「なんですか先生。」
「このマンガ持っていってくれる?」
「手塚治虫の『ブッダ』ですね。」
「うん、予習教材にピッタリだから。世界史準備室にはなぜか6セットあるみたい。ほかの先生が使うかもしれないからとりあえず3セット2Bの教室に持って行って」
「はい。」
前の世界史の先生が買ったのだろう。すごいのは、聖書の註解書まである。
「先生、すごいですね。これ牧師先生が読みそうな本。」
「うん、古代メソポタミアからアケメネス朝ペルシャを学ぶには恰好な教材だから教会の牧師先生もやってた先生が置いて行ったみたい。先生ってサービス残業多いからそれ逆手にとって自分の教会の説教を準備するためにもおいていったんだろうね。けっこうおもしろいから歴代の世界史の先生も重宝してるみたい。」
「うわあ、ヴェーダとかマヌ法典、ウパニシャッドの全訳、仏典とかもありますね。」
「うん。読んでると時間忘れちゃうよね。教案の準備のつもりが読書タイムになっちゃってなやんでる。」
柊木ちゃんが少し横を向いて、顔を赤らめてる。
「先生、かわいい。」
「先生じゃなくて、春香さんでしょ、じゃなかった。あれも面白いこれも面白いで、卒論のテーマがきまらなくて、単位と教員免許だけとって大学は卒業したの。まあ教師になりたかったからいいんだけど」
「坂井先生」
「なんだ、真田、ん、柊木先生。」
「このマンガ、手塚治虫先生の『ブッダ』ですけど次回の2Bの予習用にもっていきたいのでLHRでアピールしていいですか。」
「そうか。」
「坂井先生、どうですか?面白いですよ。」
美人の笑顔でわたされて、坂井はページを開く。
「....」
「当時の身分制度から仏教のはじまりまでとっかかりにはいいと思うんです。」
「そうだな。わかった。真田、授業中に回し読みが起こらないように注意しろよ。」
「わかりました。」
「みんな、真田と柊木先生から連絡がある。」
「みんな、次回のインド史の予習用にこのマンガを読んでほしいの。手塚治虫先生の『ブッダ』。3セット置いておくから読んでね。図書館にも置いてあるから借りられる人は借りてね。」
「読むのはいいが、授業中は読むなよ。柊木先生に迷惑がかかるからな。じゃあ本題に移る。柊木先生お疲れさまでした。」
柊木ちゃんが手を振りながら教室をでていった。
翌日
「真田、あれけっこうおもしろいな」
「ええ、そうですか」
翌日昼休み、お弁当を世界史準備室で二人でつつきながら
「実はね見ちゃったんだよ」
「何をですか、先生」
「先生じゃなくて二人の時は春香さんでしょ、じゃなくて坂井先生がね」
柊木ちゃんの回想(柊木春香side)
「何読んでるんですか、先生」
「ああ、これけっこうおもしろいですね、柊木先生」
「えっと」
わたしは苦笑して
「わたしは、仕事だと説明できますが...坂井先生は教科が違うから...でも黙っておきますね。教頭先生とかに見つからなくてよかったです。」小声で話す。
「ははは...そうですね。」
坂井先生は苦笑して読むのをやめた。
わたしは少し大きな声で
「昨日のLHRはありがとうございました。」
とお礼を言った。
「世界史の授業始めます。篠原君、お願い。」
「はい。起立、礼」
「さて、今日は、南アジアの古代文明の単元に入ります。さて、インドと聞いて何を思い浮かべるかな?気候とか特産品とか世界遺産とか」
「紅茶」
「暑い」
「ガンジス河で水浴びする人」
「仏教が生まれた国」
「インダス文明。レンガの計画都市で、塩害で危機遺産になっている。」
「アジャンターの壁画」
「インドがぶつかったからヒマラヤができた。」
最後の回答したほうを見ると地学部員だった。
「ありがとう。最後の人は、地学がすきなのかな?先生もデカン高原が約6500万年前に洪水玄武岩といっていっせいに溶岩が噴き出してできたことは知ってるし、インドが約4000万年前にぶつかってヒマラヤができたことは知ってるけど、今は世界史の時間なのでごめんなさい。地学分野でいえば、気候の問題があるよね。季節風の影響を受けて夏は雨季、冬は乾季とはっきりわかれるの。それから後から話すけど南インドは季節風貿易で栄えた。インドの北部は、寒暖差が激しく、南部は、温暖。季節風のもたらす雨で、イネ、ヒエ、アワが栽培され、乾季を利用して麦が栽培される。さて、インドの北側には、どんな地形があるかな。」
「ヒマラヤ山脈」
「ガンジス川」
「ありがとう。北側にはあとカイパル峠があって、そこから外部の勢力の侵入があったの。でも完全に同化することはなかったからイスラム教を信じる人もヒンドゥー教を信じる人も共存するような形になっている。北側からはアーリア系の人々、南側はドラヴィダ系の人々が暮らしている。あとだいじな川が抜けてるね。ん?藤本君?」
「それがイいンダス」
先生が苦笑する。
「正解。ということでインダス文明について話します。インダス文字は、こういった印章に刻まれているけど、ロゼッタストーンのように比較できる文字資料がないこともあっていまだに解読されていない
謎の文字なの。
①
文字の並び方の規則性がインド南部に住むドラヴィダ系の人々の言語に似ていることがわかってはいるの。印章などに描かれている画像などから牛、蛇、樹木、地母神などを信仰していたと考えられている。あとインダス文明が素晴らしいのは、これをみて?」
②
「丸くレンガが囲っています」
「こっちは、レンガとレンガの間に細長い隙間があります。」
③
「そう。ヒントは、井戸との組み合わせ。?二葉さん?」
「上水道と下水道...」
「すごいね。このようにインダスの都市には、細かく排水設備がめぐらされている優れた計画都市だということがわかっているの」
④
「それから教科書の上のほうにある昔「大浴場」(Great Bath)と呼ばれていた場所の写真なんだけど、「大浴場」と明記されていないのは、最新の研究で、東側にある井戸の給水能力などの状況から言って、膝につかるくらいの水量で、沐浴を儀式として行ったか、水に関連して新たに生まれ変わる再生の儀礼を行ったのではないか、例えばキリスト教のバプテスト派は、洗礼は、小さな風呂のようなものに使って新たに生まれ変わるという形をとるけど似たようなことが行われたのではないかと言われているの。」
「このようなインダス文明は、紀元前1800年ごろからまでにすっかり衰えるんだけどその原因について論争があって。昔は、人骨がたくさん発見されたことからアーリア人の侵入による虐殺説とかあったけど、層位が異なることや殺された痕跡がないことから否定され、レンガの焼きすぎによる環境破壊説、洪水説などがあるけど、最も有力と考えられているのがこの地図を見て気が付くことあるかな?綾野さん」
⑤
「sarasvatiって点線で書いてある川の周りに黒丸がたくさんあります...」
「そうなの。この川は、現在ガッカル・ハークラー川と呼ばれ、雨季にだけ現れる川で、上流のインド側の呼び名はガッカルで、パキスタン側はハークラーと読んでいるの。黒丸はインダス文明の遺跡のある場所。地殻変動でこの川が涸れて、インダス川の流れも変わったので交易ができなくなり、洪水などの自然災害も起こって滅んだのではというのが最近最も有力な説とされているの。」
「さて、紀元前1500年ごろになるとどんな人々が侵入してくるかな?何系の人々かな?志村くん」
「えーと、インドヨーロッパ系のアーリア人ですか?」
「はい、ありがとう。彼らは雷や火などの自然神を崇拝し、さまざまな祭りを行った。そういう神話的な知識をまとめたものをなんというかな?内田くん」
「ヴェーダ」
「ありがとう。紀元前1500年から紀元前600年くらいまでをヴェーダ時代と呼ばれ、用語集にあるようにいくつのもヴェーダが作られた。それからこれは、『世界史史料・名言集』に載っているリグ・ヴェーダの一部。読んでみて」
「インダス川のとどろきは、地のも遥かに天を衝き、果てなく荒き雄力を、空高らかにひらめかす。牡牛のなす声すさまじく、吠えつつかれのはしるとき、雲もる雨とほとばしる...乳したたらす牝牛が行使のそばによるごとく、川はよばいてなれに添う...」
「遊牧民だったアーリア人がインダス川の流れを表現するとともに牛の恩恵とインダス川の恩恵を重ねていることがわかるね。」
紀元前1000年ごろになるとアーリア人は、ガンジス川流域へ移っていく。アーリア人は先住民と交流して農業技術をみにつけて、定住の農耕社会がつくられていく。当然余剰生産物がでてきて、直接農耕を行わない王侯貴族、武人、司祭などの宗教的指導者が生まれてくる。こうしたなかで、ヴァルナ制という身分制度ができあがっていく。
『世界史史料・名言集』に原初の人間がいて、その体が口の部分がブラフマナ、腕の部分がラージャニア、脚というかすねの部分ヴァイシャ、足の先端の部分がシュードラになったと書かれている。ラージャニアというのは、ラージャというのが王のことを示すので、王族、貴族、武人階級、すなわちクシャトリアと同じことなの。それからマヌ法典の一部が引用されているね。バラモンはなにをすると書いてあるかな。内田君。」
「人民の教授、学習、祭式の施行、布施と布施の受領って書いてあります。」
「はい、上里さん、クシャトリアは?」
「人民の保護、布施、供儀の学習、感覚に関する無執着です。」
「はい、真田君、ヴァイシャは?」
「家畜の保護、布施、供儀の学習、商業、金融、耕作です。」
「はい、有馬君、シュードラは?」
「主宰神はただ一つの職務を命じた。すなわちこれらのヴァルナに対して従順に奉仕することって書いてあります。」
「あと教科書の注に書いてあるけど不可触賎民、ふれたらけがれるという階層がつくられた。それからヴァイシャは、商人、シュードラは、農耕民や牧畜民を指すようになったの。それから特定の信仰や職業と結びついて、特定の集団との結婚や会食を制限するジャーティの集団がヴァルナと結びついて複雑な階層、身分制になっていった。これがいわゆるカースト制度の起源なんだけど、カーストというのは、ポルトガル語で血統を意味するカスタに由来して、インドでは、さっき話した出生を意味するジャーティがジャート、ザートという言葉になって使われているみたい。さて、p.54の仏教の成立と南アジア統一国家の単元に入るよ。
紀元前6世紀になるとガンジス川中下流域が中心になって城壁を持った都市国家が生まれ、農業や商業も活発になる。そうするとヴァルナ制の身分のなかでどんな人々の地位が上がるかな。有馬君」
「えっと武士とか貴族とか商人」
「そうだね。その人たちは、なんと呼ばれていたかな。藤本君」
「クシャトォリヤ~、となんだっけ?真田」
「あ、ヴァイシャだろ」
「ん、売女」
「ちがう、ちがう、何言ってんだ。ヴァイシャだろう。」
「ヴァイシャです。」
「はい、ありがとう。ということで、ヴァルナ制のなかで、バラモン教の祭儀中心主義に対しての反省と批判の意味で、ヴェーダの意味を深く追及して、宇宙の根源である梵(ブラフマン)と人間の本質である我(アートマン)が究極的に同一であることを悟ることによって、一切の苦悩から逃れて解脱できるという考え方が生まれてきたの。その考え方はなんというかな。」
「ウーバールーパー哲学?」
「藤本、だじゃれやめろよ」
またやってるといわんばかりの薄ら笑いが教室でもれる。
「秋川さん?」
「はい、ウパニシャッド哲学です。」
「そうだね。それをもとにだいたい同じ時期、紀元前500年ごろに二つの宗教が生まれた。ひとつはわかるよね。」
「仏教」
「そう。開祖については、マンガで読んだよね。何族で何城の王子だったかな。」
「ンタマ」
「藤本やめろ」
「上里さん」
「ゴウタマ・シッダールタです。」
「お城は、カピラヴァストウだっけ?きんぴらじゃないんだね。シューちゃん」
「綾野さん、ちゃんと立って話して」
「は、はい。え~とキンピラなんだっけ?」
「落ち着いて話して。」
「亜子、さっきは言えてたじゃないか」
「はい、ルシアン。カピラヴァストウです。」
「二人ともありがとう。ゴウタマ・シッダールタは、シャカ族の王子で、シャカ族の聖者という意味のシャカムニが短縮されてシャカ、お釈迦様と呼ばれている。諸行無常って平家物語にも出てくるけど、無常観にたって、生病老死の四苦から解脱を説くの。
慈悲の心で八正道を行って、煩悩を捨て去れば解脱できるとする。人間は平等でバラモンの権威を否定し、クシャトリア層からの支持を得た。もう一人は、クシャトリア出身のヴァルダマーナが開いたジャイナ教で、苦行と不殺生を説いたの。バラモン教はどうなったかというと、祭儀中心という形が生き残って民間信仰を取り入れて、シヴァ神やヴィシュヌ神などの神々を信仰するヒンドゥー教に変わっていった。ということで今日は終わりです。篠原君」
「はい。起立、礼」
「お疲れさまでした。」
①インダス文明の印章※User:world Imagingによる
②モヘンジョダロの井戸※User:Quratsによる。
③ロータルの排水溝※UserMv.shahによる
④モヘンジョダロの沐浴場※User:Saqib Qayyumによる。
⑤サラスバティ川※User:Merikanto~commonswikiによる