大学一年生の夏、僕は彼女に出会い、恋をし、そして─


これは、僕の恋の物語。

普通の、ありふれた、永遠に終わることのない恋物語。

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Skirt

 白いカーテンが靡いていた。

 

 桜の花が咲いていた。

 

 白詰草が揺れていた。

 

 思い出したのは、彼女のスカート。

 

 気づくには、遅過ぎた。

 

 ▽

 

 先輩と出会ったのは六月の大学だった。その頃はもうすっかり夏で、とても暑かった。これから更に暑くなると思うと憂鬱にならざるを得ないような暑い日々だった。

 大学のキャンパスの端、なだらかな下り坂を階段で降りていくと、そこには少し小さめな湖がある。そのそばにはひっそりと隠れるようにパピリオンがあって、僕は暇な時間よくそこで昼寝や読書をしたり、昼食も取ったりした。

 日陰にあるそれは夏にはもってこいの避暑地で、週末に中年のおじさんに会う以外に人が来ることが滅多にないここは、僕にはちょうど良かった。

 

 六月の中旬、いつも通り昼寝でもしようとパビリオンへ向かうと、非日常的な景色が広がっていた。

 そう、人がいたのだ。入学してから2ヶ月半誰1人として来なかったこの場所に、人がいたのだ。

 どうやら女性のようだ。幼い顔立ちをしている。僕と同じ一年生だろうか。汗で輝く艶やかな黒髪は腰の中ほどまで伸びている。Tシャツの上に涼しげなカーディガンを羽織っている。

 風が吹いた。彼女の手に持っていた本がペラペラと音を立ててめくれる。彼女は長い髪を押さえていた。カーディガンの裾がはためいている。控え目に揺れる水色のスカートが目に焼き付いて離れなかった。

 僕はその場から動けなかった。涼風を感じることも、額にへばりついた髪を退かすことさえ忘れて、ただ彼女に見惚れていた。

 

 風が吹いた際、手元に落ちていた彼女の視線が前を向き、茫然としている僕を捉えた。

 

「あの……何か御用ですか?」

 

 想像していたよりも可愛らしい声でようやく我に帰った。気を取り直すように髪の毛を掻く振りをして整え、彼女の元へ近づく。

 

「いや、ここに来る人初めて見たから」

「ああ、人気無いですもんね、ここ」

 

 ボロボロの机を挟んで彼女の向かい側に座る。座るときに彼女の汗が膨よかな胸の谷間を見て、急いで視線を逸らす。それを見た彼女は何故かクスクス笑っていた。

 

「ここにはよく来られるんですか?」

「ええ。開いた時間に。多分私と貴方の時間割が丁度食い違っていたんでしょうね」

「そうっぽいですね」

 

 彼女は開いていたページに栞を挟んで脇に置いていたトートバッグにしまった。

 

「何学部なんですか?」

「文学部。実は私、こう見えて3年生なんですよ」

「……マジですか?」

「はい、マジです」

 

 彼女は面白そうにクスクスと口を抑えて笑った。僕はバツの悪い顔で頭を掻いた。

 

「まさか2年も先輩だったとは……」

「てことは君は1年生?」

「はい。工学部です」

「ああ、あそこね。どう? 楽しい?」

 

 先輩風を吹かした先輩が興味津々に聞いてきた。

 

「ええ。友人がいないことを除けば充実してますね」

「あら、高校の友達はいないの?」

「いないっすね」

「じゃあ私は君の初めてかしら?」

 

 彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべている。身を乗り出して両肘を机の上に置き、顎を両掌に乗せている。机が邪魔で確認していないが足もブラブラと揺らしてそうな雰囲気だ。

 

「意味深な言い方はよしてくださいよ」

「ごめんごめん。ついね」

 

 そう言いながら彼女はケラケラと笑っていた。

 

「先輩はどうしてここに?」

「んー? 友達いないからかな」

「じゃあ僕も貴方の初めてですか?」

「アハハ、そうかも」

 

 愉快そうに彼女は応える。ある一つの疑問が脳裏に浮かんだ。

 

「どうして友達いないんですか? それくらい明るくて可愛いならモテるでしょうに」

「可愛いなんてそんな、ここまで高いテンションで話すのは君だけだよ。ほら、ここら辺の子って基本グループで固まってるじゃん? そこにうまく入れなくてね」

 

 君だけだよ。その言葉にどうしようもなく心が揺れるのを感じた。

 

「逆になんで出会ってすぐの僕にそんな心を許せるんですか……?」

「えーっと、あの……勘、かな? ほら、あのこの人なら大丈夫だって直感、分かるかな? あと1人だったから同類かなって」

「あー、成る程」

 

 前者は正直理解しかねるが、とにかく僕にとっては好都合だった。

 

「あっもうすぐ次の講義始まっちゃう。じゃあ、またね」

 

 そう言って彼女はトートバッグを肩にかけて急いで坂道の階段を登って行った。あまりに突然だったのでポカンと僕は見ていた。心は自然と満たされていた。

 

 それから僕は先輩と多くの時を過ごした。大半は湖沿いのパビリオンだったが、それでも彼女といると同じ背景でも全く違って見えた。彼女のコロコロと変わる表情と自然が同化しているようだった。

 

 会話で沢山のことを知った。彼女の文学部の教授のことや、彼女の家族のこと、ホラー映画が好きなこととか、実はズボラな事、アザラシが好きなこと、ピアノやバイオリンなど様々な楽器が弾けること、恋愛漫画よりも純文学や海外文学が好きなこと。

 

 中でも意外だったのが化粧をほとんどしていないことだった。確かに周りにいる女性に比べて唇の赤みが薄いとか睫毛が若干薄いと思わなくはなかったが、それでも殆ど手をつけていないとは知らなかった。

 

 それらの情報を元に、僕は彼女に猛アピールをした。時にはなけなしの勇気を振り絞って映画館や水族館なんかに誘った。そのすべての誘いを彼女は快諾してくれた。いつでも彼女は笑ってくれて、それをまた見たいために僕は彼女と何度も出かけた。週末にあのおじさんに会わなくなっていたことに気付けない程、僕は彼女に夢中だった。

 

 秋の頃だった。いつものように、講義の疲れを取るようにパビリオンの長椅子で横になって寝ていると、体を誰かに揺さぶられた。ここ最近毎日聞いているような声が聞こえる。ゆったりとした動作で目を開ける。誰かが僕の肩に手を置き、優しく揺さぶっている。手の主を追って見ると、先輩だった。上半身を屈めて、僕の顔を覗き込みながら、何か考えに耽っている。

 

「どうしたんすか先輩、思い詰めたような顔して」

 

 今日も彼女はスカートを履いていた。秋らしい彩りをしていて、まるで季節が彼女に合わせているみたいだった。

 

「へっ、私そんな顔してた?」

「この世の終わりみたいな顔してましたよ」

「うっそでー!」

 

 冗談を言うと、彼女は上体を跳ね上げて笑った。それにつられて僕も笑う。

 

「いや、前までよく会ってた人がいるんだけど最近会えてなくてね」

「へぇ、会えると良いっすね。合コンで仲良くなった女性の事を一日で忘れるうちの先輩とは大違いだ」

「アハハ、青春してるね」

「今秋なんすけどね」

 

 軽口の応酬。漸くいつもの調子が戻ってきたような気がする。でもまだ彼女の顔に陰りが見えた。

 

「ねぇ」

「なんでしょう?」

「……やっぱなんでもない!」

「えぇ……」

「ほら、今日駅前のマックに行くんでしょ? 早く行こうよ、お姉さん腹ペコだよ」

 

 冗談めかしてそう言って、彼女は立ち上がった。先ほどの感情などまるでなかったかのように明るく振る舞う彼女は、やはりいつもと違うような気がした。

 

「あんた奢られる気満々じゃないすか」

「でも奢ってくれるんでしょ?」

 

 先をいく彼女が振り返る。首をこてんと傾げて僕の顔をじっと見る。実にあざといが、意外にも様になっている。

 

「まぁ良いっすけど」

「そうこなくっちゃ! さ、いこいこ!」

 

 朗らかに笑う彼女を見て、あの人に限って悩み事なんてないだろう。さっきのもきっと何かの間違いだ。そう思い直して、僕は鞄を背負い直して彼女の後を追った。

 

 ▽

 

 クリスマスの夜だった。彼女に猛アピールしていた僕は、当然この日も先輩を誘ったのだが、当日にドタキャンされた。急用ができたらしい。まぁそんな日もあるだろう、むしろ今まで断られなかったのが奇跡な方だと素直に受け入れた。

 

 友達もおらず、これと言った趣味なかった僕は近場のモールに出かけた。特に何かを買うわけでもなく、フラフラと中を彷徨った。

 

 二階に上がると、とある化粧品店が目に入った。そういえばと先輩は化粧を殆どしていなかった事を思い出す。折角だしクリスマスプレゼントに彼女に渡して見るもいいかもしれない。

 

 そう思って意気込んで店の中に入ってみた。化粧品のキツい匂いがする。思わず顔を顰めて鼻を摘みたくなるのをぐっと堪える。どんなものを渡そうかと陳列された商品を見てみるが、全て同じに見えてどれが良いのかさっぱり分からない。やっぱりやめようかと思って足を外に向けようとした時、良いカモを見つけたとばかりに店員さんがタイミング良く話しかけてきた。

 

「何かお探しでしょうか?」

「あの、えっと、はい。とある女性にプレゼントに買おうと思ったのですが、何が良いか分からなくて……」

「今はこのアイラインなんかが人気ですが?」

「その人は普段化粧しないんで、出来ればもう少し薄めというか、お手軽に出来るような感じのやつが……」

「ではこちらの化粧水やファンデーションなどは如何でしょう?」

「じゃあ化粧水で」

「はい、ありがとうございます。梱包はなさいますか?」

「お願いします」

 

 店員さんとの会話が終わり、意識が戻る頃には買い物袋が片手に握られていた。魔法みたいだなと思いながら店を出た。

 沢山の家族連れとカップルとすれ違った。いつかは先輩とあんな風になりたいなと気持ち悪い妄想をしながら流れる人混みを眺める。転んだ子供を抱き上げる父。自分に背丈程のプレゼントを買ってもらい母に感謝する子ども、彼氏の腕を抱き彼氏のポケットに片手を入れて歩くカップル。

 喧騒に耳を傾けてながら、なんとはなしにこの前先輩が言っていた事を思い出した。

 

 ─私、君と出会えて良かったよ。スカートの裾に触れてるみたい

 

 なんとも文学部が言いそうな洒落た台詞である。どう意味かと聞いてみたが、考えろと言われてしまった。

 

 ─じゃあこの意味が理解できた時、君の答えが聞きたいな

 ─ええ、いつか分かったらその時は必ず

 ─ふふ、約束だよ? 

 

 あどけない彼女の童顔が崩れるのを思い出す。ヒントは無し。無理難題も良いところである。

 ため息をついて、プラスチックの柵にもたれ掛かる。吹き抜けから下の階の様子をチラリと見たら、見知った顔が見えて、重わず二度見してしまった。信じられなかった。それは先輩だった。スカートを履いた彼女がいた。笑っている。その視線の先には男がいる。顔は見えない。

 

 頭を鈍器で殴られたようだった。何も考えられない。残された理性が買い物袋を落としてはいけないと訴えて、強く手を握りしめる。

 声を掛けようなんて思わなかった。僕以外に知り合いがいたのかなんて失礼な感想が浮かんできたが、それ以上に彼女の笑顔が忘れられなかった。

 

 彼女は僕が特別だと言った。その笑顔は僕にしか向けていないと僕は信じて疑わなかった。僕が彼女しか見えていないように、彼女もきっと僕しか見えないと思っていた。どうやら飛んだ思い上がりだったらしい。彼女という存在を自分のものさしで測ってしまっていた。

 

 吐き気がした。ひどい自己嫌悪に陥った。目の前が真っ暗になって、足元もおぼつかない。手の熱い感触だけが浮き彫りになっていて、自分が立っているのか膝を立てているのかすら分からなかった。

 

 帰ろう、もうこれ以上いても辛いだけだ。踵を返し、帰路へと着いた。振り向きざま、最後にちらりと二人を見た。どちらもとても見慣れた顔をしていた。

 

 モールから出ると、初雪がしんしんと降っていた。悴んだ手に息を吐きかける。白い息が舞い上がる。白い結晶と絡み合い、やがて溶けて消えていく。そんなものまるでなかったと言わんがばかりに。無邪気な子供のように、何度も白い息を吐いた。この想いが、きっと泡沫の雪のように、跡形もなく溶けて消えることを聖なる夜に願った。

 

 ▽

 

 冬休みが明けてからパビリオンに行くことは無かった。彼女に会うのが怖かった。自分の汚い独占欲を曝け出してしまいそうな気がした。買った化粧水は、使われることなく洗面所に置かれている。幸い彼女とキャンパス内で会うことはほとんど無かった。講義が終わってもパビリオンの方へは行かず家へ直帰した。そうして、大学一年生は終わりを迎えた。

 

 大学二年生になって、知り合いができた。時間に余裕ができて始めたバイト先に、同じ大学の先輩がいたのだ。彼は偶然にも四年生で文学部だった。共通の趣味などでおお互い馬があった僕らはよく一緒にいた。僕はその趣味のことを、彼はそれに加えて大学内であった噂や事件なんかをよく僕に聞かせてくれた。その頃僕は講義の時以外は殆ど大学にいなかったので、彼の話はとても新鮮で、だから僕は事実を知るのがとても遅れた。

 

 先輩は死んだらしかった。三月のある日に、駅で男と心中したらしい。桜の初咲きの日でもあったそうだ。

 

 まず最初に怒りを感じた。彼女に死の鎌を振りかざし、罰せれることなく彼岸へと逃げた顔も知らぬ人物に。そして、彼女と会おうとしなかった自分へ。

 

 次に後悔した。時間はあった。何度も彼女に会おうと足を向けようとした。彼女はきっと毎日スカートを履いて、あそこで僕を待ってくれているはずだ。僕が勇気を出して、何も知らなかった風を装えば、それで良かった。でも、そうしなかった。あの夜、彼女が一緒にいた男との関係性を聞くのが怖かった。彼女に会ったらどうしても聞きたくなるから、いっそのこと会わないでおこうと決めた自分が愚かだった。

 

 最後に残ったのは虚無感だった。もう彼女に会えないんだと、もうあの揺れるスカートが見れないんだ。あの問いへの答えを告げることすら、もう叶わないんだ。

 

 気付けば膝をついて泣いていた。目の前が滲む。頭上から彼の声が聞こえる。

 結局、その日はバイトを休んだ。とても仕事できるような状態では無かった。上司も泣き崩れた僕を見て今日はもう帰っていいと言ったらしい。

 

 次の日、講義の帰りにパビリオンへ向かった。あの時あんなに行くのを拒んだ足はすんなりと前へ運べた。やはり、彼女はいなかった。そこで昼寝をしてみた。目が覚めても、彼女の声は聞こえなかった。

 そのあと彼女の家へ行った。一度家に帰り、放置していた化粧水の入った袋を丁寧に鞄に入れた。洗面所には埃の跡がぽっかりと浮かんでいた。幸い住所は生前彼女が教えてくれた。あの問いの答えが分かったらいつでも私に答え合わせを出来るようにと。

 

 家に着くと、彼女の母が出迎えてくれた。彼女は最初困惑していたが、僕が彼女の大学の後輩である事を告げると快く家へあげてくれた。

 生前よく娘はあなたの事を話していたのよ、と彼女の母は懐かしむような声で言った。仏壇はどこですか、と僕は尋ねた。彼女の母は仏壇へと案内してくれた。

 仏壇は6畳の和室の隅にひっそりと鎮座していた。前に正座して、線香を焚き、両手を合わせ目を瞑る。

 願わくば、もう一度君と会って、あの問いの意味を教えてくれないか。それだけを願った。

 目を開け、改めて仏壇を眺めて、あることに気づいた。化粧水が置いていた。僕があの夜買ったのと全く同じものだった。

 

「あの、これどうしたんですか?」

「ああ、確かクリスマスの夜、彼女が持って帰ってきたんですよ。『友人からもらった』って言っていました。まぁ、大分昔に買ったものらしくてとても使い物にならないんですけど。ただ彼女があんなに嬉しそうにしてるのは珍しかったので、直ぐに捨てるのもなんだかなぁと思ってここに置いてます」

「そうですか」

 

 二つも同じものはいらないだろうと思って、鞄から化粧水を出すのを辞めた。それから少し世間話をして、最後に菓子折を渡して家に帰った。

 

 それからは特にこれといった記憶は無い。気付いたら夏になって、秋になって、冬になって、春になって、大学を卒業して、そこそこの会社に就職して、管理職に就けるようになる程度には時が経っていた。死んだような日々だった。あの時から、僕はずっと眠っている。目覚めを告げる風はまだ来ない。スカートは、まだ揺れない。

 

 夏が嫌いだった。彼女と出会ったあの日を思い出してしまうから。スカートを履いて、静かに本を読む彼女を思い出すから。

 

 秋が嫌いだった。彼女と過ごした日々を思い出してしまうから。朗らかに笑う彼女の声が、耳の奥で木霊して夜も眠れない。

 

 冬が嫌いだった。あの聖夜を思い出してしまうから。知らない男に向けるあの笑顔を思い出すから。

 

 ある春の日だった。その日は土曜日で、珍しく休みだった。折角なので、久しく行っていなかった大学へと足を運んだ。その頃には期待することも忘れていた。無意識に、パビリオンへ向かっていた。春風に背中を押されながら階段を降りた。

 

 目の前には、幼い顔つきの女性がいた。彼女は日陰で静かに本を読んでいた。彼女は、スカートを履いていた。

 思わず目を見開いた。目の前の景色が信じられなかった。これは幻覚で、此処には誰もいないのだと何度も自分に言い聞かせた。

 

「あの……何か御用ですか?」

 

 その声と言葉は僕を夢を見ている様な気分にさせた。春も嫌いになりそうだった。

 

 ▽

 

 それから、毎週土曜日になると大学へ足を向けた。彼女はいつも同じ時間にパビリオンにいた。

 彼女と多くのことを話し、多くのこと知った。文学部で、ホラー映画が好き。好きな動物はアザラシで、少女漫画よりも純文学や海外文学を好むこと。それらはどれも先輩と一致していて、知れば知るほど彼女と先輩を重ねてしまいそうだった。

 学年が違うのが救いだった。先輩は三年生で、目の前の彼女は一年生だ。それだけが僕を現実につなぎ止めていた。

 

 毎週土曜日に会うだけの関係が長い間続いた。それ以上は求めなかった。求めてはいけないと強く己に言い聞かせた。

 

 そうして幾度となく季節は過ぎて、迎えた春のある日、いつも通り彼女が来るまでパビリオンで待っていると、足音が聞こえた。視線をそちらに向けると、階段を降りた先に、青年がこちらを見ていた。こちらが声をかけるよりも先に青年は小さく頭を下げてすぐにまた階段を登って行った。そういう日が何度かあった。

 

 六月に、三年生になっても出会いがなくて泣きそうと嘆いていた彼女に、時間をずらしてここに来てみたらと助言してみた。それから、僕は大学へ行くのを辞めた。

 

 彼女と再会したのは十二月二十五日だった。そういえばこの日に失恋したんだったけなと思い出した僕は、モールへと足を運んだ。

 

 その道中、若い人たちの間でよく待ち合わせ場所となっている駅前の広場を通った時、視界の端で揺れるスカートが見えた。まさかと思い、目を向けると彼女がいた。悴んだ手に息を吹きかけながらベンチに座ってなにかを待っている風だ。

 彼女が僕に気づいた。顔をパッと明るくさせて僕の方へ駆けてくる。

 

「久しぶりおじさん! どうして最近大学に来なかったの? 心配したんだよ!」

 

 開口一番に怒られてしまった。

 

「でも退屈はしなかっただろう?」

「まぁね。面白い人と出会えたから、その点だけはおじさんに感謝かな」

「だろ。じゃあな、待ち合わせしてんだろ?」

「あっ待って久しぶりだしもうちょっと一緒にいようよ!」

「だから待ち合わせしてんだろおまえ」

「ちょっと待って」

 

 そう言って彼女は携帯を取り出したかと思うと、素早く指を操作して何かを打ち込んでいる。

 

「はい、ないよ。待ち合わせなんか」

 

 そう言って通話アプリのトーク画面をずいと僕の顔に寄せてくる。相手の名前は「後輩くん」らしい。

 

「ドタキャンとか最低だな」

「良いのよ。彼とはいつでも会えるんだから。それよりも今はおじさんと一緒にいたい」

 

 その彼への多大な信頼を寄せた言葉に、何故か心が温かく感じた。

 

「どこ行くつもりだったの?」

「モール」

「じゃあフードコートでご飯食べよ、私腹ぺこだよ?」

「おまえ奢られる気満々だろ」

 

 自然と出た言葉に、苦虫を噛み潰したような顔をする。違う、彼女は先輩ではない。

 

「でも奢ってくれるでしょ?」

 

 僕のしかめっ面を覗き込むようにして、彼女がそう言う。懐かしい記憶が呼び起こされる。

 

「まぁ良いけどよ」

「そうこなくっちゃ。さ、いこいこ!」

 

 

 

 そう言って、彼女は前を走り出した。処女雪のような彼女のスカートに、ほんのりと秋の彩りを見た気がした。

 

 ▽

 

 モールは広場から徒歩で10分程の場所にあり、そこまで僕らは歩いた。会話は主に彼女から振ってくれ、矢継ぎ早に話題を変えていくので、僕は相槌を打つので精一杯だった。何処か遠くを見ている僕を振り向かせようと彼女は必死だったのかもしれない。

 

「ちょっとおじさん!」

「おお、悪い。つーか箸こっちに向けるな。行事悪いし危ない」

 

 目の前には膨れっ面の彼女が不機嫌そうにうどんを頬張っている。モールに着いてから、まず昼食を済ませ、それからウィンドウショッピングでもしようと指針を立てた僕らは一階のフードコートへ向かった。

 

 今日がクリスマスのせいで、フードコートは歩く場所がないくらいの人混みで、席を確保するのに10分も掛かってしまった。じゃあ頼んでくるからおじさんその席で待ってて、と彼女は机に荷物を置いてまた人混みへと姿を消してしまった。

 

 そういえば何食べたいか言ってなかったな、ちゃんぽんとかじゃないといいなあれ苦手なんだよな、なんて取り止めのない事を考えながら携帯を眺めていると、彼女が危なっかしい手つきで二つのトレイを持って戻ってきた。頼んできたのはうどんらしい。胸を撫で下ろしつつ、彼女の手からトレイを一つ貰って席につく。

 

 服に汁が飛ばないように気をつけながらうどんを頬張る彼女を正面からじっと見る。

 

 大学生の時の記憶が次々と呼び起こされた。あの時も、僕は先輩の正面に座っていた。正面から話す彼女を、読書する彼女を、笑う彼女を見ていた。彼女の顔の造形は細かい所まで先輩と瓜二つだ。彼女の生まれ変わりだと言われてもきっと僕は信じるだろう。寧ろ生まれ変わりであって欲しい。あの時の答えを、僕はまだ答えられずにいるのだから。

 

「そしたらねーあの後輩くんがさー」

 

 彼女は暇を見つけては後輩の話をしてくる。というかこんな特別な日にドタキャンした人の惚気話をするのは如何なものなんだろうか。

 

「ずっと後輩の話してんな」

「だって面白いんだもん」

「好きなの?」

 

 口に出してから己の失態に気付いた。いくらなんでもこれはデリカシーがなさ過ぎる。彼女は箸を止め俯いている。

 

「すまん、やっぱりなんでも」

「うん、好きだよ」

 

 はぐらかそうとした僕の言葉を遮るように、彼女はきっぱりと言い切った。軽く返して話題を直ぐに変えようかと思ったが、折角彼女が乗ってくれたのだ、もう少し聞いてみようと思い直して、質問を続けた。

 

「何処らへんが?」

「えーっとね、まずは優しいところかな。よく大学の帰りにマックに行くんだけど彼毎回奢ってくれるの。私の分のトレイも持ってくれるし。あとはそうだね、私にアピールしてくるところとけ健気というか、可愛げがあってね」

「へぇ、告白は?」

「まだかな。私からするとなんか負けた気がするし」

「何にだよ」

「……なんだろうね」

「おい」

 

 そろそろコーヒーが飲みたくなってきたなので、この話を切り上げようとすると、彼女が思い出したかのように、そうそう、と人差し指を頬に当てた。

 

「でもね、やっぱりちょっと私の気持ちを仄かしてあげてもいいじゃないかと思ってね。少しヒントをあげたの。やっぱり私の彼氏になるなら賢いないとね」

「なんで上から目線なんだよ。それでなんて言ったんだ?」

「スカートの裾に触れてるみたいって言ったの。案の定彼はちんぷんかんぷんだったけど」

 

 面白そうにケタケタと笑う彼女を瞳に映しながら、しかし僕は思わず呼吸をするのすら忘れてしまっていた。他人のテストの解答用紙を見てしまった時の罪悪感というか、自分で答えを見つけたかった悔しさのような形容し難い何かが胸中に渦巻いていた。

 

 いや、待て、違う、彼女は先輩じゃない。確かに先輩と似てるが、彼女は全くの別人だ。たとえ同じ事を言ったからと言って、それが同じ意味とは限らないじゃないか。落ち着け、狼狽えるな。

 

「どうしたのおじさん? 顔色悪いよ」

 

 彼女がその無垢な瞳で僕の顔を覗き込む。

 

「いや、驚いただけだよ。昔僕に全く同じ事を言った先輩がいたからそれを思い出してたんだ」

「へえ、どんな人?」

「良い人だったよ。優しくて、感情豊かで、可愛くて、大好きな人だった。ああ、君とそっくりな顔をしていたよ。性格もとても似ている」

「告白した?」

「……する前に死んだよ。丁度君と同じ年だったと思う。大学三年の春休み、四年生になる前に。無理心中だったって聞いてる」

「……なんか、ごめんね」

「いや、こっちも湿っぽい話をしてごめん。それよりも君が後輩にした質問の意味を教えてくれないか?」

「じゃあそれをおじさんへの宿題にしようかな。答えが分かったら教えてね」

 

 それを最後に、彼女はまたうどんを食べ始め、話の続きをすることは無かった。僕もそれを見て自分のうどんを食べた。麺は汁を吸って伸びきっていた。

 

 それからは何事もないように時が過ぎた。普段通りの彼女とモールのあちこちをぶらぶら歩いて、気になる店があったら入ってみるを繰り返した。少しでも良さげな服屋を見つけると彼女はすぐ僕の服を見繕ったり試着したりをしていたからかなり時間がかかり、外に出る頃には辺りはすっかり暗くなってしまっていた。吹き抜けの下に置かれたベンチで休憩していた時に誰かの視線を感じたような気がしたが、たぶん気のせいだろう。

 

「いやー随分長いこといたね」

「あぁ、悪いな、服なんか選んでもらって。何かお返しできたら良いんだけどな」

「別にいいよ、好きでやったことだし。金出したのそっちだし」

 

 彼女はそう言っているが、ここで貰ったままでは此方も悪いので、何か返せるものはないかと肩にかけていた鞄をまさぐっていると、奥底から古びて使い物にならない化粧水を見つけた。多分出すのも面倒臭がってあの日からずっと入れっぱなしだったのだろう。

 

「……いや、流石にこれはないわ」

 

 一瞬渡そうかと思ったが、いい服を選んでもらってそのお返しがゴミ同然の代物は論外であろう。家に帰ったら捨てよう、そう思い直して化粧水を鞄を閉じようと思ったのだが、先の独り言を彼女に聞かれていたらしい。

 

「何がないの?」

「いや、なんでもない」

「えー教えてよー」

「いや、本当になんでもないから」

「いいじゃん、服選んであげたんだから」

「……鞄の中に古い化粧水あったんだけど、これ渡すのは流石に無いよなって思っただけ」

「ふーん……ねぇ、それ頂戴?」

「は? いやお前嫌だろこれ貰っても」

「私が欲しいって言ってるから良いの、ほら!」

 

 彼女がずいと手を出して早く渡せと促してくる。彼女の意図が全く理解出来ないが、逆らうのも面倒なので素直に渡した。

 

「ありがとう」

「次会う時はもっとマシなもん渡す」

「期待せずに待ってる」

「そこは期待しろ」

 

 頬に冷たい感触がした。見上げると雪がまばらに降り始めていて、曇天に浮かぶ星のようだった。

 

「わっ、ホワイトクリスマスじゃん」

 

 彼女はそう言って掌で降る雪を受け止めようとしている。吐く息が白くなっているのに初めて気づいた。

 

「ねぇ」

 

 視線を雪の降る夜空に固定しながら、声だけを僕の方に向ける。

 

「もしさ、私が生まれ変わりだとしたら、()は信じる?」

「……は?」

 

 余りにも唐突な質問とその内容に、僕は間抜けな声を出すしか出来なかった。白く青い吐息越しに見る彼女の顔はとても儚げで、綺麗で、あの日見た先輩と全く同じだった。頭の底で何かが堰を切って、止め処なく溢れていく感覚がして、それが心地良い。

 

「バイバイ、メリークリスマス。そして良いお年を」

「……ええ、さようなら、()()

 

 先輩は小さく微笑んで、すっかり祭りのような熱を帯びた寒い夜の街の姿を消して行った。

 少しの喪失感を心地よく感じながら、僕も帰路についた。今度こそ答えを告げるのだと意気込んで。

 

 ▽

 

 僕が答えにありつけたのは、1月に入ってすぐの頃だった。答えは分かっていたので、其処から逆に辿っていったら答えは案外簡単に見つかった。寧ろなんで今までこんな簡単なことが分からなかったんだと過去の自分を叱った。

 

 しかしそこからが悩みどころだった。かつては失った先輩だ。もう二度とあんな思いはしたくない。思いを告げて、ずっと二人で一緒にいたい。そのためにはどうするのが一番なのか悩んだ。とても悩んだ。死ぬほど悩んだ。そして一つの答えをなんとか捻り出すことができた。

 

 三月、彼女に会いに大学に行った。久しぶりの大学は想像していたほどの変化は無くてとても安心した。すっかり体に染み付いた足取りでコンクリートの道を歩き、階段を下り、日向から隠れるようにあるパビリオンへと向かった。冬を越え、初々しい緑を備え始めた木々に囲まれたそこに、先輩がいた。いつもの様に、本を読んで、スカートを履いていた。純白のスカートだ。

 

「おっ久しぶり」

「ああ、久しぶり」

 

 僕に気づいた先輩は本を閉じて、机を挟んで反対側の椅子に座った僕の方へと座り直した。

 

「あの時の答えを言いに来た」

「……そっか」

 

 世間話をするでもなく、単刀直入に僕は言った。先輩は特別驚いた様子もなく、落ち着き払った様子でそう返した。

 

「じゃあ早速聞かせてもらおうかな」

「スカートをアルファベットに変えて最初の三文字」

「正解。どうしてこんな簡単なことにすぐ気づけなかったのよ」

「自分でもそう思ったよ」

「じゃあ、君の返事は?」

「……少し歩こうか」

 

 僕はそう言って徐に立ち上がって、階段の方へと歩き始めた。後ろから先輩が早歩きしてきて、隣を歩く。

 

 三月の街は少しずつ温かみを帯び始めていた。汗をかくほどではないにせよ、上着が邪魔くさく感じる。

 

 道中、僕らはずっと黙ったままだった。どちらも何も言おうとしなかったし、何か言うことを相手に求めもしなかった。

 

 駅に着いた。時計を確認する。ここを電車が通過するまで、あと2分ほど時間がある。

 

「返事なんですけどね、先輩。好きですよ、知ってたと思いますけど」

「そっか」

「僕はもう先輩を失いたくないんです。あの時先輩が死んで、死ぬほど後悔しました」

 

 あと一分。

 

「だからね先輩、僕は考えたんですよ。どうやったらずっと一緒にいられるだろうって。そして思いついたんです。ずっと一緒にいられる方法」

 

 三十秒。踏切の警報機が鳴り響く。

 

「先輩、僕と一緒に死んでください」

 

 二十秒。先輩を抱きしめる

 

「ねぇ」

 

 十秒。胸の中で先輩が言う。遠くで電車が此方の駅へ走ってくる。駅員さんのアナウンスが頭上から聞こえる。

 

「好きだったよ」

 

 五秒。足に力を入れて、線路へ飛び出す。電車が物凄い音を立てて此方へ突っ込んでくる。嗚呼、もうすぐだ。

 

()()()()

 

 深い、深い眠りから覚めたような気がした。意識が徐々に明確になっていって、視界が広がっていく。

 

 線路に面した家では、白いカーテンが靡いていた。

 

 線路に沿うようにして植えられた木には、桜が咲いていた。

 

 その直ぐ足元には、白詰草が揺れていた。

 

 思い出したのは、()()のスカート。

 

 ─気づくには、遅過ぎた。

 

 

 




“Ski”rt

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