穏やかだった。穏やかで純粋だった。
真っ白なキャンバスのように。或いは、雲一つない空のように。
汚すことが躊躇われるような澄み具合だった。
◇
「上杉さん上杉さん」
「ん?」
「今度のお休み、デートしませんか?」
「週末か……いいぞ、どこ行く?」
「適当にぶらぶらしましょう」
「お前らしいな……まあ安く済みそうだからこっちは構わんが」
「上杉さんらしいですね」
平日の真ん中。人によってようやくここまで来たととるかまだここまでしか来てないととるかが分かれそうな水曜日のこと。
大学での講義を終え、家に帰った俺を迎えたのが中野五姉妹の四女にして俺の彼女である四葉だ。合鍵を渡してあるから不自然ではないとはいえ、誰もいないと思っている家に人がいると少しビビるから連絡くらいはしてほしいものだが、俺が驚くところまでがこの訪問のセットなのだと笑顔で言われてしまえばこれ以上俺に言えることはない。
俺も四葉の部屋の合鍵は貰っているのだが、実際に行く時は四葉と一緒なので使ったことは無い。交際しているとはいえ、女子の部屋に無断で(合鍵をくれた時点で容認されていると言えなくもないが)入るのは流石に気が引ける。
そういうわけで、会う時は大体俺の部屋。そうでなかったら端末で連絡をとり合って街中のどこかだ。割合としては9:1で俺の部屋なのだが。
「何時集合にする?」
「そうですね……前泊というのはどうでしょう」
「……事あるごとに泊まりたがるよな」
「いいですよね?」
「いいけど……」
「そうですね……」なんて言いながら腕を組んだ四葉だったが、どうせ最初から泊まる気だったに違いない。そう思える程度には、四葉は何度もうちで夜を明かしていた。
そう。四葉は俺の部屋に何度も泊まっている。
シャワーだって貸す。パジャマ姿も躊躇なく見せてくる。
じゃあやることやってるのかと聞かれると、残念ながら俺は首を横に振るしかない。
そもそも、泊まるのも風呂を貸すのもパジャマを見るのも高校時代に経験している。貸す借りるの立場の違いこそあったが、本質的には何も変わらない。
まあ、要するに、何をどうすればいいのか分からないのだ。
恋人関係にある男女が一つ屋根の下で夜を過ごすのだから、何があってもおかしくはないと以前二乃が言っていた。その意味するところを理解した時は大いに慌てさせられたし、そんな俺を見てケラケラと二乃は笑っていたが、俺にとっては重大なことだ。
四葉にその気があるのか無いのか。最終的にはそれが全てだ。
何かしら姉妹に仄めかされて俺を密かに誘っているという可能性もある。ただ単純に、泊まりたいから泊まっているだけという可能性もある。可能性の話をするのなら、どちらでもあり得る。
けれど、だが、しかし。
天真爛漫。無邪気。純真。無垢。天使。女神。
そんな言葉が似合う彼女が、果たして俺を誘うだろうか。
否である。
つまり、結論として。
俺は四葉に手を出さないと決めたのだ。
◇
「お邪魔しまーす」
「おう」
金曜日。予定通りに四葉がやって来た。
ニコニコと笑っている四葉から荷物を受け取り、中へと招き入れる。
「おや、掃除しました?」
「お前が来るんだし、そのくらいはな」
「もともとそんなに散らかってないですけどねー」
──じゃあ何故掃除したことに気づいた。
とは言わなかったが、それほどじっくりと部屋を見られると良くないものを置いていないとはいえ何だか恥ずかしい。
俺は部屋から視線を逸らしてもらうべく、適当な話題を放った。
「今日の夕飯は?」
「なんだと思います?」
問われて、四葉が俺の持つ──つまりさっきまで四葉が持っていたビニール袋を見ていることに気づいた。
はて、と中を覗いて「なるほど」と一言。そこには答えがあった。
「パスタだな」
「正解です」
「しかし、こんなに食えんぞ」
「余った分はまたいつか食べましょう。あ、上杉さんが自分で茹でて食べちゃってもいいですよ」
「あ、これ俺んちに置いとくのか。いくらだった?」
「いえいえ、私も食べるのでお代は結構です」
「ん………………まあ、そういうことなら」
金銭に関してはなるべく厳格にいきたいところだったが、これ以上は時間の無駄でしかない。あとで四葉の財布に金をぶち込んでおけば解決する話だ。
それからすぐに四葉と俺で夕飯を作って食べた。と言っても、俺はほとんど見てただけなのだが。
最初からそうだったのか、努力したのか。四葉は俺の部屋に来る時、大抵の場合料理を作ってくれるのだが、これがやたらと美味い。そもそも美味いとしか言えない俺だが、とにかく四葉の料理は美味かった。
「先に風呂入っていいぞ」
「あー……ちょっとやることあるので、上杉さん先いいですよ」
「そうか?じゃあお言葉に甘えて」
どちらが先に、と明確に決まっているわけでもなし。何となくいつも四葉に譲っていたが、こういうことがなかったわけでもなし。
着替えを持って脱衣所へと向かう。何というか、慣れたものとはいえ女子が扉の向こうにいる状態で全裸になるのは少し抵抗があるが、そんなことを今さら気にしてもいられないのでさっさと脱ぐ。
「おあああ………………」
声が漏れる。
別段疲れているということもなかったが、どうしてか。湯船に浸かった途端、抗い難い眠気に襲われた。
これはすぐに出た方がいいかと思う間もなく、俺の意識は眠りの底へと落ちていった。
◇
ペロリと一つ、舌舐めずりをした。
ようやくだ。ようやく、今夜、彼を……。
「もう……ヘタレ上杉さん」
口ではそう言ったものの、四葉の表情は普段のそれとは180度異なる妖艶なものだった。
そしてそれは、捕食者と言い換えても何ら違和感はなかった。
風太郎の部屋に、二度目のお泊まりをしに行った日の後のことだった。
何の気兼ねもなく、風太郎にギュッと抱きしめられたまま眠ったことを姉である二乃と三玖に話した四葉の顔を見て、二人は問うた。
「それで?他には?」
他に……?と四葉は首を傾げた。その様子を見て、二乃はため息、三玖は苦笑いだ。
ますます分からなくなった四葉が少し苛立った口調で二人に詳しい話を聞かせてと言い、二乃と三玖が聞き齧った程度の知識を得意げに披露したのだ。
当然顔を真っ赤にして首をブンブンと横に振ってその場を逃げるように立ち去ってしまった四葉だったが、彼女とて年頃の少女。そういった話を聞いて、興味が湧かないはずもなかった。
それから四葉は、風太郎を誘うように振る舞った。イエスだと、カモンと伝えるために奮闘した。
しかし悲しいかな。風太郎の決意は固く、股間は柔らかかった。
何とか硬くならないかと頑張ったが、ダメだった。
自分を守るための決意が嬉しくもあり、辛くもあった。
四葉の思考は完全に思春期の男子へと変貌を遂げた。
その結果がこれだ。
「睡眠薬って、結構効果あるんだなあ」
終着点はあまりに酷かった。
立場が、或いは性別が逆だったら絵面は大変なことになっていただろう。
彼の寝顔は穏やかだった。穏やかで純粋だった。
彼の体は清かった。真っ白なキャンバスのように。或いは、雲一つない空のように。
汚すことが躊躇われるような澄み具合だった。
だからこそ、それを自分色に染め上げるのは最上の快楽と言えた。
四葉は、自らの奥深くに眠っていたモノを呼び覚まされていた。
「あっ……ん…………おっき……」
そして風太郎もまた、自らのモノを四葉によって呼び覚まされ、捕食者たる彼女によって蹂躙されるのであった。
彼が目を覚まし、処理しきれない情報量を『夢』という都合のいい言葉で強引に納得して、ならば良かろうの精神で四葉を蹂躙し返すのはまた別の話だ。