「プロポーズ?」
「そそ、まだされてないの?」
「……そうね、されてないわ」
「ふーん……お姉さん的にはそろそろ結婚かなーと思ってるんだけどなあ」
「知らないわよそんなの。フー君に聞いてちょうだい」
珍しく一花に呼び出されたと思ったら、開口一番そんな話をされて私は少しだけムッとしてしまった。
別に一花に対して怒ったわけではないのだけれど、じゃあ何に対してムッとしたのかと問われたらそれに返せる答えもない。
強いて言うなら、なんとなく、だ。
私は砂糖をたっぷり入れた紅茶を一口飲んで、同じくコーヒーカップに口をつけている姉をチラリと見やる。
綺麗になった、と。素直にそう思った。顔は瓜二つだけど私がナルシストなわけではない。五つ子といえど、個々人の感性や美意識によって見た目も変わるものなのだ。それが一般人に分かるかどうかは別として。
恋が女を美しくさせる、とかいう話を聞くこともあるけど、私の唯一の姉が恋をしているとは思えない。彼と結ばれた私が直接言うことはできないけど、それだけ高校生の初恋は刺激的で強烈なものだったのだ。他の男の人なんか、数年経った今でも眼中に入らないくらいには。
「あんたはどうなのよ」
それが分かっててこんなことを聞くのは性格が悪いだろうか。別に、ただの雑談、話題の延長線上として出した言葉なのだけど。
「うーん…………これといって、ないかな」
「そ。まあ、そうよね」
「うん」
一花も私が本気で言ったわけではないことを分かっていたようで、苦笑と共に返された。こういうところ、この姉はやりやすくてありがたい。三玖あたりには間違っても言えることではない……と勝手に思っているから。
けれど、話題として0点もいいところだったのは否めない。気まずいとまでは言わないけど、微妙な空気になってしまった。
パンケーキを勢いに任せて口に運び、話題を考える。けれど私が何も思いつかないでいるうちに、一花が口を開いた。
「二乃は最近、忙しいの?」
「私?……あー、まあ、少しね。一花ほどじゃないけど」
「あはは……おかげさまで多忙な日々を送ってるよ」
「ホントに。テレビであんたを見ない日はないわよ」
「でもね、楽しいんだ。すっごく」
「……そ。なら、いいんじゃない?」
「ふふ、ありがと」
見透かしたような微笑みがなんだかくすぐったくて、手元のカップに逃げてしまう。それを温かく見つめられているのがまた気恥ずかしくて、それなのに居心地が良くて。
また、話せたらいいなと思いつつ、私は改札の向こうに消える一花の背中を見送るのだった。
◇
「ただーいまー」
暗い廊下に、私の声が響いて消える。「ただいま」はほとんど無意識だ。とりあえず言う、みたいな感じ。無意識だから、これといって理由はない。
「おかえり」
「……ただいま」
まあ、強いて言うなら、人がいる可能性があることが理由になっているのかもしれない。突然廊下の明かりがついたことに驚いて、靴を脱ぐ手を止めて顔を上げればそこには見知った顔が一つ。
「ねえ……合鍵を渡したから、家に入るのはいいけど。せめて連絡するとか、そうでなくてもわざわざ入ってから鍵を閉めるのやめなさいよ。ビックリするでしょ」
目を細めて、所謂ジト目で睨む。彼はそんな私を見て目を見開き、こう言った。
「む……すまん。用心にと思ったが、確かにお前が帰ってくるのに閉めるのは良くないよな……」
予想外も予想外。どうせ適当に言い返されるかムカつく返事がくると思っていただけに、落ち込んだように俯く彼に面食らってしまった。とにかく何かしらのフォローをしなければと焦った私は、考えもまとまらぬままに口を開く。
「あ、えっと、お、怒ってるわけじゃないのよ?ただ、ビックリするから出来れば開けておいてほしいなーって」
我ながら驚くほど媚びた声が出たもんだと自虐半分感心半分の複雑な気分になりつつ、彼の顔色を窺う。
そこでようやく、してやられたことに気づいた。
「……ククッ」
「っ!…………ねえ、まさかとは思うけど」
「悪い悪い、ちょっと揶揄っちまった」
「……今日のご飯抜きよ」
「そう言われると思って食ってきたわ」
「〜〜〜っっ!!」
「痛い痛い。悪かった、冗談だって」
「もう知らないっ!」
完全に手のひらの上で弄ばれた私と、完全に私を手玉に取った彼。さぞかし気分が良いことだろう。私が本気で怒っていないことくらい彼は見抜いているし、私がそれを理解してしまっているから余計に腹立たしい。
ドスドスと乙女にあるまじき足音をたてながら、反撃の一手を考える。ご飯抜きなんて口では言うけれど実行できた試しは一度もないし、こんなことで喧嘩をしたくないので言い争うのも何だか違う。
じゃあ私に出来るのは、もうこれしかない。
「……うっ……ひどいわよぉ……」
さっきまで怒り心頭だったのに急に泣き出すやつがあるかと自分でも思うけど、涙さえ出ればこっちのもの。生憎と、涙の出し方は女優を生業とする姉に教わっているのだ。彼にとっては何ともはた迷惑な話だろうけど、知ったことではない。強かな女は、涙を使いこなすのだ。
「……は?お、おい、二乃?」
「いじわるばっかり……ふーくんのばかぁ……」
「な、泣くなよおい。俺が悪いみたい……いや俺が悪いんだけど。い、いつものやつだろ?……悪かったって、ホントに。すまん」
「……ふふっ」
「…………だよなあ」
「あら?分かってたの?」
「疑ってはいたが……涙がなあ……」
「一花直伝よ」
「なんてもん教えてんだあいつは」
「ふふん、私に意地悪するとこうなるんだから」
仕返しは華麗に成功……とまではいかないけど、慌てるフー君が見れたから良し。思っていた以上に気分がいいので、今後も使っていこうと考えていたら、彼が悔しそうに口を開いた。
「……狼少年になってもしらんぞ」
「なによそれ」
「知らないならそれはそれでいいんじゃねーの」
「気になるから教えなさいよ。教えないと泣くわよ」
「いや宣言して泣いたら放置するからな」
「むむむ……いいから、教えてよ」
「あー、イソップ童話って知ってるか?」
それから話を聞けば、狼が来たと嘘をつく少年が、嘘をつきすぎた結果、本当に狼が来た時に誰も忠告を聞いてくれなかったという話らしい。
なるほど。嘘泣きを繰り返したせいで本当に泣いている時に信じてもらえなくなるぞと言いたいわけだ、彼は。
けれどそれは──
「大丈夫じゃない?」
「……なんでそう言える」
「だって、私が泣いてたらフー君は心配してくれるもの」
「…………」
そう。例え何度嘘泣きをしようとも、彼はその度に本気で心配してくれるだろう。それだけは、はっきりと言えた。
「……どうだろうな」
「まあ、私もこれっきりにするわ。涙なんて、好きな人相手でも易々と見せるものじゃないしね」
「そうしてくれると助かるよ」
それから二人で顔を見合わせて、どちらからともなく笑い合った。
何を言うでもなく協力して作った晩ご飯は、何だかいつもよりも美味しく感じた。
「そういえば、何の用事で来たの?」
「あっ……」
「な、なによ。別に変なことは聞いてないわよ」
食後の雑談タイムにて。なんやかんやあって聞けなかったことを聞いてみたら、おかしな反応が返ってきた。まるで彼も用件を忘れていたかのような──
「忘れてた」
忘れていたらしい。
「あんたらしくないわね」
「うるせ。緊張してんだ」
「緊張?なんで?」
「あっ……」
どうにも歯切れが悪い。用事が無ければ無いとはっきり言いそうな彼だから、きっとちゃんとした理由があって今日はうちを訪れたのだろう。問題は、その理由が何なのかということだけど……。
「……まあ、なんだ。二乃さんや」
「なによ」
「ちょっと夜風に当たりに行かないか?」
「……いいけど。歩き?」
「いや、バイクで」
「あら、乗せたくないって言ってなかった?」
「今日は特別だ、特別」
「ふーん、まあ、私は嬉しいから何でもいいわ」
どんな心変わりがあったのか、細かいところは分からない。けれど、私にとっては何故変わったのかよりもどのように変わったのかの方が重要で。
有り体に言ってしまえば、二人乗り万歳。前々から……具体的には、彼が数ヶ月前に人生で一番の買い物としてバイクを買った時から、乗りたい乗せて乗せなさいとせがんではいたのだ。でも、彼は頑なに私を乗せたがらないものだから、いつしか私も諦めていた。
気まぐれなのか、理由があるのか。以前の強硬な姿勢を見てきた私にしてみれば、気まぐれに乗せる気になったとは思えない。
問題は、何が理由で私を乗せる気になったのかということだけど……。
「ほらよ」
「ありがと」
ポイっと渡されたヘルメットを受け取って、しっかりと装着する。いつしかノーヘルで乗った時を思い出して苦笑しつつ、ヘルメットの具合を確かめながら正面に向き直る。
彼はすでに準備を終えてバイクに跨っていて、何やら私には分からないチェックをしていた。
これから数年ぶりの二人乗りなのだから、もう少し緊張している素振りを見せてくれてもいいのに。なんて、そんな面倒なことは言わないけど。少し悪戯するくらいは許してほしい。
「っ……お、おい」
「なあに?」
「……なんでもない」
「そ」
後ろから、思いっきり胸を押しつけただけ。散々弄りつくしたはずなのに、未だにこうして照れてくれるのは嬉しい。もう慣れました〜みたいな反応をされたくはないものなのだ。
なおも何か言いたそうだった彼はしかし、諦めたように「行くぞ」とだけ素っ気なく言って、ゆっくりと発進した。
涼しい夜風が、激しく唸りを上げる中をしばらく無言で走った。途中、目的地はあるのかと尋ねたら大きな声で「秘密だ!」と返ってきたので、私は身を任せるほかにない。それはそれとして、形が変わりそうなほど胸を押しつけて腹いせはしたのだけど。
それから何分走ったのか、気づけば山道に入っていたようで、周りを走る車の数は激減し、明かりも少なくなっていた。
記憶にある限り一度も来たことがない場所に連れて来られて、さらに奥へ奥へと私たちを乗せたバイクは進んでいく。
次第に怖くなってきた私は、今度は嫌がらせでもなんでもなく彼の腰に回した腕の力を強めて、密着度を上げた。彼はまたピクリと反応して、それから私の様子がさっきまでと違うことに気づいたのか、聞こえるギリギリの大きさで「大丈夫だ」と言ってくれた。
たったそれだけなのに、恐怖のほとんどが吹き飛んでしまうのだから不思議なものだ。
「着いたぞ」
「……何よここ。暗いわね」
「夜だからな」
「そうだけど……」
それからしばらく。舗装はされてるけど一台も車の走っていないようなところまで来て、何やら駐車場のような場所にバイクを止めた彼。
恐る恐る降りて、ヘルメットを外してみるけど、月の出ていない今夜では暗くて仕方がない。
「こっちだ」
「う、うん」
どうやらここが目的地というわけではないようで、彼は私の手を取ってゆっくりめの速度で歩き始めた。私はついて行くしかないので、大人しく彼の手を握って隣に並ぶ。
落ち着いて周りを見てみれば、心霊スポットの類いではないことが分かる。静かだけど、怖さは感じなかったからだ。
それから数分歩いたところで、彼が穏やかな声を発した。
「ほら、着いたぞ」
「え?…………わあ……綺麗……」
展望台、というほど整備された場所ではなかったけれど、そこからは、夜の街が一望できた。
周辺と空が暗い分、街明かりが映えている。涼やかな風が緩く吹きつけてきて心地良く、私は時間が止まったかのようにその夜景に目を奪われてしまった。
「こういう場所、好きだろ?」
「ええ……そうね、好きよ」
「……んで、だ」
「……」
「あー、まあ、一応大事な話があって連れて来たわけなんだが……」
「……ふふ、何かしら」
「ぐ……お前気づいて……いや、いいか」
素敵な場所。こんなところに連れて来られて、大事な話があると言われれば嫌でも察しはつく。最悪の可能性も一瞬だけ頭をよぎったけど、すぐに消した。彼を見れば、そんなことは考えるまでもなかった。
思えば、彼はここ何ヶ月もバイト三昧だった。私はてっきりバイクを買うためだと思っていたけど、よくよく考えればもともと節約する彼が、大学に入る前からずっといろんなバイトをしていたのだからそれなりに貯蓄はあったはずで。バイクを買った後もひたすらに働いていたことには何か理由があってもおかしくはない。
彼は深呼吸を何度も挟んで、暗闇でも分かるくらいに緊張した様子で言った。
「お前らと、お前と出会ってから何年も経つが、俺は相変わらず勉強しかできないしょうもない男だ。だが、お前を好きな気持ちだけは誰にも負けない。面倒も迷惑も手間もかけるダメなやつだが……お前を支えられるように努力する。だから、だから……俺と、結婚してください」
私の目を見て、小さな箱を出して、彼はそう言った。対して、私は。
「……そ、そう……そうね……ふ、二人乗りしてるときに言ったら100点だったわね。うん」
「ここはとっても素敵だけど、私にとって二人乗りは大事な思い出なのよ」
「だから、そうね。100点ではないわ」
思ってもないことばかり、口をついて出る。そんな自分が嫌で嫌で仕方がなくて、俯いて。
彼の、震えている手が目に入った。
変な話だけど、怯えて、小さく見えるその手に、私は勇気をもらった。もらって、必死に言葉を紡ぐ。
「でも、ね。フー君が私のこと、好きだってのは伝わったから。……おまけにおまけに、おまけして──」
「──120点、あげるわ。私を、幸せにしてくれるなら」
「……ああ、誓うよ。幸せにする」
◇
「と、まあ……こんな感じだったかしら」
「「「「おおおお……」」」」
「な、なによ」
「いやいや何でもないよ」
「そ、そうそう!とっても素敵だと思う!」
「二乃、そこは100万点くらいあげてもいいと思う」
「ふふ、二乃は素直じゃないんですよ」
翌月。たまたま全員の予定が合うということで集まったところ、すぐに捕まった私。
「話すまで帰さない」と好奇心満天のキラキラ顔で詰め寄られてしまえば、観念せざるを得ないというものだ。
「それが貰った指輪?」
「そうよ」
「やっぱり上杉さんがつけてくれたの?」
「やっぱりって何よ……まあ、そうだけど」
「二乃、ちょっと貸して。私の指にもはまるかどうか試す」
「嫌よ!あんた返す気ないでしょ!」
「二乃、あまり騒いでは他のお客さんに迷惑ですよ」
「私が悪いの……?嘘でしょ……?」
左手を三玖から遠ざけるように掲げて、ようやくそれを身につけている手を見ることに慣れてきた私は、窓から差し込む陽光を受けてキラリと光るそれを見つめる。
「おや〜?二乃がうっとりしてますよ、三玖さん」
「見せつけてる。性格悪い」
「いいなー。憧れちゃうよね、ねっ、五月?」
「そうですね……確かに羨ましくはありますね」
やんややんやとうるさい外野の声は一旦無視して。
私はしばらくの間、その銀色を見つめ続けるのだった。