メトロポリスの血の子午線   作:Cabernet

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#16 失楽園

Blood Meridian of Metropolis 16

 

   #16 失楽園

 

 病人の前で葉巻を吸うとは好い度胸してますね。

 吉弔八千慧は患者衣を身にまとった格好でベッドに身を横たえ闖入者を睨みつけていた。相手はこちらを一瞥すると再び窓の外に視線を移し胸を膨らませて葉巻の煙を吸いこんだ。まるでこの世のありとあらゆる憤懣(ふんまん)と鬱屈を一身に引き受けようとするかのように深い呼吸音だった。病室の窓辺に設置されたラジオから調印式の模様が中継されており腐れ縁の組長はそれを聴きながら何本も葉巻のストックを消費した。

 やがて八千慧も文句を云うのは止めにして目を閉じた。起きているだけでも体力の消耗が著しいのだ。

 腐れ縁は云う。……大丈夫か。

 平気なわけないでしょう。ハチの巣よろしく身体中に穴を空けられたのに。

 そうか。悪い。

 無理に話題を探さずとも結構。

 

 ラジオから拍手と歓声が上がった。調印を終えた代表団が握手をした瞬間だった。

 早鬼が無表情に呟く。……いつかは私たちの時代にも終わりが来るとは思っていた。こんなに早いご着到とはさすがに予想外だったがね。

 あなたはすべてを失いました。何もかも。八千慧は目を開けて腐れ縁の横顔を見つめながら云った。虚飾という虚飾を剥がされ伴をする部下の一人もなく。ただ憎い敵(かたき)の病室で二人きり。私の目に映るのはボロ雑巾のようになって途方に暮れているただの少女です。

 早鬼がようやくこちらを見返した。奇妙なほどに澄んだ瞳だった。表情という表情が顔から拭い去られて氷で象られたナイフのような殺意が皮膚の下からむき出しになっていた。彼女の顔を見た八千慧は布団のなかで両手の指を組み合わせた。頬が熱くなった。

 早鬼が声を荒げる。――すべてを喪ったのはてめェも同じだろうが。ええ? 策士が策に溺れるか? 無様なもんだ。

 私はこうなると最初から分かっていましたよ。本当はもう死んでいるつもりだったのですが奴(やっこ)さんの銃の腕前が致命的に下手クソだったせいで生き永らえる羽目になりました。

 じゃあ何だってんだ。まさか何もかも台無しになるのを承知の上であの条約を結んだってのか?

 ええ。

 埴輪のセキュリティがガバガバだってことも知ってたのか?

 ええ。

 あの生意気なブリキのおもちゃの企みも全部お見通しか?

 仰る通り。

 …………なんでだ吉弔。私たちがここまで辿り着くのに何百年かかったと思ってる。ガキの積み木遊びじゃねェんだぞ! ちょいと蹴飛ばして崩しちまってもまたイチから積み直せば好いだろとかそんな軽いノリで私の家族と財産を消し飛ばしやがった連中にこの街を委ねるってのか!? ――貴様の部下も部下だ! 親を売りやがったんだぞ! ファミリーを!! たった一人の母親(ゴッドマザー)をッ!!

 尻尾を出しましたね驪駒。八千慧は嬉々として答える。“私に器がないと見切りをつけたら正直にそう云え”でしたっけ? ――偉そうなことを散々云っておきながら本当は裏切られるのが何より耐え難いのですね。私が抜けたときだってそうでした。――怖いのでしょう? 来るもの拒まず去るもの追わず、……――それどころかご主人様への独占欲が強すぎたせいで地獄に堕とされたくせにっ。

 こ、――こンのクソ野郎ッ!!

 

 早鬼の口調は話すうちにどんどん高まり銅鑼のような大声になっていた。最後にはベッドに飛び乗って八千慧の頭のすぐ横に両手を突いたがあまりの衝撃で枕が破裂してしまい羽毛が二人の周囲に飛び散った。西日が差した病室に夕陽の色に染めあげられた羽毛が舞い躍(おど)るさまは天使の再臨のようだったが八千慧の目に映る早鬼の表情は悪魔のそれだった。生前は馬であったにも関わらず彼女の剥きだしになった犬歯はハイイロオオカミさながらの凶暴さを湛えている。八千慧はこらえきれずに笑い出した。哄笑と云っても好かった。傷口から地獄の釜の蓋が開いたような激痛が走ったがそれでも彼女は笑い続けた。早鬼が両手で首を締めてきても猶(なお)笑っていた。

 ――なにがおかしい吉弔てめェッ!

 こ、これが笑わずにいられますか。八千慧は絞められた喉の隙間からひゅーひゅーと息をしながら答えた。やっと、――やっとですよ。――やっとあなたが私と同じところまで堕ちてきてくれた! 翼をもがれて。沼の底まで。光さえ届かない汚泥の溜まりへ。気分はいかが早鬼? ――私は最高よ。神馬と謳われし驪駒サマが今となっちゃあ地獄の辺土で野垂れ死にそうになっているのだからね。

 

 怒りで紅潮していた早鬼の顔からすっと血の気が引いた。傾いた帽子が頭から滑り落ちて吉弔の胸に受け止められた。八千慧は帽子を両手で愛おしげに抱きしめるとその匂いを嗅いだ。そしてようやく笑いを引っ込めていつもの底知れない微笑みに戻した。

 早鬼がぽつりと呟く。……“あなたという存在を踏みにじる方法”、――か。

 八千慧は無言で笑みを深めた。

 ……そっか。そっか。お前はずっとこうなることを望んでいたわけか。

 八千慧は無言だった。

 ――何もかもが手段に過ぎなかったわけだ。組織も。栄達も。自分自身の命すらも。

 無言。

 最低最悪の搦め手だよ。本当に。お手上げだ。

 無言。

 満足か?

 沈黙。

 だったら私が殺しても怨みはないな?

 早鬼がホルスターから逆手に銃を抜いた。そして八千慧の額に銃口を突きつけた。この期に及んでも八千慧はひと言も声を返さなかった。銃を握る早鬼の手は震えてなどいなかったし事によったら本当に殺すつもりであるのは明らかだった。驪駒早鬼は遥か過日にそうした類の躊躇(ためら)いの一切合財を棄て去ることで今まで生き残ってきたからだ。それでも八千慧は返事しなかった。彼女は自分のことを口達者だと思ったことは一度もない。だが甲羅に引きこもった亀のごとく相手の出方を辛抱強く待つことにかけては誰にも引けを取ったことはなかったしそうすることによって彼女もまた今まで生き残ってこれたのだった。

 

 やがて早鬼が銃口を下げた。銃は帽子の後を追って力なく八千慧の胸に受け止められ銃身の冷たい感触が患者衣ごしに伝わった。早鬼が顔をうつむけた。彼女の黒真珠のように艶やかな前髪が表情を覆い隠す。八千慧は両手を差し伸ばして早鬼の頬を包んだ。霊体であるはずなのに哺乳類の熱を宿したままの肌。かけがえのない温もりとそれが生み出すささやかなひらめき。水底から生まれ落ちた自分には決して持ちえなかった命の灯(ともしび)。ようやく手繰り寄せることができた、と八千慧は声に出さずに呟いた。

 ……ああ駄目だ。早鬼が顔をうつむけたまま云った。お前まで殺しちまったら、――私は本当に独りだ……。

 

   ◇

 

 お取込み中のところ失礼します。吉弔様。驪駒様。緊急事態です。

 病室のドアを開けてコモドオオトカゲ霊が姿を見せた。エボシカメレオン霊の処刑の際にカワウソ霊と云い争っていた鬼傑組の古株だった。彼はドアノブを握った姿勢のまま舌をちろちろと出して固まっていた。ベッドの上で消沈した早鬼にのしかかられていた八千慧は涼しい顔で部屋の入り口に視線を向けた。

 見張りご苦労様。何があったのですか?

 一階にどたどたとお客さんがやって来ましたよ。下品な土くれの鎧に身を包んで菓子折りひとつ持たずにお見舞いといったところです。

 あらあら。ずいぶん遅い到着ですね。襲撃でしょうか。

 好くて身柄の確保。あるいは逮捕。そして拘禁といったところでしょう。先に捕まっている饕餮(とうてつ)のオジキが今ごろどうしてるかは知りませんが愉快な目にはあえそうにないってことだけは確かです。――私が時間を稼ぎます。ご決断を。

 こんな時でさえ忠実ね。何より冷静です。

 あなたの下でずっと働いてきましたから。

 大人しく私たちを差し出せば晴れて鬼傑組のナンバーツーですよ。

 そんで性悪なカワウソ霊の右腕ってわけですか。冗談でも御免ですよ。――まァご心配なさらず。うまくやりますよ。時間を稼ぐと云っても銃弾の前に我が身を投げ出すことだけが献身じゃない。教えの通りです。搦め手こそ至高にして最善。いつでもね。

 そうですか。――ありがとう。

 あなたの口から感謝の言葉が飛び出すなんて思いもしませんでしたよ。

 

 彼が行ってしまうと八千慧は未だに自分の身体に覆いかぶさっている早鬼の肩を揺すった。

 ……ねぇ早鬼。聞いていたでしょう?

 聞いてたよ。

 二人とも牢屋行きよ。このままじゃ。そして私の身体はご覧の通りの穴だらけ。自力では動けそうにない。ならどうする? ――あなたが私を運んでくれるしかない。お礼なら後でたっぷり弾むからまずはここから逃げましょう。

 逃げる意味なんてあるのか。

 ないわよ。生きることにも死ぬことにも意味がないのと同じようにね。

 じゃあなんで逃げるんだ。私はいっそのこと奴らをできるだけ多く道連れにして消えてしまいたいくらいだ。

 八千慧は再び笑顔を浮かべてみせた。いつもの薄気味悪い笑みではない。先ほどの哄笑で見せた奔流でもない。ただ岩棚の隙間から滾々(こんこん)と流れ出る清流。夢見る少女の儚い微笑みだった。

 ただね。ただ、――あなたと何処か遠くに逃げたいだけなの。どこでもいい。どこまでだっていい。

 早鬼は身体を起こした。唇を半開きにして八千慧を見下ろしていた。

 おいおい。こいつはたまげたな。彼女は云う。お前がそんなロマンチストだとは思わなかった。

 今の私たちにはもうロマンくらいしか追い求めるものが残ってないでしょう。

 かもしれん。だがよりによってお前なんかと大平原(フロンティア)に逆戻りする羽目になるのかよ。

 何かご不満?

 いや……、そうじゃない。単純にお前の豹変ぶりが気持ち悪いだけだ。

 頼み方を間違えたかしらね。

 

 八千慧はそう云うとベッドのそばのテーブルに置いてあった紙袋に手を伸ばした。果物市場で撃たれたとき抱きしめていたものだった。その中から一本のニンジンを引っ張り出すと八千慧は流れるような動作でその先端を早鬼の半開きになった口に突っこんだ。

 ――む、むぐゥっ!?

 抗議しようと眉をひそめる早鬼の頬を平手でぴしゃりと叩いて八千慧は云った。

 ――大人しく私のために走りなさいこの駄馬。

 早鬼はニンジンを口にくわえたまま固まっていた。先端をかじって咀嚼し飲みこんでしまうと彼女はようやく笑ってくれた。

 ……分かったよ。分かった。今だけはお前のものになってやるよ。

 よろしい。

 掴まれ。

 早鬼は八千慧の背中に腕を回してその華奢な身体を抱きあげた。太腿を支えられて負ぶさる格好になると八千慧は早鬼の肩に両腕でしがみついた。そして腐れ縁の少女の後ろ髪に頬を沈めた。大都会(メトロポリス)の闇夜を幾晩・幾星霜と過ごしても。それでも彼女の髪からは牧場(まきば)の匂いがした。

 振り落とされんなよ八千慧。

 云われなくても。

 甲斐の驪駒サマの底力を見せてやるさ。

 

 早鬼が漆黒の翼を広げて床をひと蹴りすると次の瞬間には病室のガラスを突き破って遥か中空に舞っていた。夕陽にさらされたメトロポリスの街並みに黒いペガサスのシルエットがひるがえる。濡れた光沢を放つ長い黒髪が沈みかけの太陽の最期のシャワーを浴びて光り輝きその一本一本が命を持っているかのように風に任せて踊り狂った。

 

 乗り心地はどうだ、と早鬼が訊ねる。最悪よ、と八千慧が返す。――そうか、と早鬼が笑う。――もうちょっと速度を緩めなさい、と八千慧が云う。――なんでだよ。――傷口が開いて死にそうなのよ。――我慢しろ。追手が迫ってる。――嘘をつきなさい。あなたに追いつける輩がいてたまるものか。――ああそうだ。追いつけやしないさ。――だったら少しは私のことも労わってよ。――嫌だね。こんな自由に飛び回れるのは久しぶりなんだ。――ええそうでしょうとも。――なんでかな。――どうしたの。――なんでもっと早くに何もかも放り出してこうしてなかったのかってことさ。――持ちすぎてしまったからかしらね。財産を。しがらみを。――でも今はなんにもない。――そうね。何もかもなくなった。――お前だけだ。――あなただけね。――――…………。

 

 ……――ビルディングを一棟また一棟と飛び越していき伝承の名に恥じない速力で空を翔(か)ける早鬼の表情はかつて手に入れたもの総てを喪ってなお笑っていた。虚飾という虚飾・虚構という虚構を剥がされたそのとき胸のうちでずっと温めていた大平原の地図を再発見したのは早鬼も同じであり今や二人の旅路の邪魔をするものはいなかった。




 ここまでお読みくださり感謝いたします。本当にありがとうございました。
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