袁公路の死ぬ気で生存戦略   作:にゃあたいぷ。

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脈動編
第七話.


 姓は楊、名は宏。字は大将。それが今の私を示す記号になる。

 楊家というのは数年前に跡取りが居なくて滅んだ名家の一つであり、今回は金にものを云わせる事で私が跡を継いだ形になった。

 このような面倒な手続きをしているのには理由があって、今、私が女装姿で美羽(袁術)様の身の回りの世話をしている事と大きく関係がある。私が受けた説明では、名門である汝南袁家の次期当主である美羽(みう)様に異性である私と同じ部屋に居るのは風聞が悪いということだ。そのおかげで私の身分は女性となっており、今後、男装の一切を禁じられることとなった。他にも細々とした理由があるようだが*1、政治的なあれこれは私の本分ではない。

 今、問題にすべきは近頃、美羽様の父違いの姉である袁紹が賊討伐で目覚ましい活躍を見せていることだ。

 その影響で袁逢と繋がりの薄い者が「袁紹こそを汝南袁家の後継者にすべき」と声高々に訴えてる。それは即ち袁逢派とは縁の遠い者達であり、美羽様の味方になってくれるかも知れなかった存在だ。世論は袁紹に傾く今、美羽様の味方は着実に減りつつあった。そして今や県令に選ばれており、太守になるのも時間の問題とされている。

 そうなってしまえば、もう手遅れだ。美羽様を守ってくれる存在は、汝南の土地から居なくなる。なにか手を打たなくてはならない。

 

 美羽様の寝室、その寝台に腰を下ろしている。

 いつも私が使っているものよりも高価な布団は体を包み込むように柔らかくて温かかった。

 そして私の懐には美羽様が収まっており、その香りを楽しむように金色の髪に顔を埋める。石鹸の香りは前に比べると弱まった、その為か美羽様個人の匂いが前よりも強く感じられた。首筋で思いっきり深呼吸すると彼女は擽ったそうに、それでいて困ったようにはにかんだ。身の回りの世話をする他、袁家の秘術、その練習で衆人環視の中、夜を共にする時以外はこうやって穏やかに時間を無為にしながら過ごしている。何事もなく、この無為な時間が延々に続けば良いのに――それはあり得ない、そのことを私は知っている。

 充分に美羽様分を補給した私は、周りを見渡した。呆れたように私のことを見つめるのは美羽様の侍女長を務める橋蕤、疎ましげに見るのは美羽様の妹である袁姫。美羽様自身が信じていると言った二人組、だから私も無条件に信じると決めた。

 とはいえ二人、私を含めて三人。たったこれだけが美羽様の味方だった。

 

「あまり密会の時間も取れないので必要なことだけを、ざっくりと説明します」

 

 そういうと橋蕤が姿勢を正した。

 美羽様の髪に埋もれながら深呼吸する。こうすると心が落ち着いた、虫の這いずる感覚が治まる。密室にいる時、美羽様を感じていないと心が落ち着かない。気付けば、自傷を行なっている時もある。そういう時、大抵、美羽様が駆けつけて宥めてくれた。美羽様が私を振り払わないのも、二人が何も言わないのも、そういう事情があっての話だ。自分が可笑しくなっていることは自覚している、それでもまだ正気の部分も残っている。

 橋蕤が、こほん、と咳をしてから続きを話し始める。

 

「私達の最終目標は御嬢様、つまり美羽様を袁家の悪意から逃すこと」

「違うのじゃ」

 

 美羽様が私に抱き締めながら口を開いた。

 

「妾達の目的は、今、この場にいる全員が生き残ることじゃ。誰一人とて欠けることを妾が許さん。特に結美(ゆみ)、肝に命じておくのじゃ」

 

 ふん、と鼻息を荒くしてふんぞり返る。

 結美と呼ばれた美羽様と瓜二つの少女である袁姫は僅かに目を見開き、「はい、御姉様」と嬉しそうに目を細めた。その言葉だけで充分です、という言葉が続きそうな表情を私は見て見ぬふりをする。

 あ〜、と頭を掻くのは橋蕤であり、とにかく、と話を仕切り直す。

 

「逃げるにせよ、守るにせよ。なにをするにしても私達には三つの要素が抜け落ちています」

 

 武力、頭脳、時間と三本の指を立てながら続ける。

 

「先ず武力、逃げ出す際には追っ手を、打倒する際には最低でも袁逢の側近を相手にしなくてはなりません。私は侍女長ではありますが――何処ぞの青州、北海孫家のように完璧で瀟洒という訳ではありません。ただの侍女長です。忍んだりもしません、ただの侍女長です。武力には期待しないでください。そして美羽様は言わずもがな。結美(ゆみ)様は舞の心得はあっても、武の心得はありません。そして見たところ、楊宏様も武は得意という訳ではない様子で」

 

 その言葉に首肯する。護身術程度には剣を扱うこともあるが、基本は身を守る為のものだ。雑兵一人から逃げるのが関の山で倒すことはできない。

 

「どちらの場合でも私達が相手にするのは、紀霊になります」

 

 その名を聞いた時、美羽様を抱きしめる腕にぎゅっと力が込められた。

 紀霊、汝南袁家に仕える者で最も優れた武を持つと呼ばれる女だ。その実力は袁紹が従える文醜、顔良に比肩するとも、上回るとも言われている。そして不思議な蜂蜜を用いて、私が初めてを悉く奪った女の名でもあった。悍ましい記憶が肌に纏わり付いている。

 心配そうに私を見上げてくる美羽様に、大丈夫、と笑顔を返した。

 

「彼女は偏屈的なまで楊宏様に執着しており、もし仮に私達が捕らえられた時、彼女は自らの意思で楊宏様の助命を嘆願してくれるでしょう。よって、追っ手の場合は楊宏様を囮にすれば良いだけの話ですが――」

 

 きっ、と彼女を睨みつける美羽様に、橋蕤は溜息を零す。

 

「――彼女の乗馬術から逃れることは難しい、というよりも不可能です。諦めて彼女に対抗できる者を見つけるか、策を弄する他にありません」

 

 そして意味深に私のことを見つめてきた。

 いざという時は犠牲になれ、と。

 わかってる、と笑みを浮かべることで返事をする。

 

「其方達、気付いとるからの」

 

 じとっと半目になる美羽様に、私と橋蕤は罰が悪そうに視線を逸らした。

 

「其方達にとって妾が最優先なのはわかっておる。でも最後まで生き残ることを諦めるではないぞ? 逃げるときはみんな揃って、これは命令じゃ」

 

 妾が外で一人になっても生きられると思うかえ? と不貞腐れる美羽様に二人して苦笑する。

 覚悟は決めている、美羽様が魔の手から逃すことが私達の希望だ。

 少なくとも私と橋蕤にとってはそうだ。美羽様の傍には、どちらか一人が居れば良い。

 

「私達では紀霊をどうにかする策が思いつかない。楊宏を囮にして対処するにしても、他の追っ手を振り払えるとは思えないわよ」

 

 先程、結美と呼ばれた少女、袁姫が話を繋げる。

 

「だから最低でも追っ手をどうにかできる存在が必要になるのだけどね。正直、私達では誰がお母様……袁逢に忠誠を誓っているか、そうでもないのか、判別することができないわよ。正直、探りを入れるだけでも命がけよね」

 

 話術が巧みなやつもいないし、と袁姫は甘菓子を口にした。

 

「それが頭脳が足りない、といった部分になります。私達には誰が敵で、誰が味方に成り得るのか判断できない。逃げ出したところで袁家の情報網、包囲網から逃れるには大陸を出る他にありませんし……異民族相手から身を守る力もなくて……」

 

 それに時間の問題もあります、と橋蕤が続ける。

 

「あの妾の子……もとい、袁家の肥溜め……もとい、袁紹が台頭してきた今となっては時間が経てば経つほどに私達の不利になります。それとは別に期限がもうひとつあり、それは秘術の訓練。今は楊宏様が一人で御相手を勤めていますが、段階が進むに連れて、御嬢様が相手にする人数が増えます。先ずはひとり、そしてふたり、最終的には十人以上を相手にすることが訓練内容に組み込まれています」

 

 ぶるり、と懐に収まる美羽様が身を震わせた。橋蕤は私と結美に視線を投げる。

 

「私は訓練の後始末を申しつけられていますので訓練に参加できません。二人目には袁姫様が志願する手筈になっていますが、これも確実ではない。つまり時間が経てば経つほどに御嬢様の負担は増える、その前に私達は行動を起こさなくてはなりません。ついでにいえば、密会の時間も満足に取れません。私達には武力も頭脳も時間も足りない……」

 

 どうすれば良いのか。

 名案のひとつも思いつかず、沈黙が寝室を重く包み込んだ時だ。

 美羽様が、ぽつりと零した。

 

七乃(ななの)のせいじゃ……あやつがおらんから妾はこんな目にあっておる……」

「……七乃?」

 

 私は橋蕤を見た、首を横に振る。袁姫も同じ反応だった。

 

「えっと美羽様、七乃というのは?」

「七乃は七乃じゃ! それに七乃は真名じゃぞ! 四ツ葉と言えども許せん、さっさと訂正するのじゃ!」

「も、申し訳ありません! 訂正します!」

 

 膝上で暴れ出す美羽様に慌てて謝罪した。それで怒りは納めてくれたが、ふん、と不機嫌に腕を組んで黙り込んだ。

 

「それで御姉様、私、その人物の名前は初めて聞いたのだけど? 友達いたの?」

「七乃は友達ではないの、妾の側近で太鼓持ちじゃ。まあ今回はまだ出会っておらんからの、知らぬのも無理はない。今まで三度共に会いに来てくれたのに今回は全然来てくれぬ……なにをしておるのかの、妾がこんなにも困っとるというのに……」

「ちょっと待って、御姉様。何を仰られているの? 側近なんていないでしょう?」

 

 困惑する袁姫に、とにかく、と美羽様が告げる。

 

「七乃じゃ、七乃がおれば頭脳の問題は解決する。悪巧みをさせれば、あやつの右に出るものはおらんからの」

 

 ほっほっほっ、と笑う美羽様に私達三人は見合わせた。

 七乃という人物が誰なのか分からない。話を聞き出そうか、と思った時、橋蕤が首を横に振り、時間が少ないことを告げる。

 そして解散する直前、最後の質問は橋蕤に委ねられた。

 

「それでその人物の名前はなんというのでしょうか?」

「七乃じゃぞ?」

「いえ、真名ではない方です」

「なんじゃったかの?」

 

 こてんと首を傾げる主君に、私達三人はこの日一番の大きな溜息を零した。

 

 

*1
例えば、美羽様の付き人は名家出身の者でなくては顰蹙を買う等。




逃げる時はみんな一緒に、そんなことを言っていた人が何処かに居ましたね。
美羽様がこの先生きのこるには。

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