柊木ちゃんの世界史実況中継   作:Brahma

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第12時限目 北方遊牧民、シルクロード、秦漢帝国

「さあ席について。世界史の授業始めます。篠原君、お願い。」

「はい。起立、礼」

「教科書37ページ開いて。それでは、「中央ユーラシアの風土」上里さん、読んでください。本文読んだら注の部分も読んでね。」

寒暖の差が激しい乾燥地帯で、遊牧にしか適さない...なるほど...このあたりはちょっとたいくつ。

「はい。」

「じゃあ38ページ、「遊牧民の社会と国家」、浅沼君読んでください。」

「はい。」

「羊、ヤギ、馬、牛、ラクダなどを財産とする...食糧は、肉と乳製品...衣服は毛皮が中心で、住居は、木製の骨組みをフェルトで覆う移動に適した組み立て式...紀元前9~8世紀に出現...東西を結ぶ交易や文化交流に貢献した。彼らが利用したルートは、「草原の道」と呼ばれた。」

「はい。ありがとう。志村君、「スキタイと匈奴」読んでください。」

「はい。」

このあたりからようやく世界史らしくなるな...スキタイ、月氏、匈奴、冒頓単于...鮮卑、五胡十六国...

と思いながら俺は志村が読むのを聞いている。実は(原作の通り)俺はタイムリープしているから予習を終わらせてるようなものだ。

「えーとここからのキーワードは今後の学習の予習になるので板書しておきます。」

カツカツと柊木ちゃんが板書する。

「大道さん、39ページから「オアシス民の社会と経済」読んでください。」

「はい。」

「....手工業生産や隊商交易の拠点として...タリム盆地周辺部...東西を往来する「オアシスの道」を形づくった。これは「草原の道」とあわせて「絹の道」(シルクロード)とも呼ばれる。...」

「はい。ありがとう。綾野さん。「秦漢帝国」の「「皇帝」の出現」読んでください。」

「はい。」

秦の孝公、商鞅(しょうおう)の改革、始皇帝、郡県制...秦の滅亡...

「楚の名門出身の項羽を破った農民出身の劉邦が、諸勢力から衰退され(高祖)、漢王朝を開いた(前漢)。」

「ありがとう。前漢の都は長安で、後の後漢が都を洛陽に置いたから、前漢のことを西漢、後漢のことを東漢と呼ぶこともあるね。宋の前の五代十国の後漢と区別するためにも、そう呼ばれているのかもしれない。テストでは、西漢、東漢も正解にするね。」

 

「さて、おさらいだよ。中央ユーラシアって東はどこからで西はどこまでかな。高崎君」

「モンゴル高原から黒海北岸までです。」

「どんな気候なのかな。二葉さん。」

「ヒマラヤ山脈、ヒンズークシュ山脈などで季節風が遮られ、乾燥し、寒暖差の大きい大陸性気候です。」

「遊牧民の食糧、衣服、住居の特徴は何かな。上里さん」

「乳製品や肉類、衣服は毛皮、木製の骨組みをフェルトで覆って移動に適した組み立て式でした。」

「青銅製の馬具をもつ騎馬遊牧民が出現するのはいつごろかな。」

「紀元前9世紀から紀元前8世紀ごろです。」

「いまからどれくらい昔だろう。日本でいえば何時代?弥生時代は紀元前3世紀ごろから始まると言われているね。遠藤さん」

「縄文時代晩期です。」

「ありがとう。中央ユーラシアの東西を結ぶ交易ルートはなんというかな。内田君」

「草原の道です。」

「ありがとう。これが「オアシス民の社会と経済」で読んだように、オアシスの道と合わせて、一般的にいうシルクロードになるの。正確には陸路のシルクロードなんだけど、奈良の正倉院にもたらされた御物(ぎょぶつ)と呼ばれるものはこういう交易路をつかってもたらされたものなの。さて黒海北岸に紀元前7世紀に現れた遊牧国家をつくった民族は何かな」

「スキタイです。」

「ありがとう。スキタイ人のお墓。すごいでしょう。

氷の王女と呼ばれる人の墓を復元したもの。

 

【挿絵表示】

 

これはね、トルスタヤ・モギーラと呼ばれる古墳からでてきた胸飾り。

 

【挿絵表示】

 

一番外側の文様帯には、動物闘争文って言っていいのかな、真ん中の部分では、二頭の鷲グリフィンが馬を襲い、その両脇では、ライオンと豹がイノシシや鹿を襲い、さらに犬がウサギを追い、その先にバッタがいる。鷲グリフィンは、紀元前4世紀ごろのギリシャの影響を受けていると考えられているの。外から二番目の文様帯では、花とつる草、鳥などが刻まれている。内側の文様帯には、スキタイの日常生活を表現していると考えられているの。真ん中には、羊の毛皮を引っ張る二人の男、馬と牛の親子、女性と子どもの搾乳(さくにゅう)風景、ヤギ、鳥がいる。搾乳は女性と子どもの仕事で、牛や馬の子どもに母親の乳首を含ませて、乳が出始めたら子どもを離して、人間が搾乳する。ここに壺を持つ女性がいるでしょ。乳が出たら(しぼ)って汲み取るためなの。」

 

「さて、紀元前3世紀後半にモンゴル草原で強力な遊牧国家を築いた民族は何かな。」

匈奴(きょうど)です。」

「その君主の称号は何というかな。」

単于(ぜんう)です。」

「ありがとう。匈奴で中国の歴史書で最初に名前の出てくる単于は、頭曼単于という人なんだけど、冒頓(ぼくとつ)さんを太子にしていた。だけど後妻になったお気に入りのお妃様、閼氏(あつし)というのが称号なんだけど男の子を生んだらその子を太子にしたくなったの。そして教科書にものってる月氏に人質に出して、月氏に冒頓を殺させようとして、月氏を攻撃した。しかし冒頓は月氏の良馬を奪って帰ってきた。匈奴の中では、その智慧と勇気をたたえて、頭曼は正式に冒頓を左賢王の地位につかせたの。

冒頓さんは、恨みを抱いただろうね。冒頓さんは、自分に忠実な部下を選んだんだけどその選び方が、すさまじかった。「われと同じ方向に(かぶら)矢を放て」と命令して、野獣を撃った。撃たない者は斬り殺した。その次は自分の愛馬を撃った。撃たないものは斬り殺した。それからお(めかけ)さんを撃った。撃たないものは斬り殺した。父の愛馬を射るときには全員の部下が撃った。紀元前209年、狩りに出かけたときに頭曼単于を射掛けて殺害し、自分が単于になったの。まあ頭曼さん自業自得だよね。さて冒頓さんの匈奴は、漢の建国者劉邦(りゅうほう)を追い詰めるほどだった。しかし冒頓さんの死後、紀元前1世紀ごろ、武帝の遣わした将軍たちに攻撃されて南匈奴と北匈奴に分裂、南匈奴は、降伏、北匈奴ははるか西のほうへ移動し、ヨーロッパを脅かしたフン族になったという説もある。2世紀ごろ鮮卑(せんぴ)族に檀石槐(だんせきかい)という優れたリーダーが現れ、大人(たいじん)といって匈奴でいえば単于のような地位についたの。でも冒頓さんの匈奴と同じように檀石槐さんがなくなると衰退した。で、秦漢帝国なんだけど、前の授業で法家の名前が何人か挙がったよね?秦の孝公に仕えた人はだれかな?前回の授業で法家で出てきた人だね。復習だよ。篠原君」

商鞅(しょうおう)です。」

「正解。商鞅の改革で有力な貴族のいない秦は強大になった。楚も呉起の改革で一時的に強大にはなったけど古い貴族制にもどってしまったの。戦国時代の終わりごろは、秦と趙が激しく戦っていた。完璧とか刎頸(ふんけい)の交わりというのは、趙の外交官の藺相如(りんしょうじょ)と将軍の廉頗(れんぱ)が趙の国を守ったお話から生まれたことわざなの。紀元前260年の長平の戦いで、趙の王様がデマを信じて長平をしぶとく守っていた廉頗をやめさせて、趙が敗れ、40万の兵士が生き埋めにされたの。楚の国は秦の白起に夷陵(いりょう)という先祖代々の墓地を焼かれて占領された。

それから、『キングダム』にでてくる李牧が必死に趙を守ったけど、スパイにわいろをつかまされて佞臣(ねいしん)の郭開が李牧の悪口を言って、王様は李牧を殺してしまった。」

「なんかマンガと印象が違いますね。」

「面白くするために脚色しているから。それほど李牧が優れた将軍だったてこと。『名人伝』というマンガは、反秦だから読めば見方がかわるかもね。」

「秦は、前230年に韓、前228年に都の邯鄲(かんたん)を落として趙、ただし王族の()は、北方の代へ逃げた。前225年に大梁を水攻めにして魏を滅ぼして、楚を攻める話になって、ネタばれになっちゃうけど『キングダム』の主人公の李信は、王(せん)将軍が60万必要というところを、楚ごとき20万で十分と蒙恬(もうてん)とともに楚に攻め込むんだけど、項羽のおじいさんの項燕将軍に追撃されて敗れて退却するの。それに代わって王翦将軍が秦のほぼ全軍の60万を率いるんだけど、猜疑(さいぎ)心が強い秦王に裏切る気が全くないことを示すために戦後の家族の安全や領地や邸宅などの褒美を求める使者を何度もおくるの。あんまりそんなことをするもんだから部下があきれたという話が伝わっている。王翦は、(とりで)を築いて一向に出陣する気配を見せない。楚軍は砦を何度も攻撃するが堅固で、挑発しても秦軍が一向に誘い出されないため、退却を始める。これこそが王翦の狙いで、十分に英気を養った秦軍は、戦闘態勢になっていない楚軍をさんざんに打ち破って紀元前223年、楚を滅ぼすの。紀元前222年に燕と代を滅ぼし、斉にはあらかじめ工作して、五国が滅びるのを傍観させて、斉王があわてて西側の国境に軍を配備するものの、北側から攻め込んで紀元前221年斉を滅ぼして中国を統一した。秦王の政は、始皇帝になり、国ごとに違っていた度量衡(どりょうこう)(長さ、重さなどの基準)、文字を小(てん)に、貨幣を半両銭に統一し、小篆は、漢字の先祖になった。郡県制を行って、全国に郡守、県令などの役人をおいて直接支配しようとした。そして実用書以外の書物を焼き、学者や思想家を生き埋めにする焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を行った。遠征や巡幸、安房宮建設、万里の長城建設を行い民衆は苦しんだ。始皇帝が死ぬと、強制的に徴兵された農民たちが任地に間に合わず、秦の法では斬首になるため、不満も手伝って、陳勝と呉広は、どうせ死ぬならと護衛の将校たちを酔わせて斬り殺し、反乱を起こした。そうすると各地で人々が反乱を起こして旧六国の王族を立てる。魏、趙、斉、燕が復活するの。秦は章邯(しょうかん)を将軍にして、章邯は、始皇帝の陵墓で働いていた囚人たちを,戦功を挙げれば罪を赦すとして、囚人たちは決死の兵になって、連戦連勝、陳勝も倒した。反秦勢力は、項羽のおじさんの項梁のもとに集まるようになっていく。このとき(はい)で挙兵した劉邦も加わる。項梁は、楚の王族の心という若者をさがして楚の懐王とした。項梁は、秦の守備隊に対して何回か勝ったものの、章邯に敗れて戦死した。項羽は、章邯に攻められた趙を救援するために、船と鍋を捨てる決死の覚悟で楚軍を率い、後のない楚の兵は死兵となって秦軍を打ち破り、項羽のもとには、旧六国の兵が集まり、勢いに乗って秦軍に対し連戦連勝し、今度は、章邯の側が都へもどっても戻らなくても誅殺されるということで降伏、秦の兵の反乱をおそれた項羽は、20万の兵を穴埋めにしたの。皮肉にも長平の戦いで趙の兵を穴埋めにした報いのようにも見えるね。一方、別動隊を率いた劉邦は、皇帝をやめて秦王となった子嬰(しえい)の降伏を受け入れて、秦の咸陽(かんよう)に入城して、紀元前206年、秦は滅んだ。それから項羽は、叔父の項梁のもとで別動隊として働いていた劉邦と戦うことになる。詳しいことは漢文の授業で習うと思うし、『項羽と劉邦』という小説も出ている。劉邦は人材を大切にし、連戦連敗しても立て直して、ついに項羽を四面楚歌、つまり周囲敵だらけの状態に追い詰める。こうして劉邦は、項羽を倒して漢王朝、前漢、長安に都があったから西漢を建国するの。劉邦は、漢の高祖と呼ばれた。さて、教科書の41ページ、42ページを読んでくれるかな。若田部さん」

「はい」

冒頓単于、呉楚七国の乱、武帝の匈奴遠征、王莽、光武帝、党錮の禁、黄巾の乱...三国時代だな..と思いながら若田部さんの朗読を聞く。

 

「ありがとう。さて、高祖は、秦のやり方と異なる支配体制を築く。急速で容赦のない法治主義と郡県制は、役人の裏切りや農民の不満が爆発すると止めようがなかった。なので、秦の旧領は郡県制、元の六国の部分は、功臣や劉氏の親族を王にして封建制にしたの。さてこれは何制というかな。高崎君」

(かおり、これでいいのか。)

(うん、それでいいと思う。)

「郡国制です。」

「ありがとう。さて、復習になるけど、高祖は、紀元200年、北方の強大な民族と戦うことになってしまう。さてその民族とその王様の名前はなんというかな?鈴谷さん」

「冒頓単于です」

「正解。高祖は、わざと後退する匈奴軍を追いかけているうちに戦線が伸びてしまい、山西省北部の白登山というところで包囲されてしまう。7日間食べ物がないという絶望的な状況に陥るの。でも陳平さんという優れた部下が単于の奥さん、閼氏にわいろをおくったとか、一説には漢の美女がきたら寵愛を失うから引き上げるよう説得してほしいと頼んだとか言われる。そうして和約を結んで匈奴を兄とし、毎年貢物をおくることになった。」

「さて、郡国制の外側は封建制。復習だよ。春秋戦国時代を思い出してみて。周の封建制ははどうなったか。真田君」

「諸侯王は独立をしようとします。」

「そうなの。新しい春秋時代がはじまろうとしていたの。漢の景帝は、諸侯王の領土を削ろうといろいろ画策した。諸侯王の怒りは爆発し、紀元前154年、呉王()を中心として反乱がおこる。これをなんというかな。?藤本君?」

「ごそごそ諸侯、以後ふぉ(154)ろぶ呉楚七国の乱」

「なるほど~面白いね。」

「先生、いいでしょ。」

「この戦いは、呉王の側が70万の大軍だったけど、景帝の側の将軍周亜父(あほ(あふ))が寄せ集めの弱点を見破り、呉楚七国側の補給線を寸断して焦った呉王を打ち破って、勝負がついた。以後、諸侯王の土地は、漢の朝廷が派遣した相にゆだねられ、諸侯王は、租税のあがりを受け取るだけになり、武帝の時代に長子相続だったのをすべての息子たちに分割相続させることにしたの。」

「さて、武帝は、高祖の時の屈辱を晴らすため、張騫(ちょうけん)を月氏に遣わし、対匈奴同盟を求めた。このこと自体はうまくいかなかったけど、ゴビ砂漠のあるタリム盆地のオアシス都市の小国を従えることに成功する。さて復習だよ。これはなんの道で漢王朝にどういう利益をもたらしたかな。ヒントは39ページにあるね。綾野さん?」

NHKシルクロードの音楽が流れ、ラクダの隊商の画像がディスプレイに映し出される。

「ラクダさんがかっぽかっぽ...分からないです。先生わたしを知恵熱で困らせますか」

「志村くん」

「オアシスの道、シルクロードですね。」

「ルシアン...」

綾野亜子は、両手を握りしめて志村を見つめる。

「う~ん、亜子ちゃんをあてたほうがよかったかな。」

「教科書のどこ見るようにいいます。」

「お願いね。わかりませんで終わらせたくないから。さて武帝は、高祖のころからの匈奴対策として、衛青、霍去病(かくきょへい)という有能な将軍をつかって匈奴を打ち破ったの。武帝は、そのほかにも外征を行っている。東側と南側だね~どこを攻めたのかな。」

「朝鮮半島。」

「はい正解。紀元前2世紀に衛満という人が建国した衛氏朝鮮を滅ぼして、4つの郡をおいたの。主な郡の名前が教科書の注にあるね。」

「楽浪郡?」

「そう。また南のほうを攻めた。

「南越国?」

「そのとおり。秦が滅んでから紀元前203年に趙陀という人が建国した。ベトナム北部まで支配していた。武帝は、これを亡ぼして9つの郡を置いたの。」

「さて戦費がかさむから財政政策もやらなければならない。大商人の利益独占を抑えるため、各地の特産品をほかの地域に輸送させる際に物価を均一にする均輸政策、穀物を貯蔵して、値段が上がると売り払い、値段が下がると買い入れる平準政策を行ったの。それに五銖銭を発行して財政の豊かにすることに努めたの。ほか塩や鉄を専売制にして、国家の財政をうるおそうと試みた。しかしいいことばかりじゃなくて、教科書の塩鉄論の一部の引用のように、農具の規格を統一したせいで、それぞれ地域の個性にあわせた使いやすい農具だったのが使いにくくなって農民が困窮するようになったという副作用もあった。」

 

「また礼や徳を重んじ、皇帝に忠実な優秀な官吏が必要ということで、董仲舒(とうちゅうじょ)を登用して儒学を官学化し、地方長官に官吏を推薦させる郷挙里選(きょうきょりせん)を行った。これは、本を読むことのできる経済的に余裕のある豪族に有利に働いた。武帝が亡くなった後は、宣帝の時代を除いて幼い皇帝や若い皇帝が続いたの。そうなると皇帝のお妃さまの父親が力を持つようになる。日本史でこれに似た話があるよね。秋川さん」

「摂関政治ですか」

「そのとおり。藤原氏みたいな皇帝のお妃さまの父親のような人のことを外戚(がいせき)といいます。三国志に詳しい人は知っているかもしれないけど。こうして幼い皇帝から禅譲(ぜんじょう)を受けたのが王莽(おうもう)なの。彼は、新という王朝をたてたけど、実際は伝説上の周の理想をなぞって、儒教の理想を行うため、土地所有の制限策や商業活動の抑制策を行った。時代錯誤で商人、民衆の利益を損なう政策だったため、反発を招き、赤眉(せきび)の乱や緑林の乱などが起こった。そういった混乱状態の中で、漢の王家の旗印として豪族の支持を受けた人物が後漢、西の長安に対し、東の洛陽に都したから東漢とも呼ばれる王朝を立てた。この人はだれかな?遠藤さん」

美しい髪をふぁさっとして答える。

「光武帝劉秀です。」

「はい。のちの明の洪武帝と間違えないでね。あとこの光武帝は日本史とも深い関係があるよ。即位したのは、紀元25年。さて、日本は何時代だろう?上里さん。ヒントあげるね。紀元前930年に佐賀県の菜畑遺跡で水田の跡が発見されていて縄文晩期といわれている。」

(悠真、これでいいの?)

(それでいいと思う)

「弥生時代?」

「そう。じゃあ光武帝が日本に対して行ったことは?志賀島(しかのしま)から何か発見されたんだよね?図録の64ページにもあるね。今度は内田君」

漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の金印?」

「正解。それから光武帝は、西漢の歴史の編纂を班固にまかせ、その弟を西域都護として遣わした。だれだろう?水瀬さん」

(志村、これでいいの?)

(いいと思うぞ)

「班超です。」

(さすがルシアンです。)

「そしてその部下を大秦国に遣わした。大秦国というのは中間テストの後に倣うけどローマ帝国のこと。さてだれを遣わしたかな。有馬君」

(タク、これでいいと思う。)

(ああ、だいじょうぶだよ。ハル)

「甘英です。」

「ありがとう。ローマ帝国からは、皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの使者がベトナムに紀元166年に来たという記録がある。中国名では、大秦王安敦と呼ばれている。東漢は、光武帝を継いだ明帝、章帝までは、成人の皇帝だったけどそのあとは、成人していない皇帝があとを継ぐようになる。そうすると何が起こるかな?二葉さん」

外戚(がいせき)の台頭です。」

「そうだね。皇帝のほうも外戚にやられっぱなしじゃない。そうすると皇帝がものごころついて外戚を排除したいと考えると、後宮や皇帝の幼少時からの世話役をする宦官(かんがん)と手を組んで外戚を排除しようとする。そうして後漢の時代は、外戚と宦官が入れ替って権力を握るようになってしまうの。この事態を憂慮した官僚たちは宦官を排除しようとするんだけど、宦官はずるがしこくして官僚たちを逮捕し、刑死させたり、追放したりしたの。これを党錮(とうこ)の禁と呼ぶ。悪い政治家がいい政治家を悪者にするようなもの。そんなことをやっていたから後漢王朝は衰えていく。そうして紀元184年、ついに宗教結社の太平道の教祖張角に率いられた農民反乱がおこる。三国志知っている人はおなじみだね。志村君なにかな?」

「黄巾の乱です。」

「正解。なぜ黄色かというと、漢の色は、陰陽五行説でいうところの火徳の赤でその次に来るのが土徳の黄色だからなの。ちなみに赤眉(せきび)の乱も漢の復興をイメージしていたし、三国時代の魏の最初の年号が、黄初、呉の最初の年号が黄武なのは、土徳を意識、蜀漢の最初の年号が炎興なのは、火徳を意識してのことなの。」

「それでは、もうすぐ時間なので、篠原君、お願い。」

「はい。起立、礼」

「お疲れさまでした。」

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