袁公路の死ぬ気で生存戦略   作:にゃあたいぷ。

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第四話.

 数日後、

 仕事から帰ると賊退治から帰ってきた文醜が私の屋敷に上がりこんでいた。

 ほとんど下着だけの姿で寛いでおり、私が棚に隠していた菓子類を勝手に取り出しては頬張っている有様だ。少しばかり自由奔放が過ぎる友人の様子に、私は苦笑を浮かべながら屋敷に足を踏み入れる。おかえり、とぶっきらぼうに告げられて、ただいま、と頰を緩ませながら答える。冷室に残っている食材を思い出しながら、後で改めて買い出しに向かうことを考慮する。

 今日の献立のあれこれを考えていると「暫くここで過ごすからな」と彼女から突拍子もないことが告げられた。思わず、文醜の顔を見返すと「嬉しいだろ?」とにんまりとした笑顔を浮かべる彼女がいた。

 俯せでパタパタと足を振りながら目を細める仕草は、普段、がさつな彼女から感じさせない色気がある。

 

「誘ってる?」

「違うな、貰いに来た」

 

 歯を見せて笑う文醜に私は目を背ける、今の彼女はあまりにも目に毒だ。

 とりあえず深呼吸、そして、よく食べる彼女の為に買い出しに行くことを決める。

 今、この場にいると間違いを起こしてしまいそうだ。

 

「……冗談は程々に、食べたいものはある?」

「半分くらいは真面目だよ」

「もうちょっと身嗜みには気を付けるように、親しき仲にも礼儀は必要だからね」

 

 そうなのか? と文醜は首を傾げた後、そっか、と頷いた。

 

「私の屋敷に来た本当の理由は、賊退治で汝南に戻れない時期が長らく続いたから屋敷は荒れ放題。どうせ屋敷に戻ることも少ないし、どうせ管理できないのなら汝南にいる時期は私の屋敷に寝泊まりすれば良いじゃん、とかそんな感じでしょ?」

「いやまあ、確かにそれもあるけど……」

「良いよ、別に。私も日中は屋敷にいることが少ないし、部屋も一つ余ってるからね」

 

 異性と同じ屋根の下で二人きり、それを良しとする彼女は常識とか貞操観念というのが些か欠けている気がしないでもない。

 いや、むしろこれは私のことを異性として見られていないことが問題なのかもしれない。これはこれで信頼の証と呼べるかも知れないが、友達以上の存在になれないのは少し苦しかった。う〜ん、と猪々子が下着姿を晒すように体を大きく伸ばした。ちらりと見える脇下か横乳、薄っすらと汗ばんだ肌――思わず見てしまった肢体に私は生唾を飲み込んで、改めて目を逸らす。

 視界の端で楽しそうに笑う文醜、意識してしまったことは気付かれているようだ。

 

「変な噂が立っても知らないよ」

 

 揶揄われることに私は不機嫌さを露わにする。

 しかし文醜は嬉しそうに笑みを深めるだけだ。

 

「構わないな」

「構ってよ、いつか痛い目を見るよ」

「痛い目は嫌だなあ」

「だったら思い改めて」

「思い改める気はないね」

 

 文醜は口元を弧にして、くすくすと肩を揺らした。

 

「反省させたかったら身を以て分からせてみろよ」

 

 一歩、後退った。

 

「それともお前が誰のものなのか分からせる方が良いか?」

 

 いつもの粗雑な印象とは違う、彼女は獲物を見つけた猛獣のように獰猛な目で私のことを睨みつける。

 身が竦んだ、蛇に睨まれた蛙のように体が震えて動かない。細められた彼女の双眸から逃れることもできず、蒼色の瞳に意識がとらわれる。目の前の少女が初めて恐ろしいと感じだ。一歩、近付かれる度に心臓が止まりそうになる。呼吸は短く、荒くなり、まだ距離があるというのに首筋に歯を突き立てられたような錯覚に陥る。頰に冷たい汗が垂れる、呼吸が苦しい。じりじりと肌が焼けるような錯覚、これは殺意か、敵意か。胸が苦しい、心が苦しい。呼吸が止まりそうになる。妖艶な笑みを浮かべる彼女の姿から目を背けることができない。薄っすらと脂肪を纏った筋肉質な肉体から目を離せない。

 じわりと距離を詰められる、その分だけ後退る。

 待って、と両手を上げる。怖かった、体が震えて止まらない。受け入れることができない。今、目の前に起きていることが信じられない――というのに何故、私は笑みを浮かべているのだろうか。待てと、落ち着けと、正気に戻れと、心の内で何度も反芻する。これは違う、ありえない、と首を振りながら後退っていると、背中に壁が当たった。右か、左か、どちらに逃げようか悩んでいる間に、あと一歩の距離まで詰められる。もう駄目だ、と駆け出そうとした瞬間――ドンッ! と耳元の壁に手が叩きつけられた。ひうっと情けない声が出る。胸元でぎゅっと両手を握り締めながら強く目を閉じる。

 鼻先に息が吹きかかる。暫くしても何も起こらず、恐る恐ると目を開けば、目と鼻の先に彼女の顔があった。

 とても楽しそうで末恐ろしい笑みを浮かべている。猫に追い詰められた鼠の気持ちがなんとなくわかった。まるで金縛りにあったかのように動けない。食べられる、どうすることもできない。目頭が熱くなり、鼻の奥がツンとなった。目に溜まった涙は溢れそうで溢れない。逃げられない、逃げなきゃいけないのに。彼女には想い人がいる、そして一時の気の迷いで彼女に心を許したくなかった。きっと嫉妬する、醜い自分が溢れ出す。想いを止められなくなる。だから適度な距離を保ってきたのに、苦痛を感じない距離を保ち続けてきたというのに。どうして彼女は追い詰めるのか、どうして彼女は私を虐めるのか、私は独占したい訳じゃない。幸せを願っているだけで充分、そう思い込むことで心の均整を保ってきた。彼女の顔を見ていると可笑しくなりそうだったから顔を俯ける。それが私にできる唯一の抵抗であり、それは簡単に打ち砕かれた。

 顎下に手を添えられる。首を振って、振り払おうとすれば、顎を掴まれた。ぐいっと持ち上げられる。目の前に想い人の瞳がある、息が吹きかかるよりも近い距離で、彼女の瞳には私の瞳が映っていた。口元に吹きかけられる吐息を吸い込んだ。少し熱の孕んだ吐息が私の肺に満たされる。身動ぎするだけでも唇同士が触れ合いそうだった。実際、呼吸の度に何度か掠っている気がして仕方ない。胸の内側から何かが叩きつけられている、ドクンドクンと全身が熱くなる。

 ふと彼女の顔が目の前を横切って「あたいのものになってよ」と耳元に吹きかけるように囁かれた。

 擽ったい、ゾクゾクッと身が震える。どうしたら良いのかわからなくなって、ギュッと目を閉じる。逃げられないと観念して、訪れるはずの感触を待ち受けた、待ち望んだ。体の方は膝が震えるほどに限界で、想いは言葉にならない。呼吸がわからない、もう心の方が保たなくて、ポロポロと涙が溢れて止まらなくなった。

 情けないけど、もう無理だった。耐えきれない、耐えられない。涙を流すことだけが私に残された唯一の感情表現だった。

 

「えっ? ちょっと、えっ? ああ、もう泣くなよ! 男なんだろっ!?」

 

 普通は女が泣かされるものだろうが、と怒鳴られても困る。

 怖かったし、恐ろしかったし、なによりも嬉しかったし、もうごちゃ混ぜでどうすれば良いのかわからなくなってる。顎から手を離されると膝から崩れ落ちて、壁に押し付けた背を擦るようにへにゃりと座り込んでしまった。体の動かし方も忘れてしまったようで、涙を拭うこともできずに流し続けた。ああもう、と悪態を吐きながら彼女が服の裾で私の目元を拭い取る。それでも立ち上がることができない。完全に腰が抜けてしまったようだ、過呼吸で胸が痛み、苦しくなってきた。

 ハヒッハヒッと前のめりに背中を丸める最中、慌てふためく彼女のなすがままにされるしかなかった。

 

「……なあ、あたいの下で働かないか?」

 

 どうにか心が落ち着けた頃合い、文醜が気遣うような、どこかぶっきらぼうに私に告げる。

 こんな私で良いの? と問い返すと、そんなお前だから良い、と真顔で答えられた。ゆっくりと瞼を閉じる、そして彼女の下で働く自分の姿を夢想した。面倒臭がりな彼女のことだ、自分の屋敷の使用人として雇われるだろうか。日が昇ると同時に目覚めて、身支度を整えてから朝食の準備をする。少し遅れて、その匂いに誘われるように寝惚けた顔の彼女がひょっこりと顔を出すのだ。他愛のない話をして、城に出向く彼女に玄関で別れる。いや、もしかすると城までついて来させられるかも知れない。率いる部隊の兵糧や装備の管理を任されて、報告書といった資料作成を押し付けられるのだ。彼女が練兵に精を出している間、私は書類を睨みつけて部隊の維持費と予算を兼ね合いに頭を悩ませる。面倒なことは全て、押し付けられるのだろうな。そして私の苦労など知らずに満面の笑顔で浪費してみせるに違いない。苦労させられる未来しか見えなかった。それでも、まあ彼女の隣に居られる時間が少しでも増えるのなら、と思う自分はどうしようもない程に手遅れだ。汗だくになった彼女と共に屋敷に帰って、汗を流してもらっている間に夕餉の準備を済ませる。そして御飯を食べながら今日起きたことを話し合うのも良い、他愛のない話でも良かった。気楽にできる話なら、なんでも良い。休日にはだらしない彼女の部屋を掃除したり、洗濯をしたり、家でだらだらし続けるのも良い。時折、一緒に街へと足を運んで――そういえば、彼女は馬賊の出身だった。遠乗りに連れて行ってくれたりもするだろうか、今から騎乗の練習を始めた方が良いだろうか。いや、それとも騎乗の練習を彼女に付き合ってもらうのが良いだろうか。馬に乗る彼女の姿は格好良いから、だからきっと大草原で馬を駆る彼女は惚れ直すほどに素敵に違いなかった。惚れさせて欲しい、呆れさせて欲しい、だらしないことはわかっている。彼女の生活力には期待しない、でも彼女の格好悪くて、だらしないところも好きなんだから仕方ない。好きなところも、嫌いなところも、丸ごと全てを愛してしまっている。

 来るかどうかもわからない未来を想い描いて、むふふと頰を緩ませた。気持ち悪いな、と引き気味に告げる文醜。失敬な。

 

「……少し時間が欲しい」

 

 彼女の誘いは魅力的で、今すぐにでも手を取りたかった。

 しかし私は仮にも役人だ。仕事を辞めるにしても引き継ぎは必要だ。同じ汝南袁家とはいえ本家から親戚筋に仕えるとなれば、それなりの根回しは必要になる。衝動的に決めて良いことではない。だから身支度を整えるまで待って欲しい、と告げる。

 文醜は残念そうに肩を落としたが、すぐに笑顔を浮かべ直してくれた。

 

「それじゃあ次の討伐が終わるまでだ、それまで待っていてやるよ」

「うん、わかった。次の討伐が終わって帰るまでに終わらせておくよ」

「あたいのものになる約束だ」

 

 文醜が立てた小指を私に突き出してくる。

 彼女の笑顔は眩しくて、また目頭が熱くなってきた。きゅうっと胸が締め付けられる、きっと顔は恥ずかしいくらいに真っ赤に染め上げられている。おずおずと小指を差し出すと、その先端同士が触れ合って、ヒュッと息が漏れた。とくんとまた心臓が高鳴って、その瞬間だけ時間が止まったかのように感じられた。頭の中が真っ白になった一秒にも満たない隙間、気が引けそうになる小指を彼女の小指に絡め取られる。繋がっている、力強く絡みついている。

 ゆびきりげんまん――そんな言葉にまた目元から涙が溢れる。もう片方の手で掬い取られた。彼女の指で透明の雫が揺れている。それを彼女の赤い舌がペロリと舐めとった。獲物を前にした猛獣のような目で私のことを見つめる。約束だよ、そんな風に彼女の口元が動いた気がした。ぶるりと身が震えた、怖い、怖かった。もう私の心と体は私のものではなくって、彼女に縛り付けられる。

 また涙が止まらなくなった。苦しいほどに幸せで、涙は嬉しい時に流すものなんだって思い知る。

 

 夕餉を食べた後、文醜は屋敷を出る。

 いつもなら止まるのに今日に限って――と切なさを胸に抱いていると、次の討伐を早く終わらせるための下準備と彼女は答えてくれた。どうやら居ても立っても居られなかったようだ。自由気ままな彼女はあれからずっと浮かれた様子であり、そんな自由気ままで気紛れな彼女を見つめながら、今後も苦労しそうだなと苦笑いを浮かべる。わかっていたことだ。そんな苦労も今では待ち遠しく思えるのだから、恋は盲目という言葉は本当だと思う。だって彼女が視界にいるだけで世界は幸せ一色で彩られてしまうのだから。

 最後に文醜が私の髪に触れると、伸びたな、と呟いた。切った方が良い? と返すと彼女は少し悩んでから、私の耳を髪の中から晒して、綺麗、可愛い、好き、愛してる。と耳元に囁いてきた。なんだか急に気恥ずかしくなった、胸の鼓動がドクンドクンと鳴っている。惚れた女性に可愛いと言われるのは屈辱的なはずなんだけど、でも何故か嫌な気がしない。文字通りに骨抜きになってしまうような感覚、ふらりと地面に座り込んでしまいそうになったら彼女の片腕が背中に回されて簡単に受け止められた。もう彼女は、どれだけ私のことを殺せば良いのだろうか。人はきっと幸せで死ぬことができる、頭の中はのぼせてしまっていた。

 別れ際、頭を撫でられる。それはやっぱり恥ずかしくて、少し不快だったけど、それ以上に幸せだったからもうどうしようもない。

 彼女の姿が見えなくなるまで見送って、それから私は髪先を弄りながら覚束ない足取りで家に戻ろうとする。

 きっと私は浮かれていた、幸せで周りが見えていなかった。

 

 何か背後で足音がしたと思ったら、鈍器のようなもので後頭部を殴られた。

 前のめりに倒れる、やけに冷たい地面の感触を味わいながら複数の足音が感じ取った。

 頭に何か袋を被せられた私は手足を縛られて、体を筵に巻かれる。

 薄れる意識の中で、確かに恋は盲目だ、と私は妙に冷めた心で思うのだった。

 

 

 




タグ:残酷な描写

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