紫煙燻らす彼の話   作:社畜的な社畜

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偶に帰る家のベッドは抜け出せない

 社会人数年目。仕事の関係上、どうしても納期が近づくと帰れなくなることは珍しくない。

 

「…………」

 

 そんなある日、珍しくも家に帰って自炊し、風呂に入ってベッドに潜った啓路はスマホ片手に固まっていた。

 示されたデジタル時計の表示は、明らかにいつも起きる時間よりも遅かったのだ。

 三度見返して、三度ともその表示が変わる事はない。

 

「やっべ…………」

 

 布団を蹴り飛ばし、ベッドから転がり落ちる。運が良いのは、イーグルジャンプが私服OKであり、着替える事に手間取らない点だろう。

 何枚か持っているTシャツとワークパンツに着替え靴下を履き、斜め掛けのカバンに必要なモノを放り込んで玄関へとダッシュ。履き慣れたハイカットのスニーカーに足を突っ込み、そのまま転がり出るように外へ。

 玄関の鍵を閉めて、啓路は通路を駆け出した。

 大切なモノ(眼鏡)を忘れて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(しくじった、見えねぇ…………)

 

 電車に揺られ、吊革を掴んだ啓路は己の失態を内心で悔やんでいた。

 彼の視力は決していいとは言えない。寧ろ悪い。だからこそ、視力矯正兼眼精疲労対策のメガネは必需品である、のだが今日の朝はバタバタしすぎて忘れてしまっていた。

 その結果、前髪に隠れながらも隙間から覗く眼光は鋭い通り越して、若干怖い事になっている。

 周囲の乗客から若干距離をとられながら、電車に揺られて二駅ほど。

 駅のホームに降り立った瞬間、華麗なスタートダッシュを決めた彼は、その勢いのままに階段を駆け下りて若干持ち腐れている定期を改札にタッチ、通り抜ける。

 驚くべきは、彼の身のこなし。四六時中パソコンに噛り付いてばかりであるはずの彼だが、しかしその走る姿は結構様に成っていた。

 そのまま駅を駆け出して会社への道を真っすぐに走る啓路。そんな彼の背中に、聞き覚えのある声が掛けられる。

 

「キヌさーん!」

「ん?飯島に、涼風じゃねぇか。おはよう」

「おはようございます、キヌさん。おろ、眼鏡はどないしたんです?」

「お、おはよう、ございます……!」

「おう……涼風は大丈夫か?息も絶え絶えだが…………あと、眼鏡は忘れてきた。会社に予備置いてるからつけば問題ないけどな」

「わ、たし……!う、運動、苦手で…………!」

「お、おう、そか。無理すんなよ」

「青葉ちゃんも、運動苦手なんやね。ちょっと、親近感…………って、こないな事しとる場合やない!遅刻や、遅刻!」

「おお、そうだったな。急ぐぞ」

 

 ゆんの言葉を受けて、改めて三人は仕事への道を駆ける―――――のだが、そこで三人の運動能力の明確な差が出た。

 まず、男であり体の頑丈さも折り紙付きな啓路が先頭。その後を運動苦手なゆんが割と離されながら続き、更にその後ろ。運動苦手とかそんなレベルではない青葉が走ってるのか歩いてるのか分からないスピードで追いかける形。

 

「―――――いや、遅いな、おい」

 

 少し進んだところで後ろを確認した啓路が呟くのも無理はない。

 事実、マジで青葉は走るのがありえない程に遅かった。いや、頑張っている事は分かるのだが、その頑張りが欠片も報われないレベルで遅い。

 

「飯島ー」

「は、い!なん、です……!?」

「お前も息絶え絶えか。先行っててくれ、俺は涼風連れてくるからな」

「わ、かりました!」

 

 よたよたと駆けていくゆんに道を譲って、待つこと一分。

 

「はぁーっ!はぁーっ!」

「フルマラソンでも走った息の荒れ方だな、涼風」

「ゲホゲホッ!……あれ?鬼怒川、さん?」

「おー、鬼怒川さんだぜ?んな事より、ほれ」

 

 目を白黒させる青葉に対して、啓路は時間が惜しいと彼女の前で背を向けて膝を負った。

 

「乗れ。このペースだと、間に合わねぇぞ」

「ふぇ?」

「第一、仕事前から疲労困憊なんざ洒落にならねぇ。乗れ」

「あ、えっと、その…………し、失礼します?」

 

 捲し立てられたからか、それとも疲労で頭が回ってなかったのか、青葉は少しの思考の末に意外にがっしりとした背中へと手を伸ばす。

 

「確りと掴まってろよ」

「は、はい!」

 

 色々と触ったりしないように細心の注意を払いながら、啓路は走り出す。

 そのスピードは、青葉にしてみれば文字通り飛ぶかのような速さだった。

 時間にすれば、それから数分といったところ。

 

「思ったより、お早い到着やねキヌさん」

「まあ、な。で、何で滝本が居るんだ?遅刻か?」

「朝ごはんが美味しすぎて…………おはよう、啓路君」

「おう、おはよう……っと、悪いな涼風。背負いっぱなしだった」

「い、いえ!大丈夫です!むしろ、重くありませんでした?」

「いいや?どっちかっていうと、心配になるレベルで軽かったが?よいしょっと」

 

 青葉を下しながらそう言う彼の言葉に嘘はない。

 年の割に相当小柄である彼女だが、それにしたって軽いというのが啓路の感想だった。

 因みに彼は、知り合いだからと言って女性に対して羽のように軽い、などといったおべっかを宣う事は決してない。

 一応、その辺のお世辞を言うメリットなどは理解しているのだが、それ以前に彼の持論は【人間は重い】なのだから。

 

「にしても、今日は何だ?俺も人のこと言えねーが、四人も遅刻かよ」

「いやー、あはは……って、青葉ちゃん危ない!」

「ふぇ?きゃっ!?」

 

 気が抜けていたのだろう、ついでに普段の運動不足と元々の運動能力の低さが仇となったのか青葉は何もない地面に躓く。

 ゆんが先に気づき声を上げ、咄嗟に掴んだおかげで倒れる事は無かったがその代わりに、バッグが宙を舞った。

 ぶちまけられる中身。静まり返る場。

 

「…………すまん、咄嗟に掴めなかった」

「ご、ごめんね、青葉ちゃん」

「い、いえいえ!大丈夫ですから!頭上げてください!そ、それに運んでもらったのに躓いた私が悪かったんで…………」

 

 謝りながら、ぶちまけたカバンの中身を拾い上げる青葉。自然と、他三人も膝をつくと拾い上げて彼女へと返していく。

 そうして、四人は揃ってビルを上がりイーグルジャンプの入っているフロアへとやって来た。

 

「―――――遅いッ!」

 

 待っていたのは、コウからの一喝。

 普段優しい人間が怒ると怖いというが、入社してそんな場面に遭遇したことのなかった青葉は畏縮してしまう。

 ただ、今回ばかりは仕方がない。確かに遅刻したが、下で彼女が躓いて転びかけねば時間通りにギリギリ間に合っていたはずなのだから。

 

「そう、カッカするなよ八神。涼風だって、遅刻したくてしたわけじゃねぇし本人も反省してるし、な?」

「ぬぐっ…………そりゃあ、見れば分かるけど……でも…………」

「ま、話は聞いてやってくれ。まだ初犯だし、な?俺は、遠山と葉月さんに遅刻の件謝ってくるからよ」

 

 場を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、啓路は片手を挙げて目的の人物の元へと向かってしまう。その行動の裏側には、一刻も早く眼鏡を掛けたいというのもあったりする。

 この後、りんからはちょっとした小言と仕事のし過ぎを。上司からは、人間確認できたという笑いを貰い。部下たちからは、寧ろ遅刻でも何でもしっかり休んでくださいと栄養ドリンクを手渡されたりすることを、彼はまだ知らない。

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