『かつては、神を冒涜することが最大の冒涜だった。
しかし、神は死んだ。
そして神と共にそれら冒涜者も死んだのだ』
☆
その日は、茹だるような暑さだった。
毎年の様に聞く夏の猛暑日和。
テレビで見たニュースでは気温は全国で三十度を超えるとか。
街に一つは見かける有り触れたデパートには暑さに耐えかね、室内で時間を潰そうと訪れた人、今晩の夕食を求めに買い物に訪れた人、連れだって遊ぼうと訪れた男女、或いは男性と男性、女性と女性のグループ、ペア。
笑顔の人も居れば無表情の人も居た。
不機嫌そうな人も居れば、無気力そうな人も居た。
千差万別、老若男女。
デパートで展開されるのは極々有り触れた喧噪だ。
だから……大丈夫。大丈夫なんだと。
私、一ノ瀬帆波は何度目かの暗示を繰り返す。
今年で最後の夏、中学校三年生を迎えた私の身なりは周りの喧噪に対しても浮くことのない普通の身なりだ。
制服に身を纏い、肩には大きめの学生鞄。
放課後をデパートで遊ぶ学生……傍目にはそうしか映らない。
「……大丈夫」
思わず暗示が口から溢れる。
ハッとして私は普通を装いながら視線を動かす。
……私を訝しむ視線も、疑う視線もない。
そもそも人混みに紛れる私に目を向ける者など居なかった。
独り言。そう、独り言だ。
仮に聞かれていたとしてもそうとしか認識されないはずだ。
でも、それでも……理性的な判断とは逆に呼吸が浅くなる。
心臓の鼓動が痛いほど早い。
手足には微かに痺れが奔り、猛暑に反して悪寒が身体を襲う。
──やっぱり止めよう。悪いことはしてはいけない──
「………………ッ」
鞄を握る手に力が入る。
良心が私の覚悟を弾劾するように訴える。
止めよう、怖い、嫌だ、怖い、ダメだ、怖い、怖い、怖い……。
今にも挫けてしまいそう。
培ってきた十数年の常識がこれでもかと拒否反応を訴える。
同時に脳裏を過るは悲痛な叫び。
誰が悪いわけでも無し、強いて言うなら間が悪かったのだ。
『なんでよッ……!!!』
ヒステリックに、目尻に涙を浮かべた妹の顔。
『ごめんね……ごめんなさいね……』
言葉荒げる妹に、ひたすら頭を下げる母親の顔。
──私の家は母子家庭だ。
母親一人、姉妹二人。
まだ成人もしていない二人の子供を母親一人で育てるには相当の苦労がいる。
お金は決して多くないし、対して我慢は多く強いられる。
心も体も育ち盛りの私と妹。
不満は口にしなくてもいっぱいあったし、本当は欲しいものだっていっぱいあった。それでも……疲労困憊で日々の生活と私たちの成長を支える母の背を見れば、そんな感情なんて見せられないし、見せようとも思わない。
だって、私たち以上にお母さんは苦労しているんだから。
本当はやりたいことだっていっぱいあったはずだ。
辛いことも苦しいこともたくさん、たくさん、あっただろうに。
それでも……それなのに私たちの幸せを第一にしていた。
高校へ行くには多額のお金が消費される、だから就職するといった私をお母さんは反対した。
『うちのことは考えなくて良い、せめて学業だけはやりたいようにやられたい』と私たちの未来をお母さんは取った。
その思いやりには感謝の念しか出てこない。
頑張っている母親を支えたい──。
私はその一念でひたすらに頑張った、極力お金の掛からない高校、特待生制度による金額軽減……必死だった、ただ必死だった。
お母さんの負担を少しでも減らしたい、そう努力していると気づけば学校で一番だって言われるまでに成長していた。
嬉しかったし、誇らしかった。
努力が報われるのも、これで少しはお母さんの負担を減らせることも、何よりお母さんの苦労に見合う、自分に成れた気がしたから。
だけど──。
近く、妹の誕生日が訪れる。
私と同じく母親思いの優しい妹。
いっぱい我慢してきた私より二つ下の妹。
私はお姉ちゃんだから。
お母さんと同じくらい、妹の事だって思ってた。
お母さんもまた、私と同じように妹の事を思ってた。
苦労は皆一緒、思ってたのも、皆一緒。
だからこそ──間が悪かった以上に『事件』を形容する言葉はない。
その日、ずっと我慢し続けてきた妹に初めて欲しいものが出来た。
今まで確固と我慢し、甘えることも強請ることもしなかった妹が口に出すほどに欲しかったもの、その年に流行したヘアクリップ。
妹が大好きな芸能人が身につけていたというそれ。
初めて妹は母親に強請った──誕生日プレゼントに、アレが欲しいと。
当然、お母さんは頑張った。
ヘアクリップを買ってあげるために、妹の我が儘を叶えるために。
けれど、今も頑張っているのに、もっと頑張ってしまったから。
心は折れずとも、身体の方が先に限界をあげてしまった。
母親の入院。
誕生日プレゼントどころでは無くなってしまった。
『欲しかったのにッ!!』
──あんなに泣き叫ぶ妹の姿なんて見たことが無かった。
『楽しみにしていたのにッ!!』
──あんなに憤り、悲しむ妹の姿なんて見たことが無かった。
我慢強くて思いやりがあって優しい妹が。
お母さんに向けて罵詈雑言を叫ぶ姿など、想像もしなかった。
私はお姉ちゃんだから。
何とかしてなきゃと思ってしまった。
妹の笑顔を、私が……そう考えたときに、悪魔が囁いた。
妹を喜ばせるたった一つの方法。
妹の願いを叶えるたった一つの方法。
高額ゆえに手が出せないヘアクリップ。
買うことの出来ない妹が初めて願った欲しいもの。
それを手に入れるための……最悪の方法。
────盗ってしまおう。
……万引きが犯罪である事なんて言われるまでも無く分かっている。
犯罪が駄目なことも、やっていはいけないことも重々承知。
でも理性と常識がそう唱えるたびに私の心の闇が囁く。
悪魔のような甘言で私を誑かす。
──
我慢して、我慢して、我慢して我慢して我慢して……。
──妹のため、一度ぐらい悪いことしたっていいじゃない。
たくさん、たくさん我慢したんだ。
たくさん、たくさん耐えてたんだ。
──どうせ、世の中。悪い人なんていっぱい居るよ。
ニュースでは度々、軽いものから重いもの、多くの犯罪行為が取り上げられし、犯罪者を捕まえる番組だってあんなにいっぱいだ。
それだけ犯罪者は溢れかえっている。
犯罪に限らず公序良俗に反する悪いことを皆一度はやっている。
信号無視、無断投棄、悪口に、嘘と他色々。
だから──赦される。
それは何て甘く間違った解釈。
自身の不幸を理由に犯罪行為を正当化すること何て出来ないのに。
馬鹿で、愚かで、やっちゃいけない。
なのに、ああ、私は今──
自分の今までを台無しにするだろうに。
思いやってくれた家族に泥を塗る行為だろうに。
そんな
……
──別に誰が泣くわけでもない。
商品は多く並んでいる、一つぐらい貰っても迷惑にならないだろう。
「ぅ……」
気持ちが悪くて気持ちが良い。
心は混沌としていて訳が分からない。
視界の全てが霞んで見える、常識が暗闇に隠れていく。
……ああ、これが『闇』か。
他人事のように動く思考。
それでもやるべきことだけはハッキリしていた。
カメラの位置、大丈夫、ここからなら見えない。人の目は外れている、素早く盗って鞄に隠そう、怪しまれてないか、見られていないか、他に見逃していることは、バレそうなことは、大丈夫、大丈夫、大丈夫、今なら盗れる。
盗った後はどうしようか。一階のあの入り口なら万引き用のセンサーはないからあそこから出ればバレないはずだ。万引きGメンという人にも普通を装っていれば、大丈夫、挙動不審になるな、自然な行動を心がけるんだ。
「…………ごめんなさい」
何を口走ったのだろうか。
無意識の言葉に気づかないまま、私は手を伸ばして……。
「──君、初犯だろ。止めとけよ、向いてないぜ
パシッと呆気なく横から伸びてきた手に直前で捕まった。
「ッッ…………!!!」
悲鳴が口から出なかったのは我がことながら奇跡だった。
全身は硬直し、心臓が飛び出る程に鼓動を奏でる。
思考は真っ白になり、表情は見るまでも無く真っ青。
端的に言って、最悪だった。
私自身も、私のやろうとしたことも、私の今、この瞬間も。
それでも、目だけは素早く相手に向いて……。
「万引き一つでそんなに罪悪感を感じる性根だ。多分、人が良いどうしようもない善人なんだろう。だからこそ止めとけよ、一生の傷になるぞ」
相手を慮った言葉──それに反して声は何処までも無気力だった。
偶々、見つけたから止めた……声にはそれ以上の意思を感じない。
犯罪に対する憤りも義憤も嫌悪も軽蔑もない。
止めた方が良いという言葉は強制ですら無かった。
「わ、……わたし、は……」
「うん……? っておい、ちょっとま──」
目が悪いわけでもないのに、視界にはぼやけきっている。
やや驚いた声を最後に私は相手の顔を認識よりも早く暗転した──。
「ふむ……」
まずは──客観的に己を顧みようと、蓮華緩夏は思考する。
ある夏の日の放課後。
いつも通りに学校へ行き、学校をサボった俺は炎天の下、屋上で寝そべっていた代償にとても喉が渇いていた。
残念なことに買い食い禁止の中学校に自販機なんてあるわけもなし、かといって温い水道水で喉を潤すには、俺は冷たさに餓え過ぎていた。
仕方が無いから俺は教室でバックを回収し、いつもの担任教師からのお説教を聞き届けた後、デパートのフードコートにある備え付けの給水器を求めて近場のデパートを訪れたのだ。
冷え切った冷水により一息吐いた俺はせっかくだからとデパートにある書店を冷やかしたり、低価格の服屋を眺めてみたりしつつ、デパートを目的も無く散策していたのだが、そこでふと一人の少女が目に付いた。
挙動不審、というわけでもない。
変わっている、というわけでもない。
ただ単に何処か昏く淀んだ瞳が知り合いの少女に似ていただけ。
容姿が似ていたわけでも立ち振る舞いが似ていたわけでも、まして知り合いだったわけでもないのに、言うなれば気分で、気づけば俺はその少女の後を追っていた。
隣の席になったクラスメイトに「あれ、蓮華どこ?」「サボりだろ」と言われるほどに存在感の薄い俺である。
見れば時折、周囲を注意深く見る少女にすら俺は気づかれなかった。
果たしてストーカーまがいの行動がバレなかったのを僥倖と捉えるべきか、それとも注意深く周囲を見ていた少女にさえ気づかれない己の空気感の無さに絶望するべきか、なんてどうでもいい思考を張り巡らせていると、少女はある女子向けの店に踏み入り、ある品を見つけた瞬間に手を伸ばしていた。
……商品を手に取る。商品を買いに向かう。
考えれば、選択肢はごまんとあったことだろう。
もしかしたら颯爽と出て行った挙げ句、不審者として逆に己が追われるかも。
それでも……無関係の少女を止めに出たのは正義感では
関心があった、知り合いの少女と同じ行為をしようとする少女に。
興味があった、果たしてどんな曲者なのか。
手を伸ばした時に一瞬、躊躇ったことから少女の内心は察せられる。
罪悪感を覚えているのだろう。
犯罪行為を日常茶飯事とする知り合いとはその時点で雲泥の差である。
不正のトライアングルという理論がある。これはアメリカの犯罪学者ドナルド・レイ・クレッシーが多くの犯罪者たちとの接触の果てに導き出した理論で、彼は人間組織内の人間が不正行為を犯す原因を三要因に絞った。
一つは機会、一つは動機、一つは正当化。
……俺は色々な人間を見てきたが、そういえば善良な悪人とは会ったことが無い。故に善良な人間が何かをやらかす際は大抵これに該当すると考えている。
だからこそ興味を覚えた。善良なる人間であるはずの彼女が犯罪行為に奔るほど切羽詰まった背景とやらに。
そんなちょっとした気まぐれ、だったのだが。
しかし、いざ絡んでみればこの通り。
「……気絶してるし」
倒れそうになった少女を肩で支えつつ、嘆息する。
近くで寄って見れば案外、可愛い顔してるな。
……などと思考放棄。
「無理を飲み込むタイプの善人だったか……」
やはり面倒ごとに関わっていくなど愚かな行為だ。
藪を突いて飛び出したのは人畜無害な兎さん。
友達か、家族か、どちらにしても誰かのためにやらかす類いの人間だろうと推測できる。
倒れる程のストレスを抱えたまま、犯罪行為に手を染めようとするものなど相当な覚悟がなければ実行できないだろうから。
恐怖からでは此処まで思い詰めることはないだろうから。
「やっちまったな、めんどくせー」
良識ある人間に正義を語る言葉もなければ説教する気も無い。
そもそも俺は罪を黙認できるクソ野郎である。
ぶっちゃけ他者とかどうでも良い。
万事が万事、定められた通りになるようになるさ主義者だ。
誰が好き好んで面倒な問題を背負っているだろう幸薄少女に絡みたいと思うのか。
「取りあえず、どっかで寝かせるか」
とはいえ、やってしまったからには仕方が無い。
倒れた少女を放置してきたいのは山々だが、それはそれで面倒ごとに引っかかりそうだし、彼女をこうして支えたままでも変質者か変態だ。
加えて、少女が起きたときの発言で居合わせた周囲が何を思うか。
疑わしきを叩きのめせ。
犯罪者に慈悲は無し、一生苦しめ。
それが現日本の国民性である以上、少女が起きたら最後、何の手も尽くしていない場合、俺はもれなく痴漢冤罪でも被せられるだろう。
そしたら、お先真っ暗。笑えない。
「さて、と……途中で起きませんように、余計な奴に見つかりませんようにっと」
意を決して、俺は名も知らぬ少女を背負う。
確か、デパートの屋上には人気の無い広場があったはずだ。
そこのベンチなら人の目も少ないし、何なら適当に膝枕でもしていれば有り触れた彼氏と彼女の甘々スキンシップにしか見えなくなる。
問題は道中、この少女を背負ったまま屋上へと向かうはめになっていることと、それが周囲からどのような目で見られるかということだが……。
「そこは運命の気まぐれを信じるしか無いな。頼むぜ我が天運……余計な運命は求めちゃいないからな……」
具体的には変質者としての末路とか。
神のみぞ知る運命に祈りながら俺は少女を背負って屋上を目指した──。