帝京歴786年3月15日
「いってきまーす!」
「こら秋子! 朝ごはんくらい食べていきなさい!」
「遅刻するから無理っ!!」
娘は相変わらず私の心配をよそに自由奔放だ。私の言うことなんてまるで聞く素振りがない。
「全く――あの人に似たのかしらね?」
もう何年――いや、何十年になるだろう? あの日の冒険の思い出は、今でも鮮明に思い出す事が出来る。辛い思い出も多いけど、それでも――皆と一緒に旅した事は私にとって宝物だ。
でも、私達の約束は――
「翔子……」
「やだ私ったら、ついに幻聴まで……?」
ぁっ……
直後、何か温かみのある感触が背後に感じられた。どこか懐かしさを感じさせる温かみに、私は体が硬直してしまう。
もし、今ここで振り向けば私が望む存在がそこにいるかもしれない。しかし、本来ならばそんな事があるわけがない。ここで振り向いてしまえば、この温もりでさえも錯覚だと気づいてしまう。
――そんな事は嫌だ。幻でもいい、ただ今はこの幻想に浸っていたい。ずっと見失っていた私だけのあの人、ずっと求めていたあの人……
「爪秋っ!」
それでも、我慢なんて出来るわけがなかった。奇跡でもいい、振り向いた先に彼が――爪秋がいてくれると信じてしまう。
"だから私は――振り向いてしまった"
「ひさし――ぶりだな?」
「ばかばかばか!! 来るのが遅すぎるのよ!」
両手で胸板を叩く感触は幻ではなかった。確かにその衝撃は私の手から全身へと響いていく。
そう、これは夢じゃない……!
「悪い悪い――これでも急いだんだぜ? まさかこっちと俺達の世界で時間の流れが違うなんて思わなかったぞ」
「言い訳なんてどうでもいい!!」
「よしよし……」
怒る私をなだめるように、彼は優しく私を抱きしめ頭を撫でる。
「また、会えたね……?」
「あぁ、また会えた」
「おかえり? ただいま?」
「どうだろうな? まぁどっちでもいいんじゃないか? 俺達が交わす言葉なんて一つだけだろ?」
「ふふっ、そうだったね」
それはかつて交わした言葉、そして今、再び紡ぐ言葉――
「愛してる――翔子」
「愛してる――爪秋」
―――
――
―
留美奈に異変は特になかった。今朝もいつも通り朝ご飯を用意してくれ、今日も姉を探しに行くと言って僕よりも先に出かけていった。こちらの行動を監視している様子は今の所見受けられない。
今後はこちらの情報が漏れないように慎重に行動する必要があるが、留美奈に不信感を与えることもまずい。あくまでもいつも通りを装う必要があるのだ。
「先輩、難しい顔してどうしたんですか?」
「いや、特に深刻な問題ではないよ」
そのためにも、今日はいつも通り仕事に出勤していた。大学には既に退学届けは提出してあるため、もう通う必要はない。考え事をしながら仕事をしていたせいか、同僚の子に不審に思われてしまったようだ。
「本当ですか? 先輩って顔に出やすいの自分で自覚してます?」
「そうなのか……? 今後は気をつけるよ」
「だめです、むしろ出してください! 私達の事をもう少し頼ってもいいじゃないですか!」
「――ありがとう」
この店で働くまで、僕と密接に関わってくる人は少なかった。いや、僕自身壁を作っていた。他人から拒否される事の恐怖を短い人生の中で何度も経験してきたからだ。傷つくくらいなら、誰とも関わら無い方が良いと生きてきたんだ。
でも、竜也も、雪も、店長も、店の仲間達も――皆優しかった。私の凍りついた心を溶かしてくれた。
「なんですか、今更感謝なんて!」
「全くだぞ! 店の中をしんみりさせるんじゃない!」
「ちょっ、店長まで!」
『アハハハッ!』
他の店員やお客さんにまで笑われてしまう始末、それでも嫌な気分ではない――むしろ心が温まるようだった。
「ん……?」
これでも、常連さんの顔はほぼ把握しているつもりだ。特にメイドを侍らせて問題を起こすような客もたまにおり、警戒するという意味でも名前と顔は記憶している。珍しい、というよりも明らかに浮いた客がいた事に気づいた。
「先輩?」
「――あのお客さん、いつ入ってきた?」
後輩に視線で促し、全身黒ずくめの女性を示唆する。上は黒のコートに下は黒のタイトスカート、更には黒いサングラスをかけてまさに黒ずくめだ。あれだけ目立つ格好で入って来たなら誰か気がつくはずだ。特に初来店の相手には店長も気を使っているはずだし……
「私も気づきませんでした……」
「ちょっと怖いね……」
「私、店長に伝えてきます」
見た目で判断するのは良くないとは分かっていても、何故かあの黒ずくめの女性からは底しれぬ不気味さを感じていた。
昔からそうだ、僕の嫌な予感はよく的中する。今まで一度も外れた事は――
「――え?」
それはあまりにも自然体過ぎて脳が理解するまで時間を要した。彼女達にとっては当たり前でも、僕達にとっては映画のようなもの、その一瞬の殺意は躊躇無く撃ち出された。
「先輩っ!」
柔らかい感触が全身を包み視界は天井へと移り変わる。それと同時に、まるで現実味を感じない発砲音が激しく鳴り響く。店中に響き回る悲鳴、色々な何かが砕けていく、僕の世界が砕けていく……
「先輩、だいじょうぶ、ですか?」
「ぁ……」
生命の熱を感じる、目の前で覆いかぶさる彼女から流れ出る"ソレ"は徐々に僕の体を濡らして床へと広がっている。
「助けられて、よかった……」
「君は……」
目の前にいる後輩は僕だけを見ていた。その焦点は既に定まっていない――いや、もう何も見えていないようにも感じる。それなのに、僕だけを"見ていた"のだ。
「お前達は――また、私から家族を奪うのかぁ!!」
店長の叫び声が聞こえる。今度は銃声が交互に鳴り響く。きっと、店長が応戦し始めたのだろう。確か元々戦地にいたという話を聞いた事がある。
「こんな時でなんですけど、わたしっ――先輩の事好きだったんです。せんぱいは憧れでっ、遠くのひとで、彼氏がいるから、言えなかったんですけど」
「もういい、喋るな」
彼女が言の葉を紡ぐ度、口から溢れた血が私の頬を赤く濡らす。彼女は今、自身の生命を減らしながら告白しているのだ。
「卑怯ですよね――こんな事言って、死ぬのは――」
「だから喋るな! 今すぐ救急車を――」
「先輩っ――愛してます」
そのまま僕の上にぐったりと倒れ込んだ彼女は、それ以上何も紡がなかった。まるで満足したかのように……
嘘だ、こんなのは現実じゃない。こんな事現実であるはずがない。
頭の破裂した者、上半身と下半身が分かれた者、人だったモノの残骸……
「榛名優希を引き渡せ、そうすればこの娘を開放してやろう」
「――あの時と同じだな。家族を殺し、娘を人質に……この人でなしが!」
「"人でなし"か、お前の言葉は正しい、確かに私達は人ではない」
「そうかい――でも、優希は渡さん! 大事な家族を売るなんて事は出来ない!」
「なら、この娘がどうなってもいいと?」
皆――死んだ? "家族"と呼んだ仲間達が? ついさっきまで笑い合っていた人達がみんな……
「どちらも――助けるっ!」
再び響く発砲音――今度は2つ同時。それと同時に何かが駆け出す音がこちらへと近づいてくる。でも今の僕には、その状況を正確に理解する事は出来ない。"今"を正しく認識出来る事なんて無理だ。
「そう――来ると思った」
「ちっ、器は心臓さえ無事なら傷ついても構わん――総攻撃だ!」
「優希――立てるか?」
倒れたままの僕に店長が手を差し伸べる。
無駄だ、こんな事をしたって無駄なんだ。きっとあいつらは晴明の手下で僕を捕まえに来たんだ。店長もこのまま他の皆と一緒に――
「いいかげんにしろ、家族の思いを無駄にする気か! 背負った生命の重みを考えろ!」
「――店長?」
「お前はまだ生きている、生きているんだ! 生きてる奴は死んだ奴の思いを受け継がなきゃない」
思いを受け継ぐ……? 僕が、みんなの……?
「どうして――」
「ん?」
「どうして、助けてくれるんですか……?」
「――家族を守るのに、理由がいるか?」
そうだ、店長はいつだって僕に手を差し伸べてくれた。どんな時だって――
「店――」
――その頼もしい手を掴み立ち上がったつもりだった。こんな地獄のような状況でも、店長ならどうにかしてくれると信じていた。そんな希望は――いとも簡単に打ち砕かれた。
「ぅぁぁぁぁあああ!!!」
僕の握っていたモノは――店長の腕だけだった。