袁公路の死ぬ気で生存戦略   作:にゃあたいぷ。

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間幕.風立たぬ。

 風が吹き込んできた。

 墨の匂いが篭る部屋の中、開けた窓から冷たい空気が肌を撫でる。

 心地よい眠気を誘うような微睡んだ空気が追い出されて、眠気が醒めるような新鮮な空気が私のことを包み込んだ。息を吸い込むと肺に溜まった淀んだ気持ちを包み込んで、吐息と一緒に口から吐き出される。体の内側が少し綺麗になった気分になる。瞼の裏、目の奥に巣食うような鈍く重い感覚に頭を二度、三度と軽く小突いて、何度か深呼吸を繰り返す。体を揺するようにお尻の位置を整えて、肘を持ち上げるように大きく肩をぐるりと回した。すると心持ち体が軽くなって、少し頭も冴えてきたところで机の上に開かれた書籍の頁を指で摘み、墨で引っ付いた紙と紙の隙間をぺりぺりと丁寧に剥がす。外から枝葉の擦れる音が耳に入り、私の前髪を揺らした。

 此処は豫州、汝南郡。四世三公で有名な汝南袁家が拠点に据える城塞都市、その一角にある楊宏の屋敷。

 世の中は飢饉や賊の襲撃で騒がしくなっているというのに、此処は――いや、この空間は長閑だった。この時期、曹操と袁紹はまだ県令であり、それぞれが太守になるために功績を積んでいる頃合いだろう。これからそう遠くない未来に黄巾を被った賊徒達が大陸全土で蜂起し、漢王朝は未曾有の大混乱に陥ることになる。

 そんなことはどうでもいい、と私は椅子から立ち上がって部屋の換気を終えたと窓を閉じる。

 

 私、程立仲徳は俗世から隔絶した空間で書籍を読み耽ることのみを良しとする。

 

 この世界には私の知っている人間が存在している。

 実際に会ったことはなく、話したこともない。それは相手のことを歴史上の人物として知っているという意味でもなければ、風聞を耳にすることで間接的に知っているという話でもない。

 でも確かに私は、まだ見ぬ誰かのことを知っている。

 頭の奥底で大事にしまわれた宝石箱、今はまだ思い出すことができない記憶が封じられている。開けたくとも箱には鍵が掛けられているようで自分の意思で開けることができず、また鍵が見つかっても箱が錆びてしまっているようで部分的にしか記憶を覗き見ることができなかった。箱の鍵は、私が知っている――さりとて、まだ出会ったことのない誰か。その顔を私の目で確認した時、強い既視感と共に白い靄のかかった朧げな記憶が甦る。僅かに開かれた蓋の隙間から覗き込むように、隙間から漏れる記憶の残り香を嗅ぎ取るように。私の知らない記憶の映像、手で触れ合った感覚が脳裏に浮かんだ。最初は気のせいだと思った。何度も繰り返される内に記憶は鮮明となり、今となっては、嘗て私が経験した記憶であると確信にまで至っている。

 それは夢の世界での出来事かも知れない。別の世界での出来事かも知れない、もしくは前世での出来事かも知れない。私はまだ見ぬ誰かの事を知っている。今を生きる私ではない私が歩んだ道のりの記憶が宝石箱にしまわれている。

 物心がついた時から、私はきっと私の頭の中に記憶の宝石箱があることに勘付いていた。

 毎日が退屈だった、初めて経験するはずのことに既視感があった。初めて目に通す書籍の続きがなんとなしにわかる。初めて足を運んだ街の様子を知っていた。それはただ単に自分は勘が鋭い人間なのだろう、と思っていたが今はもう確信した事実から目を逸らすことができない。記憶の宝石箱、その存在を疎ましく感じたのは何時頃からだろうか。

 たぶん物心のついた時から思っていた、自覚したのは今より一年近くも前の話になる。

 

 新鮮味のない既視感に満ちた世界から抜け出したくて旅に出た。

 未知を求めた旅先で、私は郭嘉という名前の女性と出会うことになる。戯志才と名乗る彼女が偽名を使っていることを初対面で見破った。そのこと自体は勘が鋭い、というだけで済まされる話だ。しかし私は彼女の本名が郭嘉であることも見破っていた。それは知っていなければ知らない事実、それは異常と呼ぶ他になかった。

 彼女は頭の回転がとにかく早い。その人並み外れた能力を持つが故に、脳が負荷に耐えきれずに知恵熱を出して、まるで風呂でのぼせてしまったかのように鼻血を吹き出す癖を持っている。それを初めて見た時、私は自然と彼女の首筋をトントンと叩いてあげていた。

 それは酷く懐かしさを覚える光景だった。懐かしい、と感じる自分が気持ち悪くて仕方なかった。

 二人旅を続けて数日が過ぎた頃合いで「まるで昔に私と会ったことがあるようだ」と郭嘉が零したことを今も強く覚えている。

 数ヶ月後に郭嘉の真名を教えて貰った時、ズキリと心が痛んだ。彼女の真名は顔を合わせた時から知っていた。騙しているつもりはないのに騙しているような気持ちになった。胸に抱えた罪悪感が気のせいなのはわかっている。私が悪い訳ではない、悪気があった訳でもない。でも胸に感じる疎外感はきっと気のせいではないのだろう。私は郭嘉と同じ世界で生きている気がしない。同じ場所に立っていながら、手と手が触れ合う距離にありながら、きっと私は彼女と同じ時間を生きていなかった。お互いの心は致命的にすれ違っている。そんなどうしようもない距離感を私は埋めることができず、勝手に孤独感に苛まれては自己嫌悪にじゅくりと心が蝕まれる。

 正直なことをいえば、私の頭に記憶の宝石箱を残した世界に苛立ちすらも感じていた。

 

 また少し立って、趙雲という女性が旅の仲間に加わる。

 彼女との出逢いでまた私の宝石箱は僅かに開き、彼女が近い将来に私達と袂を分かち、強大な敵として立ち塞がることを予見した。

 いずれ敵となる人物。でも、この時はまだ私達は仲間だった。

 趙雲は少々変わった人物ではあったが、話していると面白い。普段は飄々とした態度を取る彼女の本質は、人懐っこくて可愛らしい乙女になる。動物に例えるならば、猫。それも我がもの顔で街中を歩き回る小綺麗な白猫だった。遠目から見る分には気紛れで高貴な立ち振る舞いをしており、頭を撫でようと歩み寄れば、そっと距離を保って自分の間合いに踏み込ませようとはしなかった。逆に適度な距離で接していると彼女の方からそっと距離を詰めて、構って欲しそうに、頭を撫でて欲しそうに身を寄せてくる。

 寂しい時や辛い時、彼女は独りでいることを好んだ。夜空に浮かぶ月を肴に酒を呷っている。こういう時は近付いても大丈夫で彼女に寄り添うように腰を下ろすと趙雲は嬉しそうに目を細めた。与太話を聞かされる。月が綺麗だから、とか、風が気持ちいい、とか、そんなどうでも良い話の中にポツリと本音を零すのが彼女の手垢が付いた手法だった。私が酔いを求めると彼女は優しく微笑んで懐から新たな杯を取り出して、手渡される。独りで呑むには必要のない杯、こんなこともあろうかと、と誤魔化す彼女の本音が此処にあるのだと思った。

 孤独は気楽だ。でも時折、人肌が恋しくなる。

 私が孤独感に苛まれている時、彼女はなにも喋らずに寄り添ってくれた。誰かに話したい訳ではない、慰めて欲しい訳でもない。私は私の境遇を理解して貰えるとは思っていない。同意が欲しい訳でもない。でも孤独だけに生きるには、私はあまりにも弱過ぎた。私は独りの時間が好きだ、孤独でいる時間を尊重する。だからといって、寂しさを感じない訳ではない。人生という道は、孤独に歩むには、あまりに寒く、暗く、ふとすれば凍えてしまいそうになる。私が求めるのは止まり木で、ほっと一息吐けるだけの場所を欲する。求めた時だけ人肌で温めて欲しい。それは実に身勝手で贅沢な願いだと分かっている。分かっているから、その時間を私達は大切にした。

 趙雲との距離感を掴むことは難しいが、一度、掴んでしまえば彼女ほどに可愛くて甲斐甲斐しい人物もそう居ない。

 

 私は趙雲と過ごす何気ない時間が好きだった――失いたくなかった。

 

 ある日、気付けば彼女の服の裾を摘んでいた。

 趙雲が振り返る。

 彼女は笑みを浮かべたままだったが、私の真意を読み取ろうと見つめ返していた。

 

 ――ん、どうしたのかな。(程立)殿?

 

 その真っ直ぐな瞳で告げられて、私は喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。

 あのー、そうですねー、と間延びした声で場を繋いだ。視線を逸らす、心が萎縮する。胸の動悸だけが早くなる。告げたいのはただ一言、行かないでください。それだけだ。

 口を開こうと彼女の顔を見つめた。さりとて彼女の瞳が直視できず、笑ったふりをして目を細める。

 

 ――やっぱりなんでもありません、と口にした。

 

 これが私の限界だった。

 惑う心は彼女の真摯な瞳に晒されて、揺らいでしまった。

 それからも彼女を呼び止めようと試みたが、結局、声にするところまでは届かない。

 私は独りの時間が好きだ、それはきっと彼女も同じだと思っている。だからといって孤独を望む訳ではない。彼女、趙雲は今を全力で生きている。自分が思うがままに、何処までも自由に自分を在り方を表現し、その生き様を以て証明していた。彼女はただ立っているだけで自らを眩く輝かせた。その光は羨むほどに強く、妬むほどに魅力的だ。だから揺らぐ私の一言で、彼女の歩むべき道を歪めていいとは思えなかった。

 郭嘉に対してもそうだ、二人のことは触れ難い宝石のように感じている。

 

 きっと私は彼女達と同じ刻を生きていない、そのことが私に劣等感を抱かせた。

 

 家事を終えて、日がな一日、書籍を読み耽る毎日、

 目に疲れを感じると部屋に備え付けの寝台に身を放り投げる。気怠さが全身にのしかかり、ずぶずぶと肉体が精神と一緒に布団の中へと沈み込んだ。

 この世界が退屈だと感じるようになったのは何時からだったか、確か物心がついた頃から世界には飽きていた気がする。何をしていても楽しくなく、何を見ても新鮮味を感じない。この世界の全てが面白くなかった。この世に生まれ落ちてから今に至るまで競争というものに興味を持てない性分で、無気力に人生を歩むことが多い御身分ではあるけども――それでも未来を知っているということは、私にとっては酷く興が削がれることだった。何処の誰とも知らない人物の記憶に振り回されるのも嫌だったが、かといって未来を知っているにも関わらず、来たるべき不幸に備えないのも馬鹿らしくて仕方なかった。

 枕に顔を埋めたまま、鬱憤した気持ちを溜息と共に吐き出した。つまるところ私は何をしたところで楽しくないのだ。

 

 この世界で私は独り、立つこともできずにいる。

 

 未知を求めて旅に出た時、当時はまだ仕官を望んでいたので主君を探す目的もあった。

 それで情報を集めている内にピンと来たのが曹操だ。郭嘉は別れる寸前まで曹操のことを絶賛していたので、見聞を広める為の旅を終えた後で曹操に仕官するものと思っている。自然な流れでいえば、私も曹操の下へと馳せ参じて、彼女の躍進を手助けする一人になっていたに違いない。

 しかし、今となってはそれもありえない。

 何故ならば、私は曹操の真名を知っている。遠目から彼女の顔を確認した時に記憶の宝石箱から彼女の真名が零れ落ちた。夏侯惇に夏侯淵、曹仁、曹純、曹洪と続けて視界に収めてしまったことで、この世界の行く末の大半を理解してしまった。

 それは知っている未来だ。今生きる私ではない私が歩んだ道のりでもある。

 

 私は曹操に仕えていた。だから私が曹操に仕えることはありえない。

 

 実は旅を続けている内に、ずっと考えていたことがある。

 この旅を終えたら何処かに身を隠して、俗世から離れた場所で隠居暮らしをしてみたい。

 晴れた日には田畑を耕して、雨が降れば書籍を読み耽る。必要以上に誰かと関わることをせず、誰とも関わろうともせず、土と語り合いながら田畑に実る小さな恵みに感謝する。そんな日々の幸せを噛みしめるような生活こそが私には必要なんじゃないかなって、そう思った。郭嘉が聞けば、卒倒してしまいそうな話だ――いや、彼女は意外と相手を尊重してくれるから、案外あっさりと受け入れてくれるかもしれない。それとも非力な貴方に農業なんてできませんよ、と率直な意見を述べたりするだろうか。

 そんなことを考えていると、くすり、と含み笑いをする声が耳に入る。

 振り返る、部屋の中を見渡した。此処には自分の他に誰もいない、ということは笑ったのは――そういうことなのだろう。想像するしかない未知の未来を考えるのは楽しかった。そんな未来に手を伸ばそうとすれば、人生も少しは楽しくなってくれるだろうか。

 わからない。けど、そうなってくれれば良いな、と思う。

 

 私が汝南郡に身を寄せたのは、知った顔がほとんどいなかった為だ。

 旅費を稼ぐ為に公孫瓚に仕えていた記憶がある、袁紹とは官渡の戦いで雌雄を決した。涼州の馬家とは征伐を行った記憶があり、同様の理由で荊州の劉表とも縁がある。益州には魏の宿敵である蜀が建国する場所で、呉とは浅からぬ因縁があった。記憶にある魏は、戦国乱世と呼ばれる群雄割拠の時代において、ほとんどの勢力と戦闘を繰り広げていた。

 その中で私と縁が遠そうで魏と関わりの薄い勢力が袁術。つまり汝南袁家の本家筋だった。

 とはいえ今すぐに仕官をするつもりはない。私が知る生き方が何処かの勢力に仕官することだけだった、という話であり、他に安定した生活を得られるのであれば仕官に拘る必要もない。順風満帆な隠居生活には資金がいるし、ちょっと小金を稼ぐつもりで袁術のお世話になるつもりだった。

 ここまでの話で分かるように、私は袁術にも固執している訳でもない。

 私と縁が遠くて、魏と関わりの薄い勢力であれば、相手が劉耀や陶謙でも良かった。ただ夢の隠居生活を考えた時に最も近い場所にあった手頃な勢力が袁術だった。それだけの話だ。特に仕える理由がなく、縁も所縁もない。それだけの理由で私は汝南郡に身を寄せている。

 そして楊宏の使用人として働く今、汝南袁家に仕官する理由は失われていた。

 

 生活費と共に手渡される給金の半分以上は書籍代に消えている。

 家事は必要最低限、午後、おやつの時間が過ぎる頃には仕事を終えて、残りの時間を読書に費やす日々を送っている。週に一度か二度、私の雇い主である楊宏が屋敷に帰ってくる時だけは腕を振るって料理を作る。私は料理の腕には自信がない。美味しくもないが食べられない程でもない。美味しいか不味いかで問われれば、不味いといった程度の腕前である。そんな程度の味しか出せないので、余分に与えられた生活費を用いて、私独りの時は外で食べ歩いている。

 屋敷に戻る時、楊宏は外で食事を摂ることは少なかった。

 酒を飲んで帰ることはあっても、あまり食事を摂らず、しっかりとした足取りで屋敷に戻ってくる。帰宅する日は予め教えてくれる為、急に帰ってきた時に焦ることもない。用意しておいた一人分の食事を、彼は眉間に皺を寄せながら黙々と口に運んだ。不味いのは知っている、でも残さずに食べてくれるのは作った甲斐がある。彼の食事する姿を書籍を読むふりをしながら盗み見るのは、ちょっとした楽しみだった。

 食事を終えると彼は身を清めた後、すぐに就寝する。

 

 いつも泥のように眠る姿が、少し気がかりだった。

 

 彼の仕事は司書だと聞いている。

 書庫にある書籍を管理するだけの簡単な仕事。そんな風に語るにしては、彼はあまりにも疲弊しきっていた。それに主人からの命令とはいえ、常日頃から女装を強制する意図も見えない。気になった私は楊宏の身辺を簡単に調査してみたところ、毎日、彼が足を運んでいるのは書庫のある城ではなくて、汝南袁家の個人的な屋敷であった。

 ここで初めて私はきな臭いものを感じ取り、更なる調査を乗り出そうとしたところで――張勲が楊宏の屋敷に送り込まれてきた。

 監視だろうか、早過ぎる動きに私は暫し息を顰める。数日が過ぎ去って一週間、彼女の動向を観察し続けた結果、やはり彼女は袁家から送り込まれてきた刺客ということを確信する。

 そして自分が踏み込んだ藪には、蛇が潜んでいることを察した。

 

 このことに気付いた時、私は自分がどうしたいのか分からなかった。

 張勲が使用人として屋敷に来た時点で袁家からの刺客ということは気付いていた。結論を引き延ばすように彼女のことを観察し続けて、刺客以外にありえない。というところまで待ち続けてきた。

 私は結論を出さなくてはならない。楊宏を見殺すのか、それとも助けるのか。

 

 寝台に身を埋めながら、もぞりと体を動かした。

 書籍を読み耽り、眠くなったら寝る。という生活を過ごしている。

 布団には私の匂いが染み付いており、部屋には紙と墨の香りがこびり付いていた。

 私は、この部屋にいると安心する。

 この部屋は私の空間だと身と心が認めている。

 

 ――はて、少し眠っていただろうか。

 軽くなった頭を働かせて、身を捩る。枕元に置き捨ててあった書籍を手に取り、俯せで頁を開いた。綴られた一字一句を指でなぞりながら読み耽った。情報を頭に詰め込むだけならば、十数分もあれば書籍を一冊、読み切ることができる。じっくりと読み込んだとしても半刻(一時間)も必要としない。今は情報を欲している訳ではない、書籍を読む行為そのものに意味があった。頭の中を空っぽにして、放っておいても働いてしまう脳を強引に休ませるために文字の世界へと意識を落とす。

 近頃、私は詩集に嵌っている。

 書き綴られるは想いの丈、甘酸っぱい恋心、繊細な言葉遣いで書き記されている。ふと目を閉じれば、瞼の裏に情景が浮かび上がる。呼吸をすれば空気を感じ取れる。橋の上に立つ二人の男女、その恋心は行方は何処なりや。残念ながら結末までは書かれておらず、ただ著者の想いの残り香が胸を満たした。

 想像する、夢想する。心地よい後読感に細く長い息を零した。

 屋敷に受け入れられてからは優雅で和やかな毎日を過ごさせてもらっている。こんな調子で良いのかと不安に感じてしまうほどに此処での暮らしは平和そのものだった。

 満たされている、満たされているはずだ。世間一般的な感性で言えば、幸福と呼べる毎日を送っている。

 溜息が漏れる、重苦しい吐息。ふとした瞬間、今の暮らしに空虚さを感じることがある。

 幸せというのは単純なようで難しかった。

 見て見ぬふりを続けている。相手は特に思い入れのない人物、切り捨てようと思えば、何時でも切り捨てられる。ただ少し、ほんの少しだけ居心地が悪かった。喉の突っかかりをずっと放置しているような感覚。割りに合わない、という気持ちもある。それは私の手に余る問題だ、本当に? 違う、やる気がないだけだった。私は袁家の問題に深く関わるつもりはない。私は知っている。近い将来、袁術が台頭することを、そして群雄割拠の時代で志半ばで歴史から消えることを知っている。知っているだけだ、確信はない。実感もない。当たり前だ、私はこの時代を生きていないのだから、実感がなくて当然だった。

 ただ一つ、分かっていることは、それなりに今の生活を気に入っている。

 私は溜息を一つ零して、将棋盤と駒を手に取った。人間という生き物は、時に不合理な行動を取る。

 それ故に知恵に生きる者は、自らの感情を制御しなくてはならない。

 しかし、どうやら私はまだ未熟だったようだ。

 当たり前だ、と自嘲する。

 

 だって(ふう)はまだ、この世界で何者にもなっていないのですから。

 

 

 




七天の御使いより、「間幕・風は吹いている」の書き直し。

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