微睡みの中で初めに感じたのは花の香りだった。幸福と平穏を内包した優しい匂い。
揺り籠の中のような、母の腕の中のような幸せな底から徐々に意識は浮き上がり、遂に
瞼は何一つ問題なく自然と開き、瞳はボヤケた景色を写す。
二、三瞬きを繰り替えすとずれたピントは正常に修正され、その結果目に入ったのは黄昏色の空だった。
次いで視界に入ったのは風に舞い上がる沢山の花びら。
先程感じた花の香りと、それから背や後頭部に感じる土の感触からどうやら自分は今花畑に居るということが分かった。それも地面に直に仰向けになって寝そべっているらしい。
しかし問題はどうして今自分は花畑に居るのか、ということだ。
記憶にある限り過去に一度として意識して花畑に行こうなんて思ったことは無いはずだし、特別花が好きだと言う訳でもないはずなのに、どうして今はこんな所に?
「ん?記憶にある、限り?」
自身の思考に何らかの違和感を覚える。何かが頭の片隅で引っ掛かったような不快感。
謎の正体は喉まで出てきているのに言葉にならない。
そんな中、誰かの足音を耳が捉える。
花をかき分けながらこちらへ近づいてくる音源へと顔を傾けてみれば、真っ白な長髪を風になびかせ、髪色とは少し違う純白のローブに身を包んだ青年が立っていた。
「やぁ、目が覚めたんだね。気分はどうだい」
「気分は……悪くはない。体に不調もないようだし。でも――」
「記憶がない、かな?」
青年の指摘はまさにその通りだった。今まで感じていた違和感、その正体は記憶の欠落。
花畑に行った記憶は無い、だがそもそもでそれ以外の記憶もまた思い出すことが出来ないのだ。
俺を育ててくれた父と母の顔も、もしかしたら居たかもしれない兄や姉、弟や妹についても。学校に通っていたのか、そこに友人は居たのか。誰かと恋に落ちて共に人生を歩むことを誓いあったのか。そういった人間が通常生きていれば蓄積していたであろう軌跡が脳内に存在しない。
別に言葉を忘れたわけではないのだ。
眼の前の彼と会話を成り立たせることも出来れば、頭の中で文字を思い起こすことだって出来る。きっと筆と紙を貰えれば文字を書き起こすことだって出来るだろう。
生きるために必要な技術や知識ではなく、言うなれば自身を形成する過去が、思い出が記憶の中からごっそりと抜け落ちてしまったかのような感覚だ。
「戸惑っているようだね。けれど、そう重く考える必要はない。なぜなら君の記憶を引っこ抜いたのは私だからね」
「……は?」
青年はこちらを見下ろしてニヤリと笑う。
記憶を引っこ抜いた、と彼は確かにそう言った。一体どうやって?
記憶の欠落があるとはいえ、人間の記憶というものはそうほいほいと抜いたり刺したりなんてことは出来なかったということ位は分かる。
それにそもそもどうしてそんなことをする必要があったのだろうか。
もしや引っこ抜かれてしまった記憶の中に彼に恨みを買ってしまうようなものがあったのだろうか。
しかし、青年は出会ってから今に至るまで柔和な笑みを崩さないまま。怒っていたり愉悦を感じていたりする様子は見られない。
あまりにも情報が少なすぎる現状では、彼の目的に検討を付けることが出来なかった。
そんな中、青年はもう一歩こちらに近付いて側にしゃがみ込む。右手に持っていた杖を肩に掛けてその上から抑えるように手を置いた。
こちらが黙ってその様子を見ていると、青年が口を開く。
「私はマーリン。呼び名は花の魔術師だとか、花のお兄さんだとか色々あるけれど、そうだね。君との関係性を分かりやすく端的に表すなら――」
君の父親、ということになるかな。
青年は朗らかな、期待に満ちた笑顔でそう言った。