ダーマの神殿を魔物の手より奪還して三日後。ネリスが目を覚ましてほっと一息ついたザジは、それまで忙しなく動いていたミュラを見つけて、声を掛けた。
夜。もうほとんどの者が眠ってしまい、起きているのは見張りをしている親衛隊と、ダーマ復興のために時間を惜しんで書類仕事をしている神官くらいである。ずっと幽閉され、気を張っており、なおかつ魔物の大将を倒したフォズ大神官は有無を言わせずに規則正しい健康的な生活を送らされているため不満そうだったが、まだ子どもなので寝つきは良く、既に夢の中だ。
「見張りか。ずっと働きづめだけど、大神官みたいに寝ろとは言われないんだね」
「まあな。これが私の仕事だし、親衛隊の数も元の三分の一以下だ。もともと、伝統あるダーマの神殿の護衛が少数精鋭だったことにつけ込まれたこともあるだろうし、魔物の残党に襲われたときに対処できる人間がいなければ話にならないからな」
欠伸をしたミュラは「見張りの眠気覚ましにでも、『話』とやらをきかせてもらいたいところだな」とザジを見る。
「もっとも、半分寝ているようなやつには話したくないかもしれないが」
「いいや、この時間なら邪魔にはならないだろうと思って来たんだ。その――ボクは、強くなれるだろうか」
ミュラはザジをまじまじと見つめた。幼さの目立つ容貌に、小柄な体躯。彼がいくつなのか、ミュラは知らない。けれども、まだ少年と言って問題ない年齢だろう。なで肩で、手足もどちらかと言えば細い。これから成長することを差し引いても、恵まれた体格とは言えなかった。
「一緒に戦った感じでは、君は強いと思うぞ。攻撃魔法も補助魔法も回復魔法も使えるし、集中力もある。戦況を見極めて、何をすべきか考える頭もある。大の大人にも負けないが……そうだな、ネリスのことで周りが見えなくなると一気に弱くなる。判断力が鈍って、敵としては手玉にとりやすい」
ミュラは俯いてしまったザジの茶色い髪を撫でる。
「……子ども扱いするな」
「子どもだろ。なあ、ザジ。私も今ちょうど、『強い』とは何なのか分からなくて悩んでいた」
頭に乗せられた手を振り払ったザジは顔を上げて、目を見開きながらミュラを見つめた。
「悩む? ミュラが? 嘘だろ」
「……まあ大多数のやつはそう言うだろうよ」
ミュラは鼻に皺を寄せ、苦々しい顔になり、「だがな」と言葉を続けた。
「私でも悩むことはある。私はアルスより戦いには慣れているだろうし、自分で剣を扱う分マリベルより手札が多いし、道具を活用すればガボのようにトリッキーにも戦えるだろう。それでも、私はダーマはおろか、フォズ大神官ひとりでさえ救えなかった。それにもし、私が彼らと戦ったとしても、――なんでかな、勝てるイメージが全くわかないんだ」
月明かりと、燭台に照らされた火が弱々しく光っている。ミュラは己の手を見た。もう随分戦いに明け暮れていた証に、女らしさとはかけ離れ、硬くて、傷だらけで、節くれだっている。
「ザジ、君と私は似ていると思う。いつでもたった一人のために強くなりたいと願ってきた。が……強いとは何か、本当はよく分かっていないんだ」
「ボクは」
ザジは青白い月を見上げていた。彼はかなり幼かったのでよく覚えていないけれど、両親が死んだときもこんな寂しげな月夜だった気がする。
「ボクはただ、姉さんを守りたいんだ。強くなって、危険でも実入りの良い仕事をして、姉さんに楽をさせてやりたい。きっとそうすれば、姉さんだってカシムなんかに頼らなくてもいい。今回のことで無理をしたから、きっと今まで以上に、体調には気を付けなきゃいけないはずだし……」
ミュラは目を閉じていた。そしておもむろに、「私の母は、」とザジの言葉を最後まで待たずに口を開いた。
「優しく、美しい人だった。だが、死んだ。弱かったからだ。母に夢中の周りの連中は、必死で母を守ろうとしてくれたが、努力もむなしく死んでいったよ」
ミュラの脳裏に浮かぶのは、もうぼやけて輪郭ほどしか思い出せない母親のことだった。けれど、美しかったことだけはよく覚えている。そう言えば、雰囲気はネリスと似ていたかもしれない。守ってやらねばと思わせる、儚い人だった。
「もちろん、私だって母を愛していた。けれど、私は何の役にも立てなかった」
目を閉じているミュラには、ザジが今どんな表情をしているのか分からない。けれど、もともとミュラは人の感情などあまり気に留めないタイプだ。彼女は、静かな夜の空気を肌に感じながら、言葉を続けた。
「私はたった一人でフォズ様を守ろうとして、できなかった。むしろ、その行為が危険を呼び、必要のない犠牲を出して、フォズ様は捕えられてしまった。けれど、どうだ。フォズ様とは会ったこともなかった旅人が、フォズ様だけでなく、ダーマを、絶望に打ちひしがれ、荒んでいた人々を救ってみせた」
息を吐く。ミュラが目を開けると、ザジは複雑そうな顔で月を睨んでいた。
「結局、客観性がなければ『そのとき一番すべきこと』、ひいては『その人にとって一番良いこと』が分からなくなってしまうんだろうな。私にも君にも、難しそうだ」
「他でもない『大神官馬鹿』の君にそう言われると、考えさせられるよ。ただ、ボクはやっぱり、姉さんに楽をさせてやりたい気持ちは変わらない。姉さんが、迷惑だと言うのなら別だけど」
「そんなザジにひとつ朗報だ」
表情を柔らかくしたミュラが、ザジへと向き直った。きょとんと少年らしい表情になったザジは、「なんだい?」と首を傾げる。
「魔物はダーマを乗っ取っり、地下をめちゃくちゃにはしてくれたが、ダーマの保管する財には手をつけていなかったらしい。もともと興味がなかったのか、全てを終えた後に使うつもりだったのかは不明だが、つまりはだ」
ミュラは訝しむザジの鼻をつまんだ。
「大半はダーマの復興とほぼ難民状態だった被害者たちへの支援に使われるが、今回の功労者たちへの賞与を出せるってことだ。カシムやフーラルはもちろん、君にもな。残念ながらネリスは明確な実績がないので対象にはならないが、アルスたちが賞与の受取を辞退した分、弾むぞ」
子ども扱いされたザジはその手をすぐに振り払いながらも、ミュラの言葉を聞いて、呆れと驚きが混ざったような表情をする。
「辞退!? 馬鹿じゃないのか!」
「それは本人に言ってくれ。あと、声が大きいぞ。時間を考えろ」
ミュラは、散々マリベルに詰られていたアルスを思いだして何とも言えない気持ちになった。アルスはダーマの復興にはお金が掛かるであろうこと、自分たちは自分たちの旅をしただけ、と言って仲間を説得していた。マリベルも口では散々言っていたが、苦しめられていた多くの人を、一日も早く魔物に支配される前の生活に戻すべきだという意見に納得して、アルスの頬をつねりながらも納得したようだった。
それに対して困った顔で「しかし、それではこちらが納得できません」と言ったのはフォズだった。当たり前だ。一番の功労者である彼らに対し、「部外者だから謝礼もなかった」という噂が広まってはならないし、何より神殿に仕える全員が納得しない。「じゃあ、お金ではなくて別の何かでお願いします」と同じく困った顔をしたアルスに、フォズはしばし悩んだ様子で「では、ご出発の際は声を掛けてくださいね」と約束を取り付けていた。
「強くなりたいのなら、転職すれば良い。ここはダーマの神殿だ。君は元々小器用なようだし、回復も自分で出来るから、戦士か船乗りあたりがおすすめだぞ」
「船乗り? なんでまた」
話題を変えたミュラに、ザジはそれ以上何かを言うこともなく、胡散臭いものを見る目を向けながら変わった話題に乗っかることとした。
どれほど納得がいかなくても、本人たちが辞退したというのなら、「受け取るべきだ」とは言えないし、短い付き合いの中で彼らの性格もなんとなく分かっているザジである。アルスが自分で決め、仲間たちを説得してまでそれを貫き通そうとしているのなら、他の誰が言っても答えは同じだろう。
「おいおい、神殿勤めにそんな胡散臭そうな目を向けるなよ。言っとくけど本当だぜ。船乗りは体力もつくし、多彩な特技と魔法を覚える。技を上手く考えて使える君なら尚更向いてると思うけどな」
「……候補には入れとく」
「ああ、他にも職業について聞きたいことがあったら答えるぞ。何せ私はフォズ様のお力になるために転職についてはかなり勉強したからな」
自慢げに胸を張るミュラは、ふと、思いついたように「親衛隊に入ってくれると言うなら、それも歓迎するぞ」と真剣な顔になった。
「そうしたら、ここを離れなくてもいい。カシムの部下という形になるだろうから、それが我慢ならないというのなら無理にとは言わないが、君なら上手くやれると思う。今回の件の経験者であり功労者が親衛隊にいるというのは、かなり心強いことでもあるしな。戦力だけでなく、皆の精神的な拠り所として」
ザジはしばし、枯葉色の目を見た。落ち着いた色合いに相応しい知性と、穏やかながらどこか寂寞を感じさせる、秋の暮を表したような目だ。その奥に、時に燃え上がる激情があることも、少年は知っていた。その傲慢なまでの激情が形を潜め、自分のこれからを考えてくれているということがなんだかむず痒かった。
「……ボクはやっぱりここを発つよ。どうしてか、そうしなくちゃあ前に進めない気がするんだ。ここはきっと、とても居心地が良い。カシムだって、嫌なやつだけど悪いやつじゃないのは知ってる。それに、何より、ボクには大神官はおろか、神殿のために戦うことはできない。親衛隊に一番必要なのは、そういう気持ちだろ」
「固い考え方をするなぁ。それもまた君らしいといえば、らしいのか」
「アンタが隊長をするっていうので、苦労は目に見えているしな」
ミュラは笑った。
「さあ、どうだろうな。私は隊長には向かない。正直、君を親衛隊に誘ったのも、下心があったからだ。――私がもしも親衛隊を抜けても、信頼に足る人物が入ってくれれば、心残りなくこの場を去れると思ったのだ」
「本気か」
「フォズ様のお傍にいたい気持ちは、これから先も変わることはないだろう。ただ、それで良いのかと思う気持ちもある。この胸のわだかまりをどうにかするには、ここを離れるのが最善であるような気もしている」
秋の暮れのような目は、実際の季節にはとらわれず、冬の訪れを予感させた。別にそれは普通のことだ。秋が終われば冬が来て、また春になって夏になり、そうしてまた秋へと巡りゆくだけ。ただそれだけのこと。ミュラの見つめているものが「冬」なのか、ザジが勝手にそう感じただけなのか、それは分からない。
「――きっとボクらの『これから』は、人に何かを言われて決まるようなものじゃない」
ザジはそう言って、立ち上がった。「冬」が来るのならば、備えをしなくては。自然とそう思えた。
「今日はありがとう。ミュラのおかげで少しすっきりしたよ。転職ができるようになるまでの間に、ボクもいろいろ考えられそうだ」
「こちらこそ、だな。私で力になれることがあれば言ってくれ」
ひらひらと手を振って、ミュラは神殿内に戻っていくザジを見送った。夜明けにはまだ時間がある。
――母さん。
母の最期の言葉を思い出す。ミュラがまだ子どもの頃。フォズと出逢っていない頃。泣き虫で弱虫で、虫の一匹にさえ怯え戸惑っていた頃。
母は微笑んでいた。魔物に襲われ、抉られた肉体からおびただしい血を流しながら。どれほどの痛みかも想像できないほどの惨状で、微笑んで言ったのだ。
「一途に生きなさい。それが強さなのだから」
母は弱かった。だから魔物ごときに殺された。けれど、その微笑みのもつ力がどれほどミュラに影響を与えたか。頬に触れた手が、冷たかったこと。美しかったはずの母の顔はもう覚えていないけれど、それだけは克明に覚えていた。冷たい手は死を感じさせ、母はいなくなるのだとすぐに分かった。けれどその言葉の持つ「力」が、絞り出した声の熱さが、ミュラが死んでしまおうと思わなくなった理由になった。
一途って何だ、と彷徨って。強くなりたいと思って、日々を過ごした。
それまでの日々が、今日につながっているのなら。フォズと出逢えた日の奇跡が、ただひたすらにその小さな背を追いかけた毎日が、ふさわしく在りたいと苦しいほどに望んでいる今が。きっと「これから」をつくってゆくのだろう。
か弱い母の、強く逞しい笑みが、熱く優しい言葉が――ミュラの生きる意味をつくったように。