酒は百薬の長、という諺がある。
しかし薬も飲み過ぎると毒に転じるのと同じように、何事にも限度というものがある。
私、
「いや、どうするんですか、これ?」
それは告発書であった。それは何十枚と重ねられた紙の束であり、その隣には付箋付きの資料が山のように積み重ねてあった。
ぱらぱらと中を覗き見ると袁術に仕える役人が行ったとされる不正が延々と書き連ねてあり、資料と照らし合わせた不正の証拠は付箋の番号で示してあるようだ。尤も付箋の番号が三桁を超えている時点で読む気は失せる。それでも、もし仮に、この告発書に書かれている内容が本当であったとするならば、南陽郡に存在する役人の九割弱が不正に手を汚していたという計算になる。
思わず、溜息が溢れる。どうして、こうも頭が痛くなる案件が私の下に舞い込んでくるのか。
無論、それだけの人数を今すぐに処罰することは難しい。それは南陽郡における統治機能が麻痺するとか、そういった想定される問題以前の話だ。つまり牢屋の数が足りない。罪人を保管する場所と管理する人手が今の私達には足りていなかった。
だからといって、放っておくこともまた難しい。
「これ、どれだけの国力が削がれているのですかねー?」
簡単に目を通しただけでも半分以上の力が削られているような気がする。
とりあえず私は頭を抱えながら、先日、文官の新規雇用試験で使った名簿を取り出した。さて、御天道様は人の行いを見ているというが――もし仮に今の私の現状を見ている者が居るとするならば、是非とも私の疑問に答えて欲しい。職員の九割が不正に手を汚す組織と職員の九割が新規雇用の新人の組織。どちらの方が長生きするのか、是非とも考えてみて欲しい。頭が痛くなること間違いなしだ。ちなみに私はこのように結論を出している。
もう末期じゃないですかやだー! と。
†
ある日、忽然と提出された匿名の告発書。
それを見せられた時、私、橋蕤が思ったことは、時期が悪い、の五文字であった。
そして、結美様専用の執務室にて、告発書に目を通しながら結美様は淡々と告げる。
「処罰する、それしかないわね」
茶を啜り、落ち着きを払いながら言葉を続ける。
「粛清できる時期は今しかない。もし仮に政務が滞ることを恐れて、犯罪者達に温情処置を与えた場合――それは私達にとって慢性的な毒になり得るわ。どれだけ言い聞かせたとしても彼らはきっと私達を舐め腐る。そして内側から食い荒らされた挙句、私達は使い捨てられるのよ。それは決して許されるべきことではない。そもそも、この告発書に書かれている情報が正しいのだとすれば、私達が南楊郡に赴任してから不正の割合が飛躍的に向上している。ここは身を切る一手、手遅れになる前に患部を切り捨てるのよ」
しかし、と私は口を開いた。
粛清をするのであれば、せめて美羽様の指揮の下に行わなくてはならない。それが道理であるはずだ。それに全員を粛清にする必要もない。汚職の元締めを粛清するだけでも抑止としては効果があるはずだ。無法地帯になっているのは不正を取り締まる者が誰も居なかったからであり、きちんと犯罪を取り締まるようになれば不正は自ずと減る。それに不正を取り締まって統治機能が麻痺すれば意味がない。南陽郡は確実に荒れる、それだけは避けなければならない。粛清をするにしても段階的に粛清をすべきだ。
それでは駄目よ、結美様は首を横に振る。
「やるなら徹底的にしないと意味がないわ」
無表情に微笑む結美様の瞳には強い意志が込められていた。
「こいつらは汚職の専門家よ。時間を与えれば、あの手この手を使って抜け道を探し、そして大元は粛清の手が届かない土竜の穴にへと引き篭もるようになる。今しかない、粛清をできるのは今、この時しかないのよ。まだ防衛線を築き上げていない今、粛清の炎を用いて一気呵成に奴らを根絶やしにするしかない」
言いたいことは分かる。だが、それなら尚更、美羽様の帰還を待ち、全員で事に当たるべきだ。
「そして私が独断で実行する、御姉様には関わらせない。汚れ仕事は私がすれば良いのよ、御姉様には綺麗で居て貰わないといけないわ。恐怖は私が受け持つ、御姉様は皆から好かれる統治者になるのが似合っている」
そう告げる結美様の姿はやけに綺麗に見えた。
汝南袁家の血縁者である証の金髪が太陽に照らされて煌めいた。
だが、それでは貴方だけが泥を被ることになる。
それは看過できない。
「しかし、これだけの人数を処罰するとなれば牢屋の数が足りず……」
「牢屋が足りなければ処刑をすれば良いじゃない」
食い下がろうとするも、ばっさりと切り捨てられた。
彼女の瞳には真っ黒な炎が宿っていた、邪魔する全てを燃やさんと前だけを見据えている。彼女は決意を固めていた、覚悟を終えていた。だからもう私に止めることはできないのだと諦めた。もし仮に私にできることが残されているとするならば、それはきっと寄り添うことだけだった。
従者らしく彼女と共に手を血で汚す覚悟を決める。
†
南陽郡で大粛清が行われた。このことは大陸全土にまで衝撃を与える。
しかし民草の間では、血税で私腹を肥やしていた悪党が処刑されたとして好意的に受け入れられることになった。
その情報を聞いた時、妾、袁逢は別荘で天井を見上げる。
「あれは意外と潔癖症であったからの……」
目を伏せる、久しく忘れていた。
汝南袁家の秘術。その真相を知った時も彼女は悦楽にのめり込むようなこともせず、自ら動いたのは楊宏を相手にした時だけだ。そういえば初めて楊宏を秘術の場に呼んだ時、あいつだけは楊宏を犯すことをしていなかった。後に美羽の練習中に致したことはあるらしいが衆目監視の中では見たことがない。
結美も、美羽も、妾の娘と呼ぶには、相応しくないほどに綺麗好きだった。
†
御姉様に近寄ってくる全ての人間が敵だった。
御姉様が汝南袁家の正当後継者として認められた直後、虫が群がるように塵達が御姉様に擦り寄ってきた。
血縁の正当性を根拠に御姉様に付いてくれる袁家の者も少なからず存在している。しかし、南陽郡に残る大半の役人は汚職によって私腹を肥やす輩であり、実力よりも賄賂の方が重視される現状の組織体に自分の実力に自信を持つ者、もしくは清廉潔白を自称する者達の大半が袁紹に流れてしまった。結果的に、ではあるが袁紹達は粛清を行う事もなく、汝南袁家に巣食っていた患部を私達に押し付ける形で切り離すことができたのだ。
ところで、皆は知っているだろうか。
悪党が御家を乗っ取る際に使われる常套手段、それは皇帝を相手に幾度となく使われてきた錆び付いた方法だ。つまりは婚姻、そして自らの子に権威を継がせることだ。後漢における歴史の半分以上が外戚と宦官の政争によるものとなっているのは、つまり、そういうことだ。まだ見た目の幼い御姉様であれば、簡単に騙せると思ったのだろう。塵屑共は、私は勿論のこと、御姉様にも自らの子を孕ませようとしていた。
ああ、本当に糞ったれだ。今の袁術軍には、どうしようもない連中だけが残されている。
だから私は確信を持って天に問いかける。
――塵屑を殺すのに理由が必要あるのでしょうか、と。
血塗られた処刑台、大量の血が地面を汚していた。
転がる頸の数は如何程か。とうの昔に十は超えた、二十はある。三十も超えている。四十は近い、五十に届いているかもしれない。死臭がする、血の臭いが噎せ返るほどに充満していた。処刑人の剣はもう十回は変えている。血塗れの処刑台に犯罪者の首が落ち着けられた。助けてくれ、死にたくない。と喚く頭に布袋を被せて、振り被った処刑用の剣で一息に斬首する。そしてまた、ごろりと頸が地面に転がった。
その一部始終を私、
粛清は躊躇してはならない、粛清をする時は徹底しなくてはならない。後に禍根を残してはならない、仮に禍根を残したとしても自然淘汰される程度には徹底的に力を削がなくてはならない。下手に余力を残すと死に物狂いの反撃を受ける可能性がある。窮鼠に猫は噛ませない。そして今際の際にある袁術軍には、内乱に耐え切るだけの体力もない。
だから、ここで殺し切らなくてはならなかった。
「南陽郡の塵を一層します。犯罪者は獄を抱かせ、悪党には労役を課し、塵屑は処刑台にて頸を晒しましょう」
名門袁家の癌を身を切るように摘出する、一切合切の全てを悉く殺して殺し尽くせ。
大粛清だ、一心不乱の大粛清だ。与えられた僅かな期間、兵法の極意である拙速を尊ぶの真髄をお見せしよう。
彼ら、彼女らが戻った時には、全ては手遅れだった。というのが好ましい。
†
私、七乃。南楊郡の城塞都市に帰還、粛清なう。
えーっ? いや、これ……えーっ?
どう収拾付けるつもりなんですかこれもうやだー。
たすけて、フウえもーん!*1