ダーマ神殿を奪還したその日。皆死んだように眠りこける中、生き残った少数の親衛隊は休む暇もなく働いていた。
まず、山肌の集落にいる神官たちにこの朗報を伝えなければならず、地下から親衛隊数人が旅立った。ふきだまりの町へ荷物を取りに帰ると言う者には伝言を頼み、魔物に穢された神殿内を浄化する大神官の傍に控えて万が一に備える。地下を通らなくてもふきだまりの町からダーマへ帰ってこられるように、山々を魔法で切り崩して道をつくり、行き来が楽にできるようにした。集落にいる神官たちは、すぐにでも神殿に戻る者と、折を見ながら戻る者とに分かれ、親衛隊の護衛と神殿に向かった。
ろくに眠りもしないまま、復興作業がひと段落つき、大神官が「明日から転職を再開します」と言ったのは、ダーマが解放されて四日目だった。その日は宴が開かれ、ダーマを取り戻すだけでなく、復興作業の一端を手伝ってくれた英雄たちを大いに楽しませた。
「ふぁあ……今日から転職できるって、フォズが言ってたわよね。ねえ、さっそく行ってみない? もともとそれが目的だったんだし、そろそろフィッシュベルに帰ってパパとママを安心させないと」
その翌日。欠伸をしながらマリベルが言うと「オイラも、フィッシュベルで獲れたての魚が食べたいぞ!」とガボが元気に返事をする。アルスもこくりと頷いて、ずっと世話になった宿屋の女将に礼を告げて、祭壇へと向かおうとした。
「後悔しないのか? ここで働きたくて、お前なりに頑張ってきたんだろ」
カシムの声だった。ダーマの二階は商店や書庫、銀行に宿屋など多くの施設があるが、まだ朝も早い時間なので人通りはそれほどない。中には昨晩はしゃぎすぎた者もいるのだろう。心なしか、やれ復興だとざわめいていた昨日までよりも静かなようだった。
「やっぱ、やめとくぜ。盗賊だったオレには、宮仕えは向かねえってことがよく分かった。ミュラほど割り切ることができりゃ、別なのかもしれねえけどよ」
フーラルは自分より地位の高いはずの神官長を華麗に無視していたミュラの姿を思い出し、ぎこちない笑みを浮かべた。そして、小さく息を吐いてから憑き物が落ちたようにすっきりとした顔をすると、今度は悪餓鬼そのものの笑みを浮かべる。
「お前にはいろいろと世話をやいてもらって悪いけど、親衛隊には入らねえよ」
「そうか、さみしくなるな」
さも残念そうな顔をしてみせたカシムに、フーラルは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ウソつけ。やっかいばらいができたと思って、せいせいしてるくせによ」
「……ばれたか」
にやりと笑ったカシムに、フーラルは「当たり前だろう」と鼻を鳴らす。彼の中では、カシムの評価は「ただの気障な男」より、もう少し性格の悪いものであるようだ。
「オレはそろそろ行くぜ。後ろにいるアルスたちも、達者でな。じゃあな、カシム。小僧と姉ちゃんにも……あー、ついでにミュラにも、よろしく言っといてくれ」
ひらひらと手を振ったフーラルは、さっさと階段を下りて行ってしまった。後ろ姿しか見えなかったため、彼がどんな表情をしていたのか三人には分からなかったが、その方が彼らしいと、なんとなく思える。
「……フーラルと同じように、ネリスもザジと一緒にやがて旅立ってしまうな。私が引き止めたら、ネリスは私のもとにとどまってくれるだろうか。しかし彼女がここに残ると言ってもなぁ。ザジに反対されたらどういう結果になることか……」
思案顔でため息をつくカシムに、三人はなんと声を掛けてやることはしなかった。マリベルは何かを言おうとしたが、近くにいたネリスの姿を見て口を閉ざした。あけすけで、歯に衣着せぬ物言いをした結果が二人のロマンスを盛り上げるだけになるのではないかと判断したのだろう。朝からそんなものを目撃してしまうのは勘弁願いたい。
何とも言えない気持ちで三人は互いの顔を見合う。それが少しおかしくて、笑ってしまった。すると、階段を上がってきたミュラにその様子を見られ、首を傾げられてしまった。
「ご機嫌だな、アルス。宿で寝ているようだったら起こしに行こうと思っていたんだが、手間が省けた」
連日寝ずの番をしていたはずのミュラだが、昨日は宴だったこともあり、功労者の一人でもある彼女もようやくゆっくり楽しみ、休むことができたようだ。隈が目立っていた顔は、すでに血色がよく、疲れが残っているとは思わせない。
「僕たちになにか用だったんですか?」
「あー、そうだな。君たちは賞与を断ったから、別の何かで代替すると言っただろう。フォズ様が『転職に来られた時に伝えます』と言っていたので、伝言だ」
いつもよりはどこか歯切れの悪い物言いに、アルスは違和感を覚えた。しかしすぐにミュラは真剣な顔になり、「魔物が言っていたという魔王の話を覚えているか」と短く聞いてきた。
「それは、もちろん。魔王の為に力を奪っていたんですよね」
「ああ。フォズさまが言うには、ダーマの書庫から魔王に関するものが尽く処分されていたらしい。金品は手つかずなのに、不気味なことだ」
チッと舌打ちをしたミュラは、すぐに「いや、愚痴を言うつもりはない」と言って、不機嫌顔を引っ込める。
「私は仕事があるので、転職に向かう際にはフォズ様の前に、私にも声を掛けてくれ。地下にある東側の部屋で雑務をしているから」
「分かりました。連日お仕事大変ですね」
「ま、今日は特にな」
ふっと笑ったミュラは、本当にそれを伝えに来ただけらしく、さっさと階段を下りていってしまった。
「どうする? あたしたち、別に転職ができればいいんじゃないの」
「うーん……ザジはどこにいるんだろう? カシムやミュラさんにはいつでも挨拶できるとして、ザジとネリスさんはいつ旅立つか分かからないし、探しに行ってみようか。ネリスさんはさっき見掛けたけど……」
三人が神殿の中を歩き回ると、ザジはすぐに見つかった。新品の鎧を身に纏い、ぼうっと中庭に座る少年に、アルスは「おや」と思った。新品の鎧をつけているということは、彼はきっともう転職を済ませたのだろう。それなのに浮かれていないことも、さっさとネリスに見せびらかしに行かないことも、なんだか意外に思ったのだ。こちらに気づいたザジに手を上げて、アルスはのんびりした調子で「やあ」と声を掛けた。
「似合ってるじゃないか。浮かない顔をしているように見えるけど、どうしたの?」
ザジの表情は、険のあるものではない。けれど、転職してわくわくしている様子はなく、どちらかというと、寂しさの滲む顔だった。
「あー、うん。なんだかおかしな感じがするのさ。ようやく念願の戦士になったわけだけど、やっぱり急に強くなるわけじゃあないからね。新品の鎧と剣を買ったは良いものの、なんだか信じられない気持ちの方が大きくて」
その言葉にも、いつものようなハキハキとした調子はない。ミュラといい、なんだか微妙に歯切れが悪かった。マリベルはそんな様子を指摘してやろうかとも思ったが、この姉弟の苦労を考えて、やめることにした。ある意味自分たちよりも悲惨な目に遭っている。
「まあ、あんな町にずっといて、ようやくの転職になるんだものね」
体の弱い姉と、まだ少年という域を出ず、あなどられがちな弟。生活の為に転職しようと訪れたダーマの神殿では魔物に騙され、それまで手にした特技を奪われた。カシムに守られながら、治安最悪のあの町でなんとか生活してきたは良いものの、お人好しのネリスは困った人を放っておけずに、見ず知らずの人を手当てすることは珍しくなかった。生活は常に困窮していたことだろう。そこに追い打ちをかけるように、ザジが魂砕きに遭い、ザジを想ってネリスは魂の剣を手にした。それから、決闘場での乱戦。
「そう、ようやくなんだ」
ザジは微笑んだ。長い長い、そして険しい道のりの中で、自分と似ている妙な女と出逢った。それが彼の中で、剣を手にするというのはどういうことなのかという疑問を抱かせる。
「ようやく、姉さんに楽をさせられる。今までだってボクは戦えたけど、これできっと、姉さんもボクを頼ってくれるはずだ」
言葉にしてみれば、随分簡単なことのように思えた。言葉通りのことを望んで、これまでずっと歩いてきたはずなのだ。今まで迷惑を掛けた姉のために。それ以外の理由なんて、いらない。
「それより、キミたちはどうしたの?」
思考に耽ってしまう前に、ザジは顔を上げて三人を見た。まだ転職を済ませていないのだろう。見慣れた旅装束の彼らはザジの様子の違いに気が付いているだろうに、それを深く追究することはない。その優しさがありがたいと共に、気を遣わせてしまう自分が情けなかった。
「ああ、僕らは転職をしたらすぐに発つつもりだから、挨拶をしておこうと思って。決闘場のことだけじゃなくて、あのふきだまりの町でも僕たちによくしてくれて、本当にありがとう」
心からの感謝と伝わるアルスの言葉に、ザジはふるふると頭を振り、照れたように頬をかく。ダーマの英雄に感謝されるのは悪くない気分だが、それ以上に面映ゆい。
「よせよ。あの町じゃ、ボクは姉さんに従ってただけだぜ。ボクの方がお礼を言わなくちゃいけないはずさ。ボクと姉さんを救ってくれて、ありがとう。姉さんのところに行くなら、一緒に行こう。多分その辺にいると思うんだけど」
ザジの言った通り、ネリスは中庭を出てすぐの、地下へ続く階段の傍に立っていた。彼女はザジを探していたようで、アルスたちと中庭から出てきた弟を見て、にっこりと可憐な顔に笑みを浮かべた。
「なんだ、皆さんとお話ししてたのね。転職に行ってから全然帰って来ないから、心配していたのよ」
近寄るネリスに、ザジは先ほどの浮かない顔を吹き飛ばすように、わざとらしく胸を張ってみせた。
「どうだい、姉さん? 戦士になったボクの姿は。けっこう様になってるだろ。これからは危険だけど実入りのいい仕事をこなして、姉さんの病気を治してやるよ」
なんと言ってほしかったのか、ザジ自身にだって分かりはしない。けれど彼は予想していた。姉の言葉が、「分からないけれど、言ってほしい言葉」ではないということに。
「危険な仕事だなんて、そんな! ケガでもしたらどうするのよ」
だから、予想通りの言葉に、落胆することはなかった。少なくとも、顔に出すことはない。ザジは拗ねたように口を尖らせてみせた。どうか、姉が自分の予想を少しでも裏切ってくれますようにと、まるで祈るような気持ちになりながら。
「そんなへまはしないさ。姉さんはどう思ってるか知らないけど、これでもボクはけっこう頼りになるんだぜ。カシムよりもずっとね。あのミュラが言ってたんだから、間違いない。だから、ボクをもっと頼ってよ。姉さんのためなら何だってするよ」
――本当に、なんと言ってほしかったのか。
「もう、ヤメてよ。なぜ、そんなにまでして私に尽くしてくれるの? 私は自分のために、誰かが犠牲になるのはイヤなの。たとえ、それが弟であっても……」
ザジは目を閉じた。それが決定的な言葉だったように思う。脳裏にこびりついていたミュラの言葉が、ようやく彼の盲信を引き裂いた。時間差で効力を発揮した言葉は、ザジが密やかに、けれど確かに感じていた孤独を、寂しさを、彼に自覚させてゆく。自分自身にさえ隠していたかった感情を突き付けてくる。
「……犠牲って、何だよ。ボクは好きで姉さんの世話を焼いてたんだぜ。ミュラと一緒さ。聞くけど、ミュラは大神官のために犠牲になってるのかい?」
「それとこれじゃあ、話が違うわ! 私は、まるで私が、あなたの人生のお荷物みたいでつらいのよ。大神官はミュラのお荷物じゃあないもの」
体が弱いネリス。彼女はいつだって誰かに優しさを与えていたけど、それだけだった。それしかできなかった。いつも誰かに苦労をかけてしか生きられない自分のために、弟が危険な目に遭うのが耐えられなかった。今回のことだって、ザジはネリスのために実入りの良い仕事がしたいから、転職をするためにダーマ神殿に行こうと言ったのだ。自分が病弱じゃなければ、今回のような事態には巻き込まれなかったかもしれないと考えると、この体質を恨まずにはいられなかった。
「ザジがいなくたって、私は生きてゆけるんだよ」
ぽろりと、零れ落ちたような、不用意な言葉だった。
「はは……結局、ボクのほうが姉さんのお荷物だったってわけか」
ネリスから背を向けて、ザジは歩き出した。何となく、分かっていた。分かってしまっていた。けれど、自分で認めてしまえば、今までの自分がただただ滑稽で、可哀相に思えてしまうから、認めたくなかった。
「どこへ行くの?」
「剣を買ってくるだけだよ。戦士には、剣が必要だろ」
認めてしまえば、簡単だった。ここにはカシムもいるし、神聖な神殿ということと、山の上であることもあって、空気はとてもきれいだ。本来そういう目的の場所でないが、ネリスの体にも良いだろう。
――何も、心配なことなんて何もない。
ザジは早足に、神殿の門をくぐった。ミュラに挨拶のひとつでもしておきたかったような気もしたが、思えばあの夜に、別れは済ませていたようなものだったのかもしれない。ミュラはザジの、隠しておきたかった本心に、怯えて震えていることに気が付いていただろうから。
「ただごとじゃないわね。鎧も剣も、もうあるんだもの。二人共、ザジを追うわよ」
「よくケンカする姉弟だなあ」
マリベルが眉を寄せ、ガボが呆れたように息を吐く。アルスは俯いてしまったネリスをちらりと見たが、ザジを追うことを優先した。立ち尽くす彼女はきっと、そのまま動かないだろう。動けない、の方が正しいかもしれないが。
神殿の入り口につくと、ザジとカシムが向き合っていた。そこに剣呑な雰囲気はなく、静かで、どちらかと言えば淡泊な様子だ。
「ネリスを、置いていくのか」
カシムの言葉には責める色はない。ただの事実確認のようだった。
「これ以上一緒にいても、姉さんを苦しめることしかできない。だったらボクは、いないほうがいい。きっとそれが、ボクのためにもなるはずだから」
「ネリスは私がもらうぞ。それでもいいのか?」
カシムははじめからザジを嫌ってはいない。彼らの間にギスギスとした雰囲気があったのは、決まってザジが彼につっかかり、喧嘩を吹っかけて、そして言い負かされて余計にカシムのことを嫌っていたからだ。今までなら、この意地悪な質問に、ザジは不機嫌になって「アンタみたいなのに姉さんは任せられない」と吠えていただろう。
「それは姉さんとあなたの、ふたりだけの問題だ。ボクには関係ないよ」
その言葉は、カシムにとって、彼が旅立つという選択を覆すことがないという決定になったのだろう。複雑な笑みを浮かべていた。
「……そうか。道中、気をつけてな」
「ありがとう。あのひとのことを、よろしく」
ザジは神殿を出ていった。今度はネリスの弟のザジとしてではなく、戦士のザジとしての生を見つけるために。ミュラの言葉への回答を、自分も知りたいと思ったから。
「自分の居場所がなくなれば、誰に追い出されるでもなく、ああやって出ていくしかないのね」
マリベルがぽつりと呟く。その言葉にぴくりと反応したのはガボだった。
「わけ分かんねえぞ! なんでザジは、ネリスを置いて旅立つんだ?」
そのガボを窘めるように、カシムは眉を寄せる少年の肩へと手を置いた。
「君たちも近いうちにここを発つんだろう? 当たり前か。ここには転職をしに来ただけだものな。しかし、困ったなぁ。ザジがいなくなったことをどうやって話せばいいのだろう。多分あいつのことだから、きっとネリスにはひとことも別れを言っていないんだろうな」
「全く、仕事が軌道に乗ってきたと思ったらこれだよ」と、カシムは肩をすくめてみせた。そのおどけた様子が、自分たちのことは心配するなと言っているようで、彼も結構な苦労人だな、とアルスは思った。
「僕たちは転職をしたらすぐにここを発ちます。カシムさん、大変なことも多いと思いますけど、頑張ってください。今まで本当にお世話になりました」
「そうね、ネリスのことも神殿の事も大変だと思うけど、頑張りなさいよ」
「カシム、今までありがとうな! オイラ、やっぱりなんでザジがネリスを置いていっちまったのか分かんねぇけど、ザジの分までネリスを元気づけてやれよ!」
カシムは頷いた。
「ああ、そうだな」
*
祭壇の上で、フォズはどこか寂しそうに微笑んでいた。長く続く階段には、アルス、マリベル、ガボ、声を掛けられて一緒に来たミュラの順で立っている。階下には、英雄たちの転職を一目見ようと集まってきた野次馬も大勢いた。
「みなさまがたの協力なくして、ダーマの復活はありえませんでした。二度と魔物の侵略をゆるさぬよう、今後は神殿のまもりも強化していきます。幼い子どもが大神官をつとめるから、このような事態をひきおこした……。そう思われぬよう、今後は心をいれかえて頑張っていきます。ありがとう、みなさん。そこで、お礼とは少し違いますが……ミュラリアシア」
アルスたちの後ろに控えていたミュラが「はっ」と短く返事をする。粗野な言動の目立つ彼女が、フォズ大神官にだけ見せる、完璧な親衛隊としての凛々しい表情を向けていた。
「本日を以って、親衛隊副隊長の任を解きます」
静かな声に、ミュラは静かに、美しい礼をした。驚く旅人たちも、野次馬も、言葉を発することができずに、少しの間場に沈黙が落ちる。それを破ったのは、沈黙を生み出したダーマの主、フォズだった。
「アルスさん、マリベルさん、ガボさん。ミュラを、あなた方の旅に役立ててほしいのです」
「えっ。でも、ミュラさんが親衛隊長をやるんじゃないんですか」
思わず、アルスはフォズとミュラの顔を交互に見た。事前に話し合われていたことなのだろう。戸惑うのは周囲だけであり、二人の間にはこれっぽっちの動揺もない。
「親衛隊長には、カシムを任命しました。ミュラは今や、ただの私の従者。そして主としてのお願いです。ミュラを連れて行ってください」
フォズは静かに、慈愛をもった声で穏やかに旅人たちへと語った。
「広い視野を持って、様々な世界を知って、そしてあなた方の――詳しくは話されませんでしたが、大いなる旅をしているのでしょう? そんな旅を共にすることで、彼女の『悩み』は解決すると思うのです」
「悩み?」
マリベルがミュラを振り返る。彼女は何も言わず、ただ主の言葉を待つだけだった。
「ご存じの通り、ミュラは戦えます。決してあなた方の邪魔にはならないでしょう。多少無礼な振る舞いや粗野な言葉が目立つときもございますが、長く神殿で暮らした身。それなりに教養もありますし、礼儀作法も身についているので、やろうと思えばできるはずです」
「ミュラさんが一緒に来てくれるなら、かなり心強いですけど……」
「これからダーマはもっと大変になるんじゃないの? ミュラさんこそ、必要なんじゃないかしら」
ちらり、と後ろを見る三人の視線を受けて、ミュラはぐるりと祭壇の傍に集まる人々を見回した。この英雄たちの転職を見に来ようと思った野次馬であり、別れを告げる代わりに目に焼き付けておこうと思った神官や親衛隊、ダーマを形作る大勢の人々だ。特別大きな声で交わされている会話ではないが、誰もがただごとではなさそうな雰囲気を感じ取って、英雄たちを、大神官を、その従者を見詰めている。
「今、ダーマに必要なのは私個人ではなく、手を取り合える大勢だ。それに、私は私で『問』の答えを見つけなくてはならないと感じている」
静かに告げた従者に、主は満足そうに微笑んだ。
「もちろん、ご迷惑とあらば、無理やりにというわけにはいきません」
「そんな! ありがたいです」
「ミュラさんがいてくれるなら、心強いわ」
「ミュラの姉ちゃんとまた一緒に戦えるなんて、嬉しいぞ!」
はしゃぐ三人を見て、フォズは「ミュラリアシア」とその名を呼ぶ。
「長きにわたり、ダーマの神殿に勤めたこと、本当にお疲れ様でした。これからどんなときでも、アルスさんたちのために力を尽くしてください」
「ミュラリアシア、承りました」
ミュラは胸の前で手を重ね、己の心臓にその命を誓うと示してみせた。
「ですが、ダーマは変わらずあなたの家。いつでも帰ってきてくださいね。私も、あなたの主として恥ずかしくないよう、精進してまいります」
こほん、と可愛らしく咳払いをしたフォズは、凛とした声で「前置きが長くなりましたね」と一度区切り、寂しそうな表情を取り払った。従者を送り出すひとりの主ではなく、旅人を新たな道へと送り出す、神聖なるダーマの神殿の主として。
「それでは……ここ転職をつかさどるダーマの神殿。職業をかえたい者が来るところです。転職をごきぼうですか?」
アルスは戦士、マリベルは魔法使い、ガボは武道家、ミュラは僧侶に転職した。アルスは今回の件でもっと剣の腕に磨きをかけたいと思い、マリベルは「状況を見極めて戦う」ということを活かすには魔法使いが良いだろうと判断し、ガボはただ天性の勘に頼るだけではなく、訓練した身のこなしを習得した方が良いと直感したからだった。
「なんでミュラさんが僧侶?」
「似合わないぞ!」
「それは知っている」
ダーマのものとは違う神官服を身に纏ったミュラは、居心地悪そうに顔を歪めた。
「私には客観性が足りない。常に敵に突っ込むことだけしてきた悪い癖で、味方のことが見えていないことがほとんどなんだ。だから、回復役に徹して、改善してゆけたらと思った。それに、回復手段はそれぞれあるとはいえ、せっかく攻撃に適した職業に就いているのなら、それに専念したいだろう?」
祭壇の階段を下りながら、ミュラは「ところで」とあえて話題を切り替えた。職業の話は旅の中でしていけば良いだろう。大神官の傍にいた彼女は転職のことも職業のことも、それなりによく知っていた。
「私のことは、ただのミュラで良い。その、なんだ。仲間に敬称も敬語もいらないだろう」
ほんのり顔の赤いミュラに、「それもそうね」とにやにやしながら返答したのはマリベルだった。神殿の入り口付近までゆったりと歩きながら、三人は新たな仲間にフィッシュベルという、アルスとマリベルの二人が生まれたのどかな村について話をしていたところだった。
「ミュラ! ……なんだその恰好は?」
旅立ちを見送りに来たのだろう、駆け寄ってきたカシムが怪訝な顔でミュラをまじまじと見る。
「せっかく彼らの仲間になるのだ。全く未知の領域からスタートというのも悪くないだろう?」
「君は神官に教えてもらって、回復呪文は使えるじゃないか」
「覚える魔法や特技よりも、回復役として――年長者としての在り方を学ぼうと思っているんだ。ダーマに戻ったとき、フォズ様に恥ずべきことがないように。ああ、そうだ」
ミュラは道具袋からブローチを取り出した。剣と盾を模したそれは、公式ではないけれど慣習として先代から今代の親衛隊長に送られるものだった。
「前親衛隊長が、亡くなる前に私に寄越したものだ。カシム、お前は今や誉れ高き親衛隊長だ。フォズ様の御身と、伝統と格式あるダーマの神殿に誠心誠意仕え、今まで以上にこの場所が皆の希望の支柱となるよう励め」
「ミュラ……いや、ミュラリアシア殿も、武運を祈る。旅から戻られた時には、多くをご指南いただきたいものだ」
顔を見合わせて、二人同時に吹き出す。ひとしきり笑い合った後、どちらからともなく、拳を合わせた。
「私たちには、堅苦しいのは似合わないようだ」
「そうだな。苦労もあるだろうが、よろしく頼むぞ。ネリスのことも、大切にしてやれ」
「言われなくとも……が、ザジがいなくなったことを彼女にどう伝えれば良いのかまだ迷い中だ。何か良い案はないか?」
困り顔の元部下に、ミュラは肩眉を上げた。ネリスとザジの話なら、転職に行くと言ってアルスたちから声を掛けられ、裁断まで向かう道中で既に聞いていた。
「案はないが、会いに行くか。アルスたちも良いだろう? ネリスには散々世話になったんだ。別れの挨拶くらい済ませたい」
ザジとネリスの口論だけではなく、ザジの旅立ちまで目撃しているアルスとマリベルは少々気まずさを覚えたが、ガボは「ネリス大丈夫かなー」と呑気に言っていた。
「よぉ、ネリス。顔色が悪いぞ」
いつもの不遜な態度でネリスが横になっていた寝台の傍に歩み寄る。後ろに控えていたカシムは気遣うような笑みを浮かべて「ミュラは彼らと共に旅立つことになったんだ」と簡潔に伝えた。ネリスはそれを聞いて、寂しそうに四人を見る。
「ああ、これまで世話になった礼と、あとはザジのことを話しに来た」
いきなり直球でぶち込むミュラに、一同は唖然とした。誰もがもう少し何かしらの話をしてからザジの話に持っていくと思っていたのだ。
「ザジは旅立ったよ。ひとりでな」
「ちょっ、ミュラ! さすがにざっくり言い過ぎじゃないの?」
マリベルの声に、「いいだろ、事実だ」とミュラは枯葉色の目をネリスに固定したまま答えた。カシムについては、少々諦めたような顔をして元上司を見てから、気遣うような視線をネリスに向けたが、口出しをする気はないようだった。
「ひ、ひとりでって……そんなの、嘘よ」
「ザジがいなくてもお前が生きてゆけると言ったように、ザジだって、お前がいなくても生きてゆけるんだぜ」
ネリスの顔はどんどん蒼褪めてゆく。酸素の足りない金魚のように、口をパクパクとさせている彼女を気にも留めず、ミュラは言葉を続ける。
「お前がザジに言ったことだ。私はその場にいなかったが、アルスたちだけじゃなく、周りにいたやつらが教えてくれたよ。お前、ザジに酷いことを言ったと思うか?」
「わ、私――なんてことを」
口元を押さえ、がたがたと震え始めたネリスに、しかしミュラは言葉を切ることはしなかった。
「ネリス、『謝らなくちゃ』なんて言うんじゃあねぇぞ」
責める口調ではない。しかしどこまでも淡白で、彼女の態度は責めるよりもよほど冷酷に見える。ハラハラとした表情の少年少女たちを安心させるように、ミュラは彼らへ薄く微笑んだ。
「ザジもそんなことは望んでいないだろう。お前たちはそろそろ一人で立たなくちゃいけない時期にさしかかっていたんだ。今回のことはそのきっかけとなっただけ。お前たちは支え合って生きてきたんじゃない。ずっと互いに寄り掛かっていただけだ。互いが互いのことをどこか重荷だと思いながら、ザジにとっては『ネリスを幸せにすること』、ネリスにとっては『弟に迷惑を掛けないこと』を自分の使命として、目をそらしてきたんだ」
カシムは目を瞑って、ミュラの声を聴いていた。それは普段の遠慮のない粗野な言葉とは違う。他人の非を責める声色とも違う。どちらかといえば、それは――。
「私もそうだ。『フォズ様のため』といいながら、てめぇのことしか見えてなかった大馬鹿者だよ。ただな、お前たちと決定的に違ったのは、フォズ様は私が寄り掛かってもご自身の足で立つことのできるお方だってことだ。そして、フォズ様が歩み出そうとすれば倒れてしまいそうな私に、『お前も自分で歩け』と言えるお方だってことだ」
それは、まるで自分への戒めのようだった。
「私はフォズ様の傍を一時離れるが、それはフォズ様に見捨てられたからじゃあねぇ。ましてや、私がフォズ様を嫌いになっただとか、そういうことはありえねぇ。ザジもそうなんじゃあねぇのか。あいつは私に『姉さんのために強くなりたい』と相談してきた。嫌ってるはずもねぇさ。ただ、お前の言葉で……弟の方が早く、『寄りかかる』ことと『共に歩む』ことの違いに気付いちまったんじゃねぇのか。ネリス、お前は意図していなくてもな」
ミュラはネリスの、ほとんど温度のない頬に触れた。硬くて、剣ばかり握ってきた手だ。弱々しく、儚いネリスなど、簡単に壊してしまえるだろう、血に染まった手だ。
今度はこの手で、もっと別のものを掴まねばならない。再び剣を握るときに、ただの殺戮者ではなく、フォズの傍らに立つに相応しい者として在れるように。
「ネリス、ザジを想うなら、信頼してやってくれ。それが一番、うれしいんだ。心配ばかり掛けてきたのかもしれないが、行動原理の全てが『誰かのため』なんて――『誰かのせい』にしてた逃げを、ようやく捨てられたんだ。だから今度は、大切な人が信頼している自分のために戦えるように、私はなりたい」
はらり、とネリスの目から大粒の涙が零れ落ちる。
「わ、私、私は、ザジにとって、迷惑だったかしら」
ネリスは頬に触れていたミュラの手を握った。やはり、彼女の体温は低い。けれど、彼女の激情を溶かした雫はミュラの手にぽたぽたと熱を落とした。
「迷惑じゃなかったから、迷惑を掛けてほしかったんだろ」
「私、私、いつもザジのことを、考えてるつもりだけで……自分のことばかりだった!」
「それは向こうも同じだったんだ。お互い様だろ。これからザジのことを考えてやればいい」
「これから!? ザジはもういないのよ!?」
「死んだみたいに言うなよ」
呆れた様子で、ミュラはネリスの手をやわらかく、自然な動作で外した。そしてその手をネリスの頭へと置く。
「私は旅立つが、その場からいなくなったらネリスにとって『死んだも同然』なのか? 会えなくなったらそれで、このつながりはなくなってしまうのか?」
「それは……ミュラは、戻ってきてくれるんでしょう? ザジみたいに勝手にいなくなったわけじゃないし、フォズ大神官ともよく話し合った結果なんでしょう?」
縋るように見つめるネリスへ、ミュラはふるふると首を振った。
「フォズ大神官に『旅立て』と言われ、私もまた『旅立ちたい』と言ったのは、昨日の夜だ。その件に関して、お互いに言葉はそれほどなかったよ。昔話を少ししたくらいだ」
宴会の喧噪が続く中、眠そうに目をこするフォズを寝室へ送り届けたときのこと。「私に何か、話したいことがあるのではないですか」と、まどろむ幼い少女は、けれどダーマの主たる透き通った神秘的な視線をミュラへと向けてきた。そこで二人は少し、話をした。それは出会ったときのこと。それはダーマを救った英雄のこと。
誰よりも平和を願い、誰よりも人々を愛する、己の主を見て。そのあまりに優しい声に、視線に、ミュラはすべてを差し出したいと、心から思っていた。それと同時に、宴の喧噪をどこか遠くに感じながら、ミュラはただ、「この人にふさわしく在りたい」と強く願った。
ネリスの頭から手を離して、ミュラは笑う。
「今まで世話になったな、ネリス。あんなクソみたいな町でよかったことといえば、優しい姉弟に会えたことと、これからの旅の仲間に出逢えたことくらいだよ。……またな」
涙を流しながら、拭いもせずに、ネリスは一心に、戸惑う仲間たちと共に部屋から出ていくミュラを見た。心配そうにカシムが覗きこんでくる。
「あなた、変わったわ」
もう届いていないことを知っていた。それでなくとも、小さく小さく呟かれたそれは、隣のカシムに辛うじて聞こえるくらいの音量しかなかっただろう。
枯れ草色の長い髪の毛はひとつにまとめてあり、枯葉色の瞳も、彫像のように美しい顔立ちも、別に変りはしない。戦いを生業としているその手の頼もしさも、落ち着いた声も、出逢った頃から変わらずに、ネリスに強い憧れを抱かせる。弱い自分とは対極の、強くてはるか先にいるような、そんな存在。それでも変わったように見えるのは、似合わない神官服のせいではないだろう。
「そんな笑い方をする人じゃなかった。そんなに優しく突き放す人じゃなかった。そんなに誰かに寄り添う人じゃなかった」
「……ネリス」
「私は、どうしたら良いのかしら。分からなくなってしまったわ、カシム」
ネリスはようやく零れ落ちる涙を拭って、下手くそな笑みを浮かべた。
「寄りかかって、あなたにただ心配してもらうだけなら楽なのだろうけど。悲劇のお姫様のように、ただ同情されながら泣き暮らすだけならば、楽なのだろうけど。きっとそれではザジは戻ってきてくれないし、ミュラに失望されてしまうわね」
英雄は旅立った。ダーマの神殿では、一抹の寂しさのようなものが少しの間漂ったけれど、すぐに霧散した。
出逢い、導かれ、旅立ち、別れ。
ここはダーマの神殿。職業を変えたい者が来るところ。そこでは誰もが希望を抱き、誰もが新たな一歩を踏み出す手助けをしてくれる。迷える者には寄り添い、決意を固めた者の背を押し、道を歩む者のための光となる場所。
人は、誰かになれる。
なりたい誰かになれる。そう強く望んだのならば、誰にだってなれる。
漁師の息子が戦士になったように。網元の娘が魔法使いになったように。狼少年が武道家になったように。ダーマの親衛隊が僧侶になったように。
そしてやがて彼らが、英雄となったように。
これにておしまい。
なぜザジは仲間にならないのか。