それはまるで全身に絡みつく泥のようだ。もがけばもがくほど、戻れぬ深淵へと沈み込んで行く。この出口の見えない迷宮に差し込む光は皆無、囚われた者は永遠に彷徨い続けるのだ。
あぁ、誰か――
『誰か私を、ここから救って下さい……』
帝京歴786年3月14日
目覚めた、というよりは息を吹き返したという表現が正しいのかもしれない。身体は枯渇した酸素を求めて荒い呼吸を続け、全身に湿った汗が寝間着の中を這いずる。
何か夢を見ていた気がする。とてもおぞましく悲惨な夢を――しかし、その内容を何一つ思い出す事が出来ない。まるで何か見えない靄で覆われてしまったかのように、その断片すら判別が付かない。
「はぁ……はぁ……」
震える手をゆっくりと動かし、ベッド横のテーブルに置いてあるスマホを手に取る。ロックを解除し日時を確認する――3月14日の8時という表示がスマホの画面に現れる。いつも通りの朝のはずが、何故か違和感を拭う事は出来なかった。
夢と関係あるのだろうか? それとも――
「手術が近いせいで、不安になってるのか……?」
手術は3月18日、残すところあと4日となってしまった。人生最大の分岐点に不安にならないわけがない。きっとそんな精神状態が影響して恐ろしい夢を見てしまったのだろう。思った以上に僕のメンタルは脆かったのかもしれない……
だからと言って今日も出勤日、ここで塞ぎ込んでいる場合ではない。
「って、勢いで出てきたわけかい」
「――そうです」
「お前、客商売を舐めてるのか?」
正直、店長の口からそんな言葉を聞くことになるとは思わなかった。だって――あの顔だぞ? 愛想笑いすらしないあの傷だらけの顔面、失礼だが子供だって泣いて逃げ出すだろう。何なら僕だって未だにあの顔には慣れていないのだ。
「しかし、当日欠勤するわけにも……」
「さぁ、この鏡をよーく見てみろ――何が見える?」
「――死にそうな顔の自分です」
鏡に写ったのは今にも死にそうな青白い顔の自分だった。顔色が悪い事は知っていたが、綺麗に化粧で隠したつもりだった。それがこの結果かと思うと妙に笑えさえもする。
「PAD長がいなくても私達だけで大丈夫ですって!」
「そうです、先輩は休んで下さい!」
仕事仲間達にさえこう言われてしまう始末だ、どうやら早退という選択肢しか僕には残っていないようだ。ここで無理をしても皆に迷惑をかけてしまう――やはり大人しく帰ろう。そう思い店の奥へ向かおうとすると、ふと気にかかるものが視界に入った。
「ん……?」
これでも、常連さんの顔はほぼ把握しているつもりだ。特にメイドを侍らせて問題を起こすような客もたまにおり、警戒するという意味でも名前と顔は記憶している。珍しい、というよりも明らかに浮いた客がいた事に気づいた。いくら体調が悪いとはいえ、入ってきた客に気づかないものだろうか?
「先輩?」
「――あのお客さん、いつ入ってきた?」
後輩に視線で促し、全身黒ずくめの女性を示唆する。上は黒のコートに下は黒のタイトスカート、更には黒いサングラスをかけてまさに黒ずくめだ。あれだけ目立つ格好で入って来たなら誰か気がつくはずだ。特に初来店の相手には店長も気を使っているはずだし……
「私も気づきませんでした……」
「ちょっと怖いね……」
「私、店長に伝えてきます」
後ろ髪を引かれる思いだが、このまま自分が残っても何も変わらない。今出来るのは、何事も起きない事を祈るだけだった。
―――
――
―
「おかえり」
「――ただいま」
帰宅すると、そこにはさも当然かのように留美奈の姿があった。朝慌てて飛び出したはずの部屋は綺麗に片付けてあり、テーブルには昼食であろうそうめんが置かれていた。まるで、僕が帰ってくるのを分かっていたかのような準備のよさだ。
「ご飯は出来てる、食べたら薬飲んで寝ること」
「風邪じゃないんだから大丈夫だよ」
「甘くみてると痛い目をみる、油断は大敵」
「――分かったよ」
何を言っても聞かないという姿勢の留美奈相手に、僕の方から折れる事にした。普段の感情の起伏が感じられない彼女に比べ、こういう時はとてもストレートだ。どちらが本来の彼女かは分からないが、こうなった以上何を言っても絶対に話を聞いてくれない。
僕は大人しく席に座り、両手を合わせて用意してもらったそうめんを頂くことにした。
「留美奈は今日も成果なし?」
「全く、影も形も見当たらない」
「ほんと、どこに消えちゃったんだろうな……」
行方不明の姉の痕跡は、どこを探しても見つからないらしい。そもそもで、隣に住んでいたはずの雪は家ごと消え去ってしまった。今では更地になっていて、本当に存在したのかすら疑わしい状況であった。
いいや、彼女との思い出が幻覚であるはずがない。共に過ごした時間は、確かに僕の胸に刻まれている。きっとどこかで生きているはずだ。そこに留美奈が探す姉も……
「もしかしたら、もうどこにも存在しないのかも」
「――そんな事言うものじゃない」
「でも。存在したことすらあやふや。まるで最初から……」
「それ以上は言わないでくれ!」
つい声を荒らげてしまう。しかし、その言葉を口にしてしまえば本当に彼女が消えてしまいそうで――嫌だった。
「――ごめん」
「いや、僕の方こそ……」
二人の間に流れる微妙な空気、それに耐えきれなくなった僕は箸を置いてテーブルから立ち上がった。
「残りは起きてから食べるよ」
「そう……」
「ご馳走様」
その言葉だけを残して自分の部屋へと引きこもる。今の精神状態も相余って、留美奈に当たるような事をしてしまった。そんなつもりじゃなかったのに……
そうさ、全部自分が悪い。弱い僕が周り全てに迷惑をかけてしまっている。
「僕なんて、消えてしまえばいいのに……」
そうすれば、誰にも迷惑をかけることなんてない。皆が幸せになれるんだ……
まるで悲劇のヒロインになったかのような思考に、冷静を装った自分が呆れる。こんな考えに至る自分自身を蔑む。
「このまま目を閉じて、全てが終わってしまえばどんなに楽か」
ここは未だ地獄の真っ只中、強大な運命に今も尚一人で立ち向かっている。お願いだから――誰か僕を助けてくれ。
『――助けて』
――一瞬、心の声が具現化したのかと思った。でも確かにその救いを求める声は、何処からか発せられていた。
『誰か、助けて下さい』
「誰だ……?」
『もう
その声は、こちらの言葉が届いていないのか。ただひたすらに救いの独白を連ねていく。
『このままでは、ご主人様は消滅してしまいます。お願いします、もし誰かがこの言葉を聞いていたのでしたら――
「見つけろって、どこにいるか分からないんだぞ?」
どんなに言葉を投げかけても回答は返ってこない。ただ永遠に、僕の脳内へ救いを求める言葉を投げかけ続ける。
『誰か、助けて下さい』
「だからお前は誰なんだ!」
『……』
ついに僕も頭がおかしくなってしまったのかもしれない、こんな幻聴まで聞こえるようになってしまったのだから。
『
「答えた!?」
『お願いします、ご主人様を――坂本雪を救って下さい』
「えっ……?」
予想外の名が耳に入る。"坂本雪"、幻聴だと思われた声はその名を紡いだのだ。まさか、行方不明になった雪はどこかで助けを求めている!?
「ど、どこにいるんだ!」
『――あの家です、あの場所にずっと』
「家って――あそこは更地になってもう何もないのに」
『お願いします、ご主人様を――』
「待ってくれ!」
救いを求める声はどんどん小さくなり――掻き消えてしまった。一番肝心な場所については何も告げずに。
「あの場所って、どこなんだ……」
幻聴と一蹴するか、それともあの言葉を信じるか――僕の答えは決まっていた。
「雪……」
もし生きているなら、大事な友人を救うに決まっている。彼女なら、今の僕でも受け入れてくれるはず――僕を認めてくれるはずだ。こんな弱い僕でも……
目の前に吊るされた希望に、僕は考えるまでもなく飛びついていたのだった。