足並み揃えて、歩幅も揃えて、君と歩く。

遅くても大丈夫。きっといつかは辿り着けるから。
だから、それまでは一緒に歩いて行こう。

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不揃いコンビ

 

 

 春の暖かい日差しが、小さな町に降り注いでいる。

 冬の寒さを忘れ、春を思い出してきたとある一日。

 ここはとある地方の、とある田舎の町。有名なものなんて何一つないし、あえて一つ挙げるとするならば近くの町に木の実でボールを作るというへんてこ爺さんがいるくらい。

 柔らかい日差しは、遮るものなく町に聳えるいくつかの建物に降り注いでいる。心なしか、コンクリート造りの建物も久々の日光浴を楽しんでいるように見えた。

 軒先に垂れ下がる銀竹が溶け、水が滴り落ちる、心地よい旋律が小さな町を満たしていた。

 

 しかし、そんな心も体も嬉しくなるような日だと言うのに、町を歩く人々の顔は暗く沈んでいる。スーツを身に纏った大人から、糊のきいた制服をばっちりと着こなした学生まで、全員が今から処刑台へと向かう死刑囚のような表情で歩いていた。

 

 誰もが小型電子機器に視線を落としながら歩いているその町には、生気が全くと言って良いほど見えなかった。頭を垂れながら歩くその姿は、さながらよく実った稲穂のようだった。

 

「ちょっと、いい加減にしなさいよ!」

 

 そんな、誰もが速足で歩く町の真ん中で、叫ぶ声がする。

 その金切り声は、聞く人全てを不快にさせるような声だった。しかし人々はその声に反応することもなく、歩き去って行く。

 

 カツカツと、革靴がコンクリートの地面を叩く音が響く、堅苦しい町は今日も過ぎ去るように時が過ぎていく。ぼうっとしていたらすぐに一日が終わり、次の日が始まる。

 だからこそ人々は過ぎ去っていく時に置いて行かれぬように、早歩きになるのだ。

 

「あんた、いい加減にしないと殴るわよ!」

 

 再び叫び声がする。その物騒な内容に数人かの通行人が振り向くが、すぐに舌打ちをして歩き去っていく。まるで他人に関心がないようだ。

 

「早くしなさいってば!!」

 

 叫ぶが、応えはない。その甲高い声は拾われることなく、青空へと吸い込まれて行った。

 

 今日も、この町は忙しない。

 

 

 ◆

 

 

「あ、あんた……いい加減にしないとホントに捨てるわよ!?」

 

 さて、いつまでもこの叫び声の正体を無視しているわけにはいかない。

 人々が行き交う道の真ん中に、声の主は立っていた。

 

 ふわりと緩いウェーブがかかった、腰まで届くブロンドヘアーに、それを際立てる真っ赤なワンピース。ぎろりと細められているその瞳は、彼女の小さな背にはあまり似合っていないように思われる。

 声の主は、幼い少女だった。

 少女は腰に手を当てて、一点を睨み続けている。

 彼女の視線の先には一匹のポケモン。

 

 ピンクのどっしりとした体に、くるりと少し巻かれた耳。

 大きく開かれた目と口は、それだけで何処か間抜けな雰囲気を抱かせる。

 チャームポイントであるしっぽをゆっくり振りながら、のそのそと歩いていたのはヤドンだった。

 ヤドンは先ほどから怒鳴られているにも関わらず、特に急いだ素振りは見せないまま、ゆったりと彼女に向って歩いていた。そのマイペースさが彼女の怒りに拍車をかけるのだった。

 

「ママの言葉さえなけりゃ、あんたなんてとっくの昔に捨ててるんだから!」

 

 少女は忌々し気に吐き捨てると、前を向いて歩き始めてしまった。主人が歩き出しても、ヤドンは特に焦らない。一度大きなあくびをして、再び周りの景色を見ながら歩き始めた。

 

 少女は数歩歩いてちらりと後ろを見て怒鳴り、また数歩先を行っては後ろを見るを繰り返していた。

 その騒々しさに、通行人のうち何人かは舌打ちをして、ぎろりと少女を睨みつけた。しかし少女は特に気にした様子もなく、変わらず大きな声でヤドンをどやしていた。

 

 なぜ彼女がこんなに嫌がりながらもヤドンの世話を焼いているのかというと、それはひとえに彼女の母親のせいである。

 

 数日前、少女は一つのミスによって、ヤドンを捕獲してしまった。ミスといっても、モンスターボールを投げる遊びをしていたらそこにヤドンがいただけなのだが。

 それはともかく、事故によってモンスターボールへと吸い込まれたヤドンは、特に抵抗も見せぬままモンスターボールの中へと収納された。

 それは全くの事故。少女はそのままヤドンを逃がそうとしたが、彼女の母親がそれを許さなかった。

 

『捕まえたんだったら最後まで責任持たなきゃだめよ』

 

 いくら性格のきつい彼女でも、さすがに母親に逆らうわけにはいかず、今もこうしてヤドンを連れている。この地方は何故か先頭のポケモンをモンスターボールに入れず連れて歩くという風習があるので、彼女はいつまでも並んで歩かないヤドンにイライラしているというわけだ。

 

「ねえあんた、ちょっと早く歩けないの?」

 

 少女の切実な願いに、ヤドンは間抜けな顔をあげて「やどぉ?」と首をかしげる。どうやら何を言っているのか、理解できていないらしい。それか、理解はしているが無視しているかのどちらか。

 

「はぁ……もういい……」

 

 その応えで察したのか、少女は大きなため息をついて、歩き始めた。しかし今度は振り返ることなく、ずんずんと進んでいく。どうやらヤドンを置いていくようだ。

 

 当のヤドンは、置いて行かれているということもわかっていないようで、氷柱から水が垂れる音を楽しそうに聞いていた。

 不意に、電子機器に視線を落としていた一人の男性が、ヤドンの尻尾を思い切り踏みつけた。ヤドンは数秒の間ぽかんとしていたが、すぐに痛みに顔を顰めた。尻尾を踏みつけた男はバランスを崩し前のめりに倒れこんでしまう。

 男は起き上がると、怒りで顔を真っ赤に染め怒鳴った。

 

「やい、この薄ノロ! こんな道のど真ん中でトロトロ歩いてんじゃねぇっ!」

「あ、ああっ! すみません!」

 

 声を聞きつけ駆けつけた少女が頭を下げる。しかしヤドンは自らの主人の醜態を見ることもなく、ポケモンセンターから出て来た他人のポケモンをぼうっと見ていた。

 男は悪態を吐きながら歩き去って行く。頭を上げた少女は、ヤドンの頭をごつんと拳骨で殴った。しかし彼女はあくまでか弱い少女。ヤドンは痛がる素振りもなく、ゆっくりとポケモンセンターから少女に視線を移しただけだった。

 

「あんた……さっさと歩きなさいって何度言えばわかんのよ!」

「……やどぉ……」

「うっさい! ああもう! 変な風習のせいで、手持ちの一番最初にいるポケモンは連れて歩かなきゃいけないし……もう最悪!」

 

 ヤドンに向けモンスターボールを向けるが、意味はない。手持ちのポケモンが二匹いなければ、連れて歩くポケモンを変更することはできないのだ。

 少女は諦めたのか、モンスターボールを腰に直し歩き始めた。ヤドンも、緩慢な動きながらも、それに付いていく。目指すはトレーナーズスクール、彼女が今最も行きたくない場所であった。

 

 ◆

 

「おっ! ヤドンの神様が来たぞ!」

「ははは! ほんとだ、今日もヤドンを連れてきてらぁ!」

 

 やっとの思い出トレーナーズスクールの門をくぐった少女に、揶揄という名の弾丸が容赦なく飛んでくる。下手人はトレーナーズスクールの同級生。

 彼らをぎろりと睨みつけた少女は、ヤドンの尻尾を引っ張りながら歩き出す。何度言ってもついてこないので、もういっそのこととトレーナーズスクールまで引っ張ってきたのだ。

 彼女の努力は、しかしながら残念なことに、同級生を笑いの渦に落とす新たな種に過ぎなかった。その滑稽な姿を見て、校庭に爆笑が巻き起こる。

 少女は羞恥で顔を真っ赤に染めながら、悪態を吐いた。

 

「あんたら! そのうち痛い目に見せてやるんだから!」

「……やど……!」

 

 少女の叫びに鼓舞されたのか、ヤドンが心持ち勢いよく鳴いた。

 あんたでは痛い目見せられないわよという目でヤドンを見る少女だったが、一刻も早く校庭から逃げ出したかったのか特に何も言うことなく校舎の中へ入って行った。

 校庭に残ったのはまだ温もりが消え去らない笑いの火種と、次はどんなことで笑ってやろうかと企てる残酷な子供たちだけだった。

 

 

 ◆

 

 

 昼になると陽光も強くなってきて、町に残っていた氷もあらかた溶けてしまった。校庭は暖かくなって、草むらには今まで姿を見せていなかった虫ポケモンやらの姿も見えた。

 そんな麗らかな春の日に、緊張した面持ちで校庭に立つ一人の少女の姿があった。彼女の後ろには、主人とは違いのほほんとした、緊張のきの文字も見せないヤドンが佇んでいる。

 彼女の向かい側には、一人の少年がいる。少女より年上なのか、その背丈は彼女の頭一つつ分ほど大きい。彼の後ろにもまた、彼のパートナーであるポケモンがいた。

 大きな長方形の白線の中に立つ二人は、お互いに小さく礼をした。白線を囲むように、野次馬が立っている。

 何故二人が昼にこんなことをしているのかというと、理由は簡単で、ポケモンバトルをするためであった。

 普通、ポケモン携帯の資格はトレーナーズスクールに通って二年目からである。それは、右も左も知らない子供たちがポケモンを使って悪事を働くことがないようにと制定されたこの地方のルールであった。だからこそトレーナーズスクールの一年目は、ポケモン所持に関するルールと所持後のケアに関する授業を行うのだ。

 しかし、不本意とはいえ少女はその規律を破ってしまった。一年目にしてポケモンを所持しているトレーナーというのは、当たり前のことだが目がつけられやすい。事情が事情のため彼女を責める人間はいなかったものの、少年少女たちの好奇心は抑えられなかった。

 だから、その好奇心に負けた彼らが、年下である少女にバトルを挑んだのは、大して不思議な事ではないと言えよう。

 

 

 ふう、と大きく息を吐き手を開く。掌は汗でじっとりと濡れていた。少女は初めての戦闘に少なからず緊張していた。授業で色々習ったが、こういった本当のバトルはしたことがなかった。

 対して少年はあまり緊張していないのか、余裕の笑みで彼女を見つめていた。その笑みが癇に障ったのか、少女は意を決して叫んだ。

 

「行きなさい! ヤドン!」

「いけっ! ナゾノクサ!」

 

 突如始まった戦闘に、野次馬は沸きあがる。

 少年の後ろから出て来たのは、ナゾノクサだった。

 少女は小さく舌打ちをした。ナゾノクサは草タイプで、ヤドンは水タイプである。先ほどの少年の笑みは、圧倒的有利な状況に立っていたからこそ出た笑みだったのだ。

 その狡猾さに腹を立てた少女は、先ほどまで頭の中で練っていた策をかなぐり捨てて、ヤドンに命令した。

 

「ヤドン、みずてっぽう!」

「避けろナゾノクサ! 避けて体当たり!」

 

 動きの鈍いヤドンだったが、主人の命令はきちんと従うらしく、ぽかんと大きく口を開け水を発射した。

 しかしナゾノクサはその水鉄砲を軽々と避け、逆にヤドンに肉薄する。動体視力の遅いヤドンはその動きについていけず、おどおどとしている。

 無防備なヤドンのわき腹に、ナゾノクサの体当たりがさく裂した。その小さな体のどこからそんなに大きなパワーが出ているのか、ナゾノクサの体当たりによりヤドンは数メートル吹き飛んだ。

 

「……っち! ヤドン、もう一回みずでっぽう!」

 

 敵は体当たり直後の反動で素早く動けない。少女は倒れているヤドンに命令を出した。ヤドンは苦しそうに呻きながらも、きちんとみずてっぽうを発射した。

 みずてっぽうは吸い込まれるようにナゾノクサに当たり、少しだけだがHPを削った。

 しかしやはり効果はいま一つのようで、ナゾノクサは傷ついているようには見えない。

 

「すいとれ!」

 

 起き上がったナゾノクサは、地を蹴り大きく跳んだ。影だけが地を滑り、ナゾノクサはヤドンの後ろで着地する。いきなりのことにヤドンは追いつけずに、きょろきょろと辺りを見渡すばかり。

 ナゾノクサは背中を向けているヤドンに向け口を開き、噛みついた。

 

「や、やど……!」

 

 ナゾノクサがかみついた途端、ヤドンの体がびくりと痙攣し、それから静かに倒れこんだ。見ると、HPがごっそりと減っている。

 

「……効果抜群だとこんなに減るの……!?」

 

 ヤドンのHPは既に限界寸前。もう戦うことはできないだろう。ぐったりと倒れこんだヤドンを横目で見ながら、少女は悔しさに唇を噛んだ。

 バトルフィールドに笛の音が鳴り響く。それは、ヤドンが戦闘不能に陥ったことを告げる笛だった。

 その笛が鳴り止まぬうちに、野次馬たちが沸き上がる。耳を聾する音がフィールドに滑り込んでくる。少女は何も言うことなく、ただ地面を見つめていた。白くなるまで握りしめられた拳が、彼女の悔しさを表していた。

 

 こうして、彼女の初めての戦闘は完全なる黒星として終わったのだった。

 

 

 ◆

 

 

 夕刻、太陽は静かに滑り落ちていき、山の峰々を密色に染めていた。空に浮かんでいる雲は腹の下を柔らかな黄金色に彩りながら、動くことなく空に横たわっている。

 少女は雲と峰の間を見るともなく見ながら帰り道を歩いていた。今朝までの速足はどこへやら、今はヤドンと同じくらいの速度になっている。ヤドンが嬉しそうに少女を見上げ鳴いた。

 

「なんか、ごめんね……」

「やど?」

「……ううん、別になんでもない」

 

 夕焼けに心の氷が解かされたのか、そんな言葉が少女の口からついて出た。しかしヤドンは聞いていなかったらしく、首を傾げ少女を見た。

 少女はしゃがみ、ヤドンの頭を撫でた。ひんやりと冷たい肌だったが、彼女はその中に確かな、生きている温もりを見出した。

 昼の戦闘により傷ついたヤドンだったが、その後ポケモンセンターに連れられたことによって無事に快復していた。しかしやはり怪我をした時の痛みは消えなかったのか、しばらくの間は足を引きずるように歩いていた。その足に、自らの無力さを見せつけられたような気がして、彼女は今まで味わったことのないような悔しさを感じていた。

 自分がもっと強かったら、少しは良い試合ができたのではないか。あの時怒りに任せずに、論理的に動いた方がよかったのではないか。思い浮かぶのはそんな結果論ばかり。後悔という棘が彼女の心に引っかかり、少なくはない痛みを与えていた。

 しかしやはり彼女はまだ子供で、どうすることも出来ずにただ唇を噛み締めることしかできなかった。

 

「私、バトルに向いてないのかな……」

 

 ぽつりと零れたその言葉は、呟いた本人である少女の心を抉った。

 冒険者という称号に漠然とした憧れを抱いて、転がり込むように入学したトレーナーズスクール。一年目なのでまだポケモンに触れたことはなかったが、二年生になれば活躍できると思っていた。モンスターボールを片手に、この町で一番強いポケモントレーナーになれると思っていた。

 しかし現実は残酷だ。タイプ相性が悪かったとはいえ、敵にほとんどダメージを与えられないまま、ヤドンを傷つけてしまった。

 

「ねえヤドン、私……強くなりたい」

「……やど」

 

 太陽が沈み、ドロドロに溶けた闇が這うように後ろからやってくる。街灯が点いた。暗闇にぽっかりと丸い穴を開けた山吹色の光は、見ているだけで何だか懐かしくなってくるものだった。

 ズバットが一匹、誘われるように街灯の周りを飛んでいる。羽が透け、薄い皮を通してぼんやりとした光が見えた。

 もう、夜だ。

 はっとなった少女は、暗くなった周囲を見て焦ったのか、急いで帰ろうとする。しかし、ヤドンはぼうっと、未だに消えやらぬ黄昏色の雲を眺めている。周りが暗くなっていることに気が付いていないようだった。

 

「ほらヤドン、早く帰るわよ! トロトロしてると置いてっちゃうんだから」

 

 ヤドンに向け発せられた言葉、返ってくるのは間の抜けた「やどぉ?」という鳴き声のはずだった。

 

「へぇ。このヤドン、嬢ちゃんのなんだぁ……」

 

 不意に暗闇から聞こえて来たその声に、少女は身を構える。聞いているだけで不快になる声だった。大きな羽虫が網戸にぶつかった時のような、寒気を催す声だった。

 

 すぅっと、一色だった暗闇の向こうから、一つの影が飛び出し街灯の下に立った。

 暗闇に紛れるほどに真っ黒な上下の服に、胸のあたりに刻まれた紅いRの文字。下卑た笑みを浮かべたその顔が、黒装束の男の不気味さをより際立たせていた。

 その衣装には見覚えがあった少女は、身を強張らせた。

 

「ロケット団……!」

「へぇ……俺らのこと知ってるんだ。って、まあ当たり前か。この地方でも色々悪さしてるもんなぁ」

 

 へへっと、嫌味ったらしく笑う男。その手にはモンスターボールが握られている。

 

「ま、別に何か言う必要もないか。俺らの野望のためにちょっと嬢ちゃんのポケモン、くれよ」

 

 ひょいと投げられたモンスターボール。赤線が迸り、ロケット団の男の目の前に収束し、光は形となってその姿を現した。少女はそのポケモンを見て、息を呑んだ。

 

「ギャラ……ドス?」

 

 龍のように長い胴体に、ぎろりと光るその双眸。修羅のようにむくつけきその相貌は、見ているだけで対峙者の心を折れるほどに強いもの。少女は思わず数歩後ずさった。彼女の少し後ろにいたヤドンがぶるぶると震えていた。

 ギャラドスは低く唸ると、少女を睨みつけた。

 まるで蛇に睨まれた蛙。少女は何もできず、ただ震えているばかり。男はそんな彼女を見て哄笑した。

 

「はははっ! トレーナーっつってもまだガキだよなぁ! ほら、さっさとそのヤドンをよこしてくれな!」

「だ、誰があんたになんか……!」

 

 震える声を何とか抑えて、少女は言った。正直なところ、ヤドンなんかくれてやるから見逃してくれと言いたい思いだったが、ロケット団に馬鹿にされるのはなんだか癪だったので、つい言い返してしまったのだ。

 しまったと後悔する少女。しかし、もう遅い。ロケット団の男はちらりと彼女を見て、鼻で嗤った。

 

「ヤドン一匹で何が出来る。やれ」

 

 男の命令に、ギャラドスがにじりよってくる。

 少女は拳を握りしめ、逃げそうになる脚を制御しながら、それでも抑えきれない恐怖に目を瞑った。

 

 戦わなければいけない。

 戦わなければ、勝てない。

 

 何度そう自分に言い聞かせても、脚は動かない。

 

 彼女の脳裏によぎるのは、今日の昼に行った模擬戦。あんなにも無残に負けたのだ、もう勝てるわけがない、と思ってしまっていた。

 ギャラドスの息遣いが近くに近づいてきている。今目を開けると、目の前にギャラドスがいて私は食べられるんだろうな、なんて考えながら、少女の意識は半ば諦観の域で彷徨っていた。

 

 耳元で唸り声が聞こえる。もうすぐ近くにいる。

 目を固くつむった、そんな彼女の耳に、聞きなれた鳴き声が飛び込んできた。

 

「やど!!」

 

 そして、続くように何かがぶつかる音がする。

 うすらと目を開けると、目と鼻の先にギャラドスの顔が見える。思わず叫びそうになったが声を抑える。ギャラドスは少女のことを見ていない。その目線は何処かに向いていた。

 

 ギャラドスの視線をたどるように頭を巡らせた彼女は、先ほどから鳴り響く音の正体を見て、目を見開いた。

 

「……ヤド、ン……」

 

 先ほどまでは一緒に震えていたヤドンが、いつもはのんびりとしている目を吊り上げてギャラドスにたいあたりをしている。

 ろくなダメ―ジは与えられていない。むしろ、ギャラドスの怒りの火に油を注いでいるようにしか見えない。

 しかしヤドンは止まることなくたいあたりを続ける。その眼には、はっきりとわかるくらいに怒りの感情が宿っていた。

 誰のために怒っているかなんて、考える必要もない。

 

 その姿を見て、少女は大きく深呼吸をする。不思議なことに、先ほどまで震えていた脚が今は全く震えていない。

 キッと前を見据えた少女は、ヤドンに命令を下した。

 

「ヤドン、あくび!」

「やどぉお……」

 

 命令を下すと同時に、情けない声が聞こえてくる。ヤドンが大口を開けて欠伸を放った声だ。ヤドンの目の前にいたギャラドスは、その欠伸を見て口をむずむずとさせた。

 あくびは眠気を敵に伝達させる技。次のターン、敵が攻撃を放つと、敵は溜まり溜まった疲労からぐっすりと睡眠を摂ってしまう。

 ロケット団は大きなあくびをしたギャラドスを見て、焦ったように叫んだ。

 

「何やってんだ! 尻尾で薙ぎ払え!」

「ヤドン! ねんりきで相手の動きを封じて!」

 

 ギャラドスが身を捻り、尻尾で少女たちを薙ぎ払おうとする。しかしその前にヤドンが動いた。ぼんやりと光に包まれるギャラドスの体。その光に包まれた瞬間、ギャラドスの動きがぴたりと止まった。必死に動こうともがくギャラドスだが、意味はない。

 しかし念力を使っているヤドンにも負担はかかるのか、ヤドンも汗を流し苦しそうな表情をしている。

 

「ヤドン、頑張って!」

「……やど!」

 

 少女の応援に応えるように、ヤドンが鳴いた。

 しばしの間もがいていたギャラドスだったが、やがて疲労が限界を超えたのか、念力に包まれたままぐぅぐぅと眠り始めてしまった。

 

「おい、ギャラドス! 起きろ!」

 

 叫ぶロケット団の男。しかし、ぐっすりと寝ているギャラドスはあと数十分は寝たままだろう。

 

 少女はぐったりと疲れた様子のヤドンを持ち上げ、ふらふらと走り始めた。

 

 

 ◆

 

 

「はぁっ、はぁっ……」

 

 大きな音をたてながら、少女は家のドアを開けた。

 ギャラドスとロケット団から逃げてきた少女は、何とか自分の家にまで逃げ切ることが出来た。

 肩で息をする彼女の腕の中には、相変わらずぼんやりとした表情のヤドンがいる。先ほどの怒った表情が嘘のようだ。

 

「ふぅ……ヤドン、怪我無い?」

 

 ヤドンを玄関に入れ尋ねる。主の言葉に振り向いたヤドンは、にっこりと笑い小さく鳴いた。大丈夫という意味なのだろう。

 リビングに入る。親はいない。どうやらまだ働いているらしい。

 その事実に少しだけ悲しそうな表情になる少女。いつも強気でいるといっても、まだ少女。甘えられる存在がいないというのはそれだけ辛いものなのだ。

 するとそんな彼女の脚を誰かがつついた。

 振り返ると、リビングに入ってきたヤドンが優しく彼女のふくらはぎを鼻で押していた。励ましているのだろうか、少女の顔をじっと見ている。

 

「……さ、ご飯食べましょ」

 

 ヤドンの意図を汲み取ったのか、少女は優しい笑みを浮かべキッチンへと歩いていく。ヤドンはその背中を、にっこりと笑いながら見ていた。

 

 

 ◆

 

 

 食事を終え、就寝の準備を終えた少女は、布団の中にもぐりこんだ。

 目を閉じた彼女の頭の中に、様々な出来事が思い浮かぶ。ヤドンを引きずっているところを見られ皆に馬鹿にされたこと、上級生にバトルでコテンパンにされたこと、帰宅途中にロケット団に襲われたこと。

 ふと、ギャラドスの顔が浮かび上がってきて、少女は布団の中で丸まった。春だというのに、足の先がかじかむように寒かった。

 

 怖かった。

 

 命の危険を感じた。

 

 ポケモンバトルとは、あんなにも怖いものなのだ。ポケモンがいない人間というのは、非力な生物なのだ。

 少女の幼い心の中に、そんな思いが植え付けられる。

 

 では、ヤドンはどうだろうか。

 

(あんなぼけーっとしてるやつも、怒ったら私をすぐに倒せるくらいの力があるの……?)

 

 考えるだけでも背筋がぞっとした。

 今まで触れていた物が、急に恐ろしく思えて来た。

 

 不意に、がさりと部屋の中で何かが動いた。

 視線を移すと、部屋の隅にいたヤドンが少女の方へ歩いているのが見える。

 

「……何よ」

 

 心を埋める恐怖のためか、少女の声はやけに刺々しかった。

 対するヤドンは、少し不安そうな顔で小さく鳴いた。

 

「やどぉ……」

 

 暗闇でよく見えないが、その身体は少し震えている。

 

「あんた……怖いの?」

「…………やど」

「……ふーん」

 

 ごろんと仰向けに寝転がった少女は天上を見ながらため息をついた。

 

「あの時は格好良かったのに、今じゃすっかり腰抜けね」

「どーん……」

「ま、いいわよ。怖いなら布団に入っていいわよ」

「ど?」

「……けど、勘違いしないでね。別にあんたに、気を許したわけじゃないから」

 

 ごろんと、ヤドンに背を向けるように再び転がった少女は、わざとらしくそう言った。

 その言葉の意味がわかったのか、ヤドンはのそのそと布団の中に入ってくる。

 ひんやりとした肌が、パジャマ越しに伝わってくる。

 

 冷たいはずなのに、先ほどまでの寒気はどこかへ行っていた。その代わりに、少女の心はぽかぽかと優しい温もりに包まれていた。

 何故だろうか、少女はそんなことを考えながら、眠りの中へと落ちていった。

 

 

 ◆

 

 

「もう! 早くしてよ!」

 

 早朝の町に、少女の声が響き渡る。

 服を替えトレーナーズスクールへ行く準備を済ませた少女は、未だにのろのろと階段を下りているヤドンに向け苛立たし気な声をぶつけた。

 昨晩は仲良くなったと思ったのに、もうこれである。

 

 ヤドンは相変わらず呑気な表情のまま、階段の木目を見て笑っている。

 

「もう……なんでこんな遅いやつ連れて歩かなきゃならないの……」

 

 ぶつぶつと呟いていた少女だったが、ふとあることを思いついたのか、腰につけていたモンスターボールを取った。

 玄関を見ると、靴はない。少女の両親は既に出かけているようだ。

 

「……今なら、大丈夫なんじゃ……?」

 

 少しの間逃がして、私のポケモンじゃないようにすれば。少女はそんなことを考えていた。

 手持ちのポケモンの先頭を共に連れて歩かなければならないというのなら、その先頭のポケモンを逃がせばいいだけの話である。

 もちろん、何も本当に野生に返すのではない。ただ今日だけ、トレーナーズスクールの間だけ野生ポケモンにして、少女の部屋に置いていくだけ。

 学校が終わればまた捕まえればいいだけだ。

 

 そう思った少女は、モンスターボールをヤドンに向ける。ヤドンは少女のことを見向きもしない。

 

「すぐ帰ってくるから、ちょっと待ってなさい!」

 

 軽い音がモンスターボールから出て、ヤドンの体が少しだけ光った。

 何だかあっけないような気もするけれど、これでヤドンは野生に戻ったはずだ。

 

 ヤドンは何が起こったのかわからず、こちらを見ている。

 

「行ってきます! 外に出たらダメだからね!」

 

 ドアを開け外に飛び出した少女は、ドアの向こうの、悲しそうな表情をしたヤドンに気づくことはなかった。

 

 

 ◆

 

 

 トレーナーズスクールの帰り道、少女は一人で歩いていた。

 今日は曇り空で、夕焼けは見えない。今にも落ちてきそうなほどに分厚い雲と、じめじめした空気だけが家路を満たしていた。

 

「雨、降るのかな……」

 

 不安な表情で空を見上げた少女は、不意に先ほどのトレーナーズスクールでの出来事を思い出して顔を顰めた。

 

 朝は、いつもは一緒のヤドンが共にいないことに、多くの生徒は目を丸くしていたが、それも昼休み辺りになると当たり前の光景になっていた。

 しかし彼女と一緒に昼食を食べた友人は、少し寂しそうな表情で言った。

 

「今日はヤドン、いないんだね。残念」

「何が残念よ。いつも私を馬鹿にしてたのに」

「馬鹿にしてないよ。二人の仲が良かったから、皆遊んでただけだよ」

 

 少女は、友人の言葉の意味がわからずに思わずぽかんと口を開いた。

 

「私が、ヤドンと、仲良し? あり得ないわ」

 

 少女は一言一言区切るように言った。友人はその言葉にくすりと笑い、しかし何も答えることなく窓の外を見た。

 暫くの間、二人の間に静寂が満ちる。今まではヤドンの鳴き声なんかでうるさかったので、久々の静けさだった。

 それを友人に伝えると、彼女は再び笑って、言った。

 

「ほら、ずっとヤドンのこと考えてるじゃん」

「……そんなことないわよ」

 

 何だか心の中を見透かされているようで、少女はむっとしながら答えた。その返答が、友人のにたにたとした笑みを深くするだけの代物だったということは、言うまでもないだろう。

 

「それにしても、最近はここも危なくなってきてるよね」

「何がよ」

「ロケット団だよ、ロケット団。最近ここら辺で暴れまわってるらしいし」

 

 友人の言葉に、頭の隅でギャラドスの顔が覗く。背筋がぞぉっと凍るような気持ちになった。しかし、次の瞬間、まるで芋づるのように昨晩布団の中に潜り込んできたヤドンの顔も浮かび上がってきた。すると、何故だろうか、固まっていた背筋がすぅと解されていくようだった。

 

「まあ、何とかなるんじゃない?」

「そうだといいんだけど……なんだか、最近はヤドンの井戸辺りでよくロケット団の姿が発見されてるらしいよ。近いから、やっぱり気を付けなきゃ」

 

 ぼうっと、窓の外を見ながら、少女は家にいるヤドンのことを考えていた。早く家に帰らなければ、知らず知らずのうちに、そんなことを思っていた。

 

「けどさ、結局、人間なんてポケモンがいなきゃ何もできない存在だと思うわ」

 

 ふと、少女は昨晩気になったことを友人に打ち明けた。

 いつもは優しそうなヤドンも、可愛らしいポケモンたちも、その気になれば人間に害を加える生物になり得る。その点人間はどうだろう。モンスターボールという小さなカプセルで何とかポケモンを押さえ込むことに成功しているが、それがいつまで続くかはわからないのだ。ある日裏切られるかもしれない。ある日逃げられるかもしれない。誰にも分らないのだ。

 

 そう言うと、友人はじっと少女の目を見て、答えた。

 

「それはちょっと違うと思うな」

「どういうことよ」

「確かに人間は、ポケモンの前じゃ非力な存在なのかもしれない。けど、ポケモンだって何でも出来るってわけじゃないよ。怖い思いをして、それでもそれに打ち勝って何とか戦ってるんだもん」

「…………」

 

 昨晩、ギャラドスと対峙したヤドンは、確かに震えていた。けどその恐怖を押し殺して、戦った。

 それは、誰のためだっただろうか──? 

 

「人間は非力かもしれないけど、ポケモンを支えて励ますことは出来ると思うよ」

「そう……ね」

 

 ぽつりとつぶやいたその声は、自分のものかと疑ってしまうほどに嗄れていた。

 

 

 ───

 

 

 

「そんなもの、なのかなぁ……」

 

 ぐっと背伸びをしながら、少女は再び呟いた。伸ばした手の先に、雨粒が当たったような気がした。

 空を見ると、重く立ち込めた雲の隙間から、細い糸のような雨がまばらに落ちてきている。これはすぐに本降りになりそうだ。

 ため息をつき、小走りになる。

 家まではあと少しだ。

 

 

 ◆

 

 

「結局濡れちゃったし……あーあ」

 

 ドアを開けると、長期間密閉空間だったためかじめじめした空気がどっと噴き出てくる。顔を顰め家の中に入った少女は、何かの違和感に気が付いた。

 やけに静かすぎる。まるで、家の中に誰もいないような……。

 

「ヤドン……?」

 

 小さく、掠れた声で言う。雨が庭に生えている雑草の葉を叩く音だけが家の中に響いている。家の中は薄暗く、なんだか不気味だった。

 靴を脱いで、リビングに入ってみる。ヤドンの姿はない。

 階段を上り、自分の部屋に入ってみる。やはりヤドンの姿はない。

 

「……え?」

 

 自分の部屋に入った瞬間、床が濡れていることに気が付いた。何故だろうと目を向けて、少女は思わず間抜けな声を出してしまう。

 窓が開いていた。

 

 窓から身を乗り出し、下を見てみる。頬に当たる雨粒が鬱陶しかった。

 ちょうど窓の真下は屋根のでっぱり部分で、地面は見えない。ここから飛び降りても、ある程度受け身を取れていたのなら怪我はしないだろう。

 

「ヤドン、ここから……?」

 

 何のため、どうして。そんな疑問が浮かび上がっては、焦燥感に焼かれて消えていく。

 ぐいと体を伸ばして、精一杯遠くを見るが、ヤドンの姿は見えない。

 窓を閉めた少女は階下に戻り、念のために再びヤドンがいないか探してみる。

 

 やはり、いなかった。

 

 どっかりとソファの上に座った少女は、頭を抱えて唸った。

 

「あいつ、どこ行ったのよ……」

 

 もしかして、と少女は考える。

 

「私を追いかけて、外に出たとか……?」

 

 再び立ち上がり、カーテンを開いて外を見る。雨脚が強くなってきているのか、白い矢のような雨粒が降り注いでいた。

 探してみようかと、少女の中で葛藤が起きる。今すぐ飛び出して、濡れてもいいからヤドンを探しに行こうかと、少女は考えた。

 しかし、実際立ち上がってみると、何故か脚が動かない。

 

「……別に、私が追いかける必要はなくても……」

 

 浮かび上がってくるのは、言い訳めいた言葉だけ。

 

 そうだ、そもそも好きだったわけでも、パートナーだったわけでもない。事故でモンスターボールの中に入って、そのままなし崩し的に付き合っていただけだ。別に無視しても大丈夫だろう、と、心の中で誰かが囁く。

 ぐらぐらと揺れる少女の心は、雨雲のように重く黒みがかっていた。

 

 しかし、そんな彼女の心を掴んだのは、やはりと言うべきだろうか、ヤドンの顔だった。

 

 のそのそと歩く顔。怒られて少ししょんぼりしている顔。怒った時に見せる、きりっとした顔。

 様々な顔を見て来た。それは、少なからず少女の心に何か影響を与えていたようだ。

 何かを決心したかのように目を瞑った少女は、次の瞬間には立ち上がり、レインコートを着、外に飛び出した。

 

 外に飛び出した少女の頭を、大きな雨粒が容赦なく叩く。フードを被っているとはいえその衝撃は痛く、少し寒い。

 しかし少女は止まることなく走り出した。目指すはトレーナーズスクールまでの道のりである。

 

 

 ◆

 

 

「いないんだけど……! ホント、どこ行ったの!?」

 

 トレーナーズスクールの入り口で、少女は思わず悪態を吐いた。

 いつも自分が通っている通学路をたどってみたが、ヤドンは見つからなかった。

 少女はきょろきょろしながら、草むらを探す。すると、後ろから足音が聞こえて来た。

 

「何をしているの?」

「あ、先生……いえ、その……」

 

 後ろを振り返った少女は、驚いたように目を開いた。そこにいたのは、トレーナーズスクールの教師だった。

 まさか逃がしたヤドンを探していますというわけにもいかず、少女は押し黙ることしかできない。

 そんな彼女を見て何かを察したのか、教師はそういえばと切り出した。

 

「この近くで、野生のヤドンを見たという人がいたような気がするわ。確か……あっちの道だったかしら」

「ヤドンを……ですか? 何時くらいに見たって言ってましたか?」

「一時間くらい前だったかしら……けど、なんだか誰かから逃げるように歩いてたって話してたわ」

「逃げるように……?」

 

 少女は考え込んだ。本当に彼女のヤドンかどうかはわからなかったが、この近くであるということは、その可能性が高い。

 しかし、何から逃げていたかが問題である。

 

『それにしても、最近はここも危なくなってきてるよね』

 

 ふと、友人が言っていた言葉を思い出す。

 最近は、この地域でロケット団が頻繁に目撃されていること。

 ロケット団は他人のポケモンを盗んで、何か良からぬことをしているらしいこと。

 そして昨日、ロケット団の男がヤドンを欲しがっていたこと。

 

 

 知らず知らずのうちに、少女の身体は震えていた。

 最悪の予想が、彼女の頭の中では描かれていた。

 

 頭を振ることで、悪い考えを追い払う。レインコートのフード部分に乗っていた雨粒が頭を振ると同時に吹き飛び、真下に降り注ぐだけの雨粒の群れを乱していく。

 少女は、教師に礼を言うとすぐに走り出した。目的地は、彼女の町のすぐそばにある、ヤドンの井戸と呼ばれる場所だった。

 

 

 ◆

 

 井戸の周りには人垣ができていた。

 人垣を押し退け井戸の前に飛び出した少女は、井戸の前で何やらトランシーバー越しに誰かと話しているジュンサ―の声を聞いた。

 

「ええ、先ほど、とある少年がこの井戸の中に入ってロケット団を──はい、井戸の中にはもう誰もいないと思います。ガンテツさんも腰を打っただけらしく、特に目立った外傷はありません」

「あ、あの! ジュンサ―さん!」

 

 急いで駆け寄りジュンサ―のスカートの裾を引っ張る少女。雨で額にこびりついた髪をそのままにしたジュンサ―が彼女を見る。

 

「──すみません、また後で。……どうしたの?」

「あの、あの……この井戸の中、どうなってるんですか?」

 

 声をかけたはいいモノの何を言えばいいのかわからずにまごつく少女。ジュンサ―は言いにくそうに、けれどはっきりと言った。

 

「ロケット団がね、悪いことをしてたの。けど大丈夫、もうみんなやっつけたからね」

「ヤドンは、ヤドンを見ませんでしたか!?」

「……! あなた、ヤドンのトレーナーだったの?」

「はい……ヤドンがいなくなってて……それで急いでここに来て……」

「そうだったの……ちょっと待っててね。すぐにここに戻ってくるから」

 

 そう言って、ジュンサ―は急ぎ足で何処かへ歩いて行ってしまった。

 残された少女はただぼうっとそれを見るだけしかできない。

 すると、ひと際大きな声が後ろから聞こえてきた。人垣の中で誰かがゴシップでもしているのだろう。

 少し気になった少女は、その声に耳を傾けた。

 

「マジかよ! それってやばいんじゃね?」

「静かに。あんま大きな声で言うことでもないだろーがよ」

「けど、やばいって。ヤドン、死んでるんじゃねえ?」

「それくらいじゃ死なねえって。第一──」

 

 少女は最後まで言葉を聞いていなかった。

 知らず知らずのうちに体が動いており、気づけばその手は滑車を吊るすための紐を掴んでいた。

 誰かが少女を呼ぶ。しかしその前に、少女は滑り落ちるように井戸の中へと落ちていった。

 

 

 ◆

 

 

 井戸の中は暗くじめじめしており、どこか不気味さを孕んでいた。

 ところどころに設置されている松明のおかげで真暗闇というわけではないが、それでもところどころに影が差していて、少女はその恐ろしさにぶるりと体を震わせた。

 

 井戸の中は思っていたよりも広く、細長い洞窟のような形になっていた。遠くへと伸びる松明の炎がその不気味さを際立たせていた。

 

「ヤドーン……? いるの……?」

 

 ぴちょん、ぴちょん。水が滴り落ちる音だけが響き渡る井戸の中を、少女は足早に歩いていく。

 時折ズバットたちが不審そうに彼女の周りを飛び回るが、それ以外はポケモンの影は見えない。

 

 暫くの間歩いていた彼女だったが、すぐに井戸の行き止まりへと差し掛かった。

 何やら大きなものが壁の前に積まれている。

 松明がないのでよく見えない。だが、何やら心の中に不安が募っていく。少女はゆっくりと近づいていく。

 

 不意に、何かを蹴った。足元に注意をしていなかったので、少女は何を蹴ったのか目を凝らして足元を見る。

 

「……ひっ」

 

 

 

 ──それは、ヤドンの尻尾だった。遠くの松明の灯りに照らされた生気のない尻尾が、ごろりと転がった。切断面がちらりと見えて、少女は胃の中の物がせりあがってくるのを必死に抑えた。

 

「な、なにこれ……」

 

 ロケット団が切ったものなのだろうか。少女は、何故ヤドンの尻尾のみがこんな場所にあるのか、理解できなかった。

 徐に顔を上げる少女。それを待っていたかのように、松明の炎が揺れて、一瞬だけだが壁の前に積み上げられていた物の姿が見えた。

 

 それは、ヤドンたちだった。

 ぐったりと力なく倒れているヤドンたちが高く積み上げられていた。

 

「ヤ、ドン…………」

 

 ぽつりと呟くが、返ってくる言葉はない。よく見ると、積み上げられたヤドンたちの尻尾がない。ぶつりと切断されていた。

 足元に転がっているヤドンの尻尾を再び見る。

 

 まさか、少女は小さく呟いた。

 

 ゆっくりと積み上げられたヤドンに近づく。死んではいないようだが、尻尾を切られ調子が悪いようだ。ヤドンたちはぴくりとも動かない。

 

 不意に、少女は気が付いた。

 

 彼女のヤドンはこの井戸の近くに来たということに。

 

「っ!」

 

 急いでヤドンの群れに走り寄る。ぐったりとしているヤドンたちには生気がない。触ると、びっくりするほどに冷たかった。

 

「ヤドン! ヤドン!」

 

 少女は逃がしたヤドンを探すべく、大きな声で叫ぶ。すると、その声に反応するかのように積み上げられた山の一番上のヤドンがぴくりと動いた。

 

「や、ど……」

「っ! ヤドン! 大丈夫!?」

 

 それは、紛れもなく少女のヤドンだった。

 彼女のヤドンもまたその尻尾が失われていた。血は出ていないが、乱雑に切断された部分を見るのは心苦しいものだった。

 

「大丈夫なの!?」

「やど、やど……」

 

 どうやら見た目よりは大けがではないらしく、ヤドンは小さな声で鳴いた。

 

「さ、早く家に帰りましょう。ここは危ないから」

 

 モンスターボールを用意し、ヤドンをその中に入れる。特に抵抗することなく、ヤドンは再び少女の相棒となった。すぐにヤドンはボールから出てきて、彼女の足元にすり寄った。

 しかし、早く外に出ようと踵を返し足早に歩き始めた彼女の耳に、不快な声が聞こえて来た。

 

「待てよ嬢ちゃん、どこに行くんだい?」

「……っ!」

 

 声のする方を見ると、岩陰の方から一人の男が出て来た。その男はぼろぼろになったロケット団の服を着ており、何だかその顔もやつれている。どうやら先ほどここに入ってきた少年とやらにこてんぱんにやられてしまったロケット団の下っ端のようだ。

 しかしロケット団の男の顔にはイヤラシイ笑みが浮かんでいる。

 その顔に思わず身体が硬直する。それは、少女が昨日見たばかりのものだった。

 

「昨日ぶりだねぇ、嬢ちゃん。元気にしてたかい?」

「あ、んた……」

「おっと、言葉はいらないぜ。今の俺はちょいと機嫌が悪い。とりあえず何も言わず襲われてくれや」

 

 暗闇の中、空を切る音がする。

 瞬間、赤線が洞窟内を淡く染めたかと思うと、低い唸り声が轟き始めた。

 それは、昨日のギャラドスだった。

 薄暗闇の中でもはっきりとわかるほどの殺意を向けたギャラドスは、ゆっくりと少女へと近づいていく。

 少女の喉から情けない声が上がるが、助けは来ない。にやりと笑ったロケット団の下っ端がギャラドスに命令を下す。「殺してしまえ!」

 すると、どんどんと近づいてくるギャラドスに終わりを感じていた彼女の足元にいたヤドンが飛び出した。

 驚いて手を伸ばした少女だったが、それよりも早くヤドンは飛び出してギャラドスと対峙した。尻尾が切られているため歩きにくいのか、よたよたと頼りない足取りで──それでもしっかりとした意思で。

 それは、まるでギャラドスから彼女を守るようだった。

 実際、そうなのだろう。

 ヤドンの震えている足や、後ろ姿から感じる恐怖を見ていると、それがヤドンの本当の意思ではないことくらい、幼い少女にだってわかることだった。

 出来ることならば、モンスターボールの中で隠れていたいだろう。すぐに逃げ出して安全な場所に行きたいだろう。

 しかし、ヤドンはそれをしなかった。

 一度は己を捨てた小さな少女のために、その身を盾にしてまでも強敵相手に立ち向かったのだ。

 その思いを想像して、少女は唇を噛み締める。視界が滲んで、向かい合う二匹のポケモンが霞んだ。

 

「ヤドン……もういいから……! モンスターボールの中に入って!」

 

 身を引き裂くような思いを込めて、少女はヤドンに懇願する。しかしヤドンは小さく首を振ると、肩越しに彼女を見て微笑んだ。

 それは、彼女が何時も見ていた、優しくて暖かい……愛が含まれた笑みだった。

 

「やどっ!」

「何回も同じ手が食らうと思ってんのかこの薄ノロがっ! ギャラドス、体当たり!」

 

 凄まじい音が響き、ヤドンの体が吹き飛ぶ。彼我の実力差は明らかだった。

 しかし、ヤドンは諦めない。ふらふらになりながらも、立ち上がり再び少女の前に立つ。そこには、いつものような能天気なポケモンはいなかった。

 

「や、どん……」

 

 少女は震えていた。ギャラドスが怖かった。

 ヤドンも震えていた。当たり前だ。ヤドンは実際にギャラドスと戦っているのだ。それなのに、その足を止めない。主人を守るために、その身体を傷つけてまで戦っている。

 

 ヤドンの放った念力がギャラドスを捉える。数舜の間苦しそうに顔を顰めたギャラドスだったが、すぐに念力から抜け出し尻尾でヤドンを薙ぎ払った。

 壁に激突するヤドン、力なく倒れたその身体は、既に満身創痍だった。

 起き上がる気配のないヤドン。少女は震える体に鞭を打って、ヤドンの元へと駆けていく。

 

「ヤドン! ヤドンっ!」

 

 ぼろぼろになった体に触れると、ヤドンの静かな鼓動が掌を伝わってくる。

 それにほっと安堵した少女は、近づいてくるギャラドスを睨みつけた。

 

「アンタなんか、怖くないんだから……」

「へへへぇっ、声震わせながら強がり、可愛いねぇ! けどもうお別れだよ! あっちでヤドンと仲良く暮らせよっ!」

 

 ヤドンを庇うように、両手を広げてギャラドスの前に立つ少女。その脚は無様に震えている。

 ギャラドスが少女に向かってその尻尾を振り抜く。凄まじい速度で迫りくるギャラドスの尻尾を見ながら、少女は自らの終わりを悟り目を固く閉じた。

 

 ──しかし、いくら待っても衝撃は来ない。

 恐る恐る少女が目を開くと、彼女の目の前にギャラドスの尻尾があった。思わず悲鳴を上げる少女だったが、すぐにその尻尾が動いていないことに気が付いた。

 

「ど……んっ!」

「……ヤドン……」

 

 後ろを見ると、満身創痍で立つことすらままならないはずのヤドンがその四本足でしっかりと立ち、念力を放っていた。

 力み過ぎているのか蟀谷には青筋が立っており、目も充血して何処か虚ろだ。

 それでも、ヤドンは念力を止めることなく、ただひたすらにギャラドスの足止めをしていた。

 

 その姿を見て、少女は覚悟を決めた。

 ふらふらになっているヤドンを抱え上げ、その場から転がるように逃げる。次の瞬間、念力から解き放たれたギャラドスの尻尾が数舜前まで彼女がいたはずの地面に叩きつけられた。轟音が鳴り響き、粉塵が舞い上がる。その中を、少女はただひたすらに走った。

 そのまま戦えば勝てるわけなどない。なら、誰かが助けに来るまで逃げ続ければいいだけだ。

 

 後ろからギャラドスの声が聞こえる。どうやらこちらに向かってきているようだ。

 

「ヤドン、スワップ!」

 

 がむしゃらにヤドンが覚えている技を叫ぶ。次の瞬間、ヤドンの体が光り、何かがギャラドスに向かって飛んで行く。

 その光がギャラドスに当たった途端、先ほどまではぐんぐんと少女に向かって迫っていたギャラドスの素早さががくっと下がった。

 

 遥か彼方から少女たちを追いかけていたロケット団の男が舌打ちをする。

 

「こうこうのしっぽか……! 面倒なもん押し付けてきやがって!」

 

 どうやらヤドンが持っていた何かを先ほど叫んだ技によってギャラドスに渡したようだ。そして、その持ち物のせいでギャラドスの素早さは下がっている。

 これは好機だとばかりに、少女は再び走り出す。先ほどまでは薄暗く何処か不気味な洞窟だったが、腕の中に感じるヤドンの確かな温もりを抱きしめていると、どこからか力が湧いてきた。

 

「絶対に、アンタを助けるから……! 私が守ってあげるから!」

 

 弾む息を抑えながら、ぐったりとしているヤドンに言い聞かせる。ちらりと目を開けたヤドンが彼女の顔を見て、にっこりと笑った。

 そのまま走っていると、遠くに上方から差し込む光が見えて来た。井戸の入り口だ。

 

「やった……! もうすぐよ、ヤドン!」

 

 振り返るが、ギャラドスとロケット団の男の姿は見えない。遅くなったギャラドスを連れてくるのに必死なのだろう。

 ぶらんと下がっている縄の近くまで行くと、少女はそこにかかっている梯子に足をかけた。

 見上げると、丸い空の向こうに曇天が見える。ヤドンを抱えながらなので拙い動きだが、少女はそうっと梯子を上り始めた

 

「ギャラドス、はかいこうせん」

 

 刹那の後、暗闇の洞窟に光が満ちた。

 耳を聾するすさまじい音が鳴り響き、爆風が彼女の体に吹き付ける。あまりの風に思わず梯子を掴んでいた手が離れ、少女は吹き飛ばされた。抱えたヤドンを傷つけぬようにぎゅっと丸まった少女は、まるで塵のようにごろごろと地面を転がって行く。

 ぼんやりと霞む彼女の視界に、ギャラドスの大きなシルエットが映る。どうやら重い体を引きずってここまで来たらしい。

 少女の身体中から力が抜けていく。彼女の矮躯は既に限界だった。

 

 暗くなっていく世界の中で、少女は力を振り絞って腕の中にいるヤドンを抱きしめた。ヤドンだけはもう傷ついてほしくなかった。

 頬を流れる涙だけが熱く感じる中、少女はゆっくりと気絶していった。

 

 

 ◆

 

 

 結局、少女は無事だった。

 少女が気絶した後、何やら帽子を被った少年が現れてギャラドスをぼこぼこにしていったらしい。

 病院のベッドの上で目を覚ました少女は、歓喜の涙を流す彼女の両親をぼんやりと見ながら、「来るならもっと早く来い」と顔も知らぬ少年に不満を漏らしたのだった。

 

 少女の傷は大したものではなく、数日もすれば完治するだろうと医者から告げられた。

 しかし彼女は自分の身よりもヤドンを心配していた。何せ尻尾を切られているのだ。

 ちらりと少女が横を見ると、そこには彼女と同じベッドに横たわる呑気な寝顔。本当に重症だったのかと疑いたくなるほどに間抜けな顔だった。

 尻尾を失ったヤドンだったが、どうやら放っておけばすぐに生えるらしいので、しばらくの間安静にしておけばいいそうだ。

 あの絶望と怒りを返せと訴えかける少女。返ってきたのは間抜けな返事のみ。

 

 

 

 ──そんなこんなで、またいつもの日常へと戻っていく。

 

 

 ◆

 

 

「もう、早くしなさいよ!」

「どーん……」

 

 燦燦と降り注ぐ陽光の暖かな春の日。少女の甲高い声が街に響き渡る。きぃんとビルの狭間を木霊した彼女の金切り声に、鳥ポケモンたちが逃げ去って行く。

 目を三角にして怒鳴る少女の前には、ぼんやりと空を見上げるヤドンの姿。切られた尻尾も生えそろってきて、それでもまだ少し短い不格好な姿である。

 

「遅刻しちゃうでしょ! いい加減にしなさいよ!」

 

 少女の叫びに、少し間を置いて視線を動かすヤドン。首を傾げるその姿からは、反省の色は見えてこない。

 少女は額に青筋を立てて、速足で歩き始めた。

 

「置いてくわよ! ほら! いいのね!?」

「やーん……」

「……もう」

 

 数歩進んでヤドンを睨んでいた少女は、ヤドンの気の抜けた声にため息を吐く。

 

「やど、やど……」

「…………ったく、しょうがないわねー」

 

 そしてそのまま、ゆっくりと踵を返し、ヤドンの元まで歩いていく。

 短い尻尾では上手くバランスが取れないのか、よたよたと歩くヤドンの横に立ち、ヤドンが歩き出すまでゆっくりと待つ。その顔には、優しい笑みが浮かんでいた。

 彼女を避けるように、大勢の大人たちが歩き去って行く。手には小型電子機器。彼女のことをちらりと見て、それ以降は無視。

 

 

 

 ──堅苦しい町は今日も過ぎ去るように時が過ぎていく。ぼうっとしていたらすぐに一日が終わり、次の日が始まる。

 だからこそ人々は過ぎ去っていく時に置いて行かれぬように、早歩きになるのだ。

 

 

 

「ほら、ゆっくりでいいから、一緒に歩いて行きましょ」

「やど!」

 

 そんな街のとある一角。二つの不揃いな影がゆっくりと歩いていく。

 心なしか、そこだけは時がゆっくり流れているよう気がした。

 

 

 




出来る限り二万文字以内に収めなきゃいけなかったんで最後らへんぎゅうぎゅうです。


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