でも大抵モテるやつって屑だよね(偏見
俺モテないから分からないけど
黒くぼやけた赤紫色の証明を、信じられないと言わんばかりの表情で鏡に映る人物は指でなぞる。
頭の中が真っ白になった。
彼女の優しさに触れ、自分の愚かしさを認め、すべてをさらけだして、償おうとしたその矢先に。なにもかもが崩れ落ちてゆく。思い切り頭を叩かれたとか、そんな衝撃ですら比にならない。深くえぐるような、脳の中までかき混ぜるような、そんな感覚。
いまだに現実を認めようとしない体は、脳信号を無視して呆然と立ち尽くしている。リビングから聞こえてくるなのはの嗚咽だけが、妙にリアルに聞こえて、心を激しく責め立てる。
現実と非現実のはざまにでも存在するような気になって、ただこの事実から逃げようとしていたことだけを気付かされる。
だが、もう逃げられない。逃げ場などない。
一度打ち立てられた覚悟は、括った腹は、とっくのとうにぶち壊されていて、だから今動けているのは大層な理由なんて無くて。できる事なんて無く、逃げ場を失った崖っぷちに立つただの最低男の悪足掻きといったところだろう。
夏だと言うのに冷たい床の上を歩く。もう己の足には血なんて通ってなくて、感覚なんてほとんどなくなっていた。
逃げ出したばかりのリビングに再度戻る。
見慣れているはずの家なのに、一番心を落ち着かせることができる場所のはずなのに、今この瞬間だけは世界で一番居たくない場所になってしまった。
へたり込むなのはの表情は窺えず、準備をしていなかった第一声は音として口から溢れることない。
歩みを止めて、まっさらな頭の中にちぐはぐに散りばめられている言葉をかき集めていると、変わらずに俯いたままなのははそっと、これ以上少しでも扱えば壊れてしまいそうな、ガラスの楽器のような声を紡ぎ出した。
「フェイトちゃん、だよね?」
「な──」
──んでそれを。
「当たり前だよッッ!!!」
音。
先程までの壊れそうな繊細な楽器から打って変わって、激しく、熾烈な音。
「おかしいなとは思ってたの。違和感がなかったわけじゃないの。でも、そんなこと絶対にないって、ふたりを、信じてたのに」
言葉が出ない。
いつもなら出てくるような屁理屈じみた言い訳とか、この状況をなんとか収めるような一言とか。
そんな上っ面だけの言葉を出したら、それこそ、本当に終わってしまうから。
なんで、フェイトさんとの関係を察したのかだなんて、言わない。言えるわけがない。
「電話して」
「その、フェイトさん、に?」
「それ以外誰がいるの」
「あ、ああ」
この状況でどちらが悪いかなど明白だから、ケイは言われた通りに震える手で受話器を叩く。
そこに立ち尽くしたまま足は動かない。
目の前の彼女も床にだらりと座り込んだまま立ち上がることはない。
フェイトさんが電話に出ない可能性も、先ほど入れたコーヒーが冷めてしまったのではないかと言うことも、下ごしらえをした夕飯をどうするかも、そんなことすら頭に浮かばない。
ワンコール、ツーコール。
無音の室内に高く反響する音は、本当に嫌なもので、鳴るたびに胃の奥が締め付けられる。
スリーコール、
ただ、運良くその電話は繋がる。
この瞬間にとっては、絶望的なものであったとしてもだ。
「もしもし、フェイトさん?」
横目になのはを見る。
が、まだ下を向いている。
聴覚の方に集中を戻す。
「ケイ! どうかしたの? そっちから電話くれるのって、あんまりないのに」
今の状況、この雰囲気とはアンバランスに元気よく電話に出た彼女。不倫関係になって以降、決して俺から電話はしなかったためか、数年ぶりくらいにこちらからもらった電話に声を弾ませる。
「あ、その…………、え、と」
考えもなしにただ流れに任せたままかけた電話。いったいなんて説明すれば良いのかなんてわかるはずもない。一秒か二秒か、はたまたそれより長い時間か。うまく話せずに、嫌な時間だけが経過する。
そんな様子に、ついぞなのはは業を煮やしたのか、
「……かわって………………電話、代わって」
受話器の向こうで、嬉々としているであろう彼女に聞こえるほどの大きさで。おそらく意図的に、当て付けとして聞かせるために。怒りのこもっている声をお腹の底から絞り出す。
「あ──そういう電話なんだね。そう、やっと、やっと気がついたんだ。ふふ、遅いよ、遅すぎる。なのはもずーっと見て見ぬ振りしてたんだね」
無音の部屋だと、受話器から漏れる音はよく響いてしまう。
一瞬で全てを察し、電話越しに挑発の言葉を口にする。彼女もまた、なのはと同じように、聞こえているのを知った上で、意図的にやり返す。なのはにちょうど聞こえるような音量で。
「だって、結構前から、やってたよ。そういう事」
「待ってください、どういう事ですか、だってそれじゃあ、約束と違──」
「約束? ……ああ、なのはには言わないで、って話だったね。大丈夫だよ、ケイ。決してなのはには言ってないよ。直接本人に、なんて事はしてないよ」
「でも、なら、見て見ぬ振りってどういう事ですか?」
「キスマークだってつけたのはこれが初めてじゃ無い。ケイが気付かない様に、ベットの下の方にわざわざ髪の毛も置いておいたし、寝室に私がいつも使ってる香水を軽くふったり、数えたらきりが無いよ。
遅いよ──遅すぎるんだよ。気がつくのが。それとも、ケイも見て見ぬ振りしてきただけなのかな?」
受話器は耳にぴったりとくっつけたまま、なのはに目を向ける。
俯いていたはずの顔はあげられて、能面でも貼り付けられているような無表情でこちらを見つめていた。
「電話、代わって」
電話越しから聞こえてくるフェイトさんの声は聞こえず、ただゆっくりと立ち上がるなのはの姿を呆然と眺めていると、右手に握っていた受話器を強引に取られる。
真っ直ぐ立っていることなど出来なくて、ふらふらした足取りでリビングのソファへと向かう。
「フェイトちゃん、どういう事?」
数秒の返答、
話している内容が気になって少し足を止める。今度ばかりは俺にも受話器越しの声は聞こえない。
「……そういう事じゃ無くて──、今、来れる?」
一言ほどの間、
「そう。なら、できるだけ早くね」
電話越しから漏れる語調の強い声。
なにを言われたのか、なのはは少しだけ顔を歪めて、
「そんなこと、電話越しで話したって──────、だから、来てって言ったんだよ。ちゃんと話し合おう」
問答が終わったのを確認して、これ以上足腰に力を入れ続けることも同時に困難になって、無気力にソファに腰をかける。
完全な静寂。
無音の世界は嫌いではない。静かなところはとても好きだ。
それでも今は、この時は、互いの沈黙という元来静かであるはずのものが、ひどく煩く感じられた。
・
フェイトさんの到着は意外にも早いものだった。
待っている間の体感時間は途方も無いほどに長く感じたが、それを差し引いても、やはりかなりの速さで来てくれたのだと思う。
それまでの間、なのはとの間に交わされた言葉は一切なく、事態が進展することもなかった。
無言のまま3人でテーブルにつく。
なのはも、フェイトさんも無言のままで手元を眺めていた。
もう良い加減、自分でなんとかしなければならない。
フェイトさんと始まった関係も、結局自分が何もしない、何もできなかったから。なのはに首元のキスマークを見つけられたのも、最後の最後まで打ち明けられなかったから。
この現状は、当然のようにそのツケが回ってきているのだ。
だから、口を開いた。
嘘も偽りもなく、先ほど話そうとしていたことを洗いざらい吐き出してやる。
「なのは、すまなかった。今回の件は全面的に俺が悪い」
ケイは体を右手側に座るなのはの方向に傾けると、先ほどより最寄り一段と深く頭を下げる。
「君の──君の望むようにする」
頭は下げたまま、なのはの返事を待つ。
どう罵られるのかなあ、などと自嘲気味に考える。しかし、次に口を開いたのは、予想とは異なりもう1人の彼女の方だった。
「ううん、ケイは悪く無いよ、悪いのは私だから」
ゆっくりと顔を上げてフェイトさんに目を向ける。しかし、目が合うことはない。彼女は来る前に用意しておいたホットのコーヒー優雅に傾けながら、その目線は、なのはに向けていた。
「……悪いとか、どうとか、そうじゃなくて。説明してよ、何があったのか」
なのはは変わらずに呆然としながら手元を眺めていた。決してフェイトさんと目を合わせるつもりがないようだ。
「なのはと、喧嘩してたときにフェイトさんが家によく来てくれてさ、その……相談に乗ってもらってたんだ」
「そう、だん?」
「どうやったら、なのはと仲直り出来るかって話」
その言葉になのはは反応を見せた。
俯いていた顔を少しだけ上げ、首から上だけを動かして目線をこちらに向ける。
言いたくない。
どう説明すれば良いのか、わからない。
でも、言わなきゃいけないから。
「それで、その──」
「私が、この家に夕飯を作りに来たの」
言うべき言葉を手探りで探しながらもがいていると、フェイトさんが遮るようにして言葉を発した。それは暗に「私が話す」と伝えているようで、安堵しながら口を閉じて、そんな自分を不快に思う。
「それで、私はケイを襲った」
言い澱む事もなく、あっさりと口にする。
あまりにも堂々としているせいか、不意を突かれたなのはもついぞ目線を上げてフェイトさんの方へと向けた。
「あとは、それを理由にケイのことを脅してその関係を続けていただけだよ」
フェイトさんは変わらずに、なのはへと視線を向けていた。
2人の視線がぶつかったのを感じて、何とか、せめて争いだけは避けねばと思い擁護の言葉を口にする。それが悪手かどうかも考えぬままに。
「それは違う、俺がただ断れなくて、フェイトさんにも、思わせぶりな態度を取ってただけで……、喧嘩中だったからって、俺が、甘えてただけで」
「フェイトちゃんの味方するの?」
すっ、と。向けられた視線に、口は動くのをやめた。
「だいたい、さっきの話とか聞けば、どう考えても悪いのはフェイトちゃんの方でしょ? どうしてケイくんは擁護するの? そもそも──」
「なのはだって、私から盗ったよね」
突然、フェイトさんの悲痛な感情のこもる冷たい声が響く。
先程まで、堂々たる態度を取っていたとは思えないほどにその表情は悲しげで、儚げで、この関係が始まってしまった時のことを思い出してしまった。
「盗った、って、どう言う──」
「覚えてるでしょ、3年前。相談したこと」
「──っ」
フェイトさんの声に、なのはは再び視線をそらす。
3年前、あれはまだフェイトさんの下で働いていた時だろうか。しかし、なぜその時フェイトさんがなのはにした相談とやらが今ここで話題に上がっているのだろうか。
「好きだって、確かにその事は直接話してなかったけど、ずっと、気になってる人がいるって話、したよね」
「──え」
もう、流石にここまで言われて気がつかないだなんて言うつもりは無かった。
2年と少しほど前の話、俺が憧憬を抱き、恋心を抱いていた彼女は。
俺のことを、好いていたのだ。
「確かに、覚えてるよ。でもさ、おんなじ人を好きになったのに、フェイトちゃん、ケイくんと離れてから何もしてなかったよね、どうして、いまさら、今になって、こんな……こんなこと……」
なのははすすり泣き、また下を向く。
フェイトさんも、悲痛な面持ちを浮かべて俯いた。
「どうして、こんなにも最低な俺なんかを」
ケイはそれを口にする事なく心の中で何度も何度も言い放つ。
近づかなければ、付き合わなければ、出会わなければ、この2人の仲も、自分達との仲も崩れる事なんて無かったのに。
考えるのが遅い、といつも言われていた。
だから今もどれだけ考えたのかわからない。時計なんて見ていないが、手元のコーヒーはとっくに冷めている。
俺が、答えを出さなければ、この場は終わらないのだろう。
どんな答えを選んでも、きっと2人とも傷つける。もう、取り返しはつかないのだ。間に合う解は無くて、より良い解も恐らくない。どう転んでもハッピーエンドにはなり得ない。
なのはの事が、好きだ。
だが、ここで答えを出して、もう一度俺とやり直したところでまた、彼女は幸せになれるのだろうか。たぶん、世間一般的には、彼女に謝り倒して、俺がしっかりと罰を受けて、それでも受け入れてくれると言うのなら彼女について行くと言う選択肢が正しいのだろう。ヴィヴィオの存在だってある訳だ。だが、その選択で、彼女は、なのはは幸せになれるのか。俺には分からない。
それでも俺は、フェイトさんのことも、おそらく好きなのだ。
初めて本気で人を好きなったのは彼女だった。浮気という関係を続けた事は口でどう否定しようが、彼女に対して昔から好意を持っていたから、喧嘩中で沈んでいた自分を昔のように包んでくれたから、心の奥底では背徳的な喜悦を抱いていたからだ。フェイトさんを選ぶのは、きっと、世間的には間違えなのだろう。だが、彼女を選べば、俺もフェイトさんも、お互いに罰を受けられる。そうやって自分にも彼女にも甘えられる。魅惑な選択肢だ。
答えなんてすぐに出るはずも無かった。
だけど、どれだけ考えてもきっと出てくる物でもない。
まったく、本当に大した事情で妻のなのはと喧嘩をしてしまった。
故に、俺は。
ケイは、迷いながらも答えを出す。
なのはとの喧嘩中にフェイトさんにNTRれたこの話を、これまでとこれから、その全ての責任を取るために。
引っ張るーっ