一日、一匙の蜂蜜。この量を増やすには、どうすれば良いかの?
この何気ない言葉に侍女長の橋蕤は次のように述べる。南陽郡は荊州北部における交易の要所、積極的に各地から人と物が集める政策を取れば自然と蜂蜜も集まります。次いで側近の張勲が話を振られて答える。そもそも蜂蜜って森の中から適当に採ってくるのですよね? 飼育したりとかできないのでしょうか、例えば牛とか? 羊とか? そして最後に意見を求められた程立が嫌々ながら答える。蜂蜜という嗜好品を嗜むことができるのは資金に余裕があってのことなのでー、先ずは国力を高めることを優先すべきだと思います。それが蜂蜜の量を着実に増やせる道ですねー。
三者三様の意見が出たところで美羽様は、その全てを実行するように許可を出したが「え、嫌です」と程立が拒んだ為、名目上、彼女の主人である私、楊宏が国力増強に従事する手筈となった。*1
「だったら防備も固めないといけないな。人が集まるのは安全が保証されてのこと、人が研究に集中できるのは外敵の心配がないからこそ、国力を維持できるのは攻撃を仕掛けてきても守り抜く武力があってのこと、なら老朽化した城壁の補修は優先事項だ」
「ちょっと待ってください! この前、訓練以外に暇を持て余した兵達を使って治水と開墾を計画していましたよね? あれってどうするのですか!?」
開墾と治水の指揮と執る予定の李豊が声を上げる。
「あー、そうじゃったの」
「それだと城壁の補修に対する人手が足りなくなるな。いや都市が攻め落とされては元も子もない。先ずは城壁の補修を優先すべきだ」
「いえいえ、紀霊さん。都市の維持も大切ですが、やはり都市としての発展も並行してやらなくてはなりませんよ? 都市の発展を待ってから城壁の補修に手をつけた方が結果的に早くなる可能性もありますし?」
「動かせる労働力にも限りがありますからねー」
てんやわんやとし始めた軍議の場にて、美羽様は深く溜息を零して蜂蜜水を啜る。
袁術軍の経済方針は蜂蜜嗜好、もとい蜂蜜志向だ。より多くの蜂蜜を南陽郡に呼び寄せる。もしくは生産する為に都市の発展を促そうとしており、その手段として、経済や軍備を増強させようとしていた。目指すは一日三食、おやつも蜂蜜の食生活である。
しかし現状では夢のまた夢、橋蕤、と程立は古くからの重鎮に声をかける。
「あまり聞きたくはないが予算は足りるのかの?」
「まったく足りませんね。正直、開墾と治水を続けるだけでも財政が保ちませんよ?」
「南陽郡は最も人口が多い都市の一つ、と聞いておったのだが……税収はどうなっとるのじゃ?」
「……それが把握しきれていません」
「どうしてじゃ?」
問い返すと橋蕤は気不味そうに返した。
「単純に人手不足です。各地に派遣できるだけの数が居ません」
「あー、んー、文官の雇用も進めねばならんかの?」
美羽様が大きく溜息を零す。
これ幸いと耳聡い程立と張勲がこぞって文官の登用に賛成した為、文官の新規雇用を進める方針で合致した。結局、経済政策の方は開墾と治水をぼちぼちと続けることに決まり、先程あげていた蜂蜜政策はひとまず見送りとなる。もうちょっと煮詰めてから、というよりも先ずは地盤を固めるのに人手が足りていないという結論に至り、現状維持のまま月日が過ぎるのを待ち続ける。
その歯切れの悪い結末に美羽様は蜂蜜の少なくなった小瓶を寂しげな顔で見つめながら呟くのだ。
「……蜂蜜片手に頑張るのじゃ」
それ以上はいけない。
†
張勲は自分が楽をする為、精力的に文官の新規雇用に取り組んだ。
その横で程立もまた、これ以上は自分が巻き込まれないようにと手紙を認めて、雷緒と名乗る少女に持たせる。風貌だけを見ると商人らしき娘であり、私に対しても愛想の良い笑顔で振りまいてくれる可愛らしい子だ。こほんと程立が咳を立てると慌てた様子で、ぴゅーっと程立の元へと駆け寄っていく姿もまた可愛らしかった。なんとなしに風貌が雷薄と似ているな、と思いつつも二人の関係性については聞いていない。雷薄の実家が商家だったりとかするのだろうか。そんな話は聞いたことがないが、一度、聞いてみるのも良いかも知れない。いつも程立が世話になっているようなので茶請け用の菓子を袋に包んで持たせると、「やったー!」と彼女は満面の笑顔で喜んだ。「こいつにそんなことはしなくても良いですよ?」と告げる程立、すすっと雷緒が私の背中に隠れる。どうしたのだろう? なんとなしに手紙を何処に送ったのか聞いてみると「水鏡女学院ですよ」と答えた。聞きなれぬ名前に「知る人ぞ知る、といった場所ですしね」と言って、「臥龍鳳雛の内、どちらかが来てくれれば助かるのですがー」とあまり期待していない様子で呟いた。
さておき、二週間が過ぎた頃合いで文官の雇用試験が行われることになった。ついでに六花が並列して、武官の新規雇用を行なったが大した成果は得られなかったと不満顔を見せる。そんな彼女に首根っこを掴まれている少女が暴れている。名は邢道栄と云うそうだ。見込みがありそうだから拾ったとの話、見込違いだったので今から落ちていた場所に返しに行くとのことだ。いや、まあ、良いんだけどね。うん。何処で拾ってきたの、その子? それから文官の雇用試験が終わる頃合いを見計らって、答案の採点を手伝いに向かうと大量の容姿に囲まれた張勲は頭を抱えているところだった。全体的に能力が低過ぎます、と。その中にもひとりは優れた人物が居たようで「この人がいなかったら完全に徒労でしたね」と大きな溜息を吐き捨てる。
名前欄には、魯粛と書かれてあった。
†
人材雇用もひと段落し、今度は孫堅軍を受け入れる準備を整える。
とはいえ、こちらの方は袁姫が進めてくれていたので、あとは仕上げだけの状態だ。兵達に手伝わせて、毛布や何やらと物資を運び入れる。まるで雑用ではないか! と反発する兵達には六花と特訓に向かって貰っている。山を登り、無手で数日間の野営を経験する特別訓練だと話に聞いている。定期的に紀霊が奇襲を仕掛けるおまけ付き、脱落組から聞いた話によると少女が悲鳴が聞こえたら数分後に襲撃がかかるとのことだ。そして彼女の片手には泣き叫ぶ邢道栄が握られており、戦闘しながら振り回しているうちに泡を吹いて気絶しているのだとか。散々、暴れ回った後で襲撃はピタリと止み、ずるずると森の奥へと引き摺り込まれる少女の姿は悲惨の一言だとか。今も山に残っている連中は六花から邢道栄を救う為に日夜戦っているのだとか――いや、たぶん、みんなで仲良く脱落したら解放されると思うよ。うん。下手な善意は相手を追い詰めるだけだな、と世の中の闇を垣間見ながら兵達に指示を送る。ちなみに六花は孫堅軍が来る前日に戻る予定だ。今日も今日とて山では少女の悲鳴が響き渡る。
計画表を見ながら、どうにか今日中には終わりそうだ、と胸を撫で下ろす。
「おう、そこの小娘! いや……まあいい、そこのお前!」
背後からドスを効かせた声で話しかけられる。振り返れば、六花と同じほどの体格を女性が豊満な胸を張りながら私のことを見下ろしていた。第一印象は、なんだか怖い人。しかし、その風貌と髪と肌の色、そして背後に率いる千程度の兵を確認して彼女が何者であるか察する。
「つかぬ事をお聞きしますが、孫堅様で宜しいでしょうか?」
「あ〜ん? そうだが、それがどうした?」
「私は袁術様の側近の一人、楊宏と申す者でございます」
江東の狂虎、荊州南部を単身で平定したと呼ばれる人物。曰く、血狂い。曰く、戦闘狂。その気性は誰の手にも制することはできず、その闘志は誰にも止めることはできず、江東の地を我が物顔で駆け回る姿から虎と称される。今の時代を生きる、紛れもない英傑のひとりだ。
「ああ、お前が書状に書いてあった名前の奴か」
あまり興味がなさそうに告げられる。
予定では今より三日後に到着することになっていた。それでも通常の行軍速度を鑑みると厳しく、軍議では遅れが生じることも考慮に入れていた方が良いという話が上がっていた。ただひとり、程立だけは「むしろ数日、早くに来る心配をしておいた方が良いですよー」と零していたのを頭の片隅に覚えていたおかげで取り乱さずに済んだ。
実際、その為に三日前には準備が終わるように彼女達の寝床を整えさせていた。
「四ツ葉、宿泊地に毛布を配布し終えたわよ……って、え? もう?」
「袁姫様、至急、袁術様か張勲に、孫堅殿が来た、と連絡を入れてください」
「あ、うん、分かったわ」
袁姫は孫堅に向き直ると手を重ねて礼を取る。
「えっと、貴方が孫堅殿……で良いのよね?」
「おう! 俺が孫堅、字は文台だ」
「私の名前は袁姫、袁術様の妹になります。江南の地から遥々の長旅、ご苦労様です」
普通に歩いてきただけだ、と告げる孫堅に、まだ仕事が残っていますので、と袁姫は申し訳なさそうにこの場から離れた。
「さて詳しい話は後で説明させて貰います。宿泊地の準備はできていますので、その案内も兼ねて一度、休まれては如何でしょうか?」
お言葉に甘えさせて貰おうか、と孫堅が配下達に目配せする。
そして宿泊地を案内する際に孫堅軍の様子を窺ったりしていたが、なんというか、うちの兵達とは比べものにならない。なんというか潜ってきた修羅場の数が違うという感じだ。自分で言っていて、よくわからないけど、というよりも修羅場がよくわからないけど。山で訓練を受けている兵達は今頃、どうなっているだろうか。邢道栄がなく頃に、六花相手に挑んでいるのかも知れない。
そして城の方では今頃、美羽様の悲鳴が上がっている気がする。ギエピーとか。
なんか書くのが楽しくなってきた。
時系列管理、間違えたので少しシーンを削りました