ソラとシンエンの狭間で   作:環 円

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第三話 転換

 タカオと高雄が対面した。

 紅と蒼の瞳を持つそれぞれが向かい合えば、互いに笑み合う。清楚なお嬢様系である高雄と、気は強いが出来るキャリア秘書という間逆であろうふたりが意気投合するなど誰が想像出来ただろう。何気ない日常会話から趣味を至り、恋バナにまで発展するまでわずかな時間しか必要としなかった。

 

 出合った場所は間宮が仕切る食堂だ。

 イオナから絶品であるといういくつものメニューを聞き及び、会議が終わった後、即訪れたのだ。

 多少、駆逐艦たちの騒がしさに口元を引きつらせていたが、それもしばらくすれば慣れたようである。きれいなお姉さんが来たと聞けば、悪い気分にはならなかったようで、すまし顔をしつつも何事か尋ねられると律儀に答えを返していた。

 

 時は十二月二十八日、午前十一時を五分ほど回っている。

 タカオとのランデブーを果たした遠征攻撃艦隊は翌日の丑三つ時に無事帰港した。

 出発時にはあった白のテントが全て撤去されており、艦を下りた大和には深淵の中に浮かぶ泊地が見知らぬ地のように見えた。腕の中にはすうすうと寝息を立てる島風が抱かれている。その後ろに続くのが大鳳だ。多少瞼が落ちているものの、しっかりと足取りで陸に上がった。背に雪風を担いで上がって来たのは青葉だ。大きなあくびを噛み殺している。天龍と龍田は何度起しても目を覚まさず、応急処置を施した状態でイオナの中で眠らせてもらえる事になっていた。

 

 おかえり。

 そうで迎えたのは提督ただひとりであった。

 いつもより静かな夜の理由を聞けば、賑やかな睦月型の駆逐艦たちが丁度、夜の警邏に出て行ったばかりだからではないか、と説明を受ける。

 だだ閑か過ぎる理由として駆逐組だけが原因ではない、と大和が周囲を見回した。

 浮かび上がる白が無かった。ディーゼルモーターで照らし出されていたテントが撤去されていたのだ。

 それに伴いテントの下にあった、数々の声も途切れていた。昨日までは混沌とした避難場所が消えていたのだ。

 状況に気持ちが追いつく。

 男が維持を良しとしなかったのであろう。使う必要が余り無く、山済みとなっていたバケツがふんだんに使われたのだ。

 通称バケツ。この中に満たされた液体、または粉末もある---は艦娘たちの外傷、内傷問わず短時間で癒す効能がある『薬物』である。香りは7種類あり、使用を許可された艦娘たちは自分達の好みを選択してバケツを使う。投入するのは壷風呂だ。香りの良い赤道直下参の木材をふんだんに使った広々とした湯船ではなく、駆逐たちであればふたりまで入ることの出来る個人用の大きな壷の中でゆったりと浸かるのである。

 大和も幾度か使ったことがあった。好みの香りに包まれ、程よい温かさの湯に浸かると疲れも一気に癒えるというものだ。

 

 (……穏やかな夜、としたのですね)

 

 非常事態が長く続けば不安が伝播する。日常と非日常の区別はしっかりとつけるべきであった。

 日常が壊れることを、非日常という。

 最前線であるショートランド泊地であるからこそ、緩急のメリハリが必要であるのだ。

 

 昨夜までは灯っていなかった窓に小さな光があった。

 それを見、大和は歩き出す。

 

 聞けば昼間は艦娘たちの大移動があったという。

 男は体を癒した艦娘から順に割り振った部屋へと案内したのだ。

 負傷時は全く気にならぬ事も、いざ癒えると不満に思う事柄も増えてくる。特に寝所は顕著であった。

 ラバウル基地所属の艦娘たちは全員宿舎に入り、泊地に在る者達と変わらぬ処遇としていた。二十四日にショートランドを出航したタンカーも十二時間ほど前に泊地へ着している。乗務員他、艦娘たちも数日間過ごしていた場所である。慣れた様子で部屋の鍵を貰い、早々と宿舎へと入っていたという。

 

 帰還の挨拶を終えた艦隊はそれぞれの部屋に戻ってゆく。

 報告は今日の昼となったからだ。

 大和は青葉と共に駆逐組の棟へと赴き、そっとふたりをベットに横たえ部屋を出る。

 あくびを噛み殺す青葉と視線が合う。ばつの悪そうな顔をされたが労い、気にする事は無いと笑えんだ。

 

 自室に戻った大和が報告書を書き終えふと窓に視線を振れば、提督が座す執務室にはまだ煌々とした光があった。

 大和には眠気が無い。帰還の最中、イオナの好意によって艦娘たちはその船内で仮眠を取らせてもらっていたからだ。

 だが提督は昼も夜も睡眠を取らず稼動し続けている。人間は脆い。耐久力が強い艦娘であっても睡眠不足は大敵なのだ。

 提出する報告書の草案を、メモしていたものをまとめただけであったが、時刻は既に四時を回ろうとしている。日の出までもうすぐであった。

 

 

 男は執務室にてアルペジオ勢と共に居た。

 日中、夜半とただ帰りを待っていただけではない。

 戦果や状況などはイオナを通じヒュウガによってあらましが男へと伝えられていた。

 詳しい状況は大和がまとめているであろう報告書を待てばよいだろうが、本日午後に予定している第二派の準備を整えておかねばならなかったのだ。

 

 「ってことでタカオ、あんたちょっと分解されなさい」

 「いきなりなによ! 説明くらいしなさいってば!」

 

 全くである。

 男はタカオに椅子を進め、まずは礼を述べた。

 深海棲艦の情報を前以て入手できたお陰で、艦娘たちの損傷が予想よりも少なく済んだのである。

 タカオは頬を赤らめる。そしてふい、と横を向いた。決して貴方のためにやったわけではないのだから、という言葉つきで、だ。

 男はその様子を感慨深げに見ていた。テレビや漫画のままである。タカオという人格はまだ、好意や感謝の念を向けられるのに慣れていないのだろう。

 突っ込んでは悪い。軽く流し、ヒュウガの説明へと移行した。

 

 要約すれば以上である。

 この世界にはアドミラリティ・コードが存在してはいない。よって霧の艦隊もまた存在しえないものである。

 霧を形作るナノマテリアルもまた、近しい物質は存在するものの合致するものは今現在のところ皆無であった。

 しかし現実的に東洋艦隊の一部がなにを原因とするのかは不明であるが、地球という概念を同じくする、別の次元に来てしまっている。

 素因は不明瞭であったが、媒介が何であるかは判明していた。

 ゲート、である。

 これに関しては霧が硫黄島に集っていた際、近づいてきていた低気圧に伴うなにか、が要因のひとつであると推測されていた。

 硫黄島に在ったものたちがなぜ遠く離れたラバウル近海に出現したのか。その謎は解き明かされてはいない。ゲートが原因である、とは断定出来るものの、因果まで深く探るには情報が足りなかった。

 

 が、それはひとまずさておき。

 コンゴウが束縛されている海域に開き続けているゲートを調べるのが手っ取り早い方法だろう、という結論に至っていた。

 記録を参照出来るよう、タカオにも閲覧権限を出している。

 

 「で、私を分解するってのと話が繋がってないんだけど」

 「ここに集合しようって話になってるのよ」

 

 指差したのは床だ。ヒュウガは続ける。

 「ただ深海棲艦が邪魔なわけ。コンゴウが動こうとすると牽制してくるんだって。今のところはまだ、仲間と認識はしているみたいなんだけどね」

 

 同じゲートから出てきた存在として。

 

 「面白いことにあれらは戦って負け寝返っても、奪い返そうという行動には出ないみたいなの」

 

 ただし、敵として再認識し破壊しようとしてくるのだけれど。

 ヒュウガは笑みを浮かべる。

 「だけどここで問題が浮上するのよ。この世界には私たちを傷つけられる兵器が、限られてるってことね」

 

 霧の艦隊が人間側に集まるには一度、負けを装わないといけないのだ。それが一番難しい。

 

 例外であるのが大和が撃った46cm三連装砲である。

 ある意味、ヒュウガは目を見張っていた。なぜなら今、現時点の暦はヒュウガたちが存在していた時間軸から見ても、過去に逆行していたからだ。

 メンタルモデルを手に入れるまでに交戦した記録を遡ったとしても、艦娘たちが使用している兵器の目録が見つからなかった。

 なぜなのか。答えは簡単だった。

 既に使われなくなった骨董品であったからだ。

 

 霧が人間を相手に戦ったとき、その兵器のほとんどはイージスシステムを積んでいた。宇宙に打ち上げた衛星と回線同調させ、高精密な射撃を可能としていた。

 それと比べれば艦娘たちの使う兵器の、なんと旧式であることか。

 ただその型落ちを使ってなお、メンタルモデルを形成しえないナガラ型とはいえ、クラインフィールドを突破した破壊力は侮りがたい。

 

 だが言い換えれば、それ以外では霧の艦隊に損傷を与えられないということだ。実際的にタカオに付随していたナガラを沈没させたのはタカオのミサイルである。

 出来るだけ霧は、霧という存在そのものを人間に秘匿しておきたいと考えていた。そして男としても霧という大きすぎる力は早々にご帰還願いたい、と願った。

 両者には共通の目的が出来、男と霧の総意の元に考え出された方法というのが、以下である。

 もし艦娘がナノマテリアル製の装備を手にしたならばどうなるだろうか。という発案を元に軽くではあるが塗布してみたのだ。目を見張る結果であった。塗っただけで威力が上がったのである。その倍率は塗る厚さによって変化した。

 ということで一時的に艦娘たちの武器弾薬にナノマテリアルを塗布しよう、ということになったのだが如何せん、ナノマテリアルは有限である。イオナを形成するナノマテリアルを使うのは、作戦遂行に支障をきたす恐れがあるため却下された。となれば残るは第一次合流組みのタカオである。しばらくの間、タカオには以前同化したときのようにイオナと一緒になってもらい、浮いた分を艦娘に回す案であった。

 

 「なんでよ。私や伊401が出ればいい話じゃない」

 

 そんな回りくどい方法をとらなくとも、直接的に霧が動けばいいだけの話だとタカオが反論する。

 ヒュウガやコンゴウもそれを考えなかったわけではない。

 霧がこの世界の招かれざる客であるとはいえ、さっさと動き戻る算段をつけたほうが手っ取り早いはずであった。

 だがこの世界は霧を拒絶している。

 

 「イオナ姉さまやタカオには掛かってないようなんだけど、大戦艦であるハルナやキリシマ、コンゴウにはあるようなのよ」

 

 自由に動けない、まではいかないが、動きにくい鎖のようなものが体に巻きついているのだという。

 目に見えるものではない。暗視やレーダーに映るものでもない。だが何かが体に絡み付いているのだ。

 

 「その鎖に関しては私も同意よ。コアだけの状態であるためなのか、船体を持つコンゴウたちよりは軽微だけれど」

 

 深海棲艦はコンゴウを始めとする艦戦を強き仲間、として認識しそれぞれの旗艦としている。まさしく自然界における群れである。

 だが旗艦同士が距離を置かず近くに存在することを厭うような行動をとっている個体もあった。

 それは命令系統が混乱するからではないか、とヒュウガはコンゴウとハルナに幾つかのパタンを試してもらいながら理論立て予想していた。

 旗艦が群れの長なのである。群れと群れが近すぎるとそれぞれの命令がこんがらがり、上手く伝わらないのであろう、というのが見立てだ。

 

 はっきり言って霧はこの世界に在ってはならぬものであった。

 なぜ今あるのか、全く分からない。分からないがそれでも、この世界が霧を異物として認識しているとは想像出来る。

 アドミラリティ・コードは存在しない。が、それに近いもの、似て非なるものがあるのであろう。

 

 「世界にある理(ことわり)に背いて無理矢理私たちが動くより、理の内側にある存在の方が事を成しやすいのではないかとの判断から、艦娘たちに動いてもらうことになったの。お分かり、タカオ?」

 

 それでもタカオには納得いかなかった。

 以前イオナにナノマテリアルを渡したのは艦長の危機であったからだ。相思相愛振りを見せ付けられ、傷心していたのは認める。

 だがこの世界には群像が居ない。

 願われたとしてもどうしても合意出来なかった。

 

 「タカオは群像に、会いたくない? 私は早く群像の元に帰りたい」

 「っ!」

 

 長い間、黙っていたイオナが口を開き、首をかしげる。

 タカオとて艦長の元に戻りたかった。

 なぜこんな場所に居るのだろう。居なければならないのだろう。

 負の思考が答えの出ない演算を繰り返す。

 

 「悪いね。ちょっと口を挟ませてもらっていいかな」

 

 この泊地の長である男が笑みながら周囲を見回す。

 「俺の予想としては、霧の艦隊が最深部に集まれば何か、変化が起こると考えているんだ」

 男が前置きとしてそう言い、続ける。

 

 そもそも霧の艦隊はこの世界に在らざるものである。それがどういう理由でか、世界線を跨いでこちら側に来てしまった。

 霧の艦隊が出てきたゲートは今も開き続けている。三箇所同時に開いたうちひとつは既に消滅し、もうひとつも収縮傾向にあるという。最深部に在るのは最も大きくかつ今なお深海棲艦を吐き出し続けているのである。

 とある説では世界とは多重螺旋構造になっており、鏡に映るこちらとあちら、両方に鏡という境界線を置いて似たような領域があるともされている。

 また境界線を引いて横同士にある世界は、その世界を存続させるために異物を排除するという自浄作用がある、とも考えられていた。

 実際的にそれが本当か嘘か、区別をつけることは難しい。

 だが。

 

 「可能性は大いにあると考えている。霧の艦、ひとつひとつでは単色だとしても、重なりあうと黒になる」

 

 深海棲艦が霧の艦隊を個別に引き離そうとしている理由について考えたとき、指揮系統が混乱する、というだけでは弱かった。

 なぜならば今現在、ショートランドが確認出来ている最も大きな群れとしての数は百前後である。姫と鬼が複数在ったとしても、混乱する素振りを見せたことがない。小隊の数は最大で六という艦娘の安全数と同じである。中隊はその小隊が五つほどまとまった数だ。そして大隊は中隊を三つから四つの塊から成っている。

 男もまさに今、知ったばかりであったが、霧の艦隊たちには鎖が掛けられているという。重巡までであれば拘束を付けられてはいないようだが、戦艦にはこれでもか、といわんばかりにがちがちに固められている。砲撃等は出来るだろうが、移動する際に何かに引っ張られているような気がした、と。

 

 脳内で幾つかの状況を思考する。

 深海棲艦が距離を置いたのも、はやりこれが原因ではないか、そう思るひとつを突き詰めてゆく。

 

 出没したゲートに霧の艦隊が引っ張られているのはなぜか。そもそもゲートが固定化するのは珍しい現象である。

 いつもはある一定数を吐き出せば、役目を終えたとばかりに消失するもの、である。それなのになぜ在り続けているのか。

 この世界が霧の艦隊を不必要な異物と認識したのであれば、取り除こうとする作用が働くと考えられる。しかも霧の艦隊はたった一隻であっても強力な破壊兵器だ。それが大量に押し寄せて来たのである。

 世界もさぞびっくりしているに違いない。開き続けているのは霧を排除するためであり、ひとつ残らず外に放り出すまではこのまま継続するだろう。

 深海棲艦には基本、思考能力を持っていないとされていた。持っていたとしても鬼や姫に限られる。だが思考能力が無くとも本能は備えていた。

 生き物は死を厭う。深海棲艦も沈む際、断末魔を上げるという。それは鉄板が水圧によって軋み立てる音に似ていると聞いていた。

 

 深海棲艦は霧の艦隊という己より数十倍も力を有する存在を見つけた。

 旗艦にすれば己たちが壊れる確率も低くなるであろう。だがゲートが、深海棲艦を吐き出すために開くゲートが霧の艦隊を奪おうとする。

 由々しき事態である。

 安全安心を確保出来たというのに、奪われては忌々しい艦娘という存在に滅せられてしまうだろう。

 ゲートから引き離せ、そして強きものの側から離れるな。

 

 というやり取りがもしあったとしたならば、深海棲艦は霧の艦隊をばらばらにするであろうな、と男は考えたのである。

 そして今だ開き続けているゲートを守らせているのだとすれば、全てに納得がいく。例え姫や鬼がそれだけ殺されようと、幾らでも湧いて出るゲートがそこにあり続けるのである。人間側にとっては冗談ではない事態だが、深海棲艦にしてみれば地球に住まう先住民、人間を根絶やしにすることが目的だ。味方が次々と現れるのならば、反旗の狼煙を上げている拠点に特攻してもなんら問題はない。後から続く同種がさらに追い討ちをかけるだろう。

 

 (まるで磁石だな)

 

 イオナとヒュウガの話を聞き、霧の艦隊とゲートは磁石のN極とS極のようだと思ったのだ。

 どんなに強力な磁石でも複数個に砕いてしまい、距離を置いたならば引かれる力も弱くなるであろう。

 だが寄せ集め、一箇所に積めば砕く前とほぼ同じ状態となる。

 

 「もし、……起こらなければ?」

 「別の方法を考えるしかない。因果は一揃えだが、間違えてはならないのは現在の『目的』だよ。こちら側に来てしまった原因を探るのではない。君達は戻らなければならないからね。そのための方法が欲しいんだ」

 

 

 タカオは腕を組み思考する。

 男の言に嘘はないであろう。嘘をつく利得がないからだ。イオナやヒュウガの会話記録を見ても、霧が現れたことにより、男に多くの負担が圧し掛かっているようであった。損得で判断するなら損であろう。

 タカオと提督は出会ったばかりである。まだ信頼できる相手とは思えない。だが男が霧を利用しようとしているようにも見えなかった。

 聞けば深海棲艦は人間よりも強い存在だ。それを駆逐するために人間がまず行なうのは、霧の取り込みだろう。出来なければ破壊、という浅はかな思考を選ぶ。使えなければ殺してしまえ、放置しておけばなにをしでかすか分からない、という理由でだ。

 だが目の前に居る男は、少なくともバカな部類ではないようである。霧を受け入れているのは合同で当たるほうが物事が滑らかに進行するからと割り切っている。

 どちらかと言えば元の場所に帰りたいと願うイオナ始めヒュウガに協力的であった。

 男が言う、もしもが起きない場合もあった。だが全くおきないと断じるのもまた早急だ。

 

 ハルナとキリシマとの合流後、なぜか本来の姿に戻ることが出来たキリシマから、タカオ分のナノマテリアルを補填するつもりである。

 そう聞いたことが決断の後押しになった。

 男の言うとおりである。どうしてこうなった、と原因を洗うより、まずは帰る算段をつけるべきであった。

 全てを否定するより、万にひとつの可能性でも試してみるべきだと考えを変えたのだ。イオナの言うとおり、早く艦長に会いたかった。二度と会えないとは考えたくはない。

 

 タカオはメンタルモデルを維持出来るだけのナノマテリアルを保持し、三分の二をイオナへ譲渡、残りを艦娘たちが使う兵器への強化へと充てた。これでイオナやタカオでなくとも、子供のような駆逐艦の娘たちでさえ、弾を充当てることが出来たなら霧に損害を与えられるだろう。ナガラにとっては厄介な飛び火だ。

 

 アルス・ノヴァモードとなったイオナは前回と同様、タカオからの兵器を全て引き継いでいた。

 男は再度、タカオへと礼を伝える。

 

 「勘違いしないで。私は私に出来る最善の行動をしているまでよ!」

 

 ふい、と青の髪を揺らし背を向けたタカオの頬は真っ赤に染まっていた。

 「……けれど、感謝の意は、貰っておいてあげるわ」

 

 

△▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 

 第二海域へと出る艦隊は武蔵を旗艦とし編成された。ただし嚮導艦はイオナである。

 ハルナとキリシマからの情報によれば、深海棲艦はナガラを旗艦に据え海域に広がっているという。

 ゲートは消失していたが吐き出された数が洒落にならなかった。数は両者が把握しているだけで六十である。そこにナガラ型が五とキリシマとハルナが居る。

 はっきり言って一艦隊だけで捌ききれる数では無かった。男は夜戦を主軸に討伐隊を編成した。イオナに運んでもらう総数は合計十七名、三艦隊である。

 主軸となり最深部へと突入する艦隊が第一とし、第二と第三は第一艦隊を挟むように進撃するローラー作戦だ。

 

 昼食時、食堂に張り出された召喚に多くの駆逐艦たちが己の名を探した。

 歓喜と落胆が入り混じる。

 選考の基準として先日行なわれた、動く的当て実弾ゲームで高得点を取った幾人かが選抜されていた。

 その他の備考としては、ラバウルから脱出して来、今回の作戦に志願した駆逐艦も含まれている。

 

 今回、駆逐艦たちは戦艦の護衛だけが任務ではない。むしろ護衛は二の次であろう。

 この作戦では駆逐艦たちこそが花形であった。

 男は泊地に赴任した最中に起こっていたアイアンボトムサウンドにおいて、多くの提督が戦いに挑んでいた昼間ではなく、夜間に船を進めた。

 その戦法を再度使おうとしているのだ。闇夜に乗じて敵を討つ。なんとも忍者っぽくてよいのだという理由である。

 

 しかも今回は特に短期決戦とし、今年が終わるまでに決着をつけようとしていた。

 正月などあってないようなものだが、提督である男はこの件を早々に終わらせようとしていた。

 

 出発はイチゴーマルマルである。

 名が挙げられている艦娘たちが慌しく昼食を食べ、艤装の点検のために工廠へと走っていた。

 整備を担当する工員も早々に食堂から立ち、技術を振るう現場に入る。

 泊地から少しばかり離れた沖合いでは、ヒュウガが潜水艦たちによる歓迎を受けながら、出立に際しての念入りな調整を行なっていた。

 

 作戦本部では三艦隊の旗艦が集まり、作戦の目的と概要が説明される。

 装備の点検を終えた駆逐艦たちも集い始め、部屋の内外は人口密度も相まって熱気に蒸れていた。

 冷やされた麦茶を喉に通しながら、航路の照会を行なう。

 

 誰もがこの作戦の難解さに息を呑む。誰もがこの作戦の進行速度に目を丸くした。

 短期決戦に持ち込みたい理由は分かる。だが余りにも時間設定がタイト過ぎた。今までに無く艦娘たちを酷使する内容であったからだ。気でも触れたか、と思わんばかりの時間構成であった。

 なぜなら翌日、二十九日の1400には次の作戦が実行されると発言を聞いたからだ。休憩などあってないようなものである。

 だがラバウル基地を落されているのだ。海路の要所といえるトラックがその北にあった。本土からショートランドに物資を運ぶ際、必ず通る場所である。この基地の生命線と言ってもいい。焦ったとしても当然か。

 相次ぐ出撃のため最も疲労しているであろうイオナに視線が集まるが、間宮特製の甘味を食べ続けているからであろうか。全く疲れているようには見えなかった。堂々とした様である。

 それよりも集まっている艦娘の数名が落ち着かない様子で視線をあちこちに彷徨わせていた。

 

 第一艦隊の主任務は第二海域Bにある本隊を叩くことだ。

 場所の特定は既に出来ており、その海図が透明なプラスチックスボードを使用した戦況表示板に描かれ置かれている。配置されている深海棲艦が赤のマーカーで真っ赤に染まっていた。

 中央突破航路が最も色の濃い地域だ。その次が南方航路、最も数が少ないのが北方航路である。

 南方は第三艦隊の駒が置かれ、北方は第二艦隊の持ち場とされていた。

 

 それぞれの艦隊を任された旗艦が座標を頭に叩き込んでいる。攻撃を主に行なうのは駆逐と軽巡、雷巡の艦娘たちだ。

 通常、深海棲艦に対する主力として扱われるのは戦艦や空母である。薄っぺらい押せば音が鳴るような駆逐艦のそれとはちがい、戦艦の装甲は厚く頼もしい。敵の砲弾が一発や二発直撃したとしても、砲塔は鳴り止まず撃って来た存在を屠ってゆく。空母と並び、戦艦はどの鎮守府でも欠かせない主役であった。

 変わって駆逐組の仕事は主に護衛や哨戒、偵察や輸送任務がほとんどだ。戦闘海域に共に向かい、戦艦が砲撃時、敵の潜水艦や軽巡、重巡が近づいて来ぬよう牽制することも重要な仕事ではある。だがどうしても見劣りするのである。水雷戦の要ははやり軽巡だろう。戦艦には劣るが装甲もある程度固く、砲撃も雷撃もそつなくこなす。駆逐組は数で勝負とも取られる露払い要員であり使い捨てが基本だと腐る艦娘も確かに居た。

 

 「わ、私が主力、ですか?」

 「そうよ。暁たちの出番なのよ!」

 

 第二艦隊に含まれている吹雪が胸を押さえる。吹雪はラバウルから逃れてきたひとりだ。ただ言われるがままに逃げてきた。

 だから何かがしたかった。駆逐艦として冷遇されてはいたが、基地は家であった。多くの戦友たちと笑い、泣き、別れてきた大切な場所であった。それを奪われたのである。一矢報いたかった。

 胸を張り自信満々に笑む暁が吹雪の手をとる。

 

 「へっちゃらよ! 暗い海は最初こそ怖いけれど、だからこそ小回りが利く私たちの実力が発揮されるんだから」

 

 渡された装備もラバウルでは持ったことの無い61cm五連装(酸素)魚雷が渡されていた。12.7cm連装砲もそうだ。訓練時には12cm単装砲が主であり、その他任務時にも良い武器を手渡されたのは数えられるほどであった。

 駆逐艦が冷遇されていたわけではない。良い装備を持った、決戦地に送り出された多くの仲間が戻らなかっただけだ。

 

 間宮手製の握り飯がイオナの中に運び込まれる。

 梅と昆布がひとつずつと、特製卵焼き、そしてタコウインナーとブロッコリーの詰め合わせだ。

 その他甘味も数種類と緑茶、玄米茶が積み入れられた。

 

 ショートランド泊地の出撃は、ピクニックのようである。悲しみの会話は無い。吹雪は高速潜水艦イオナの船内に入り、両手を握り締めた。

 

 ヒトゴーマルマル。

 泊地から伊401が出航する。

 船内では艦隊ごとに固まり、作戦内容の再熟読が成されている。最も真面目に打ち合わせをしているのは旗艦を扶桑が務める山城姉妹が率いる第三である。他の艦隊が不真面目、であるわけではない。第一は打ち合わせを早々と終えていたが、作戦内容がまっすぐ突き進めという簡単な指示であったからに他ならない。第二は要点を押さえた説明で、とんとん拍子に終わってしまったのである。伊勢や日向に言わせれば、扶桑、山城姉妹はおっとりしすぎなのだ。説明も丁寧で分かりやすいが、如何せん時間が掛かる。

 今回、彼女達の艦隊にはひとりを除いておっとりとした少女達で固められている。ただ戦いともなれば、性格が激変する幾人も居たがそれはまた、別の話だ。編成したのは提督である。考えて配置したのであろう。

 

 「余り気を詰めぬようにな、扶桑」

 「ええ、ありがとう、日向。気にかけてくれてありがとう」

 

 言葉が交わり、離れてゆく。

 既に第二艦隊の艦娘たちは弁当を取りに行っている。第一艦隊の娘らは既に食べ始めているようだ。

 (慎重にならざるを得ないのは、重々分かっていが)

 日向は和気藹々とした雰囲気の中、続いている打ち合わせの輪に振り向いた。

 彼女達の行う入念なそれは一度でこの作戦を成功させ、その勝利を持ち帰るために必要なものであった。

 聞こえてくる言葉に悲壮感や後退感は無い。出来るかしら、ではなく、こうしましょう、と聞こえてきた。日向は薄く笑む。

 

 両姉妹は変わった。自己評価が低く、何をやっても失敗ばかり、自分達には価値が無いのだと後ろ向きであることを止めてから、彼女たちはいい風に変わった。

 変えたのは提督である。何が起こったのか、今でも分かってはいない。だが日向はそれを探るつもりは無かった。

 黒の姉妹は良く笑うようになってた。ずっとこうでなければならない、こうあるべきだと己たちを型にはめようと頑張っていたのだ。

 が、ある日突然、変化した。全てが同一でなくとも良いと分かったからだ、と、今まで心配を掛け続けていたことを謝罪されたのだ。

 現提督が着任する以前に目を覚ましていた日向と扶桑である。付き合いもなかなかに長いほうであった。だからこそ、変化が嬉しかったのだ。

 伊勢、日向も彼女達と同じ航空戦艦であるが、得意とする分野が違っていた。それが当たり前なのである。それぞれが違っていて普通、であるのだ。

 とはいえ頭痛の種はまだいくつも残っている。前提督が蒔くだけ蒔き、放置していった芽がすくすくと育ってきていた。

 (……いや、今はまだいい。提督ならばなんとかしてくれるだろう。兎も角、今夜の作戦だ、切り替えねばな)

 

 日向は幾つかある、気をつけておいたほうが良いことを脳内で挙げてゆく。

 片付いていない問題もあるが焦る必要は無く、ゆくゆくでよい。最優先課題は既に伊勢に任せたのだ。上手く誘導してくれるだろう。

 (……もう一度航路の確認だけはしておかないと)

 記憶力には自信があったが、大丈夫であろう高をくくるのは良くない。提督の口癖どおり、慢心良くない絶対ダメ、なのである。

 第二と第三は中央に集まっている深海棲艦を左右におびき寄せる役目を帯びている。真ん中にあるものが二手に分かれれば、中央が手薄になるだろう。全く戦闘がなくなるか、と言われると否、だろうが随分と楽になるのもまた確かであろう。

 海域をかき回す。

 進軍する第一に深海棲艦が群がらないよう、左右が呼び集めながら戦うのである。

 

 

 作戦海域までは約六時間の行程だ。第二海域BはAの奥にある。だがタカオとの融合によりイオナの潜航速度が格段に上がっていた。そして前回見つけた海流に乗れば一気に距離を稼ぐことが出来る。

 吹雪は居心地の悪さを感じていた。基地が変われば雰囲気が変わると聞いてはいたものの、ここまで違うとは思っていなかったのだ。

 ラバウル基地の司令官は生粋の軍人であった。国防軍で多くの経験を積んだ50代のキャリア組である。

 彼は艦娘に対し、付かず離れずの立場にいた。お気に入りの艦娘も居たが、それはごく一部である。

 彼は有能であった。だからこそどんな命令も冷静沈着に艦娘へと伝えていた。性格は硬性であり悍威(かんい)だ。だからこそ被害に対し冷徹に事の推移を見通し、艦娘を兵器として運用していた。

 損害と戦果を冷静に計り、指示を出していた司令官をラバウルの駆逐艦たちは気難しい人だと、そう評していた。出来れば会いたくはない上官に分類されていた。

 だが吹雪にとっては、着任したての彼を知っている吹雪にとっては、責任感が強く使命に燃えた、あの日の面影がちらつくのである。一体どこで道を違えてしまったのか。

 

 変わってショートランドの提督は気安い人物であった。

 泊地には南国特有の緩さが見て取れた。それはラバウル基地があった島内の村々と同じ雰囲気である。最低限の規律は守られていた。出会えば敬礼する挨拶などだ。しかし言葉遣いは上官に使うに適さない数々が放たれていた。であるのに、提督は全く意に介さず通り過ぎた。吹雪にとっては衝撃的であった。

 ラバウル提督に敬語を使わず話しかければそれだけで処罰室行きである。

 (ああ、だからこの泊地のみんなは……)

 吹雪は肩に入れていた力がすっと抜け、脱力気味になって思った。本土から送られてきた資料にあるような、思わず目を見張るなる戦果を叩き出せているのだろう。

 (……羨ましくなんてない、って思ったら嘘になっちゃうな)

 

 隔たりが無かった。

 ラバウル基地は、きっちりと別たれていた。仕事をする場所と、そうでない場所が。

 だがショートランドはどこに行っても賑やかしい。艦娘たちがのびのびと生活している空間がどこまでも続いていた。

 堅苦しくはない。

 ラバウルでは軍に、国を支える軍に属しているのだ。如何に女子供であろうとも規律は守らねばならない。

 そう言われ続けていた。

 

 思い返すことが何もかも違う。今までの常識が崩れてしまった。

 吹雪は知ってしまった。もうあの場所には戻れないだろう。

 

 艦娘は人間ではない。戦艦の魂を持つ、人の形を模したなにかである。

 突き詰め考えればなぜか眠くなったり、急に体が震えるなどの症状が発症した。

 自分が一体何者であるか。吹雪は知りたかった。だが知れば壊れてしまうだろう事を本能で理解していた。

 守れなかったものを守るために。提督の言うとおりしていれば、何も間違いは無いのだと。守ることこそが正義である。考えなくとも良いように、己に責任を課した。

 

 吹雪が居たラバウルでは艦が捨てられていた。

 そのまま、文字通りの行為だ。

 その日、誰が生きて誰が死ぬか、選択を行なうのはラバウル提督であった。

 吹雪は捨てられた多くを見てきた。

 長く生きていればそれなりに錬度も上がってゆく。最初は曖昧であった最期の刻をも思い出せるまでになっていた。

 艦娘は当初、己の名と使命だけを強く意識して目覚める。

 一体ここがどこであるのかを気にする娘はほとんどいない。

 ここが戦地なのだと、かつてあった戦争に似た状態にあるのだと知り、そして選択する。

 

 戦うか、戦わぬか。

 

 多くは前者を選ぶ。なぜなら志半ばで沈んだからだ。

 守るために戦い無念の中で沈んだ多くが考えるのが、『やりなおせるだろうか』という一点である。

 無論後方支援を願う艦娘も居た。

 

 海に出るのは良いが、いざ敵と出会うと竦んでしまうのだ。

 かつての記憶に雁字搦めにされ、緩和する術も分からないまま引きずられ発狂する。

 

 ラバウルでも居た。

 ショートランドにも居るという。

 

 ラバウルではそういう艦娘は例外無く物資を輸送する任務に専属させられた。

 そして物資を運び続ける。

 休みなど無い。戦場に出る艦娘に関しては帰港後十二時間の自由時間を与えられるが、輸送任務に就く艦娘たちはひとつが終わればまた次と、休む暇を与えられず海に出されていた。

 しかし誰も文句は言わなかった。

 なぜなら自ら否定したからだ。艦船の魂を持っているのに、戦いを放棄した。

 ならば戦い続ける選択をした仲間の礎になるのだと、寝る間も惜しんで海に出続けていた。

 

 そしてある日倒れるのだ。

 食も満足に喉を通らず、少し疲れたと瞼を閉じその鼓動を止める。

 そうなった艦娘は工廠に運ばれ、二度と同じ存在に出会うことは無かった。

 同じ名であったとしても、最低限の記憶を持った無垢な魂の転成なのだ。

 

 かたかたと体が震える。

 頑張ろう、また明日ね。

 そう会話していたとしても、だ。

 例え同じ姿をした、同じ名前の艦娘だとしても、言葉を交し合ったかつての彼女ではなかった。

 解体され、再度組み上げられる。艦娘は代えが利く道具だ。

 

 (わかって、いるわ)

 

 人間に近い体を持ったとしても、艦娘は艦船の延長上にある人間が作り上げた道具だ。

 しかし割り切れない想いを持ってしまった今、そう思うことが苦しくて仕方が無かった。

 

 (誰もが心を殺していた)

 

 生きるために。生きたいと願ってしまったが故に。

 やり直す時間を与えられたが故に。

 だから勝手に決めていた。この気持ちは誰にも伝えてはいない。ラバウル基地では伝えられなかった。

 貴方達の犠牲は無駄にしない。課せられた使命を果たし、守ると。

 

 提督も、艦娘も消耗され続ける日々をただ無感情に受け入れていた。

 吹雪もそうだ。

 心が磨耗していた数日前には考えなかったことを、今、考えていた。

 

 (私たちは、一体なんなの? 何のために戦ってるの? こんなことなら、いっそ……)

 「私たちは何の為に戦っているのだろうね」

 

 吹雪は唇を抑えていた両手を上に上げ、思わず万歳の体勢になった。叫ばなかった己を内心で褒める。

 そして掛けられた声と自分の心が同じ意味を指していると数秒後に認識し、振り向く。そうすれば伊勢が立っていた。

 体を覆う大きな艤装をつけたまま、どっしりと重量感をもってそこに居た。

 駆逐艦にとって戦艦は手の届かぬ遠い、はるか階上に立つものたちだ。思わず体を硬直させる。

 

 「目覚めた幸運に感謝し朽ち果てるまで戦うべきか。それとも覚めぬ夢を見続けたほうが良かったのか。って日向も眉を寄せて、しかめっ面しながら言っているわ」

 

 航空戦艦、伊勢。

 彼女は吹雪が配置された第二艦隊の旗艦であった。

 ちょっとお話しましょうか、と差し出された手に引かれるまま小さなミーティングルームへと案内された。

 出されたのは紙コップに入った甘い珈琲だ。ミルクもたっぷりと入っているそれに口をつけ、頬を緩ませる。

 ラバウルでは珈琲だけは、誰もが自由に飲める飲料として置かれていた。提督が大の珈琲好きで島に住む人々から、安くは無い金額で買い上げていたのである。

 誰であってもいつでも、珈琲くらいは飲めるように。ラバウルでは至るところに珈琲豆が置かれていた。

 基地の珈琲とくらべ、今飲んでいるそれはほんの少し酸味が強かった。

 

 「実は貴方に伝言を預かっているの」

 

 伊勢は言葉を選ぶ。その視線は真っ直ぐ吹雪に向く。

 日向からも注意して見ておいて欲しい、と頼まれてもいた。ラバウルからの志願者の精神が揺れている可能性がある、と。

 それはそうであろう。聞きかじった情報だけである。が、その惨状は悲惨の一言であったからだ。

 ショートランドがそうならぬ、とも限らない。明日はわが身である。

 

 「帰りを待っている、だから絶対に戻ってきて」

 

 睦月からの言葉であった。

 ラバウルから共に逃げてきた駆逐艦の仲間だ。

 吹雪は真面目すぎるのだと、いつも眉に人差し指で皺を作りながら笑っていた。

 彼女は体中に傷を負い、療養室にいる。バケツを使ってもらい傷は癒えた。だが負った傷の痛みがぶり返すのである。幻痛を多くが患っていた。吹雪は運よく外傷を、ほとんど負わずにショートランドにたどり着くことが出来ていた。

 ラバウル代表として動くことが出来るのは、吹雪とそして神通のふたりだけだった。

 神通は泊地に残り仲間たちの看護助手と、ベットの上からは言い出しにくい意見をショートランドの提督へと伝える役に付き、吹雪が戦闘に出ることとなった。

 自慢ではないが吹雪は的への命中確率が高い。一航戦たちのように航空機を飛ばすことは出来ないが、その練習、弓道の弓と矢に何度も触れさせて貰え引く機会があったのだ。精神統一後に放つ一矢が的の中心に当たれば無性に嬉しかった。空母たちも練習を止めなかった。何かに没頭することは、努力を積み重ねることは、どんなことであっても無駄にはならないと知っていたからであろう。

 

 吹雪は笑む。

 そして礼を伝えた。海の上で沈んでもよい、そう考えていた思考を捨てたのだ。

 友が帰ってくるのを待っているという。ならば戻らねばならない。

 

 「我らが第二艦隊、そうやすやすとやられはしないけどね」

 

 吹雪は席を立った伊勢の背についてゆく。その手には温くなった紙コップが握られていた。

 

 

 △▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 フタマルゴーゴー。

 予定よりも五分早く第二海域の入り口に到着した。位置的にはラバウル基地の北西だ。

 空を見上げれば薄雲が広がっているものの、幾億もの輝きが視線の先を埋め尽くしていた。光が密集しているのは天の川である。

 誰もがゆっくりと、だが確実に海面へと下りてゆく。

 

 ここからは部隊ごとの作戦行動となる。手のひらを合わせあう者、視線を交わし笑み合う者と様々だ。

 だが艦娘たちは心を引き締める。

 深海棲艦は学習する、という。提督が言っていたのだから間違いないであろう。

 いつも艦娘たちが六隻編成で海に出るには理由がある。

 なぜであるのかは解明されてはいない。が、深海棲艦は六隻以上の艦娘が集っていると、正確にその位置を把握できる能力を持っているらしい、のだ。

 根拠としては大湊へのタンカー輸送任務である。かつて男が大湊に行きたいと願う娘等と遠征任務に就く六人をまとめて送り出したことがあった。

 その際、いつもは小規模な戦闘、駆逐級及びどんなに強くとも雷巡との遭遇が五回程度であるのに、十人まとめての時は敵側に空母や重巡、戦艦が紛れていたのだ。しかも遭遇回数は十二回を数えている。

 仮説を立て大湊の指令へとそれとなく尋ねてみたところ、「そんな基本的なことをなぜ知らぬ」と一喝された。

 理屈はわからない。だが現状、そうなっている。

 出撃する艦娘が規定の六隻にプラス一されるだけでも群がってきた。その様は餌を見つけた魚のように、と表現するほうが適切か。

 深海棲艦に見つからず航行できる、最大の数が六という数字であるのだ。

 

 だが今現在、この出発点には十七人の艦娘たちが居る。

 当然、深海棲艦に存在がばれているだろう。だが今回はそうでなければならなかった。

 

 不可能ではない。しかし非常に困難な作戦である。

 三艦隊は規定数に分かれて3つの航路を突き進む。

 北と中央、そして南ルートだ。

 事前に航路が割れているのは、イオナ他アルペジオ勢の存在が大きい。

 海底地図を手に入れられたのだ。深海棲艦も生物である。少なくとも機械ではなかった。

 生き物であるからこそ嫌う場所と好む場所の差があった。男が着目したのは旗艦をしている最上位個体だ。

 深海棲艦を生き物であると仮定するならば、犬や猫、そして人間のように性格もあるだろう。ショートランド泊地では出来るだけ多くの遭遇地点を解析し人類の敵、深海棲艦の出現地点、回遊地点を海底地図と照らし合わせれば、どこに集まりやすいかの予想が立てられるようになっていた。

 

 深海棲艦は海流ゆるやかな深みを好む傾向がある。

 戦艦級は海底に居り、海上の偵察を行なうために浮上してくる個体は駆逐級や潜水級が多い。

 だがひとたび戦闘が始まると、戦艦級や空母級が一気に海面へと上がってくる。戦闘があった地点ではない。艦娘が進むであろう方向に、もしくはその後方に出る。進行方向に出る場合はその先に海域を支配している姫が居る場合や、艦娘に全くの損害が出ていない場合だ。そして後方であるのは、手負いになった艦娘が撤退するだろう航路に出る。

 

 艦娘たちが頷きあった。

 第二、第三艦隊が北と南に分かれ進み出す。

 

 提督からも言われている。

 最も被害が大きく、重くなるのは、第二と第三であると。

 言葉にごまかしは無かった。

 

 だから艦娘たちは打ち合わせた通りに航路を進む。

 そして時間通りに零式水上観察機を飛ばし、吊光弾(ちょうこうだん)を撃つ。

 光で釣るのだ。

 中央に多く集まってるという深海棲艦を呼び寄せる。

 

 この作戦内容を文面だけで見た場合、無謀であり無駄だと誰もが思うであろう。また錬殿高い戦艦を惜しげもなく捨て駒に出来るのは、さすが最前線である。そう皮肉られた言葉を掛けられるであろう。

 表面上だけを取れば確かにそうだ。

 しかし彼女たちは分かっていた。ショートランドを背負って立つ筆頭は不沈提督である。

 『私たちの提督が、意味の無い命令を出すわけがない』のだ。

 穿たれている穴は小さく、まさに糸を針に通すような日程と作戦である。傍目には自棄になったとも捉えられるであろう。

 艦娘たちは一寸延びればば尋延びると信じ海原へ出る。最初から無理である、そう思いながら事に当たっても良い結果など出ない。やる気だけで何事も解決するわけではないという反論もあるだろうが、行動を起さねば因果すら起きないのである。もし失敗したとしても、後に続くだろう仲間達が先陣を切った彼女らの屍を乗り越え、事を継ぎ成し遂げてくれる。そう信じているからこそ胸を張って沈めるのだ。

 

 暗闇に慣れていた目が突然の光に痛んだ。

 待ち構えていた敵の姿を、打ち出された光が煌々と照らしている。

 

 第三艦隊の旗艦を務めていたのは山城であった。姉、扶桑は零式水上観察機を操り、光が途切れぬよう撃ち続けている。

 数にして二十余り、その多くは雷巡であった。相手として不足はない。

 だが今夜、山城の役目は攻撃ではなかった。

 後ろに控える、駆逐と軽巡たちの盾になることだ。

 

 山城はなぜだか今日はいつもより艤装が軽いような気がしていた。

 久々に加わる大きな海戦で心が高揚しているからであろうか。それとも艤装をナノマテリアルという物質で上塗りしたからなのであろうか。

 陣形は単横とした。

 深海棲艦の先鋒が縦二列で向かってきている。その後ろには空母と戦艦が禍々しい赤と黄色の眼光をこちらに向けていた。

 反跳爆撃を警戒する。提督からの言で、低確率ではあるが夜間でも敵航空機が飛んでくる可能性がある、と聞いていたからだ。

 深海棲艦には強さの階級がある。艦娘たちは一様に、normal(ノーマル)であるが、深海棲艦には同種でもelite(エリート)、flagship(フラグシップ)と三段階に分かれていた。その強さはnormal(ノーマル)が1とするなら、elite(エリート)は5、flagship(フラグシップ)は10と洒落にならない格差である。

 

 今でこそflagship(フラグシップ)と対峙出来るようになった山城だが、初めて出会ったときは恐怖を感じたものである。

 関わってはいけない。逃げるべきだと、本能が警鐘を鳴らしたくらいだ。

 ……反跳爆撃は、来ない。

 

 山城は攻撃の指示を出す。

 T字戦であった。自陣が有利だ。

 時雨がいの一番に砲撃を開始する。それに続き、白露が人差し指を伸ばして、その先へと砲弾を撃ち込んだ。

 集められた駆逐と軽巡は皆、狙撃の名手たちである。三発中二発命中させ、敵の数を確実に減らしていた。

 天龍と龍田は剣と槍を手に、砲撃をかいくぐり接してきた固体を各個撃破している。駆逐ふたりが弾を装てんしている間、砲撃を行なうのが山城であった。

 ふたりを背に庇い時を稼ぐ。そして準備を終えたなら、ふたりは山城の背から飛び出し、砲撃戦へと戻ってゆくのだ。

 

 山城は姉を見た。

 水上を滑るように移動しながら、吊光弾を打ち出す艦載機を操り続けている。

 航空戦艦とはいえ、長時間航空機を空に旋回させ続けるのは多大な精神負担が掛かった。妖精さんが主に操縦桿を握っているものの、夜間飛行という未経験の事態に緊張しているのである。それを助けているのが扶桑の精神であった。大丈夫、私が支えているのです。怖がらないで。と、妖精さんを励ましながら光を放ち続けているのだ。

 妹の視線にふと気づいた扶桑が柔らかな笑みを返す。心配するな、と目が語っていた。山城は素直に瞼を伏せる。そして開き見据えたのは赤の光が並ぶ新たな群れであった。

 

 扶桑は心配性の妹に小さな笑みを漏らす。妹の心を無碍にしているわけではない。ただ嬉しかっただけだ。

 伝えたい言葉の意味が、想いが曲がらず伝わる。かつての妹を卑屈にしてしまっていたのは、姉である己であった。

 喪った当初は考えられなかった。二度と妹を持つ気も無かったのだ。だがこうして姉妹揃って戦場に立てる喜びが扶桑の中を駆け巡っていた。

 

 失った妹の夢を今でも見る。だからこそ今の妹に過去を踏襲させてはいけないと思ったのである。

 姿形、その言葉遣いまでもが同じであるからこそ、より愛おしい。

 史実で姉妹はほとんど実戦配備されなかった。ドックの大御所といわれ続けていたくらいだ。

 そもそも設計段階から不都合がありとあらゆる箇所でふんだんに盛り込まれていた事が原因である。二番艦である山城に至っては基本設計の無茶振りを見なかったことにし、放置されたままでの竣工となっている。原因は分かっていた。艦橋である。船の形から人に近くなることで不具合がなんとか解消され、やっと人並みの生活を送れていた。

 とはいっても何も無いところで転ぶのは当たり前で、二日に一度くらいの頻度で空から鳥の糞が落ちてくる。だがこれは日向曰く、これはお前がぼーっとしすぎなのが悪いらしい。

 ただ日ごろの行いが良いお陰で砲弾が誤って空から降ってくる不幸は。今のところ体験してはいない。

 

 「扶桑の元へは、行かせない」

 「分かってる! 右舷任せるね!」

 

 駆逐のふたりの声が龍田の耳に届く。撃ち落とす以上の敵が次から次へと湧いてきていた。

 初見の二十はとうに沈めている。最大六十との説明であったが、それ以上であるように天龍と龍田は感じていた。

 次から次へと収まることを知らない。

 吊光弾を撃ち続ける戦艦の存在に気が付き、幾ら捌いても標的となっている扶桑の方へと固まっていく。

 疲労が蓄積されていた。息が荒く肩が揺れる。衣服の汚れを気にしている暇などありはしない。

 切れた傷口から赤が垂れ流しになっていた。これが夜でよかったと龍田は思う。

 

 「天龍ちゃん、無理してなぁい?」

 

 自身に余裕をもたせるべく、わざとゆっくり言葉を放つ。

 

 持ってきている砲弾の残量は足りるであろうか。

 初戦からして最終決戦並みの敵が青白い、幽霊のような光を纏いこちらにもどっておいで、と囁いてくるかのようだ。

 実際には艦娘と深海棲艦は違う生き物である。

 なぜなら艦娘たちは古い記憶を持っているからだ。船として在った愛すべき人間を知っている。

 

 「ああ! まだまだやれるさ!」

 

 届いた声に天龍は叫び返す。

 手元がぬらりとした液体に濡れていた。海水ではない。もっと濃く煮詰めたようなものだ。

 鼻腔をくすぐる硝煙の臭いに天龍はぞくりと身を震わせた。

 北にあるはずの光が消えていたからだ。いつなのか。わからない。

 北の航路は伊勢と日向、そして木曽、川内、暁と吹雪が居る。

 

 まさか、負けたのか?

 思いたくない言葉が脳裏をかすめる。戦いに絶対はない。どんなに用意周到と準備して臨んだとしても、負けるときがあるのだ。

 光が燦然と輝く下は同じような状態であると。想像力に自信が無くとも、今、まさに自身が対面しているそれと同じであるならば分かる。

 乱戦に次ぐ乱戦で誰かが膝を付いたのか。小さく舌打ちが鳴らされる。

 はっきり言ってしまえば、吊光弾を打ち続ける戦艦を守りながら敵を各個撃破していくのはかなりの重労働だ。

 深海棲艦の数も明確ではない。三艦隊が集うことによって発生しているだろう、襲来の影響もある。

 

 木曽も川内も夜戦に一種、独特としたこだわりを持っていた。特に川内は夜戦好きが高じ、提督の言う忍者の真似事を取り入れた必殺技まで編み出していたくらいだ。

 

 負けるなど、考えられない。

 否、考えたくはなかった。思考が否定ばかりを繰り返す。

 だが上がっている光はひとつしかない。

 もしそうであれば、この光を目指し深海棲艦が集まってくるだろう。

 

 事実。北から水を切り裂く音が大きく響いている。

 いち、にい、さん、よん。

 手負いもいち、含まれているが、その他三体は無傷である。

 

 龍田が叫んだ。鼓舞ではない。制止の悲鳴だった。

 爆音と閃光が交わり響く。破片と爆煙が交差する中を天龍は叫びながら突き抜けた。

 

 「うるぁああああああ!」

 

 その声は空気を振るわせた。艦娘だけでなく、深海棲艦すらも一瞬、動きを止めたほどの咆哮であった。

 

 死ぬまで戦ってやる!

 仲間を殺したのは、どこのどいつだ!

 オレを殺す深海棲艦はどこにいる! 天龍様はここにいるぞ! 殺れるものならやってみやがれ!

 

 天龍は再び吼える。

 十本の魚雷が打ち出された。

 

 一拍の間が生まれる。瞳に灯す光が線を引いた。

 手に持つ刃によって接近していたことごとくが沈黙させたのだ。鉄が軋む音がいくつも重なり、耳障りな高音が終わればしばしの静寂が訪れる。

 繰り返されるのは水が立てる音だけであり、そこに人為的な爆発音は、無い。

 天龍が立つ位置から後方に視線を下げれば、時雨と白露が背合わせになりお互いを支えている。服の損傷がかなり激しい。それでもまだ動けると役目を終えその場に座り込んでしまった扶桑の元まで歩き、ふたりで挟みこむように立って、防御、警戒に当たっている。

 山城も白の巫女服をかなり損傷していた。だが手に持った飛行甲板を盾にし、龍田を背に庇いながら砲撃を繰り返している。艤装に積まれた41cm連装砲は小回りが少しでも利くように、と口径を落とし装備されたものであった。長時間の戦闘が続いている今、じわりじわりとその軽さが優位を得ているようである。

 

 日本海軍の魚雷は白の軌跡を生まない。

 光に導かれるようにしてやってきた重巡リ級elite を旗艦とする深海棲艦四隻は視界に入った青白い何かに反応した。

 深海棲艦は海にあるが海を住みかにする多くを襲わない。

 並び泳いだとしても無視した。

 色と形を照合し、深海棲艦はかつて近寄ってきたサメと誤認したのだ。だが違う。

 違うと考えたわけではない。目の奥に繋がる何かが回避せよと命じた。

 瞬間、重巡リ級eliteは巨大な水柱に飲まれた。爆風に、水圧に上空へと投げ出されながらその体を覆っていた鈍色がぺりぺりと剥がれ落ちる。

 鼓膜が破れんばかりの爆音が次々と起こる。後に続いていた後続に魚雷が命中したのだ。

 

 海域が、静まる。

 深海棲艦のなれの果てが海中へ沈んでゆく。硬直させ、もがくように沈んでゆく手のひらがあった。

 しかし天龍は感情を向けず、ただ金の目を向けていただけであった。眼帯がはらりと落ちる。いつも隠している瞳が月明かりに照らされた。

 すい、と天龍は北を向く。そして花火が撃ちあがった後に聞こえてくるような響を聞いた。

 その方向は西である。第一艦隊が戦っているのだろう。

 

 ぱしゃりと天龍が膝を付く。終わったのだ。

 第一艦隊がこの海域の最奥にたどり着いたなら、倒れ伏したとて誰に叱咤されることもないだろう。

 その場に立ち、目を開けている気力が残っていなかった。

 うつぶせに倒れ、ゆっくりと浸水するが如く沈んでゆく天龍の元へ龍田が滑り込んだ。その紫の瞳には大きな珠がふたつ浮かび、流れ落ちる。次第に第二艦隊の皆が軽巡の元へと集い、支え合いながら、破裂音の発生場所へと視線を向けた。

 全員満身創痍である。ここまでボロボロにされたのは初めてであった。ここに在るほとんどがそうであろう。たったひとり、彼女の姉を除いて。

 

 後は第一艦隊の結果を待つだけだ。

 

 「……役目は、果たしました。提督」

 

 低くつぶやかれる山城の声は淡々としていた。

 

 

 

 男は夢をみていた。

 人間は生まれてからその日眠るまでの一生の記憶を毎日、夢の中で反芻するという。

 その作業はまるでデフラグのようである。脳をひとつの記憶媒体とするならば、あながち間違った考え方ではないだろう。

 

 夢であると分かったのは、かつて自身が暮らしていた部屋にあったデスクトップとモニターが乗った机と椅子があったからだ。

 今生きる世界には、まだ高性能なパソコンはない。ウインドウズなど姿形も出来ていないだろうし、MS-DOSがようやくあるかどうかのレベルだ。在ったとしても古い初期のものに違いない。この時代、主流であるのはワープロであった。ワードプロセッサー、だ。高価な品であるらしく、取り扱いは慎重に、と言われてしまった。開いて見ればノートパソコンのようなキーボードが付いていたが、重かった。落とし壊してしまっては大変だと、男はそっと元の棚に戻したのである。

 

 ふと見た画面では戦いが行なわれていた。

 男が作戦指揮を執っている、今まさに進行中のそれだ。

 三つの艦隊それぞれの疲労と状態が左右上と右下に出ている。最も損害が高いのは第三であった。

 特に天龍、龍田の両名は疲労度が最も高い赤が出ている。

 帰ってきたならば労いの言葉をいつもよりも多く掛けねばなるまいと男は笑んだ。

 

 本来は設定されていなかった中央航路を突き進んだ第一艦隊も大破が出ていた。

 とはいえ疲労はそうでもないようである。睦月型のふたりは装甲が薄く、回避も目立って突出しているわけではない。

 ゲームとしては燃費が良く遠征へ出すのに適した艦であった。

 現実となってもそれは変わらない。が、随分と小回りが良かったのには驚いた。RPG風に言うなら、AGI特化され、さらにボーナスが付いているような状態であろう。睦月型は軽量化によって素早さを確保し、また性能で小回りを実現しているのが島風だ。

 そもそも駆逐艦は泊地の要でもある。周辺の哨戒に加え、遠征任務のほとんども駆逐艦頼みだ。

 

 その中で最古の形である睦月型の思考は柔軟であった。自分達が駆逐艦の中でも弱いと知っている。だから出来る事を出来る限り行なう。男が思うに生真面目な艦も多いのではないだろうか。

 おちゃらけているように見え、実際はそう行なうことで誰かの緊張をほぐしていたりする。

 己の出来る事を頑張ったのであろう。どこかの小説にあったように、駆逐艦は全ての艦船にとって礎(いしずえ)である。

 だから駆逐艦以外の艦娘たちは誇らしげにいつも、こう言うのだ。

 

 『駆逐艦は、私たちの誇りです』と。

 

 その傾向は戦艦であれば尚更である。長門が陸奥に耳を引っ張られるまで駆逐艦と戯れたがるのは、日ごろの感謝が溢れた愛ゆえもあった。

 大和や武蔵も砲塔に駆逐娘をぶら下げ海に降り、高い高いならぬ飛んでゆけーとばかりに放り投げているのも同様である。

 重巡や雷巡たちも甘えさせ過ぎてはいけないと、口ではつっけんどんに突き放しても、その手が触れると握り締め横並びに歩くなど日常茶飯事だ。

 誰も彼もが駆逐艦が愛おしく大切なのである。

 

 男は画面の時計を見る。

 果たして現実と繋がっているのか微妙であるが、数字は0234とある。

 帰港時間は最長としても0600前後であろう。

 

 今日出る最深部の準備もそろそろ行なわなければならない。

 寝ているならば起きて采配を行なわねばならぬ時間だ。すっきりと目が覚めればよいのだが、と男は夢の中で苦笑する。

 随分と疲れが溜まっているのだろう。自身では全く感じていないが、周囲がそわそわと気づきを待っているのかもしれない。

 手のひらにしっくりと馴染むマウスを転がす。

 

 右上にあった第二艦隊が点滅していた。

 クリックし詳細を表示させれば弾薬がほぼ尽きていた。変わって燃料は満たんである。次いで位置を表示させた。

 男は顎をさする。ゲームでも南ルートに入った際、資源マスに反れる道がひとつあった。そこに北ルートを進んだ伊勢たちが渦潮の影響を受けたどり着いたのであろう。

 

 兎も角、出撃した三艦隊は大破こそすれ、全員が無事に戻って来そうな按配である。

 もしかすればここは男の夢だ。そうなって欲しいと思う希望が現れているだけなのかもしれない。

 男は目覚めを切実に願った。

 工作が趣味であろう、工廠に篭もっているヒュウガに聞けば一発だからである。

 なにやら妖精さんと面白いことをしているらしいし、男としてはそこらへんも気になるところであった。

 

 残る海域はあとひとつ。

 男は瞼を閉じる。そして発光する画面とデスクトップを残し、その姿をかき消した。


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