「……ん」
刑部は目覚めた時、妙な肌寒さを覚えた。それが隣に寝ていた筈の熱源の消失が原因であると気付いたのは、少し経ってからである。見上げた天井、ぼんやりと靄の掛かった思考を払拭し横向きに姿勢を変える。するとそこに在る筈の影は既になく――やや乱れたシーツがあるだけ。刑部は目元を拭い、呟いた。
「依織さん?」
返事は――ない。どうやら既に部屋から去った後らしい。刑部はゆっくりと上体を起こし部屋を見渡す。彼女の姿は――やはりない、時計を見ると未だ早朝、非番である為急ぐ必要もないがAS乗りの性だろう。ふと、デスクの上に見覚えのないメモを見つけた。丁寧に、女性らしいやや丸みを帯びた文字で書かれた文。そこには先に起床し、自室へと戻った旨が綴られていた。
どうやら寝坊してしまったらしい、刑部は跳ねた髪をくしゃりと撫でつけ、メモをデスクに畳んで仕舞うと、顔を洗いに洗面所へと赴いた。蛇口を捻り冷水で顔を洗う、眠気を覚ますのにこの冷たさは丁度良かった。そして積み上げられたタオルの一枚を掴み、拭う。滴る雫を払い息を吐くと靄の掛かった意識がはっきりとした気がした。
不意に鼻に違和感を覚えた。頬をタオルで拭いながら顔を上げると、鏡の向こう側に立つ己が赤を流している。鼻血だ、口元に垂れるそれを見て思った。
「……?」
暫く茫然としていた。鼻から流れる赤に触れて、漸く出血しているのだと気付く。白いタオルが点々と、赤い血を沁み込ませていた。少して、目元からも血が滲みだした。血涙、そして鼻血。刑部は手に持ったタオルで鼻と目元を拭う、赤く染まる白。どうにも、止まる気配はない。
「……薬は、ちゃんと飲んだ筈なのに」
まるで古いフィルム越しに世界を見ている様だった、それが一時のものであると理解していても嫌な汗が噴き出す。刑部は覚束ない足取りでベッドに戻り、スタンドの傍に置いていた薬剤ケースを手に取った。中から錠剤を取り出し掌に取ると、その指先が震えている事に気付いた。意識の裏側がざらつく感覚――脳過負荷と同じ症状だ。
これは、いよいよか。
刑部は知らず知らずの内に笑みを浮かべる。自棄になったとか、自嘲しているとか、そういう事ではない。ただ自身の体が確実に蝕まれているという事実を目の当たりにして、どうしようもない虚無感に襲われた結果だった。
――果たして自分は御役目の時まで生きている事が出来るだろうか。
掌に零した錠剤を呑み込み、思う。薬の効果が短くなっている、手持ちで後何日生きられるかすら定かではない。恐らくこの症状では二週間に一回、消費は倍になる、そうなれば残りの数では一年――は耐えられないだろう。半年、いや、出撃分を加味して長くて三ヶ月、短くて。
「一ヶ月、かな」
そこまで口にして、ふっと、肩から力が抜けた。今にも消えてしまいそうな――綺麗な笑み。虚脱感はある、しかし同時にそこには確固たる意志が宿っている。
良いさ、死ぬ事は怖くない、それは実際に一度死にかけ、良く分かった。刑部は己に言い聞かせる、死は恐ろしくなどない、あぁそうさ。
鏡の向こう側の男を思い描き、断じる。
精々上等な人の為に、力を尽くして死のう。それが己の役割であり、義務である
■
「それで、話と云うのは?」
場所は刑部の私室より僅かに離れた廊下、その階段脇。人通りが少なく、やや薄暗い。蓮華は静かに、目前に立つ天音に対し問いかけた。天音は何かを言おうとして、しかし一度口を閉じ、良く吟味する様に数秒瞼を閉じて、それから告げた。
「……蓮華さん、言いましたよね、刑部君を連れて行くなら好きにしろって」
「あぁ、彼奴ひとりで出来る事など高々知れておろう、好きにすれば良い」
「私、刑部君を連れて逃げたいんです」
蓮華は真正面から天音を見ていた。蓮華は彼女のその言葉に、冷やかな視線一つ寄越さず、ただ水面の様な面持ちで佇んでいた。その表情を無反応による返答だと思ったのか、必死に口を開く天音。
「けれど私、馬鹿だから、どうすれば良いのか分からなくて……ずっと外側で生きて来たんです、私、それに病気の母が居て、小さい妹も、私が逃げたら折角内側に住めるようになった家族がまた外側に追いやられてしまう」
「……それで、吾にどうしろと?」
やや、要領を得ない彼女の言葉に蓮華は投げやりに応じた。その表情は変わらず淡泊で、天音は数秒息を詰まらせる。しかし、頼れる人間は少ない。そしてその中で、最も事情を知り、道を開く可能性を示唆してくれる人物が彼女だった。
「助けて欲しい、なんて安易に言いません、ただ知恵を貸して欲しいんです」
天音は苦し気な表情を浮かべ、そう告げた。知恵が欲しい、この現状を打開する知恵が。どうすれば良いかなんて、この頭では思いつかない。家族も助け、刑部も助ける、そんな都合の良い未来を掴み取る術が天音には思いつかない。蓮華は凡そ予想は出来ていたのだろう、やはりかという言葉を呑み込み、代わりに小さく息を吐いた。
「好きにしろとは言ったが、まさかこんな話を聞かされるとはな……何故、吾なのだ、もっと別の信頼できる者に、それこそ部隊の面々に相談すれば良いだろう」
「ナインは多分、根気よく説得すれば助けてくれると思います、心から賛同はしてくれないと思いますけれど……セブンさんは、分かりません、賛同してくれるような気もしますし、してくれない気もします、刑部さんは――」
刑部の名を口にし、天音はやや言い淀んだ。それは刑部に打ち明けた場合の未来が容易に予想出来たからだ。
「刑部さんは、きっと逃げようと言っても頷いてはくれないでしょう、だからもしそうなった時、私は彼を無理矢理にでも連れ出すと思います、勿論、提案はします、しますけれど――きっと、断られます」
「……まぁ、彼奴ならばそうなるか」
確信がある。天音も、蓮華も――刑部ならばそうするだろうという、確信が。きっと彼奴は必死に事情を説明し逃げようと手を差し伸べたところで頷くまい。困ったように笑いながら首を横に振るに違いなかった。「ありがとう、その気持ちだけで嬉しいよ」なんて言って。そうして、その足で戦場に死にに行くのだ。その光景を想像して、蓮華は顔を顰めた。それを天音の都合の良い言葉を聞いたせいという事にして、やや口調を荒げ言う。
「要するに貴様は家族も、刑部も、どちらも見捨てたくないと、そういう話か」
「……そうなります」
「傲慢だな」
ぐっと、天音が喉奥で唸った。その通りだと自分自身で思ってしまったからだ。内側の家族は助けたい、けれど傍の刑部も見捨てられない。だから両方救いたい――傲慢だ、これ以上ない程に。蓮華は腕を組み、天音を見据えると冷たさすら感じさせる口調でその傲慢を咎めた。
「何も捨てられぬ者に得られる物などない」
「っ、でも、両方……大切なんです」
それは天音の偽らざる本音。大切なのだ、どちらも。簡単に捨てられる様な対象ではない。家族は天音の過去だ、刑部は天音の未来だ。それはどちらが欠けても己ではなくなる。刑部と共に在れない未来など考えられない、同時に家族を失った己もまた、考えられない。
「決断しなくて良い人生があるならば、実に楽であろうな、どちらも選ぼうとする気概は買うが……それは強さではなく、弱さだぞ」
蓮華の指先が天音の額を打ち、鈍い痛みが走った。天音は呻き、打たれた額を指先で抑えながらぐっと唇を噛む。返す言葉もなかった。口を噤んで項垂れる。実際、そうなのだ。これは選択できない己の弱さが悪いのだ、傍から蓮華に語る様な内容ではない。己が選び、決断すべき内容なのだから。答えは分かり切っていた、蓮華の協力は得られない。その事実を悟った時、天音は嘗てない程の虚脱感を覚えた。
影を背負い、項垂れた天音を見て蓮華は数秒程難しい顔を見せた。そして、大きく溜息を吐く。数秒、感情を整えるだけの時間が必要だった。胸中に渦巻く感情は複雑だ。蓮華は目の前で項垂れる――【見覚えのある影】を一瞥し、強く瞼を閉じた。
前の彼奴も、そうであった。
「……はぁ、つくづく吾も、丸くなったものだ」
それは天音に向かって言ったというより、自分自身に向けた独白だった。
「――一ヶ月、いや、一月と半程か」
「えっ」
「逃げ道を用意してやる」
唐突に告げられたその言葉に天音は俯けていた顔を上げ、蓮華を見る。彼女は天音の方を見る事無く、腕を組んだまま顔を逸らして吐き捨てるように言った。
「これから感染体との戦闘は激化するだろう、特にFOBや内陸からの侵攻はな、前線に立つ機会も増える筈だ、彼奴と同じ小隊ならば尚更――戦死したAS乗りの家族には当人の配給優先権がそのまま残る、住居も同じだ、更に手当も出るだろう、内側にそのまま留まれる、内陸の派兵に乗じて逃げ出すと良い、刑部の処理は聊か手間だが……AS乗りが二人、死んだところで日常茶飯事だからな」
それは。
それはまるで、自分と刑部が逃げる手助けをしてくれると言っている様に聞こえた。天音は恐る恐る、ぶっきらぼうに告げる蓮華に問いかける。
「良いん、ですか」
「何だ、こういう事を期待していたのではないのか」
「い、いえ! その、まさかそこまで助けて貰えるなんて、考えてもいなかったので」
助言を貰えるだけでも御の字だった。それがまさか、そこまで手を回して貰えるなど望外の喜びだ。天音は望んでいた以上の結果に狼狽し、緩みそうになる頬を必死に引き締めていた。
「……逃げ出した後の事は知らん、脱柵後は自力で何とかしろ、野垂れ死んでも吾は関与せぬ」
「は、はい、ありがとうございます!」
深く、頭を下げる。蓮華はそれを見て、ふんと鼻を鳴らした。返す言葉すら同じか、影が重なって見えて仕方ない。
「でも、どうして……」
「……貴様と似た様な事をした人間を、知っているだけだ」
蓮華は一瞬天音と視線を交差させ、呟いた。文字通り、同じことをした人間を知っている。蓮華の瞳は天音を通し、過去を見ていた。感傷だろうか、自身に問いかける。いや、これはそんなものではない。そう己に言い聞かせ、踵を返す。
「少々長居し過ぎた、吾はFOBに戻る――処理が済んだら貴様の端末に連絡する、それまで精々死ぬなよ、吾の助力が無駄になるからな」
「はい!」
背後から張りのある声が響いた。余程進退窮まっていたらしい、それが解決され生気を取り戻したというところか。見なくとも分かる、今天音は笑っているだろう、何の憂いも無く。だからこそ、思う。
「まぁ――どうせ無駄になるだろうがな」
天音に聞こえない場所まで足を進め、呟く。声は虚空に溶けて消えた、結末は決まっているのだ。ずっと、今までがそうだったように。天音の姿はもう見えない、廊下の角に消えた。だからこそその影を意識する。
「所詮、同じ存在という事か、伊鳥……これで二十三……いや、逃避行は二十四回目だったか? 毎度毎度、無駄な事を」
無駄と、そう蓮華は断じる。だというのに声に隠しきれない羨望の念が滲んでいた。蓮華はそれを自覚していた。自覚していたからこそ、やるせない感情が胸に燻って仕方ない。自分にはその、逃げ出す覚悟すらなかったのだから。
拳を強く握りしめ、壁を打った。無意識の行動だった。彼女らしからぬ、無駄な行いだ。そんな事でしか胸内の感情を誤魔化す事が出来ない自分にまた、腹が立つ。暫くの間、蓮華はその場から動く事が出来なかった。
刑部が部隊に復帰して間もない頃の、一幕である。
■
「お帰りなさい、セブンさん、ナイン」
「あぁ、ただいま」
セブンとナインのメンテナンス期間が終わった。そう依織に知らされた刑部は彼女たちを出迎えるべく、ウォーターフロント内側へと続く玄関口である検問所へと向かった。今回は徹底したメンテナンス及び内部機構品の取り換えという事で、一度彼女たちはウォーターフロント内部の研究廠に送られている。簡単な修理、メンテナンス程度は基地内で済ませる事も可能だが、頭部領域を含めた部位の検査も含めるとなると専用の設備が必要となるらしい。そう言ったものを前線と成り得る場所に置いておくことは出来ない。もう人類には、その類の装置を十二分に確保するだけの力もないのだ。いつも通りの恰好と様子で帰還を果たした二人は笑顔で刑部に手を振り、再会を果たした。
セブンなどは仰々しく手を広げ、刑部を誘う。その表情はどこか自慢げだ。刑部は肩を竦め乍らもセブンの抱擁に応じ、暫しその温い体温を感じた。セブンは両腕で刑部を強く抱きしめながら笑みを零す。
「ふふっ、良いものだな、男に出迎えられるというのも」
「俺で良ければ幾らでも、それでメンテナンスの方はどうでしたか?」
「……良好だ、特に問題なし、念入りに検査して貰ったからな」
そう言って刑部の頭に顔を埋め、「んー」と呻きながら何度か鼻を鳴らすセブン。大きな犬の相手をしている気分になる刑部。セブンの後頭部を優しく撫でながら苦笑いを零し、そのまま背後で微妙な視線を寄越すナインに声を掛けた。
「ナインも、お疲れ様」
「えぇ、はい……」
刑部の言葉に対し、どこか歯切れが悪い返事をするナイン。セブンの奇行のせいだろうか、多分そうだ、そういう事にしておこう。セブンは一通り刑部の匂いを嗅いで満足したのか、背中を軽く叩いて身を離すと、先ほどよりやや真面目そうな表情を取り繕って問いかけた。相変わらず、妙なところで切り替えの早い人だと内心で思う。
「それで、私達が居ない間に何か変わった事は?」
「特には、依織さんと警邏を三度、問題なく終えました」
「そうか、まぁ元々知り合いだったらしいからな、問題など起こらないか」
セブンの声には実感が籠っている。顎先を指でなぞり二度、頷いて見せた。そしてじっと刑部を至近距離から見つめ始める。一体今度は何だと刑部は目を瞬かせ、その視線を真正面から返した。そしてセブンはやや目を細く絞り、問う。
「抱いたか」
「……えっと」
一瞬、言葉に詰まった。誰をとか、どういう意味でとは、聞く気になれなかった。彼女の視線から感じ取れるそれは明らかであり、刑部は頬を掻きながら首を振る。
「ただ、寝床を一緒にしただけです」
「ほう」
その答えが意外だったのか、若しくは信用していないのか、セブンは眉をやや上げるだけの反応を見せ、笑って見せた。驚いたのは刑部である、彼女の事だ、てっきり怒るか、そうでなくとも独占欲のひとつやふたつ見せるかもしれないと予想していたが――刑部はセブンを不思議そうに見つめ、問う。
「……怒らないんですか?」
「怒っては、いる、というか胸の辺りがむかっとはする、だが今はそれよりも優先する事がある――ただ、それだけだ」
その言葉を聞いて刑部はどこか惚けた顔を見せ、それからゆっくりと微笑んで見せた。
「セブンさん、変わりましたね」
「成長した、と言い換えてくれ」
「……えぇ、そうですね」
確かに、そちらの表現の方が正しいかもしれない。成長――少なくとも、己に振り回されないだけの強さを得た。それは成長というに相応しいものだろう。セブンはふふん、とどこか得意げな顔を見せた後周囲を一瞥し、「そう言えば」と言葉を紡ぐ。
「天音と依織はどうしている? この場には居ない様だが」
「依織さんなら今日で原隊復帰ですから、そちらの対応に、天音はそろそろ来ると思いますけれど……」
「すみません、遅れましたっ」
刑部が答え、遅れて声が響く。振り向くと丁度廊下の向こう側より天音が駆けてくる所であった。息を弾ませ、やや頬を赤らめた天音は三人の前で立ち止まり、膝に手を付いて肩を上下させ息を整える。
「はぁ、すみません、ちょっと色々立て込みまして」
「急用?」
「あぁ、うん、大丈夫、ちゃんと片付けてきたから、心配しないで刑部君」
刑部の方に赤らんだ顔を向け、笑って見せる天音。二度、三度深呼吸を繰り返し、胸を何度か叩いた天音はセブンとナインに向かい合い、告げた。
「お帰りなさい、セブンさん、ナイン」
「あぁ、戻った」
「はい」
漸く戻ったという実感が湧く。と言っても高々一週間程度だが――それでも、やはり己の居場所だという感覚がある。セブンは、そしてナインも自覚、無自覚問わず暖かな感情を抱いた。
「一週間程度でも、随分懐かしく感じるものだな」
「まだ小隊結成から余り経っていない筈なんですけれどね」
「……確かに、何となくホッとするというか、安堵するというか」
「うむ……それはそれとして、私はハンバーガーが食べたくて仕方ない、PXに行くぞ」
挨拶もそこそこに、セブンは待ち切れないとばかりにそう告げる。一週間、好物を碌に口する事も出来なかった反動だろうか。刑部はそんな彼女の様子にやや呆れるものの、彼女らしいという気持ちもあった。
「相変わらずというか、寧ろ安心します」
「ははは、確かに、天音、昼飯は?」
「あ、うん、まだ食べてないや」
「なら皆で一緒に食べましょうか、セブンさん」
「あぁ」
刑部の誘いにセブンは一も二もなく頷いて見せる。そして肩越しに振り返り、ナインに声を掛けた。
「ナインも、それで良いだろう?」
「……はい」
凡そ予想はしていたのだろう。やや辟易としながらも、しかし仕方なさそうに頷くナイン。何だかんだと云いつつ、彼女も暫くの間食物を口にしていない。食という娯楽を知った彼女も満更ではない様子であった。
「あぁ、そうだ刑部」
「はい?」
何かを思い出した様に手を打ったセブンは刑部の腕を掴み引き寄せると、その耳に口を寄せて呟く。
「今日の夜は空けておけよ」
「……了解です」
口調は強く、様々な感情が籠っていた。横目で彼女の表情を盗み見れば――何とも、人と変らぬ貌をした機械人形が一体。それは、良く刑部が内側で見た顔と瞳だった。セブンの瞳が真っ直ぐ自分を射抜く。刑部は肩を竦め、穏やかな笑みと共に頷いた。
■
「セブンさん」
小隊の面々と食事を終え、自室へと戻る途中。刑部と天音は宿舎へ、ナインとセブンは機械人形用のパーソナルルームへ足を向け、別れた。その道中、前を歩くセブンの背中にナインは大きくも小さくもない声で問いかけた。
「……今回の件、小隊の皆には」
「話すつもりはない」
断固とした口調であった。視線は真っ直ぐ前を向いている、足も止めない。セブンは振り返る事も無く、淡々とした口調で続ける。
「大々的に上層批判などしてみろ、白い目で見られるだけならば良いが、最悪初期化処理も受けかねん、誰が敵で味方か分からない現状、無暗矢鱈と吹いて回るのは悪手だ」
「それは、刑部さんや天音さんもですか」
どこか責めるような問い方であった。しかしセブンは一瞬間を置き、否定する。
「――二人の場合は、少し違うな」
やや大股で進んでいたセブンの足が止まった。釣られたようにナインも足を止め、彼女に視線を向ける。セブンは目線を下げ、ゆっくりと息を吸った。周囲に視線を向け、人影が無い事を確認する。そうして踵を返したセブンはナインと向かい合い、その視線を真っ向からぶつけた。
「ただ単純に、私が守りたいだけだ」
「それは……」
「余計な負担を掛けたくない」
それが本音だ、偽らざるセブンの本心と言い換えても良い。
天音と刑部は小隊の仲間である、その仲間に隠し事などしたくない。寧ろ、警告の意味も込めて伝えるべきだと理性は囁く。しかし、二人は小隊の仲間である以前に『人間』なのである。肉の体を持つ、本当の、人間だ。
セブンはこの情報から齎される心理的な負担を重く見ていた。ウォーターフロント周囲百五十キロは見えない壁に囲まれていて、自分達は感染体と一緒に閉じ込められています――何て伝えて、二人がどんな感情を抱くのか。分からないセブンではない。
更には今回の一件にて四十人委員会が完全な敵対組織である事が分かった。少なくとも依織の持つあの映像は、正しかったという事が証明されたのだ。それはセブンやナインが想像していた以上に事態が悪化している事を示している。考え得る限り、最悪だ。
「……唯一の拠り所であるウォーターフロントのトップが裏切者だとして、そんな場所で安穏と寝ていられる奴ではあるまい、特に天音はな」
「しかし、万が一の事を考えた場合、事前に伝えていた方が良いのでは――」
「否定はしない、しかし伝えるにしても、もう少し情報が集まってからの方が良い……例えばあの壁の向こう側に何があるか――何て、分かった後でも遅くはあるまい?」
セブンは腕を組み、やや挑戦的な笑みを浮かべながら告げた。悪い報告ばかりではポジティブにはなれない。しかし、吉報も混じればどうか。意図を汲み取ったナインはしかし、難しい表情を浮かべ言った。
「希望を持っているのですね」
「あぁ、ナインはどう思う、あの壁の向こうには何があると考えている?」
「……私には皆目見当も――あのような壁がある事自体、私達は知らなかったのです」
「だが想像する事位は出来るだろう」
所感を述べろと言われているのだと、ナインは理解した。その言葉にナインは数秒程瞼を下ろし、思考に没頭する。とは言え別段奇天烈な発想が思い浮かぶ事は無い。あの、巨大な壁の向こう側に何があるか。思考はものの数秒程で済んだ。
「……順当に考えれば、外海と、本土が広がっているのではないでしょうか」
「それは感染体に荒らされた廃墟の本土か?」
その言葉は期待を帯びていた。ナインはゆっくりと瞼を開き、セブンを見る。
「壁の外には、感染体が居ないとお考えなのですか、セブンさんは」
「そうだ、都合の良い、実に夢見がちな考えではあるが――ははっ、機械人形が【夢見がち】など、少し、いや、大分可笑しいがな」
セブンは己の言葉を自覚し、笑った。けれどその笑みはどこか苦しそうで、自嘲的であった。感染体の存在しない本土――実に理想的だ。余りに理想的過ぎて現実味がない。まるで絵画の中の世界の様に思えた。
「だが、もしそんな場所があるのなら……最高だろう」
目を伏せ、セブンは呟く。壁の外には何がある? 感染体に荒らされていない、『嘗ての世界』が存在する。そんな都合の良い夢をセブンは見ていた。可能性としては限りなく低い、しかしそもそもあんな巨大な壁が存在する事自体、『あり得ない事』なのだ。であればこそ、セブンの語る『あり得ない』夢物語さえ叶う可能性はある。そう、己に言い聞かせる。
ナインは小さく息を吐き出し、首を横に振った。それはセブンの考えを否定した訳ではない。しかし、彼女の表情には少なくない諦観の念が見え隠れしていた。確率は零ではない、だが――。
「否定はしません、あの様な壁が存在する以上、どんな秘密が隠されていても可笑しくはありませんから……ですが、私としましては寧ろ、『その反対の可能性』の方が高い様な気がしてなりません」
「反対の可能性とは、何だ」
セブンが俯いたまま、ナインに視線を寄越す事なく問うた。声は淡々としていて無機質であった。ナインは思考する、もしあの壁の向こう側にセブンの言う理想郷――即ち感染体の存在しない、まっさらな本土が広がって居るというのならば。
それはつまり、壁の外には自分達以外の人類、或いは知的生命体が居るという証拠に他ならない。何の為に壁を作るのか? 壁というのは、押し留める為のモノだろう。つまり、感染体が外の世界へと抜け出さない様にしているのだ。
もしそれが真実ならば自分達は餌と言っても良い――その真っ新な本土に感染体が侵攻しないよう、抑える為の。
だって、そうだろう。他に、壁の内側に生物を放り込む理由が分からない。この考えが正しいとすれば壁を設立したのはウォーターフロント側ではない筈だ。或いは、委員会はグルである可能性はあるが……。
【自分達を閉じ込めた誰か】が壁の外には存在するというのなら、ウォーターフロントに住まう僅かな人類は生き残りなどではない、全人類の中から選抜された生贄。或いは、単なるモルモットか。何て救いのない思考だ、ナインは己で考えておきながら吐き捨てる。セブンは外に理想郷が広がっているというが、それが真実ならば泥沼の戦争の予感しかしない。仮に上手く――本当に上手く感染体を駆逐出来たとして、壁を破壊すれば今度は外界の人類と戦う羽目になるだろう。無論こんなものは只の憶測と妄想に過ぎないが。
では――逆ならばどうだ。
つまり、外が真っ新な本土などではなく、文字通り感染体の跋扈する廃れた大地と化している場合。壁は、外海や本土に存在する強大かつ大量の感染体を防ぐ為の物。ウォーターフロントに存在する人類は本当に僅かな生き残りで、委員会が壁の存在を秘匿していたのは万が一にも壁を破壊し外へと出ようと考える者を出さない為。
一応だが、説明はつく。寧ろ、此方の方が『それらしい』とも言える。尤も、救いのなさで言えばどちらも変わらないと言えば変わらないのだけれど。
「あの壁は明らかに人類か、それ以上の文明を持つ者の手で作られていました、感染体の手によって設けられたものでないのならば『内から作った』か、『外から作った』の違いがあります、そしてもしセブンさんの言う様に外の世界に荒廃していない、嘗ての本土が広がっているというのなら――壁を設けたのは、その大地に住まう存在でしょう、感染体ごと我々をこの壁の内側に閉じ込めたのです」
「反対に、もし内側から作ったものであるのならば、外の世界は感染体で溢れているでしょう、その大量かつ強力な感染体が入り込まないよう、壁で以って外界を遮断したのです、委員会がこの壁の存在を秘匿していたのは、外界に意識を向けられないよう、万が一壁が破壊されれば強力かつ夥しい数の感染体がウォーターフロントに殺到する為――此方の仮説の方が、らしいとは言えるでしょう」
可能性としては後者の方が高い気もする。しかし、そんなものは所詮可能性の話だ。どちらであってもおかしくはない、既にこの世界そのものがナインやセブンの想像を遥かに超えた場所にあるのだから。
「……どちらにせよ、知ってしまったのであれば後には退けません」
「あぁ……あぁ、その通りだ」
知ってしまった以上素知らぬ振りは出来ない。進む道はあっても、退く道はない。あの壁の向こうがどんな世界なのか――感染体の蔓延る本土なのか、或いは白く汚れを知らぬ理想郷なのか、何れ分かる事だ。否、己たちが解き明かさなければならない。
「今後の予定は」
「例の【情報を持っている存在】とやらに接触する、依織と一緒にな――連絡があるまで、普段通りに過ごせ」
「……了解」
セブンは低く、淡々とした口調で告げた。ナインもまた、静かに頷きを返す。二人の声だけが回廊に響いていた。
誤字脱字報告、いつもありがとうございます。