴んだ。これまでの人生で断トツの美少女に触れたことで、俺のテンションが上がる。うっは柔らけ。
ふと、ちっ、という短い音がした。少しして、それが目の前の少女がした舌打ちの音だと気づく。
「え、何それ」
末那が扉を開けようとしている。俺は叩きつけるようにドアを抑えた。
え、え、え。舌打ち?今のって舌打ちだよな?ちょっと。ない、ないわ。それはない。
いくらなんでも、それは先輩への敬意が足りないわ。
「今舌打ちしたよね」
強めに言う。
しかし末那は扉の表面を見つめるだけだった。
謝るでもなく、怯えるでもなく、ただただ面倒そうな表情を浮かべていた。
いやいやいや。それはちょっと。だめだろ。許されないだろ、こんなん。いくら顔が可愛いからって、ちょっとこれは調子に乗りすぎだろ。
俺はここがバックヤードなのも忘れて、怒りに任せて叫んでいた。
「舌打ちしたかってきいてんだけど!」
扉を叩く。
確実に売り場まで聞こえただろう。けれどもそんなことはどうでもいい。今はこいつに上下関係を叩きこめればそれでいい。
少しは怯えた顔をするだろう。
そう期待したのに、末那は声にも音にも反応を示さずに、依然として退屈そうな顔をしているだけだった。
は、ぁあ?どんだけ人様のこと舐め腐ってんだこいつ。普通怒鳴られたらそれ相応に怯えるか申し訳なさそうな顔をするだろうが。なに澄ました顔してんだよ。怯えろよ。私は小動物です、男の人に力では敵いません、狩られる側ですって顔をしろよ。ふざけんなよ。
監視カメラの死角は知ってる。おい、俺がその気になればここでお前犯れんだぞ。分かってんのか?お前の抵抗なんざたかが知れてるだろうが!
「あんさ、末那ちゃんさ、いいの?そんな態度でさ。大丈夫?自分のしたことわかってないんだよね?」
いつまでも舐め腐った態度を取るなら、こっちだって考えがある。廃棄の弁当を盗んでいたこと。それを俺は知っている。そう、こいつは万引き犯と同じだ。前に調べたからわかる。廃棄の食品を勝手に持って帰るのは犯罪、窃盗と同じだ。こいつは高校生だから知らねえんだろ。高校で法律なんざやらねえかんな。
持ち出しは窃盗。犯罪なら前科が付くだろう。こいつは、俺が言わないであげてるから無罪になっているだけだ。
俺が密告をほのめかすようなことを言うと、末那は眉を潜めた。その反応に、俺はようやく見たいものが見られて満足する。
「ね、ばれたら困るよね?前科ついちゃうもんね。学校いらんなくなるもんね。いやー、お母さんとかも泣くんじゃないかなー」
末那は何も言えない。大方、今更事態の大きさに気づいてビビってんだろう。
ふと末那は、声を震わせてこう言った。
「どうすれば、黙っててくれますか」
背筋が震えた。
来た!それだ!それだよ!俺が聞きたかった言葉、見たかった顔、教え込みたかった上下関係!!
腹の奥底から熱い欲の塊が突き上げてくる。股間が熱くなり、男の象徴が硬さを帯びていく。
目の前の少女を好きにできる。俺の腹は歓喜の渦で痛いほどに荒れ狂っていた。
「あ、いやいや、そんな怖がんないでよ。大丈夫。俺は本当に、君と仲良くしたいだけだから。ね?」
そう、仲良くしたいだけ。もうちょい正直に言うと、出し入れしたいだけ。
ま、禿げおやじの店長にばらされて、あいつと仲良くするよりはずっといいだろ?なんせJK憧れの大学生だかんな。それに結局、女ってのは快感に抗えないもんだ。最初は嫌がるかもしれないが、何度もやってりゃあいつか末那の方から縋り付いて来るようになる。そうなるまで徹底的に調教してやるよ。
欲に濡れた目で末那を見る。いっつも男に興味ないですって澄ました顔をしているから、その怯えた顔にほの暗い喜びを覚えた。
話した回数は多くないが、それでもわかる。こいつ、男が嫌いなんだろ。こういうやつは多い。顔面に恵まれたからって、どんな態度をとっても良いと思ってるようなやつ。
末那は処女だろうか。
ふと思う。
大きな二重の瞳、しみ一つ、ニキビ跡一つない滑らかな肌、完璧な形の唇、それから更に下に向かい、思いの他はっきりと起伏のある胸と、初めて拝んだ生足を眺め、俺は考える。
こんだけ顔が良いと、高校でも馬鹿みてえにモテるだろうな。えぐい数の男から言い寄られてんだろう。それでこの態度ってことは、末那自身はそれに不快感しか感じてねえってことだろうな。
強張る横顔を見る。俺は笑った。
まあいいか。これから確かめりゃいい。
肩に手を置き、俺は言った。
「取り敢えずうち来ようか」
肩を跳ねさせる末那。怯えたのか、喉の奥から引きつったような声が漏れていた。俺はその反応を見て、さっきの疑問に確信的な答えを得る。
やっぱ処女だわ、こいつ。
やったわ。まじか。うわ、このルックスで処女。しかも完全に言いなり。興奮が止まらない。先走りでパンツの中がぬめっていた。
やば、えろ漫画みてえ。まじラッキーだわ。早くその男に興味ないですって顔を快感でゆがめさせてやりてえ。
ふと、緊張でおかしくなったのか、末那が笑った。それを見て、俺はちょっとだけ心配になる。おいおい、自棄にだけはなんなよ。警察に駆け込まれちゃ困るんだよ。これはあれだな、窃盗ってのがどんだけ重い罪か、ばれれば人生即終了レベルだってことを、きちんと教え込んでやらねえとな。
目の前の、弧を描く艶やかな唇を見る。興奮が高まるのを感じた。ああ、別に、少しくらいいいよな?どうせ今から、何回したか分かんねえくらいするんだし。
俺は末那に顔を近づけていく。大丈夫。すぐにその笑みを蕩けた顔にさせてや
「死ねよごみが」
るよ。
…………は?
*
『動くな』
放たれた『力』。言葉に乗せた思念の通りに、男の体が硬直する。私に払われた腕が妙な位置で止まっていて、そうしているとセンスのないオブジェみたいだった。
「……っ、なんだ、これ!!」
男が怒鳴る。
唐突に一切の動作を封じられて困惑しているのだろう。
唾が飛ぶし、何よりそのしゃがれた声が不快だから、声帯を取り換えてから喋るか、一生黙っていてくれないだろうか。
『黙れ』
男がぴたりと口を閉ざす。
動くことも声を発することもできずに、ただ顔を真っ赤にさせる。
『力』に抵抗しているのか、身体を小刻みに痙攣させていた。
私は男から離れる。売り場に続く扉を開け、店内に誰もいないことを確認すると、適当なパイプ椅子を引き寄せた。
あーあ、使っちゃった。
私は座り、足を組む。
ここからどうしようか。
私は使ってしまったものはしょうがないと諦め、そのうえで、目の前のこれをどう処理しようかと考え始めた。
さくっと殺す?従兄みたいに?んー、なくはないけどいきなり殺しちゃうのはなんか勿体ない。
迂闊に『力』を使えないのだから、一度使ってしまったのなら、それは実験とかで有効活用すべきだろう。
殺すのは思わぬ事故があった時の緊急の手段かな。
じゃあ、金を奪う?んー、もらえるものはもらっておきたいけど、こいつの手が触れた金とか使いたくないな。
じゃあ、一切の記憶を奪ってほったらかしにする?これ以上私の痕跡を残さないようにするなら、これがベストかな。
でも、どうだろ。
私はそれで、満足できるかな?
前衛的なダンサーみたいな姿勢で固まり、ぷるぷると痙攣する男を見る。
私はこの男に肩を掴まれ、脅迫され、家に連れ込まれそうになった。
もしも私が『力』を持たないか弱い少女だったら、果たして最後まで抵抗できただろうか?
男の処理について考えていると、ふと一つの選択肢が脳内に浮かび上がってきた。
自殺させちゃおうか。
首吊り、練炭、入水、リストカット、飛び降り、感電、電車、睡眠薬、
それらの内、最も遺体が見つかりにくい方法。私の痕跡が残らない方法は、どれだろうか。
私は首を振り、その物騒な考えを打ち消した。
そうしてやりたい気持ちはある。
あるが、それは最後の一線だ。そこを超えれば、私は戻れなくなる。
その選択肢が、常に脳裏にこびりつくようになる。
私は殺し屋になりたいのではない。
普通に実験だけでいいか。
私はそう決めると、男の方に向き直った。
男の体は、私が『動くな』と言った時の姿勢で固まっている。
その体が小刻みに震えているのを確認した私は、一つの命令を口に出した。
『私の命令に抵抗しろ』
男の体が大きく震えた。力の入りすぎた腕ががくがくと震え、顔面が異様なほど紅潮していく。
筋線維の千切れる音だろうか、ぶちぶちという音が男の全身から発せられた。
「へえ」
面白い。
これまではいきなり抵抗意志を奪っていたから分からなかったが、私の命令に抵抗させるとこんなふうになるのか。
そうして観察していると、ふと、男の体内から、がごん、という鈍い音が発せられた。
男がうめき、その額に脂汗が浮く。
なんだろう。
私はちょっと考えて、直ぐに結論に至った。
ああ、骨が外れたのか。
『抵抗をやめろ』
男の体から力が抜ける。
やけに浅い呼吸を繰り返していた。
「……っ……ぅぁ」
男は泣いていた。
『動くな』の命令通り、その姿勢を固定しながら。
その涙は、体の自由の一切を奪われたことに対する屈辱のためか、それとも骨が外れたことによる痛みのためか。
まあ多分痛みのせいだろうけども、どちらにせよ、大の大人が涙を流す姿は、不思議と胸がすっとするものだった。
「だらしない」
私は嘆息し、足を組み替える。
スカートの端がめくれ上がり、その内側が露わになるが、それを見ることができる者は、今この場にはいなかった。
両目から静かに涙をこぼし続ける男を見る。
ふと私は、
白いスーツに、まだら模様のネクタイ。顔には不思議な形のサングラス。男性。
つんつんした黒髪、真っ黒などこかの制服、眉間に寄った皺。少年。
あれはつい2週間前のこと。
路地裏で男から適当に金銭を奪ったあと、植え付けて面白そうな認知のゆがみも思いつかなかったため、取り敢えず『発狂』させて現場をあとにした。
人通りの多い道に出て数m歩き、会社員と配達員の作る流れに乗った時。
その男たちとすれ違った。
同居人と、同じ匂いがした。
思わず立ち止まり、目で彼らを追う。
彼らは私が出てきた路地裏に消えていった。
数秒してサングラスの男だけが出てくると、彼は何かを探すような鋭い視線を、周囲に対して向け始めた。
ふと、サングラスの男の視線が、私を捉えた。
歩道の隅に立ち尽くし、己を見る少女に対して、彼が何を思ったのかは分からない。ほんの1秒にも満たない、目が合ったとすら言えないような短い時間ではあるが、彼は間違いなく、私を個体として認識していた。
私は素知らぬ顔をしてその場を離れた。数m離れても、男や少年が尾行してくる気配はなかった。
今思い出しても、背筋がぞくぞくする。
私は身震いし、沸き上がる衝動のまま、茶髪の男に『苦しめ』と言う。
押し殺した絶叫という、矛盾した声が、男の口から流れ出ていった。
私は空想する。
あの時、もしも彼に話しかけられていたら、私は何と答え、どう言い逃れしただろうか。
「…………ふふっ」
間違いない。私は確信する。彼らは
私のような、超常を身に付け、あちらを覗き、そして恐らくは、『力』を持つ者を取り締まる、いわば
私は
日本人離れした顔立ちの男性と、才気走った顔立ちの少年。
そして、眠たげな瞳の奥に、確かな信念を宿しながら、私を見る時だけは、なぜかその瞳に怯えを宿す、私の同居人。
「あはっ」
彼らが私を、排除すべき敵として見る時。
その瞳は一体、何を宿すのだろうか。
きっといい目で見てくれる。
その視線にだけは、私は嫌悪感を抱くことはないだろう。私はその時のことを想像して、くすくすと笑った。
*
コンビニを出るとすっかり夜だった。
すっきり爽快な気分で、私は住宅地の暗がりへと進み出る。
ふと、違和感に足を止める。
静かすぎる。
「こんばんは」
前方に人がいた。男だ。今の声はこの男からだろうか。
私は暗闇の中で輪郭がはっきりとしない男を注視する。
暗くてよく見えない。いや、待て。
いくら街灯が少ないとはいえ、この通りはこんなに暗かっただろうか。
ふと、男が街灯の下に出たことで、その姿が露わになる。
黒い袈裟、自身に溢れた佇まい。そして何より、額にある妙な縫い目。
誰だ。
私は警戒心を最大まで引き上げた。
男の恰好が怪しいというのもある。
が、何よりも私を警戒させたのは、目の前の男が、
私はいつでも『力』を放てるように身構えながら、目の前の男に意識を集中させる。
ふと、男がそのにやついた口を開いた。
「町田末那……いや、
男は意味ありげに笑みを含ませ、そう言った。
どうやって私の名前を知ったのかは分からないが、
土御門家に引き取られはしたが、姓を変える手続きは行っていない。
戸籍上の名前を知っていることも十分におかしいが、私が土御門家に引き取られたことを知っていることはもっとおかしかった。
誰なんだ、こいつは。
私は既に最大だった警戒心を更に引き上げた。
「あーあ、可哀そうに。怯えちゃってるじゃん」
もう一人の声が耳朶を打つ。
背後から聞こえたそれに、私はこいつらが敵であることを確信した。
もしも私に友好的な存在ならば、このように挟み撃ちの形で、逃げ道を塞ぐようなことはしないだろう。
「俺、弱い者いじめって良くないと思うんだよね」
トン、と軽い衝撃。
何かを背中に突きつけられている。
私はブレザー越しに伝わる感触からそう判断した。
掌にじんわりと汗がにじむ。
命の危機の感覚は、貞操の危機のそれとは全く違うものなのだと、どこか遠い頭の中でそう理解した。
私の強張りを見て取ったのか、それとも単におちょくるためか、袈裟を着た男は、莞爾として笑い、言う。
「ちょっとお話しようか」
私の背後で、くすりと笑う気配がした。