視界全てを覆う朱、朱、朱……
この世のものとは思えない惨劇が目の前で繰り広げられていた。
「ぁ……」
口から漏れるのは空気が抜けるような間抜けな声だけ――何も叫べず、何も訴えられず、ただ惨めに地べたを這いつくばっている。
辺りからも同じような声が聞こえてくる。きっと、僕と同じような目にあっているのだろう。
ここは地獄、鬼達は捕えた罪人達を拷問にかけ愉悦に浸る。きっと何人も逃れる事は出来ない。
僕が何をした? どうしてこんな目に合わなければならない?
薄れゆく意識の中、ただ静かに今日一日を思い返した――
帝京歴786年3月17日
いつもと変わらない一日がまた始まる。しかし、一つだけ大きな変化が明日待っている――僕にとって、人生で一番大きな分岐点。
それは生まれながらの呪い、この身に刻まれたどうしようもない絶望。
何度死のうと思ったか分からない。こんな身体で生きる事に何の意味も感じなかった。それが今では――
「人生は、何が起こるか分からないな……」
明日には手術を控え、新たな人生を迎えようとしている。一人ではたどり着く事の出来なかったこの場所、多くの出会いがここまで僕を導いてくれた。
それでも不安が無いわけではない。100%とは言えない成功率――失敗は死であり、多くの人達の希望を無駄にする結果になる――それが死ぬ事よりも怖い。
「らしくないな」
不安を紛らわすため、マグカップの中に珈琲と牛乳を注ぐ。僕にとっては毎日の日課である行為だ。
「ぁっ……」
マグカップの取っ手を握ると、まるで最初から分離していたかのようにマグカップ本体と取っ手が引き離された。
あまりに唐突な出来事に、僕は完全に身体が硬直してしまった。
まるでそれは今後を暗示するかのような、自身の末路を示しているかのような……
「――」
――こういう時は、外の空気を吸いに行こう。一人で考え込んでも仕方がない。
これが最後の一日の始まりだった……
―――
――
―
「いらっしゃい」
僕は荷物を持って留美奈のマンションを訪れていた。
元々、彼女は僕の家で一緒に生活していた。それには理由があり、彼女の双子の姉である留美子を捜索するためであった。留美子は僕の友達である坂本雪の親友であり、捜索の手がかりとなれば――という事だったが、その結果は悲惨なものだった。見つかったのは留美子の遺体だったのだ……
「頼まれたものが完成したから持ってきたよ」
「優希の作ったコス衣装、期待してた」
「手先だけは器用だからね」
留美奈は包帯を巻いていない右手で僕の手渡した紙袋を受け取る。包帯なんて、いつ怪我をしたのだろうか?
「あぁ、これ?」
留美奈は笑いながら包帯を巻いた左手を掲げる。大丈夫だと言わんばかりに、拳を握ったり開いたりする。
「ガラスで少し切っちゃっただけ、すぐに治る」
「それならいいんだが……」
「優希は心配症、だから自分の事も悩みすぎる。ここまで来たら当たって砕けるだけ」
「――留美奈は強いんだな」
あれだけの悲劇を経て尚、僕を勇気づけようとしてくる留美奈。不器用なりの思いやりに、少しだけ肩の荷が降りたような気がした。
「写真は必ず送るから、期待してて」
「もちろん、送ってこなかったら催促するからな」
「他に送る相手なんていないから安心して」
「ははっ、冗談を言うなんて珍しいな」
「――冗談じゃないのに」
こんな留美奈とのやり取りも、しばらくお預けになると思うと寂しくも感じる。これから待つのは入院と厳しいリハビリだ――まぁ、彼女なら励ましに遊びに来てくれるかもしれない。それに、任務もあるだろうし。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「うん、がんばって」
僕を見送る彼女の視線は、少しだけ寂しそうに感じた……
「――はい、はい、了解。任務を、開始します」
―――
――
―
気が付けば、その足は無意識に喫茶"ガーベラ"へと向いていた。長い間通ったこの店は、自分にとって"家"とも言えるべき場所だ。
今日は店休日なのか、closedの札が入り口のドアに引っ掛けてあった。ドアノブに手を当てると、鍵が掛かっていいない事に気づく。
「お客様、本日は店休日ですよ?」
「ごめんなさい、札は見たのですが」
「――珈琲くらいはご馳走しよう」
僕の姿を確認した店長は、にっこりと笑い厨房へと歩き出す。
「昨日で長期休暇に入ったはずだが、一体どうしたんだ?」
「いえ、気がついたらこの場所に来ていたんです」
「ははっ、日頃身についた習慣ってやつかな」
「――かも、しれませんね」
店長が差し出したマグカップを受け取り、両手でしっかり握りしめる。淹れたての珈琲の温かみが手のひら全体にじわりと広がっていく。
僕の様子を見て察したのか、店長は視線を天井に向けて懐かしむように語りかける。
「お前を初めて見た時は、まるで小動物のように見えた。世界全てに怯え、震えている小動物だ」
「……」
「だがその
「覚悟、ですか?」
「あぁ…… 死をも厭わない覚悟、何があっても貫き通そうとする意思、お前はその
「ある意味では正しいかもしれませんね」
「事情を知れば納得もいったしな。だからこそお前がこの店で働く事を私は許可したんだよ」
「……」
「そして、今もまた同じような状況が迫っている」
そうだ、僕はいつだってギリギリだった。終わりと背中合わせで運命と戦い続けて、今この場所まで辿り着いた。当然それは一人の力ではない……
今この瞬間も、多くの人の力を実感する事が出来る――店長だってその一人だ。
「目に力が戻ってきたな、今更迷うなんて贅沢な事しやがって!」
「し、仕方ないじゃないですか……!」
「全く、かわいい娘が大勝負の戦場に赴こうっていうんだ、心配じゃない親がどこにいる!」
「店長……」
「この店はお前にとって"家"みたいなもんだ、いつだってお前の帰りを待ってるさ。だから――無事に帰ってこい」
「――はい!」
そうだ、皆が僕の帰りを待っていてくれている。家族と言ってくれる店長や同僚達、留美奈、そして愛する彼……
私の物語はここで終わったりしない、これから先も続いていくんだ。あくまでも今回の手術は大きな山に過ぎない、この先の人生もっと多くの山や谷が待ち構えているだろう。その度に悩み、そして仲間や家族と力を合わせて乗り越えていくのだろう。
「珈琲、ご馳走様でした」
「あぁ、行ってらっしゃい」
「――行ってきます」
僕は勢いよく店のドアを開け放つ。昼の日差しの眩しさに少し目を細め、大きく一歩前に踏み出す。朝の最悪の気分なんてもう微塵も感じてはいない。今あるのは、目の前にそびえ立つ山を踏破してやるという意気込みだけだ。
僕になら出来る、皆が待つその先へ突き進むだけ。こんなにも気持ちが軽いのは久しぶりかもしれない。
そうだ、帰ったら竜也にも連絡しておかないと。入院時の着替えやら荷物をまとめる必要もあるし、それに――そう、あの話の続きも。
「――え?」
そんな思考に耽っている最中だった。別に信号を確認し忘れたとか、注意を怠ったわけではない。目の前に迫ってくるのは猛スピードの黒いバンだ。その漆黒のボディは一部が赤く濡れ、目の前に現れるまでに何をしてきたのか克明に自己主張している。当然、そんなスピードの車を回避出来るように人間の身体は出来ちゃいない。瞬きをする暇もなく、自身に訪れるのは確実な"死"だ。
今日という一日の走馬灯が終わり、まるで羽のように軽やかに宙を舞う――直後の落下。ジェットコースターに少し似ているなんて考えている自分に少し笑えてきた。
グシャリッ
潰れ、砕け、削げ落ち、剥がれ、千切れる。
全ての痛みを凝縮した生への警告が全身に響き渡る。脳は極限の痛みに対処するが、それは最早死への苦痛を和らげる事にしか意味を成さない。
「ごめんなさい」
女だ、まるで死神のように漆黒のスーツを着込んだ女が立っている。それはどこかで聞いた事のある声だったが――
「今度こそ、今度こそはやり遂げる。だから――おやすみなさい」
「る……み……な……?」
霞む視界の先に見えたのは――よく知る相手の顔だった。ならば、この事故は全て彼女が……?
「――まだ、息があったのね」
「……」
「どうして、という顔ね。いいわ、冥土の土産に教えてあげる。
「……?」
「自分の遺伝子と多くの遺伝子を掛け合わせてきた。多くの実験の果てに貴方が生み出された。
彼が一番望む"神"となるための肉体、もう一つの血を受け継いだ貴方。」
彼女はまるで魔法の詠唱のように訳の分からない言葉を並べていく。理解しようとしても壊れかけた心臓が脳へと血液を運んでくれず、本来の機能を失いかけていた。
「だから、貴方は死ななければならない――もう一度始めるために。未来を取り戻すために3月14日へ……」
留美奈は懐から銃を取り出し、脳天目掛けて引き金を引いた。
「今度こそ、私があまてるちゃんを守る……」
幾度も繰り返される悪夢――それも終わる時が来た。さぁ、目醒めるがいい――君はもう全てを知っている。パズルのピースは全て埋まり、待ちに待った扉が開かれる。
君は知らずとも、その体には因果が刻まれている。これが最後の問答……
最初で最後の邂逅、私は君が来るのを待っているよ。その時、最後の物語が始まる――