一晩明けて朝を迎えても、結局私は菊梨の涙の意味を知る事は出来なかった。
指輪の痛み――こんなものは転んでついた擦り傷のようなもので、放置していればそのうち収まるもの程度の認識でいたのだが、どうやら菊梨には違うようだ。 ――いや、もしかしたら私以上に”ソレ”について何か知っているのかもしれない。
「雪姉ぇ、ぼーっとしてどうしたの? 菊梨っちの心配?」
「ごめんごめん、なんでもないから。」
私達は朝からスキーに出かけたのだが、私の隣には菊梨の姿はない。 勿論誘いはしたのだが、体調が悪いという事で一人部屋に残ったのだ。
――その言葉が嘘だという事は分かっている、きっと私と顔を合わせたくないのだろう。
「折角遊びに来たのに楽しまないと損だって!」
「まぁね! じゃあ久々にハッスルしちゃいますか!」
スキーなんて帝都の首都付近じゃ絶対楽しめないし、変に考え込んでも状況が変わるわけでもない。 それに菊梨の事だ、しばらくしたら私を呼びながらすぐに戻ってくる事だろう。
そう、いつもと同じように……
「氷室さん、一緒に上級者コース行きません?」
「いいけど、雪ちゃんブランクあるのに大丈夫?」
「余裕ですって! 腕は衰えてないはずなので! じゃあ愛子、ちょっといってくるね!」
「いってらっしゃ~い!」
思えばこの時の行動も軽率だった…… あれ程普段から気を付けろと菊梨に注意されていたのに、私はいつもの気分だけで行動してしまったのだ。
「ごめん……ね。」
それが意識を失う前の最後の言葉だった――
―前回のあらすじ―
氷室さんのお誘いでちょっとした息抜き旅行にやって来た私達、温泉もたっぷりと堪能してゲームでも皆と盛り上がり、楽しい旅行になる筈だった。
しかし、指輪の痛みの事で空気は一変してしまう。 菊梨の涙の意味も分からずにそのまま朝を迎え私は――
「何故、どうしてこうなってしまったのか私には分かりません。 誰かこの謎を解き明かして下さい。」
私と氷室さんは二人小さな木造の小屋にいた。 外は視界が覆われる程の猛吹雪、とてもじゃないが外を出歩くような状況ではなかった。
どうしてこんな事になってしまったのか、そこまで深い理由はない。 私と氷室さんは上級者コースを堪能していただけであり、急な天候変化のせいで設置してある小屋に避難する事になってしまっただけだ。
勿論、非常連絡用に回線が敷いてあるので施設との連絡は可能である。
「吹雪が収まり次第迎えに来てくれるって。」
「設備がしっかりしてるとこで良かった……」
非常食も完備されており、暖房器具も揃っている。 ここで凍死なんて事は絶対にありえない。
私は毛布に包まってストーブに手を伸ばした。
「山の天候は変わりやすいし仕方ないね。」
「まぁ、そのための設備なんでしょうね。」
氷室さんは私の隣に腰を下ろし、同じように毛布に包まった。
その姿を横目で見ると、やはり氷室さんは美人だと再認識させられる。 同性の私でさえも少しときめいてしまうくらいだ。
「ん、どうしたの?」
「なな! なんでもないです!」
私の視線に気づいたのか、氷室さんはこちらを見て微笑みかける。 小さな罪悪感に蝕まれながら私は両手を振って否定するが、それが面白いのか氷室さんは顔をぐっと近づけて来た。
「――大人になったね、良い女に成長してきてる。」
「何言って――というか顔が近いですから!」
「嫌なのかい?」
「いや、その……」
冗談だと言って、氷室さんは私から顔を離した。 何がどこまで本気なのか分からない氷室さんの行動に、私の頭の中は混乱していた。
「こうしていると思い出すね……」
「え?」
「昔の事。」
昔の事――欠けた記憶、私が思い出さなければならない事。
「どうしても、思い出したいかい? それが本当に必要な記憶かも分からないのに。」
「――はい。 そうしなければいけないと思うんです。」
「それは誰かに言われたから?」
「違います、自分で決めたんです。」
そう、自分で決めた事だ。 きっとこのままじゃ、私は誰かに与えられているだけの人間になってしまう。 もし私の罪があるとしたら、向き合わなくてはいけないんだ。
あの記憶の断片が正しいのならば、私は羽間先輩に――
「そうやってまた悲しみを背負うんだね、君は……」
「悲しみ、ですか?」
「そう、辛く悲しみに満ちた運命、記憶を封じた事で逃れた筈なのに――君はまた戻ってきてしまった。」
「……」
「だから私は君を救いたい。 力を持って生まれてしまった悲しい運命を背負う者として。」
氷室さんの言葉が心に重くのしかかる、まるで私に全て任せろと言わんばかりの優しい言葉で誘惑してくる。
それはまるで歌声のように耳から入り込み脳を掻き回す。 優しさという名の暴風雨が私の脳を凌辱する。
「私もそうだった。 力を持って生まれたが故に、多くの絶望と孤独を経験してきた。」
「氷室さんも……?」
氷室さんは天井を仰ぎ見ながら昔を懐かしむように語り始める。
「そう――両親を奪われ、故郷を奪われ、与えられたのは隷従としての生活。 そこから解放されたと思ったら、今度は過去を知る故の孤独……
私にはもうアヤカ姉さんしかいない。 でも彼女は私の手が届かない存在になってしまったんだ。」
「氷室さんはその人の事が?」
「最初は姉のように慕っていたよ。 でも、ある日気づいてしまったんだ――それが親愛ではなく愛情だという事にね。」
突然、氷室さんは私の両肩に手を乗せて自身の方に抱き寄せた。 その身体は毛布に包まれているはずのに思った以上に冷たかった。
「昔の君もそうだった。 全てを失い、自身の力に翻弄されて周りを否定する事でしか生きていけない存在。 同じ痛みを持っていたんだ。」
「そんな、事……」
「同じ痛みを背負い、同じく世界を憎み、虚無に帰る事を望んでいた。 そんな頃の君に戻る必要はないよ。」
本当にそうなのだろうか? 昔の私はそんな人物だったのだろうか?
分からない――分からないからこそ知りたい。 私がどんな人間で、何を考え行動して、どうやって生きていたのか……
「それでも、私は取り戻したい。 本当の自分自身を。」
「……」
氷室さんは俯き自身の唇を強く噛んだ――赤い筋が唇を伝って床へと滴り落ちる。
私はハンカチを取り出そうと右手をポケットの中に突っ込むが、その隙を狙って氷室さんは突然私を床へと押し倒した。
「ちょっ、何をするんですか?」
「手荒な真似をするつもりは無かったが、君が考えを変えないなら仕方ない。」
血に濡れた唇が私の唇に押し付けられ私の言葉を封じて来る。 それはまるでこれ以上の反抗は許さないという強い意思、支配欲の塊というべきだろうか?
肩に添えられた手は物凄い力で私を床へ張り付け、押し込まれる舌は強引に唇を割り口内へと侵入してくる。
しかし、押し付けられる劣情とは反比例して彼女の身体は恐ろしい程に冷えていた、これではまるで……
「もう何も考えなくていい、思考も身体も止めてしまって――私と一つになろう?」
それは甘い蕩けるような誘惑、全てを凍らせる魔性の愛。 口移しで流れ込んでくる冷気が思考も身体も冷やしていく。
昔おばちゃんに聞いた事がある――雪女、そんな名の妖怪だった筈だ。
「そうすれば君はもう苦しまなくていい、ずっと”今”のままでいられる。
苦しまず幸せなままで……」
冷気は私の思考を蝕み、視界は徐々に揺らぎ始める。 その先には氷室さんの優しい笑みが見える。
憎悪も怒りも感じない、まるで女神のように優しく慈悲深い微笑みだ。
「ごめん……ね。」
それが意識を失う前の最後の言葉だった――
―次回予告―
「あの頃の私は全てが嫌だった。」
「あの頃の私(わたくし)は見ている事しか出来ませんでした。」
「あの頃の私は全てを壊してしまいたかった。」
「それでも貴女は……」
「短い時間(とき)でしたが、確かに私(わたくし)達は共にいたのです。」
「次回 第四十七話 その思いは雪に埋もれて 後編」
「菊梨っ!」