謁見の間、挙動不審な美羽様を窘めながら待ち人に備える。
江東の狂虎、名は孫堅。字は文台。その獣染みた気性と規格外の武力は、民草の間で奇天烈な武勇伝と共に語り継がれている。例えば、十五の夜には盗んだ梯子で戦場を走り出し、単身で城壁に梯子を掛けた後、そのまま乗り込んで内側から門を開け放った。といった尾鰭が付きまくった伝説があるほどだ。流石にこれは眉唾な話だろうが、孫堅が常識外れの存在であることは間違いない。公式の記録では、揚州刺史の臧旻が揚州で独立を保つ各都市に対する抑えとして、三百の将兵と共に信じて送り出された孫堅は、兵数一万以上を有する豪族連合に対して、完膚なきまでに打ち倒して、見事に平定してのけたという実績を持っている。
敵にすれば恐ろしい、味方においても恐ろしい。しかし単純に戦力として考えるならば、彼女以上に頼りになる者はいない。
壇上には張勲と橋蕤が残り、上座には私、楊宏と
ゆっくりと大扉が開け放たれる。
その奥から姿を現したのは三人の女性、一人は孫堅。袁術軍で最も優れた武勇を誇る六花と同等の体格を持ち、歩いているだけで他者を跪かせるほどの威風を纏う規格外の英傑。そんな彼女の後ろに控えるのは――橋蕤から得た情報を照らし合わせて、おそらく黄蓋と程普の二人組だ。孫堅軍の双璧を為す猛将であり、黄蓋は揚州一の弓の使い手、程普は優れた用兵術で敵を翻弄すると言われている。もし仮に二人の内一人でも袁術軍に来ることがあるとすれば、軍事の筆頭、総指揮官の立場で全軍を率いて貰うことになるはずだ。
好奇心や警戒、数奇といった様々な視線を浴びながらも彼女達は胸を張り、威風堂々と袁術が座る壇上のすぐ側まで歩いた。
「う、うむ! 長旅、ご苦労なのじゃ!」
「この程度、揚州を駆け回っていた頃に比べると大したことがない距離だ」
「そ、そうかの?」
「田舎者の俺達を引き取ってくれて感謝する。何時まで長居することになるのか分からないがお互いに仲良くやって行こうぞ」
「頼りにしてるぞよ! 詳しい話は七……張勲、其方に任せるのじゃ!」
そこまで告げると美羽様は、疲弊しきった様子で大きく息を吐き出した。
孫堅はおっかないから好きじゃない、と美羽様は言っていたことを覚えている。でも孫策の方がもっと恐ろしくて怖いから嫌いじゃ、とも言っていた。
美羽様にとっては幸いか、この場には
「ええ、それでは説明させてもらいますね」
張勲が人差し指を立てながら猫を被った声で告げる。
私達から孫堅軍に与えるのは、本来、練兵場として活用している土地を流用した宿泊施設。とはいえ城に残っていた野営道具を持ち込んだものであり、居住性は決して良いとは呼べない。宿舎も用意しているが、孫堅軍千人を収容できるだけの建物は確保できなかった。あとは孫堅軍を維持するだけの食料と物資、そして破損した装備の補修、補填する為に幾ばくかの資金を提供する。
そして私達が対価として孫堅軍に要求するのは、南陽郡とその近辺に生息する族徒の討伐だ。
「あと監督役として孫堅軍には李豊と雷薄を付けさせてもらいますね」
張勲が付けた最後の要求に孫堅は僅かに顔を顰めた。
「ついでに百の兵も付けますので存分に活用してくださって構いませんよ?」
孫堅が推し量るようにじっと壇上を睨み付けるが、張勲はにこにことした笑顔を崩さない。
「それは断ることはできるのか?」
「残念ながら難しいですねー。他所から軍勢を引き入れるというだけでも地元豪族から結構、反発が起きていまして……私達の軍勢が貴方達を監視するという条件で受け入れてもらっているんですよー」
そんな話はない。いや孫堅軍を引き入れることに難色を示す者は少なからず存在したが、今の不安定な情勢に孫堅軍の力を借りられることは心強いと賛成する者の方が多いほどだ。それは言ってしまえば、袁術軍は頼りないと思われていることの裏返し。でも、現状の袁術軍はは満足に賊退治ができてないので、そう思われても仕方ない話ではある。
「監視するにしては百という兵は少ないように思えるがな」
「そこはまあ、そちらの事情に合わせて? できるだけ孫堅軍の邪魔にならない数、でも豪族の皆様には納得して貰えるだけの数、高々百の兵しか送らないのは、そちらを信頼してのことだと思って欲しいですねー」
まあ実際のところ、袁術軍の全兵力を動員しても孫堅軍には敵わないのだろうけど。ということは黙っておく。
「行軍に付いて来れなかったら置いていくが構わんな」
「えー、それは困りますよー」
「
その孫堅の物言いにこちらの意図が気付かれているな、と私は目を伏せる。
正直な話、私達に孫堅は手が余る。その気性、その威風は共に英傑の器であり、誰かの下に就くような人間ではない。ここは体良く彼女が飛躍する為の踏み台となり、恩を売りつけておく方が良い。という話を謁見前の軍議で話し合われている。そして孫堅が南陽に駐屯する間に私達がすべきことは、精鋭と名高い孫堅軍から少しでも力の秘訣を学んで自衛手段を獲得することだ。
張勲は視線を泳がせた後、末席に居座る程立を見た。その視線から逃れるように程立が一歩、退がる。
「誰か隠れているのか?」
ただ、それだけで程立の存在を看破される。
目に見えて狼狽える張勲、横に立つ橋蕤も言葉に詰まっていた。
その反応に孫堅が背後を振り返ろうとして――
「……妾が太守じゃ」
――と美羽様が口を開いた。
「良し、と妾が言えば皆が従う。意思決定は妾にある。何処かに誰かが潜んでいようとも其方の話し相手が妾であることには変わらないのじゃ」
其方にも知恵袋の一人や二人はおろう? と問い返すと孫堅は笑みを浮かべて、深々と頭を下げた。その姿に声には出さないが、黄蓋と程普の二人が僅かに狼狽えた。
「これは失礼だったな」
「わ、わかれば良いのじゃ!」
「それで袁術殿はどう考えているんだ?」
無料で子守りはごめんだ、と孫堅は言っている。美羽様は唾を飲み込んだ後にゆっくりと口を開いた。
「監督官の派遣については妾達にとっても、其方達にとっても必要なことじゃ。少なくとも其方達と連絡を取れる者が必要であるし、妾の名を使って城外の集落と好き勝手に交渉されても敵わん。いわば李豊と雷薄は南陽郡における窓口じゃ、それにこれでも人選は考えておる。最悪、この二人だけなら其方達の行軍には付いて行けるからの」
という話じゃったの? と美羽様が張勲の方を見れば、「ええ、はい」と張勲は少し戸惑いながらも頷き返した。
「……戦場では江東流のやり方でさせて貰うぞ」
「やり過ぎなければ良い、元より戦下手の妾達が孫堅軍に口出しできることはないからの。じゃが、念の為に監視は付けさせてもらうのじゃ。余所者に好きにさせては妾の、強いては汝南袁家の沽券に関わるぞよ」
「この俺の戦を特等席で見物できるんだ、それなりの対価があっても良いと思うがな」
それなら決まっていることがある、と美羽様が告げる。
「孫堅、其方も地に足を付ける土地が欲しかろう。此度で功績を上げれば、妾が汝南袁家の威光で其方を太守に推薦してやるのじゃ」
「ほう?」
「妾達も何時までも他所者に居座られるのは困るのじゃ。じゃから用が済めば、お役御免。太守の席を用意してやるから出て行って貰うからの」
それとも妾の下に付いてくれるかえ? と袁術が問えば、虎を飼い慣らす気概があるのなら考えてやる、と孫堅は鼻で笑ってみせた。
「太守に推薦されるのは喜ばしいことだ。だがな、我らは――」
「推薦する時に揚州、強いては呉郡と付け加えるには、それなりの条件が必要になると思うのじゃが?」
美羽様が強がるように笑みを浮かべてみせる。
そわそわと肩を揺らしているところから無理をしていることが分かる、それはきっと孫堅にも伝わっていることだ。
しかし孫堅もまた笑い返した。
「与えられた百の兵、使い潰すことになるかも知れないが構わないな?」
「うむ。最悪、李豊と雷薄だけは無事に返してくれたら構わないのじゃ」
「分かった、承ろう」
孫堅は再び頭を下げると、踵を返して来た道を戻る。
その後ろでは精魂尽き果てた美羽様が、ぐでっと椅子に座り、真っ白になった姿で口から魂を吐き出した。
「よく頑張りましたねー」と静かに拍手する張勲に「もう懲り懲りじゃ」と美羽様は力なく笑った。
†
所変わって執務室、
南陽郡を治めて以来、この部屋から喧騒が消えることはない。
その隅っこの方で口を尖らせて、不満ありありの顔で書類の処理を続ける少女がいる。
姓は魯、名は粛。字は子敬。真名は包。
袁術軍の側近達が孫堅軍の動向に目を向けている中で、虎視眈々と少女は機を待ち続けている。
いつか成り上がる、その日を辛抱強く――――
「いや、無理ですね。もう包は我慢できませんよ!」
南陽郡における税収の報告書を前に、包は立ち上がって執務室で声を上げる。
「これ、やっぱりおかしいですって! 実際に支払ったとされる税収と金庫に入った金額が合っていませんよ! 何処に行ったんですか、これ!?」
――そう、少女は短絡的に動き出した。
一旦、止めて他を進める予定が、書きたい欲に負ける。