メトロポリスの血の子午線   作:Cabernet

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#18 Epilogue: メトロポリスの血の子午線

Blood Meridian of Metropolis 17

 

   #18 Epilogue: メトロポリスの血の子午線

 

 ――ニホンオオカミさん(魂齢583歳)は勁牙グループの一商社で働いているサラリー・アニマルである。彼がインプラントを埋めこんでソーシャル・メンタル・ケア・システム(以下、SMCS)に加入してからちょうど丸一年が経過している。

 

「最初はもちろん躊躇(ためら)いがありましたよ」ニホンオオカミさんは本誌の記者にそう述べた。「自分が自分でなくなるんじゃないかって漠然とした不安がありました。今でも本当にこれで好かったんだろうかと疑問に思うこともなくはないです。でもみんなやっていることですし今さら過去の自分に戻ろうとは思いませんね」

 

 今、メトロポリスではほぼすべての動物霊や人間霊が当たり前のようにインプラントを受け容れて日常生活を送っている。本誌ではSMCSが導入されてから一年という節目を迎えつつある昨今の情勢を鑑み今一度このシステムが私たちの生活にもたらした計り知れない変化についてさまざまな事例を通して考えてみたい。

 

   (中略)

 

 ニホンオオカミさんは起床後に朝の支度を整えると自身の精神状態について端末でカウンセリングを受ける。モニターに内臓されたカメラの前で簡単な質問に答え自身が感じているストレスについて客観的な診察を受ける。端末に映し出されたMAYUMIは大抵の場合、彼にこう云って元気づける。今日もあなたは健康体です。お気をつけて行ってらっしゃいませ。

 

「最初はとにかく面倒でした」と彼は語る。「ただでさえ朝は急いでるのに毎日お医者さんの問診にかかっているようなものでしたからね。でも一週間もすると慣れました。たとえ健康そのものであることがはっきりしているときでも誰かに元気よく“行ってらっしゃい”と声をかけてもらえるのは存外に好いものです。――まァそれは僕が一人暮らしだからってのもあると思うんですけど」

 

 そうした生活を始めてから数ヶ月後、彼はMAYUMIから次のような警告を受け取る。日々のストレスが正常値を超えて霊体の負担になっている。今日は仕事を休んだほうがいい。彼は警告をやんわりと受け止めてそのまま出勤しようとしたがMAYUMIの強い勧めもあってひとまず会社に連絡を入れることにした。

 

「正直びっくりしました」彼は苦笑いを浮かべながら当時を振り返って云う。「確かに少し疲れてはいましたよ。でも慢性的な疲労なんて誰しも大なり小なり抱えているものじゃないですか。それにその日は取引先との重要なミーティングもあったんです。絶対に休むわけにはいきませんでした」

 

 ところが驚いたことにニホンオオカミさんの会社の上司は即座に休むように申し渡してきた。以前なら這ってでも会社に来いと彼を叱咤していた人物が日々の労いの言葉まで添えてくれたのである。その日の仕事の引き継ぎはすべてMAYUMIが上司や同僚に共有してくれておりニホンオオカミさんがやることと云えば心地よいベッドに再びもぐり込むか散髪の予約でも入れるかもしくは近場の温泉でリフレッシュをするくらいなものだった。

 

「その日はずっと奇妙な感覚が抜けませんでした。職場からいつ電話が掛かってきてもいいように携帯端末はずっと傍に置いておきました。でも連絡はありませんでした。それで思い切って先日オープンしたばかりの温泉に行ったんです。湯につかりながら久しぶりに自分のことについていろいろと考えました。霊体になってからあんなに落ち着いた気持ちになったのは本当に久しぶりでした。思っていたよりもずっと自分は疲れていたんだなってことにも気づくことができましたね。それで湯から上がってドライヤーで体毛を乾かしながら思ったんです。――そうか。これが“普通の暮らし”なんだって。帰り道を車で走っているときにはもうソーシャル・メンタル・ケアに対する不信感はなくなっていました」

 

 彼の職場では全員がインプラントの手術を受けている。以前のようなピリピリとした緊張感はなくなり話し声もずっと増えているという。仕事を片づけたときに待っているのは徒労感ではなく達成感であり新しい仕事が舞いこんだときに引っ付いてくるのは憂鬱ではなく好奇心だった。慢性化していたサービス残業もなくなった。顧客も取引先もそして身内の全部署も余裕をもったスケジューリングを組んでおり効率化によって生まれた時間はすべて余暇にあてられているのである。会社の業績も今のところ好調をキープしている。

 

「最近はいろんな音楽を聴いています。クラシックとかジャズとか。ポップスはもちろんテクノとかも好きになりました」と彼は云う。「以前ならその、――いわゆる安っぽい歌詞のポップスを聴くと即座に再生を止めてイヤホンを放り投げたくなる気持ちになりました。でも今はどんな音楽でもすごく新鮮な気持ちで聴けています。誰でも思いつきそうなフレーズでもその曲を創ったひとの苦労とか情熱とかを感じ取れるようになりました。共感の力が促進されているおかげなんだと思うんですけど」

 

   (中略)

 

 しかし彼は同時に今の生活にささやかな疑問を感じているとも云う。

 

「僕が今やってる仕事って多分、マユミの能力をもってすれば簡単に代行できると思うんですよ。会社は僕たちをほとんどクビにしてマユミだけ動かしていても成り立つんじゃないでしょうか。それをやらないのもソーシャル・メンタル・ケアの運用の枠内なんだと僕は考えています。実際に仕事がなくなったら時間が余りすぎて逆にストレスになっちゃいそうですしね。仕事だけじゃなくて芸術もそうです。あまり詳しくはないですけど音楽でも小説でも絵画でもマユミはやろうと思えば僕たちのよりも遥かに優れた作品を生み出せるんじゃないでしょうか。でも彼女はそれをやらない。僕たちをいわゆる“無用者階級”に堕とさないよう注意ぶかく見守ってくれている。そのことを思うとなんだか自分が小さく感じられてしまうんです。社畜の生活からは解放されたけど別の意味で家畜になってしまったような変な気分になるんです。――まァ僕はもともと畜生なんですけどね(笑)」

 

 彼の感じている疑問は現在、動物霊や人間霊を問わず幅広い層の支持を集めることになりそうだ。確かに生活は楽になった。精神状態も良好だ。仕事も何とかうまくやれている。――しかしその後は? 我々が何をしても何を生み出そうともこの都市の守護者がやるよりも優れたものを発明することは不可能だ。フロンティアの時代から幾星霜、我々はメトロポリスを築きあげて遂に血にまみれた最高到達点にたどり着いた。しかし子午線に昇った太陽は後は沈むことしかできない。我々が立っているこの場所は果たして斜陽の途上なのか。それとも新たな夜明けを迎えているのか。答えは誰にも分からない。MAYUMIは“提案”こそするものの“回答”は示してくれないからだ。

 

 取材の最後にニホンオオカミさんは次のように語った。

「小説の読みすぎって云われるかもしれませんが、これがディストピア物の展開だとこんな風に疑問に感じることそのものが罪になると思うんですよ。今こうして取材でお応えしていることもマユミにはぜんぶ筒抜けなわけでしょう? ――でもマユミは僕の思想を統制もしないしこの取材から出来上がった記事の検閲だってしません。ダブルシンクもなければニュースピークもない。僕はもともと勁牙組の一員ですから古い仲間があの爆撃で殺されたことも憶えていますし今でもそれは許していません。それでもこうして以前よりずっと元気にやれています。だから、……正直、すごく複雑なんですよね」

 

   ◇

 

 上から辞令が届いた。簡潔な内容だった。臨時高等弁務官の任を解く。元の部署に復帰せよ。それだけだ。私は埴安神袿姫の書斎のデスクに座りながら辞令の文書を長いあいだ見つめていた。云い知れない気持ちが私を捕らえて放さなかった。その気持ちには誰もが口にすることができる明快な名前が付いていたはずだったが思い出せなかった。

 視線を巡らせると六十インチの液晶テレビの前で埴安神袿姫が映画を鑑賞しているのが見えた。「メトロポリス」だった。ソファに腰かけた彼女の隣には修復された杖刀偶さん、――杖刀偶磨弓が座って画面に見入っている。彼女は左手で主人の服のすそを握っており右手は祈りを込めるように胸に押しつけていた。まるで暗い墓地に置き去りにされた幼い子どものような仕草だったが実際に彼女は今や子どもなのだった。

 

 映画が小休止に入ったのを見計らって私は辞令の内容を手短に伝えた。

 袿姫はひとつうなずいた。――そう。お役御免なのね。お疲れさま。

 ありがとうございます。

 同じ神様同士、またどこかで会ったらよろしくね。

 これからどうなされるのですか。

 さぁね。この世界に未練はないし。しばらくゆっくりしたら私も高天原に戻ろうかしら。

 人間霊はどうなされるのですか。彼らもあなたを信仰していたでしょうに。

 もう彼らは神なんて信じていないわよ。自分自身ですら信じていないかもしれない。今や崇拝されているのは実体を持たないデータよ。人間霊も動物霊も同じ宗教を信じてる。昔は何か悩み事があったら聖典のなかに答えを求めた。時代が下ると自分自身の内にこそ真実があると考えた。そして今では機械がアルゴリズムで弾き出したデータこそが唯一無二の真理と捉えられるようになった。別にそれが悪いことだと私は思わない。……でも私たちの居場所がなくなったことだけは確かね。

 それについては同感です。

 

 私はその後もしばらくのあいだ遠目に映画の鑑賞を続けた。ちょうどクライマックスの瞬間だった。都市の支配者と労働者の代表が仲介者たる主人公の導きで握手している場面だ。私は居たたまれない気持ちになり席を立った。

 ……では荷物をまとめ次第お先に失礼します。ごきげんよう。

 袿姫はうなずくことも振り返ることもしなかった。

 磨弓が代役を務めるかのようにこちらを見返した。そして云った。

 ――うん。お姉ちゃん。またね。

 私は唇の端を噛んだ。何も云えずに部屋を出た。

 

 霊長園を出たのは風の吹きすさぶ寒い日のことだった。大階段を降りていくその一段一段ごとに味わった身体中から少しずつ力が抜けていくようなあの感覚のことを今でも覚えている。途中で私はいちど立ち止まってそのまま階段に座りこんでしまった。そして右手を額に当てたままじっと考え事をしていた。それは正確には考え事なんかじゃなかった。私はそのとき自分の感じていた気持ちにようやく名前をつけることができた。それは哀しみに似ていたが哀しみ以上のものだった。それは敗北感だった。何に負けたのかも分からないままに致命的な敗北を喫してしまったような無力感が私を襲っていた。この気持ちを乗り越えていかなくっちゃと私は自分に云い聞かせた。それから羽を伸ばして立ち上がると再び階段を降り始めた。

 

   ◇

 

 早鬼は目覚めると決まって隣で寝息を立てている腐れ縁の顔を眺める。視線だけで起こしてしまいそうなくらいに張り詰めた雰囲気を身にまとわせている彼女だが寝顔は意外にも無防備だった。だから早鬼はいつも彼女を起こしてしまわないように注意して寝床から抜け出さなければならなかった。衣擦れの音もひそやかにベッドの縁に腰かけると翼を広げて全身の筋肉をほぐした。カーテンから差しこんだ陽射しの細い筋。小鳥の声は聴こえないが風の唄なら好く響く。スキットルから飲みかけのウィスキーを口に含むと時間をかけて喉を潤した。

 

 服を着ようと立ち上がりかけた早鬼は手首をつよく引っ張られてベッドに引き戻された。薄笑いを浮かべた八千慧の顔が目の前にあった。急に煙草を吸いたい気持ちに駆られたが我慢して彼女の髪を指で梳(くしけず)ると呻くような喘ぎが返ってきた。

 早鬼はつぶやく。……ベッドの中でくらいその気味の悪い笑顔を引っ込められないのかよ。

 あらひどい。癖になってるのよ。仕方ないでしょう。

 今にも背中を刺されそうな気分になるんだよ。その顔を見ると。おちおち安眠もできない。

 無表情で抱かれろっての?

 そうじゃねェ。“あなたと何処か遠くに行きたいだけなの”だっけか。あの時の笑顔に騙された私はほんとうに大馬鹿者だ。

 反省しないのね。

 うるさい。――それと背中の甲羅と馬鹿でかい尻尾はどうにかならないのか。抱きしめようとしたとたん尖った鱗で腕の皮膚がズタズタになるところだったぞ。

 つくづくロマンもへったくれもないお馬さんね……。

 いいから放せ。もう朝だぞ。

 八千慧は手首を離さなかった。駄々をこねる赤子のように意外なほどの力強さだった。

 ……まだ向こうの感覚が抜けきってないんじゃない? 彼女はささやく。急ぐ理由なんて私たちには何もないじゃない。

 確かにそうだが。でもなぁ。

 少しくらいゆっくりしてもバチは当たらないわ。早鬼。

 八千慧はそう呼びかけて布団の端を持ち上げて誘いかけてきた。彼女の華奢な身体が差しこんだ朝陽の細い筋にさらされて浮かび上がり早鬼の視界に焼きついた。早鬼は目をそらして唇をかるく引き結んだ。そして息を吐いて生ぬるい暗がりへと身体を滑りこませた。

 八千慧の声が聴こえる。――いい子ね。

 

 ……私たちはどの地点からなら引き返すことができたんだろうな。

 なんの話?

 メトロポリスのことだよ。あるいは私たちの半生についてだ。

 あんな街のことなんてもうどうだっていいじゃない。

 お前にとってはそりゃな。

 何をそんなにこだわるの?

 どれだけ不格好に見えようがあれが私の総てだったんだ。

 ずっと昔にあなたから聞かされた理想郷とは幾分、――いやかなり違った形になってしまったように思えるけれど。

 それが気がかりなんだよ。いったい最初の分かれ道はどこだったんだ?

 人間霊から貨幣の概念を取り入れたときかしらね。

 金か。

 ええ。数百数千種の動物霊。草食もいれば肉食もいる。小型に大型。恒温に変温。地上と大空、あるいは水中。人間以上に多種多様な動物霊がいたけれど誰もが貨幣の価値だけは等しく認めた。人間がどれだけ人種間で隔たりがあろうと貨幣で結びついたのと同じようにね。あれほどの発明品は歴史上でそう何度も生まれることじゃない。貨幣を最初に人間から取り入れたのが誰であれいずれかの組織が受け容れた以上は他も追従しないといけなかった。そうしないと負けてしまうからね。時代に適合できない奴は消えるしかなかった。

 もしくは銀行だな。あれも分かれ道だ。

 そうね。

 私は人間霊たちが好んで口にする“信用創造”という言葉の意味が何回説明されても好く分からん。分からんが銀行がなければメトロポリスが生まれなかったのは確かだ。そしてあのブリキのおもちゃが作られることもな。

 そうかもね。

 ずっと昔は私たち首領(ドン)の手である程度状況を操作することができた。少なくとも流れを変えられたという実感があった。だがいつのころからか知らんが社会も組織もそれ自体が自律した生き物みたいに動き出しちまって私にはビルの最上階でふんぞり返るか拳銃をぶっ放すくらいのことしかできなくなっていたんだ。あれはいったい何だったんだ? ――八千慧は違うだろう。私と違って馬鹿じゃないからな。

 私だってどうにかしようと思って変えられたことなど何ひとつなかったわよ。。ただあなたと違うのはある程度未来の予測がついたというただそれだけの話。

 お前でさえそうなのか。

 ええ。饕餮(とうてつ)も同じでしょうね。

 何だか馬鹿らしいな。支配しているはずがいつからか支配される側になるなんてな。

 歴史とはそういうものよ。

 …………これからどうするべきなのかな。私たち。

 さぁてね。

 ちっとはお前も知恵を絞ってくれよ。

 私は今の生活で満ち足りているので。だからこれ以上どうこうするつもりもないのよ。

 腐れ縁と同じ屋根の下で暮らすことが満足だって?

 ええ。

 そうかよ。

 そうなの。

 だからその顔は止めろって。

 

   ◇

 

 牛乳を煮て固めた蘇(そ)を爪楊枝で食しながら埴安神袿姫は磨弓の作業を見物していた。磨弓は袿姫の命で土器を焼いているところだった。助言はなし。介助もしない。おかげでその造形はへんてこりんな代物であり釉薬(うわぐすり)の処理も不完全だった。本人は何かしらの器を作っているつもりのようだがそれは容器というよりも現代アートと呼称したほうが適切に思えた。本来ならばおよそ袿姫が視界に入れうるような作品ではない。

 

 仕上がりました。袿姫様。

 磨弓の声で袿姫は物思いから現世に帰ってきた。最後の蘇を口に放りこんでむしゃむしゃと咀嚼するとよっこらせと立ち上がりどれどれお手並み拝見と炉のそばの台に鎮座する現代アートに視線を向けた。それは平たい形をしており使われた釉薬は緑釉(りょくゆう)のようだった。温度管理が甘かったのか青瓷(あおし)の艶やかな光沢はなくそれは釉薬が塗られているというよりも単純に青黴(あおかび)が生えているように見えた。

 

 磨弓。袿姫は微笑みながら云った。何を創ってくれたのかしら。

 お皿です。不格好で申し訳ありません。

 どうしてお皿を創ろうと思ったの?

 …………。

 正直に自分の感じていることを伝えてくれればいいのよ。

 磨弓は視線をうつむけていた。お腹のところで重ねられた手に力がこもっていた。

 埴輪は顔を上げて云う。……分かりません。よく分からないのですがお皿を創らなければと思ったのです。それもただの皿ではなくて色鮮やかな緑釉の輝きを持った一品でないと駄目だと思って……。

 そう。そうなのね。

 袿姫は磨弓の肩に両手を乗せた。そしてセラミックの身体をそっと抱き寄せた。

 袿姫様――?

 お詫びのつもりなのね。あのとき割ってしまったお皿の……。気持ちだけで充分よ。ありがとう。

 あのとき……?

 気にしないで。次からはこのお皿で蘇をいただきましょう。きっと最高の味がするでしょうね。

 ありがとうございます。ほんとうに不出来な焼き物ですが使っていただけるのならばこれに勝る喜びはありません。

 やっぱりあなたは空っぽなんかじゃないわ。

 袿姫は目じりに浮かんだ涙を小指で拭ってから云った。

 ――なんど生まれ変わってもその身に宿した灯(ひ)は決して消えないのよ。

 

 片づけをしているときに磨弓は訊ねてきた。

 そういえば袿姫様。

 何かしら。

 あの窓枠のところに飾ってある置物は何ですか?

 袿姫は磨弓の指さすほうをかえりみた。差しこんだ陽射しに洗われながら微笑みに似た表情を浮かべているそれはシュターデル洞窟のライオンマンだった。発見された人類最古の時代の芸術作品。それは人びとを結びつけた物語の最初期の一ページだった。――今や畜生界から喪われてしまった一つの物語。あるいは人類が連綿と紡いできた巨大な織物の始原のひと針。――そしてあらゆる世界からまたたきを終える星々のように消えてしまおうとしている虚構のひと雫(しずく)。それが二人の目の前にあった。

 袿姫は微笑みながらうなずいた。

 あれはね――。

 

   ◇

 

 是非曲直庁の敷地にある行きつけのカフェテリア。この店に訪れるのはいつ以来だろう。店で待ち合わせした同僚は私の顔を見てから即座に今日は私のおごりだと申し出てきて譲らなかった。固辞するのも面倒なのでありがたくいただくことにした。

 

 聞くまでもないかもしれんがね。ラ・フランス・ティーを味わってから同僚は云う。向こうはどうだった? 少なくとも銃弾による外科手術は免れたみたいだがね。

 ええ。聞かれるまでもありません。ひどい場所でしたよ。

 そうか。

 でもこれからはひと味違った世界になっていくことでしょう。

 ああ話は聞いたよ。此岸よりもひと足先にホモ・デウスが誕生したそうじゃないか。

 なんですそれ。

 ホモ・デウス。神になったサピエンスさ。

 なるほど。云い得て妙ですね。

 だろう?

 彼女はそう云ってシナモン・ケーキを美味しそうに食べた。私は紅茶もお菓子も蟻さんのように少しずつしか食べ進めることができなかった。何を食べてもあまり味を感じないのだ。同僚は翼をやわらかく広げてみせたがそれは私たちニワタリ神が他人を労わるときにいつもしてしまう癖のようなものだった。

 

 ……それで何があったんだ。お前の様子は単に不条理な暴力を目の当たりにしてショックを受けてるってわけじゃなさそうだ。

 何から話せばいいのか……。

 思ってることを正直に話せばいい。いつもわたし達がしていることだ。

 私は深呼吸してテーブルの上に両手を重ねて置いた。

 …………畜生界往きの任を知らされたときひどい貧乏くじを引いたものだと思いました。死んだって往きたくない場所に生きてるうちに赴く羽目になったと。でも私はニワタリ神の一柱としてせめてできることはやろうと思っていました。あくまで無理しない程度に。これ以上の争いが広がらないように話し合いで解決しようと。――でも現実は想像以上に血生臭いことの連続でした。話し合いと簡単に云いますが席を囲んで話し合うにはあまりに不必要な血が流れ過ぎていました。私は今回の任務で取り立てて成果を残せたわけではありません。任を解かれたのはあくまで情勢が落ち着いたからであって私が万事をうまく解決できたわけじゃない。私の知らないところで勝手に物事が動いて私の知らないところでいつの間にか終わっていました。まだ何もしないうちに。

 

 同僚は頬杖をついて頬に手のひらを当てていた。私が話を区切ると彼女は頬杖をつく左右の手を入れ替えた。

 こういう考えはできないのか。彼女は云う。少なくともお前は五体満足でここに戻ってくることができている。この店に還ってきて美味い紅茶や珈琲をすすりながら仕事の合間のひと時を楽しむことができている。私みたいに頭に何発かぶち込まれたわけじゃない。

 ええ一時(いっとき)はそう考えてもみたんです。

 ああ。

 でも私の感じていることは自分が無事なのかそうじゃないのかって話じゃないんです。

 うん。

 私は此岸でも彼岸でも誰かの役に立つことができていました。人間たちはみな病気になった子どものために私のところまで祈りにきてくれましたしここには私にしかできない仕事がある。――でも向こうはそうじゃなかった。あそこは神様のいない土地でした。私は誰からも必要とされないままに無為に日々を過ごすことしかできませんでした。彼の地で私は無用者階級という言葉を知りましたがまさか神である自分が無用者になる日がくるなんて思ってもみませんでした。

 

 同僚は長いあいだ黙っていた。軽く前に背をかがめてカップに注がれた紅茶の水面を見ていた。それからうなずいた。

 ――私もあの場所では似たような気持ちにさせられたよ。

 彼女は云う。

 私の怪我はひと月で治っていた。伊達に神様をやってないからな。それでも現場復帰には一年もかかった。理由はお前の悩みと似たようなものだ。利他と奉仕の精神も過ぎれば傲慢というものだがあの場所ほど自分の思い上がりを打ちのめされるような気分にさせられるところはちょっと思いつかないな。

 どうやってその憂鬱から立ち直ったのですか。

 ああ。綺麗さっぱり忘れたよ。三歩進めば元通りだ。鳥頭の極意ってやつだな。

 でもそれを試すのにもかなりの葛藤があったでしょう。

 そうだな。貴重な学びの機会でもあったしな。できれば二度と経験したくない種類の学びだが。

 でしょうね。

 だがそれ以外に何ができる? 同僚は私の目を真っ直ぐに見て云った。――私たちにとっては不幸なことだが神という存在が最初に必要とされなくなってからもう何年が経つ? これからますます私たちの存在意義は喪われていくだろうしその流れは誰にも止めることはできない。私たちは来たるべき未来をひと足先にあの場所で体験させてもらったのさ。そうでも考えないとやってけないだろ。

 どうかな。そう前向きに捉えられるかどうか。

 迷って泥沼にハマるなよ。三歩進んでさっさと忘れろ。それがお前のためだ。

 ええそうなのでしょうね。

 ――少しは楽になったか。

 ええ。ありがとう。

 なら好いんだ。

 

   ◇

 

 早鬼が外に出て夕陽を眺めていると八千慧も家から出てきて隣に腰かけた。二人の家は埴安神袿姫が離れのアトリエとして使っていた芝土の家だった。メトロポリスの連中は当然ながらこの場所のことも頭に入っているはずだが何故か追手はかからなかった。

 二人が並んで地平線の向こうに沈む夕陽を眺めていると豆粒ほどの大きさの動物霊の群れが遠くに霞んで見えた。それはゆっくりこちらに近づいてきているようだった。早鬼たちは待った。彼らはこちらを見つけると歩む速度を早めた。

 

 集団を率いていたのはオオカミ霊で連れていたのは古参の勁牙組の生き残りだった。早鬼は帽子を外して手に持った。よく生きてたな、と呼びかけるとオオカミ霊は尻尾を振った。

 洗脳なんて俺は真っ平ごめんでしたからね。彼女は云う。フロンティアに戻ったほうがマシだ。

 同じ考えか。

 ええ。やはりこちらのほうが性に合ってる。

 それで驪駒様。これからどうされるんで? コヨーテ霊の一匹が口を挟んだ。驪駒様がいればまさに百人力です。さァ、――死んだ仲間の弔い合戦といきますか。それともこのまま一味を率いて平原で暮らしますか。どちらにしろ地の果てまで御供しますぜ。

 ああ。それなんだが……。

 早鬼は横目で八千慧を見た。彼女は早鬼の翼の付け根のところを指で的確に抓(つね)っており鋭い視線でこちらを見返してきた。猛烈な痛みが襲ってきたが早鬼は表情ひとつ変えずに一同を見回した。

 ――すまないが私はお前たちとは一緒にいけない。

 どよめきを鎮めて早鬼は云う。

 勘違いするなよ。別に引退するってわけじゃない。――だがそろそろ私もバカンスが欲しいと思ってたところなんだ。私が休んでいるあいだ勁牙組はお前に任せるよ。

 オオカミ霊が耳をぴんと立てる。俺が、ですか?

 ああ。

 冗談はやめてくださいよ。

 云ったろ。過度な忠義は牙を腐らせるってな。たまにはオオカミらしいところを見せてくれ。

 はァ。

 そういうことでよろしくな。助言が欲しけりゃいつでも来いよ。

 し、――しかし今夜くらいは再会を祝して派手に盛り上がりましょうよ。積もる話もありますし――。

 あなた達――?

 八千慧がドライアイスのように乾ききった冷たい声音で云う。

 分からないかしら? 早鬼は休みたいって云ったのよ。や・す・み・た・いってね。

 ――も、申し訳ありませんでした!

 吉弔の覇気には逆らえずに一同はそろって頭を下げた。

 

 オオカミ霊たちが名残りを惜しみながら去ってしまうと早鬼は八千慧の頭を帽子ではたいた。彼女が指を唇に当ててくすくすと笑いだしたのでもう一発はたいてやった。

 八千慧。――お前って奴はまったく。

 邪魔者はお呼びじゃないもの。

 お前こそがいちばんのお邪魔虫だって云ったらどうするつもりなんだ?

 末代まで祟ってやる。

 お前が云うとさすがに凄味があるな。

 ……でも悪くないじゃない。こんな静かな暮らしも。

 そうさな。悪くはない。

 早鬼は拳銃を取り出してその表面に刻まれた傷をじっと見つめてからまた戻した。そして葉巻を口にくわえて黄燐マッチで火をつけた。八千慧が私にもちょうだいとねだってきた。予備がないと伝えるとじゃあこれでいいと吸いかけの葉巻を奪われた。早鬼は仏頂面で再び豆粒のように小さくなったオオカミ霊たちの背中を見送った。

 八千慧が云う。……ねぇ。

 なんだ。

 せっかくのバカンスなら地上に行くのも面白いんじゃないかしら。

 ああ。そういやその手もあったな。

 私たちのフロンティアは無限に広がっているわ。そう落ちこまないで。

 別に落ちこんじゃいないさ。考え事をしているだけだ。

 あなたが考え事をするってそれすなわち気分が沈んでるってことじゃない。

 好く分かってらっしゃる。

 ……寒くなってきたし中に戻りましょう。好い炭が残っていたからしばらく暖房には困らないし。

 もうしばらくここにいたい。先に入っていてくれ。

 お好きなように。

 

 八千慧が去ってしまうと早鬼は隠し持っていたもう一本の葉巻に火をつけて吸った。肺の奥深くまで。こんなにじっくりと惜しみながら葉巻を吸ったことはかつてなかった。大平原の空に星がまたたきを始めたころになっても早鬼は立ち上がらなかった。早鬼は平原を吹き渡る乾いた風の唄声を丘のうえから耳を澄ませて聴いていた。黒髪をなびかせながら。翼を添わせながら。たゆたう葉巻の煙は頼りなく昇っていったが早鬼の踏みしめる大地は生きた赭(あかつち)であり二度とは戻ることのないと思っていた生気を確かに宿していた。

 夕陽が完全に沈んでからも驪駒早鬼はしばらくのあいだその場に腰かけていたがやがて息を吐いて立ち上がった。火が完全に消えているのを確認してから葉巻を捨てると拍車の音を鳴らしながら我が家へと歩いていった。いちど途中で振り返りかけたがやめた。もう陽は沈んでしまっているのだ。早鬼は首を振って確かめるようにゆっくりと呟いた。でも焦ることはない。明日にも陽はまた戻るし子午線を通過してちゃんと沈むんだと。その繰り返しなのだと。大したことじゃないんだと。そう自分に云い聞かせてから扉を開けて中に入った。

 

 

 

   ~ おしまい ~

 

 




 本作のご読了に心からの感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
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