袁公路の死ぬ気で生存戦略   作:にゃあたいぷ。

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前話の最期の一文だけ、書き換えています。


第六話.

 思考を閉ざし、死に体の意識だけが残る。

 打ち捨てられた肉体を拾い上げたのは袁術だった。

 彼女は私の姿を見つけると、すぐに誰かの名前を呼んで助けを求める。暫くして現れた侍女は私の姿を見ると顔を顰めた。嫌悪に顔を滲ませながら最初、侍女は私から距離を離すように袁術を庇おうとしたが、しかし袁術はするりと侍女の腕を潜り抜けて異臭を放つ私の体を抱き締めて「助けてたも、助けてたも」と懇願する。頰に透明色の雫が落とされた、ポロポロと落ちる涙に温もりを感じた。

 侍女は意を決したように表情を引き締め直すと、まず袁術を横に追い払ってから私の体を担ぎ上げる。その際に一瞬、顔を歪めるも、足早に浴室まで運び込んだ。袁術が浴室の扉の陰から心配そうに見つめられる中、侍女に全身を洗い流された後で浴槽に放り込まれる。お湯の熱さが体を芯から温める、失っていた感覚が戻ってくる。それに伴って、涙がまた頰を伝った。長くなった髪に絡まった汚液を丁寧に解しながら清められる。その間、ずっと泣いていた気がする。

 まだ意識は朦朧としている。視界には景色が映っている、視界に映る景色が頭に入らない。徐々に思考が正常に戻りつつあることを感じつつ、それでも私は何も考えたくなかった。寝巻きに着替えさせられて、まだ髪が濡れたまま寝室に運び込まれる。寝台を前にして、思わず暴れ出した。彼女の手を振り解いた後、部屋の隅に自らの体を抱き締めながら蹲る。欲しいのは手首を切る小刀、欲しいのは首を吊る紐。心が死んでいる。呼吸をしている、心臓は動いている。漠然と死にたかった、死に方なんてどうでも良い。このまま消えてなくなりたかった。死にたいと思っているのに死ぬ為の気力が湧かなかった。それは即ち逆説的に生きたいということか。いや、違う。本当になにもする気が起きなかった。何も考えたくない、何も感じたくない。だから、このまま消えてしまいたかった。植物のように静かに死に絶えたかった。考えることをやめる、それだけで苦しいこと、辛いことから遠のくことができる。心の奥底でぐじゅぐじゅと蠢く泥のような感情に目を背けながら消え失せる。それだけが私が求めることだった。

 三角座り、膝に頭を乗せる姿勢でポンポンと誰かが私の頭に手を乗せる。

 

「其方、其方、起きとるかえ?」

 

 少しだけ顔をあげると幼くて見慣れた顔があった。

 見上げるのは初めてな気がする。袁術は心配そうに私のことを見つめていたが、私が顔を上げたのを確認してか嬉しそうに口元を綻ばせる。そして小さな手で私の頰を触れる。また泣いてしまっていたのだろうか、彼女に泣き顔を見せるのが忍びなくて顔を俯かせると「其方、其方、顔を見せて欲しいのじゃ」と私の頭をポンポンと優しく叩かれる。顔を上げると今度は嬉しそうに目を細められた。胸が苦しい、心が痛い。魂が悲鳴を上げている。もう何がどうなっているのか分からない、自分がどうなっているのか分からない。虫が体全身を這いずっており、心は今にも引き裂けそうだった。

 気持ちが悪い。瞬間的に複数人から嬲られた記憶が思い返される。喉奥から酸っぱいものが込み上がってきて、口から吐き出した。肌の内側から何かが這いずる音がする。肌に爪を立てようとした時、少女の小さな手が触れた。その瞬間だけ虫が蠢く感覚を忘れることができた。その一時だけ、体が綺麗に浄化されるかのように――穢れを禊がれる感覚はきっと気のせいなのだろう、穢れた心が肌から染み出すように、虫が皮一枚の内側を這いずり蠢いている。それでも私の目の前に座る少女は太陽のように感じられた。金色に煌めく髪は太陽の輝きと同じだと思った。そこに居るだけで私の肌を焼いて、表面に蠢く虫を蒸発させる。触れるだけで私の身に巣食う虫を蒸発させる。この心の奥底まで蝕む虫を根絶させるには、きっとこの体の奥深くにまで、もしくは彼女の奥深くにまで身を交わらせる必要があるのだろう。

 欲しい、と思った。この穢れに塗れた体を禊ぐ為に袁術が欲しい、と手が伸びた。

 

「襲うかえ?」

 

 それだけを告げると袁術は微笑んで瞼を閉じる。

 身を晒す、あまりにも無抵抗な姿に困惑した。自ら身を捧げる献身的な姿に神聖さすらも感じられた。触れ難いものに触れようとする禁忌、ごくりと喉を鳴らす。私の体は汚れている、私の心は穢れている。もし私が彼女の体を欲してしまえば、この神聖さすらも帯びる少女が壊れてしまう気がした。

 それはそれで唆る。が、伸ばした手を握りしめる。下唇を噛んで、ゆっくりと手を引いた。

 

「……どうしたのじゃ?」

 

 こてん、と首をかしげる。その愛くるしい姿に触れることすら憚れる。穢れた私では触れることすらできない、きっと許されない。

 

「……其方の髪は何時も手入れが行き届いておって、綺麗じゃな」

 

 私の長い髪を彼女が手に取る、綺麗じゃない。

 汚れている。汚泥に浸けられたように、きっと肥溜めのような悪臭がする。悍ましい汚液を染み込ませて、その内側までを侵食させた。

 切ってしまいたい、いっそ根っこから全てを引き抜いてやりたかった。

 

「やめるのじゃ」

 

 髪を握り締める手を優しく包まれる。何故か少女は縋るように私を見つめて、そして私の頭を胸元に抱き寄せた。

 

「其方が汚れておるのなら、妾も汚れてしまっておることになるんじゃぞ?」

 

 今にも泣き出しそうな震える声で彼女が告げる。

 その言葉の真意に気づいた時、私の心は物理的な痛みを伴った。胸が締め付けられる。これ以上の絶望なんてなにもないと思ったのに、自分が侵される以上に胸が苦しくて、怒りが込み上がってくる。何時からだったのだろうか、初めて袁姫と出会った時には……いや、おそらく私と初めて出会った時にはもう彼女は悪意の中に晒されていたのだろう。

 ふと顔をあげると袁術は涙を溜まった目で気丈に笑ってみせる。

 

「……妾は綺麗、なんじゃろ?」

 

 その言葉を聞いた時、もう我慢なんてできなかった。

 力一杯に抱き寄せる。彼女の体は石鹸の匂いが強い、今は私も同様に。涙が溢れる、憎しみや恨みも込めて、それ以上に彼女に対して忠誠を誓った。私だけは彼女を絶対に見捨てない。夢はない、希望もない。世の中は腐りきっている。世界の全てが彼女に悪意の刃を突き立てるというのであれば、私が盾になる。世界の全てが彼女に敵意を向けるのであれば、私が剣となって振り払う。懐に抱きしめる彼女すらも絶望の色に染められている、そんな世の中に私は悪意を向けることを心に決める。前後不覚、彷徨うこともできなくなった私が縋れるのはもう袁術を守るという意思そのものだった。

 歯を食い縛る、喉の奥から嗚咽だけが零れる。

 

「妾のせいじゃ……妾が其方なら良いと言ったから、其方が……」

 

 私は存在そのものが穢れている、口から出す声すらも悍ましい。

 

「貴方のせいじゃない」

 

 だから、簡潔に一言だけを告げる。

 強く抱き締める。強く、強く腕に力を込めた。口を閉ざしたまま言語化できない想いを目一杯に込めて、彼女を抱き締めた。お互いに泣き叫ぶような真似はしなかった。声を殺して、ただ今は互いに違いを縋るように、傷口を舐め合うように抱き締め合った。

 死ねない、私はまだ死ぬ訳にはいかない。この穢れきった体は彼女の為に使い切ると魂に刻み付ける。

 きっと、それだけが私に許された生きる理由だった。

 

 数週間後、

 その日は雲一つない澄み切った青空だった。

 袁紹が賊退治から帰ってきており、文醜はいち早く目的の人物に逢いに向かったのだ。

 しかし屋敷のあった場所には火事の焼け跡が残るだけだった。全てが真っ黒に焦がされた光景を前に呆然としている。

 それは信じ難い光景だったかも知れない。文醜は周辺の住民に聞き込みを始めるが、私と別れた翌日に火事が起きて、屋敷からは屍体が見つかった。という話を耳にするだけだ。嘘だ、と叫ぶ彼女の表情は悲痛に歪んでおり、それから五人に聞き込みをして、同じような話を耳にする。誰かに話を聞く度に顔を青褪めさせて、色褪せる姿は見ていられなかった。それだけ愛して貰えていた、という事実は私の心を疼かせる。

 今すぐに駆け寄りたい気持ちはある。だけど、もう私には彼女の手を受け取ることはできない。

 

「……主君の御厚意ということを忘れないでくださいね」

 

 遠目から文醜の様子を伺っていると後ろから忠告を受けた。

 分かっているよ、と私は女装姿で答える。私はもう死んだ人間だ、だから知り合いに会うことは許されない。それでも最後に一度だけ顔を見たい人がいる、という想いを主君が汲んでくれた。今、この瞬間だけ御目零しを受けている。正体を知られてはならないから遠目から眺めるだけだ。嗚呼、心配だな。不安かな、きちんと御飯は食べているのかな。酒を飲み過ぎてたりしないかな。でもまあ、もう心配するのは私の役目ではない。まだ顔も知らぬ誰か、顔良が彼女の面倒をしっかりと見てくれるはずだ。そう信じよう、信じるしかない。彼女の手を取ることはできない、彼女を私側に引き摺り込むことは絶対に許されない。

 私は意を決して背を向けると「待て!」と怒声が張り上げられた。振り返れば、文醜がおもむろに駆け寄ってくる。

 いや、ちょっと待って、変装しているのに、彼女は走る勢いのまま私を抱きしめようとしてきたから「待って!」と両手を前に突き出して静止する。地声と裏声の丁度、中間辺りの女性らしい声に、文醜は思わず足を止める。拒絶されるとは思っていなかったのだろうか、それとも私の女声に驚いているだけか。

 困惑する彼女に、人違いです、と私は笑顔を向ける。化粧もしている、だから顔を見られても分からないはずだ。

 どうしてだよ、と想い人は震える声で拳を握り締めた。

 

「どうしてそんな格好をしているんだ! 何が起きたんだ、教えてくれ……いや、教えなくても良い! 来い、あたしと共に行こう! 何かに狙われるというならば、あたしが世界の全てから守ってやるッ!!」

 

 その言葉を聞いた時、固めていた決意が揺らいだ。

 文醜と人生を共にしたい、彼女と一緒なら幸せになれると信じていた。夢想する、訪れたかも知れない未来を。これが数週間前であったなら私は確実に連れ去られていた。しかし彼女の幸せを願うのであれば、もう私では駄目だ。きっと彼女を不幸にする。私の体は汚れている、私の心は穢れている。きっと私は彼女に依存する、泥沼の中に引き摺り込むことになる。私は彼女には幸せになって欲しい。貴方なら幸せになれる、と信じている。

 だから私は拒絶の言葉を口にする。人違いです、と自然体で答えた。

 

「私の名前は四ツ葉(よつば)です」

 

 しかし心の弱い私は未練を振り払うことができなかった。

 この名の意味に気付いても良い、気付かなくても良い。今後を思えば気付いてくれない方が良い。

 優柔不断な私の心に折り合いをつける為の情けない言葉だった。

 

「……わ、私は猪々子(いいしぇ)ッ!」

 

 しかし文醜は汲み取ってくれた。

 初めて聞く想い人の真名を深く心に響く刻み込む。

 猪々子、猪々子、うん、彼女らしい真名じゃないか。

 その真名の温もりだけで幸せ過ぎて死にそうになる。

 

「猪々子様、貴方様の益々のご幸福をお祈り申し上げます」

 

 深く頭を下げてから背を向ける。

 

「……なんだよ、なんだよそれ!」

 

 背中越しに怒鳴られる。

 怒られても仕方ないことをしている自覚はあって、つい苦笑する。

 死にたいなあ、嗚呼、死にたい。この幸せを胸に刻んだまま死にたかった。

 

「絶対だ……四ツ葉! 絶対にあたしは四ツ葉を貰いに行くからなッ!! あたしがこの手で四ツ葉を幸せにしてやるッ!」

 

 止まりそうになる足を動かして、振り返りそうになる想いを振り切った。

 残念だけども、私が猪々子を傍で支える可能性はあまりにも低い。悲しいなあ、辛いなあ。初めては猪々子が良かった、何もかもの全てを猪々子に捧げたかった。猪々子にならいくら汚されても良かった、いくらでも穢されても良かった。猪々子の色に染め上げられたかった。監禁されても良い、縛られても良い。それも全て喜びになる、そう考えてしまう時点できっと私は脳髄まで穢れている。

 ここ最近で私は何年分の涙を流してしまったのだろうか。もう枯れ果てても良いはずの涙は未だに止まることを知らない。

 監視役を申し出てくれた給仕姿の女性の横を通り過ぎる。

 

「では戻りましょうか、美羽(みう)様が待っています」

 

 主君の真名を口にした時には、涙は止まっていた。

 

「ええ、そうしましょう。楊宏様」

 

 新しく与えられた名で、これからを生きる。

 過去は記憶の宝箱に入れて、大切に鍵をかけた。

 もう開かれることがないように。

 

 

 




タグの「男の娘」を漸く回収できました。
これにて「蜂蜜よりも甘い毒」は無事に完結です。
次章からはタイトルを改めて「袁公路の死ぬ気で生存戦略」をご期待ください!
とはいえ少し時間が空くとは思います。

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