南楊郡、城塞都市。楊宏邸。
汝南郡にある屋敷は今と比べると幾分か狭くなったが人二人が暮らすには余裕のある広さだ。
特に椅子が良い、この屋敷にある家具で最も質が良くて高価なものだ。楊宏が読書好きの私の為に私の体格に合わせて誂えた物でもある。彼は冴えない男ではあるが気配りは上手い、こんな世捨て人のような暮らしを望む私であっても少しくらいは使われてやろうって気にさせられる。朧げに残る記憶の男とちょっと被る――いや、あれは違うか。あの者は愛嬌と可愛げがあった。しかし楊宏には愛嬌も可愛げも――まあ、ないこともないが特筆する程ではない。楊宏は凡庸な人物だ。人を見る目はないも同前だった。少しでも人の能力を見抜く目があれば、もっと私を活用しようとしている。少しでも人の本質を見抜く目があれば、もっと前に私を見限っている。どちらもしないということは、やはり彼の目が節穴ということになるのだろう。彼はただのお人好しだった。
お気に入りの椅子に座りながら読書を嗜むことが今の私の楽しみだ。
この時間は誰にも邪魔をされたくないし、この時間を尊重してくれる楊宏のことを私は好ましく思っている。だから私も彼に対してだけは義理立てしようと考える。そうでなくては三食おやつに昼寝付きの生活を思う存分に満喫している今の私に外界に触れる理由がない。前世では軍師をやっていた習性とでもおいうべきか、なんというべきか、評定の間に連れ出されると議題に上がる問題点の解決策がポンポンと浮かぶので、もどかしい思いをしてしまうのだ。ただ私が口を挟むと重要な役職に就けられそうなので、私は常に役立たずで深入りしませんと主張し続けなくてはならない。私は今の悠々自適な生活を失いたくないのだ、故に評定の間は私の精神衛生に悪いので屋敷の外には出たくなかった。今だって外界との接触を断つ為に屋敷の戸締まりはしっかりとしている。
例えばそうだ、屋敷の門を内側から漆喰で塗り固める万全っぷりだ。
「程立さん! ちょっと出てきてくださーい! 今、本当に外が不味いことになっていますー!」
解決は夕食の後で、朝飯前なんて言いません。
「もう勝手に入りますよ? 門を壊しちゃっても構いませんね? はい、皆さん。やっちゃってくださーい!」
「張勲様、内側から塗り壁で固められているようです!」
「えーっ!? なんでそんなどっかの偏屈爺がするようなことをしているんですかー!?」
どうやら諦める様子はないようだ、この調子だと昼飯時には突破されそうだ。
あの張勲がここまで強硬手段に出るということは、本当に外では大変なことになっているのだろう。
やれやれ、とお気に入りの椅子から腰を上げて、うんと体を伸ばした。
†
「なるほど、袁姫さんが粛清をー」
やっちゃいましたねー、と新しく煎れた茶を急須から湯飲みに注ぎ入れる。
客間には張勲の他、お付きの者が二人おり、全員が山の中をひとっ走りしてきたのではないかという程にボロボロな姿をしていた。
とりあえず、四人分の茶を用意して、その内みっつを三人に差し出した。
「門を塗り固めるのはさておき、庭の罠もまあ良いとして……しかし、最後の玄関の罠は絶対に余計でしたよねー!?」
「ほっと一息吐いた瞬間が最も危険だということですよー」
「はい、身をもって知りましたとも!」
張勲の恨みがましい視線を受けながらズズッと茶を啜る。
どうやら外では面倒なことが起きている御様子。此度の件で特に面倒なのは放っておけば、より面倒な事態に巻き込まれることになるという点だ。仕方ないですね、と呟いてから鈍った頭を働かせる。今回の粛清で不味いのは漢王朝が定める法と照らし合わせた際、打ち首という判決が妥当な者が役人の半数以上を占めていることだ。つまり袁姫の行動は突拍子もない癖に正当性だけはしっかりと握り締めている。ただ袁姫の判決には温情措置が一切ない。その為、状況的に汚職に手を染めるしかなかった者達にも死刑判決がでてしまっているようだ。せめて降格か、数ヶ月の減俸や資産の没収、酷くても数年の労役といった処置で済ませるべき人間が少なからずいるはずだ。そういった人間を助け出し、人的被害を抑えることこそが貴方達がすべきことではないだろうか。
袁姫の行動が私怨ではなく信念に基づき、理性を失わず正当性を訴えている以上、温情を掛けるに足る根拠を提示することができれば見逃されるはずだ。
「そういう訳で頑張ってくださいねー」
知恵袋は知恵を授けるだけなので。そう突っ撥ねると、貴方も後で困ることになりますよ? と言い返された。
仕方ないですねー、と先程よりも若干、うんざりとした声色で呟き、パンパンと手を叩いた。すると天井の裏からドタバタという音が聞こえた後、待つこと数分、「雷緒見参!」と頭上からピッチリとした忍び装束を着た小娘が飛び降りてきた。雷緒は周囲を見渡して、状況を確認すると、張勲に向け、両手を合わせてから深々とお辞儀する。
「ドーモ、チョウクン=サン! スパークニンジャです!」
稀に雷緒は可笑しくなる。
こういうのを天の国では、電波を受信する。と言うそうな。
「私、諜報畑の出身ですけど忍者ではないですねー」
張勲の言葉に雷緒はしょんぼりと眉を下げた。(´・ω・`)こんな感じに。
「雷緒さん、例の名簿を出してください」
「え、なんかこうニンジャ的なことをするんじゃないの?」
「もっと忍んでくれるのであれば考えますねー」
ペチンと自分の額と手で叩きながら雷緒はアイヤーと叫んだ。
「お代官様、どうかお納めください」
そして次の瞬間には懐から何処に隠していたのか汝南銘菓の菓子箱を取り出して、蓋を開ける。
中には山吹色の御菓子、ではなく、書類の束が収められていた。蓋の裏には「お主も悪よのお(暗黒微笑)」という台詞に“ここ読んでください><”という小文字が添えられている。
私は暫く考え込んだ後、資料を手に取り、無言でパラパラと中を覗き見る。
「なにか言ってくださいよー! りあくしょん、ぷりぃずみぃ!! グレますよ!? 拗ねますよ!? 夜な夜な忍び込んで添い寝しながら舐め回すように寝顔を堪能した後、起きる前に天井裏から部屋を脱出して、何食わぬ顔で入口から“おはようございます、御嬢様”って晴れやかな笑顔で言いますよ!?」
「筆を持って来てください」
「アッハイ」
シュバッと天井に飛び込んで、どんがらがっしゃーんと音がなった後にバッテンな張り物を額に付けた雷緒が涙目になりながら筆と硯を手渡してきた。
「今回は仕込みじゃないんですねー」
「なにもない場所で転んだりとかしていませんからね!?」
「何を言ってるのでしょうか?」
筆先を硯の墨に付けようとして、硯にはまだ墨がないことに気付いた。
「雷緒さん、墨をお願いします」
「ラジャっす」
軽いノリで敬礼した後、人差し指の先を齧る仕草を見せた後、その指先を硯の上に添える。
すると指先から血ではなく、黒い液体がダラーッと垂らされた。
「……手品は忍術ではないと思うのですがー?」
「四次元殺法を使えば、なにもない空間から物を取り出すことなど容易いものですねえ!」
「それは体術の一種だと認識していますが――まあ、無粋なつっこみは控えるとしますね」
便利ではありますし、と四次元殺法ではなく、雷緒自身に向けて告げる。
古代ニンジャカラテに不可能はありませんよ!(白帯)と粋がる彼女はさておき、墨に浸した筆先で役人名簿に丸を付ける。軍師としての性分、情報の重要性は理解している。いずれは役人を整理する必要は出てくると思っていたので準備だけは進めていた。例えば、上司の命令により、止むに終えない事情で不正を働いていた役人などだ。
まあ、これだけ性急に事が進むとは思っていなかったので目星を付けていただけだが……それでも見栄を張ることは許されるはずだ。
「こんなこともあろうかと」
情報を集めていたのですよ、と軍師が言ってみたい台詞第二位の言葉を告げる。
ちなみに第一位は、今です、だ。
†
張勲に情報を手渡した後、ふうっと溜息を零した。
雷緒は張勲に付けたので私の手足となって動いてくれる者もいなくなり、本格的にやることがなくなってしまった。でもまあ後は彼女達が良いようにやってくれるはずだ。苦難に道を敷くのは今を生きる者達の役目であり、遠い未来を知る周回者は本来、出る幕ではないのだ。未来を知っている為に効率的な手段を知っているが、正しい手順を踏まない発展と進化は歪さを生むのではないだろうか。例えばそうだ、かつて曹操から天の知識に対する見識を聞いたことがある。あれは劇薬だと、たった一滴垂らすだけでも身を蝕む毒となる。天の世界では王が存在していない。大多数の民衆が政治の根幹を担っており、文化の発展と方向性は民衆が決めるのだと云う。無論、今の御時世では難しい。学校という文化が根付いているからこそできる国の形であり、民衆に知識人の少ないこの世界で同じことをすれば、忽ちに国が傾くことになる。経緯を伴わない発展は、必ず何処かで破綻する。そして私達が生きて発展させてきた国の文化が壊れることになる。今世では知らないが、前世の曹操は愛国者だった。誰よりも国を愛していた。劉備は民を愛したが、曹操は国を愛したのだ。だから曹操は、あの天の御使いを重用せず、地道に経験を積ませる。そして天の御使いを大陸の一員として、根付かせようとしていた。文化とは根幹だ、文化とは歴史だ。文化とは信仰だ。文化とは民族だ。文化とは国家よりも更に上位にある概念だ。殷も、周も、奏も、そして漢も、この大地に住む人間が作り上げたものだ。過去から未来へと文化は脈々と受け継がれる、それは黄河よりも大いなる流れであり、大河は多民族をも飲み込んで更に大きく発展し続ける。つまるところ文化さえ残れば、私達が紡いできた意志は失われないのだ。例え、漢王朝が滅びることになろうとも、漢王朝の意志は文化という形で生き続ける。
未来を知る私に今の時代を生きる者達のような必死さがない。それはきっとなにか事を成すには致命的な欠陥だった。歴史とは人々の大いなる流れによって築かれる、そして流れを作るのは熱量だ。誰かの膨大な熱量が他者に熱を伝播させて、未来を切り開くのだ。そういう意味でいえば、自分なりにできることをしようとしていたあの男はの方が今の私よりも何倍も素晴らしかったのだろう。
それはそれとして、前回の私はあれだけ働いたのだから今回の私はまったりしても許されるとも思うのだ。
と私は自らに言い訳しながら惰眠を貪る。だってほら、果報は寝て待てと言いますし。