朝の人里は、いつも通りの晴天で、心地が良い風が肌を撫でてきた。真っ青な空の端にちょこんと太陽が頭を出している。それでも、これだけの暖かさを与えてくるのだから、偉大だ。偉大で、憎らしい。私が太陽を好きになることなんてあり得ないだろう。日陰者の私にとって、眩しく、そして美しいそれは天敵とも言える。
「だから、とっとと私の店に行こうぜ。そもそも、この状況は何だ。おかしいだろ」
「おかしくなんてありませんよ。私たち天狗にとっては普通ですよ」
「天狗の言うことが普通なわけ無いだろ」不遜に笑う烏に向かい、私は中指を立てた。「どうして外の腰掛けでお前と将棋なんてしなきゃならねえんだよ」
人里の大通りに面する甘味屋。そのすぐそばにある桜を見るためなのか、最近外に腰掛けがおかれた。そう提言したのは、そこで働く若い少年らしかった。直接聞いたわけではないが、まず間違いないだろう。あいつらしいと言えばあいつらしい。
だが、その腰掛けはあくまで桜を見ながら甘味を食べるためにあるのであって、将棋をするためにあるのではない。
「私は情報が欲しいと言ったんだ。ガキみたいに遊んで欲しいとねだったわけじゃない」
「言ったでしょ? 何事にも対価が必要なんですよ。情報が欲しいなら、将棋で私に勝って下さい」
「勝てるわけ無いだろ」
将棋なんてやったこともなかったし、やりたくもなかった、こういうのは、強者が暇つぶしにやるものであって、その日暮らしがやっとの蕎麦屋がやるものではない。まして、烏となんて冗談にしても笑えなかった。
だが、面倒でもやらざるをえない。別に興味があるわけではないが、気になったのだ。もちろん将棋ではない。鶏ガラの、死んだ人間を生き返らせるという言葉がどうしても気にかかる。理由は分からなかった。だが、気がつけば私は早朝にもかかわらず、烏に会うために人里をぶらついていた。彼女であれば、何か情報を持っていると思ったのだ。甘味屋の前で新聞を配っていた彼女に出会えたまでは良かったのだが、まさか「私に将棋で勝てれば、その噂の情報をあげてもいいですよ」だなんて生意気なことを言われるだなんて思わなかった。
「私にはルールも分からねえんだぞ」
「大丈夫ですよ。私は飛車抜きでやってるんですから。このハンデは大きいです」
「馬鹿な」やはり、烏はどう取り繕っても烏だ。脳みそが足りていない。
「いくらお前がハンデをつけてもな、ルールが分からなければ勝てるわけがないだろ。鼠が猫に勝てないのと同じだ」
「分からないですよ? もしかしたら、鼠が勝つかも知れないじゃないですか。窮鼠猫を噛むっていいますし」
「言わねえよ」
「言いますよ」
ま、私は猫にも鼠にも勝てますけどね、と嘯いた烏は、盤面に置かれた駒をひとつ前に進めた。歩と書かれた小さな駒だ。ルールは分からないが、明らかに弱い駒だと言うことは分かる。私も烏のまねをして、全く同じ駒を動かした。
「あやや。同じ場所を動かすとは。飛車がない以上、少しは考えないといけませんね」
「その飛車って奴は強いのか?」
「ええ、強いですよ」
烏の翼がばさりと大きく翻った。黒々としたそれは、春の陽の光を浴び、その漆黒がより際立っていた。神秘的と言ってもいいくらいだ。絶対に口には出さないが。
「飛車ってのは、そうですね。弱い歩なんかと違い、そのひとつだけで戦況を動かし得る。それくらい強力な駒です。まあ、歩も当然大事なんですが」
「つまりだ。その飛車って奴が私で、歩ってのがお前か」
「正気ですか?」
はん、と鼻を鳴らした烏は、眉をハの字にしてわざとらしく肩をすくめた。お前なんかが飛車な訳がないと思っているのだろうか。それとも、烏が歩だなんて、冗談にもならないと思っているのだろうか。きっと、両方だろう。
「つまりです。飛車ってのは将棋の中心なんです。なくても何とかなるかもしれないですが、あった方が絶対にいい。いざ無くしてしまうと、その動揺も激しいでしょう」
「なるほど」よく分からない。
「つまり、あえて誰かに例えるとするのなら」
そこで烏は視線を逸らした。つられて私も周囲を見渡す。いくら大通りといえども、さすがに早朝に出歩く人の姿は少なかった。包帯を顔に巻いているだけだが、私が鬼人正邪だとバレたことはない。だが、さすがに白昼堂々と出歩く勇気は無かった。
周りに人がいないことに満足したのか、烏はぐいっと顔を近づけてきた。真っ黒な瞳には包帯をぐるぐる巻きにした私の顔が映っている。蕎麦屋らしい灰色の甚兵衛のせいで、男か女か一目では自分でも分からなかった。
「飛車ってのは、人里で言うあいつなんですよ」烏の声は囁くように小さいが、それでも楽しげだった。「あなたのよく知るあいつです」
「あいつって、誰だよ」
「喜知田ですよ」
えっ、と思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。まさか、その名前を今になって、しかも烏から聞くだなんて、思わなかったのだ。
「彼は人里では大きな影響力を持っていました。そんな男が急にいなくなったんです。そりゃ、人里も混乱しますよ。人里の守護者も頑張ってはいますが、それでもです」
「なんでそんなことを私に言うんだよ」
「なんでって、あなたなら何か知っていると思ったからですよ」
烏の目がいやらしく光った。将棋盤の上に置かれた飛車を取り上げ、ぐいぐいと近づけてくる。口角がつりあがり、綺麗に揃った白い歯が覗いていた。
私はそこで、ようやく彼女の目的が分かった。彼女にとってみれば、将棋に勝とうが負けようがどうだっていいのだ。売れない蕎麦屋は将棋が弱かっただなんて、記事になんてなるわけがない。そんなことより、情報が欲しかったのだ。忽然と姿を消した人里の有力者の情報を。
「知らねえよ」私はつとめてぶっきらぼうな声を出した。「そんなの、ただの蕎麦屋が知ってるわけ無いだろ」
「喜知田という男がいなくなってから、すぐにあなたが現れたのですよ。何か関係があると思うのが普通じゃないですか」
「普通じゃない」
「妖怪の賢者が言っていたんですよ。喜知田は、鬼の世界にでも行ったんじゃないかって。鬼の世界ってどこなのか、知ってるんじゃないですか。なんであの男がそんなところに行ったのかも」
「知らねえよ」知っている。だが、それを口にすることは絶対に出来ない。誰のためでもない。私のために、これは文字通り墓まで持って行かなければならないことなのだ。
「そんなの、私が分かるわけねえだろ。お前は蕎麦屋に何を期待してるんだ。私が出来るのは、ただ美味しい蕎麦を打つことだけだ」
「美味しくなかったですよ」
うげえ、と彼女は舌を出した。どうやら烏は頭だけでなく舌も馬鹿のようだ。
「それに、あなたはただの蕎麦屋じゃないです」
「凄い蕎麦屋か?」
「違いますよ」烏は溜め息を吐き、あのですね、と語気を強めた。「あなたは天邪鬼、鬼人正邪なんです。一年間も油を売ったあげく、私をおちょくるような真似をした、下衆な妖怪じゃないですか」
彼女の声はいつも通り、不遜で自慢げで、そして平坦だった。だが、どことなく怒気が含まれているような気がする。
おちょくるような真似。確かに彼女はそう言った。いったい何のことを指しているのかすぐには分からないが、ニコニコと微笑みながらも、私から視線を逸らさない彼女を見て、ようやく思いついた。きっと、あの新聞のことを言っているのだろう。私が帰ってからすぐにした悪戯。烏の新聞に私のつくった新聞を混ぜるという悪戯に怒っているのだ。いや、違う。彼女が怒っているのはそんなことではない。そう分かったとき、堪え難い愉悦が身体の奥底から湧いてきた。自然と頬が緩み、包帯が顔を擦る。
「なあ烏。お前、心配だったんだろ」
「え?」
「言ってたじゃねえか。生きて下さいってな。おまえ、私が死んだと思ったんじゃねえか? それで生きていると分かって、安心したんだろ。安心して、連絡の一つもしなかったことに怒った。違うか?」
烏は何も言わない。ただ、突きつけてきた飛車をおずおずと盤に置き、俯いているだけだ。
「心配なんてしてませんよ」
しばらく黙っていた烏だったが、ぽつぽつと言葉を零しはじめた。
「ただ、腹が立ったのは事実です。人里で人間を襲った妖怪を逃がしたせいで、大目玉を食らったんですから。なのに、その妖怪どものリーダーときたら、礼も言わないんですよ。そんなの、怒るに決まってるじゃないですか」
「はいはい」
「なんですか、その適当な態度は」
烏はまるで子供のように頬を膨らませた。いつも飄々としている彼女がそんな表情をするとは思わず、たじろいでしまう。
決まりが悪かったのか、「将棋なんて、外でやるもんじゃないですね。暑すぎです」と悪びれもせず言い放った烏は、「はやくあなたの店に行きましょう」と急かしてきた。
「お前が言い出したんじゃないか」
「覚えてませんね」
「これだから烏は駄目なんだ」
将棋盤を片付け、席を立つ。いつの間にか太陽は完全に頭を出し、人里を照らしていた。ぽつぽつとだが人の姿も増え、何人かは甘味屋に入っていく。朝から贅沢なことだ。だが、彼らの表情にはどこか覇気が無かった。不安をのぞかせていると言うほどではないが、悲しみを抱いているようにも見える。
「早く行こうぜ」
なぜだか、そんな人間の姿を見たくなくて、私は足を進めた。
「蕎麦でも作ってやるから、情報を教えてくれよ。それでいいだろ?」
「あなたの蕎麦にはそんな価値はないです」
「いや、ある。なんて言ったって、引きこもりを外に出す力があるんだからな」
そんな蕎麦、逆に怖いですよ。そう笑った烏は、いつもの調子で私の後ろを着いてきた。
この世には困難な出来事が無数にある。とくに、私のような弱小妖怪だと尚更だ。それこそ、ただ生きていくことだって困難なのだ。私はそれを痛いほど知っていた。一年前、指名手配され、結果的に鬼の世界に封印されたとき、私は終わった。終わったはずだった。だが、こうして今私は幻想郷にいる。それだけでも、奇跡に近い。けれど、奇跡なんてものは本来起こらないからこそ奇跡なのだ。そしてそれには大抵綺麗事では済まされないような犠牲がある。
「あややや。これは凄いですね。奇跡ですよ」
だから、奇跡という言葉を安直に使う烏に呆れた。
「奇跡じゃねえよ。これは必然だ」
「必然って、こんなことが必然だったら世の中は狂ってしまいますよ」
「狂わねえ。よくあることだろ」
「ないですよ」
「ある。そんなに珍しいことじゃない。蕎麦屋が燃えることなんて、大したことじゃないんだ」
黒い煙を立ち上らせながら、焦げ臭い匂いを放っている蕎麦屋を前に、私たちは立ち尽くしていた。
幸いにも火は既にほとんど消えていた。以前のように轟々と燃えさかってはいない。あれほどまでに燃やすためには、ただ火が点くだけでは駄目なのだろう。喜知田は灯油か、または呪術的な何かを使ったに違いない。そう考えれば、今回の火事は良心的と言えた。良心的な火事だ。
「きちんと火を消してなかったんですか? そんなんだからあなたの蕎麦は美味しくないんですよ」
「消したに決まってるだろ。それに、私の蕎麦は美味しい」
うるさい烏を無視して、いまだ煙を出し続けている店へと入る。扉を開けると、噎せ返るような強烈な煙が溢れてきた。包帯をしているにも関わらず、喉が焼けるように痛む。慌てて後ろに飛び退く。咳が止まらなかった。
「あややや。情けないですね」
うるせえ、と声に出したかったが、咳が止まらず、何も言い返すことが出来ない。
「こんな煙ぐらい、どうにかしないと妖怪の山では生きていけませんよ。あそこ、山頂から煙が出てるんで」
そう嘯いた彼女は、おもむろに懐から団扇を出した。例の、紅葉の団扇だ。それを店に向かって大きく振り上げ、勢いよく下ろした。
一瞬だった。音が消え、空気が止まったかのように感じた。そしてすぐに止まっていた空気が爆発し、突き飛ばすように身体に襲いかかる。店に背中からぶつかる。息が出来ない。顔に巻き付けられていた包帯が切れ、しゅるしゅると解けていく。
「これで火は完全に消えましたね」
烏はなぜか得意げだった。といっても、こいつはいつも得意げだが。
「よかったですね、大事にならなくて」
「よくねえ」
「あややや。包帯ほどけちゃっているじゃないですか」
大変ですねぇ、と声をかけてくる烏の声はいつもより高かった。顔を手で隠しつつ、彼女の顔を見上げる。見上げて、後悔した。
いつもの仮面のような薄ら寒い笑みは消え、にんまりと頬がだらしなく緩んでいる。ハの字になった眉は、嘲りを隠す様子もなかった。顔を伏せるようにし、舌打ちをする。
「見るな。はやく店に入れ」
「あややや。いいじゃないですか。というより、私からすればその包帯だけでどうして隠し通せているかが不思議ですよ」
「不思議じゃねえだろ」包帯は完全に解けてしまっていた。久しぶりに外の空気が地肌に触れる。
「鬼人正邪は死んだんだ。みんなそう思ってるんだよ。もし怪しいと思っても、人間は無視するんだ。そうであってほしくないからな。あいつらにとって、信じたいことが真実になるんだ。そうだろ?」
「だとしても、ずっと包帯をつけていたら怪しまれますよ」
「大丈夫だ」私はそこで胸を張った。二本の角が暖かな風に撫でられる。「幻想郷には小人だっているんだぞ? ミイラ男がいてもおかしくねえだろ」
「女じゃないですか」
下らないことを気にする烏を無視し、開けっぱなしになった店の扉をくぐる。あれほどの暴風にもかかわらず、店の内装は一切崩れていなかった。室内に充満していた煙は消え去っているものの、机や壁が所々焦げて黒ずんでいる。だが、それだけだった。修理を頼むほどのものではない。唯一気になることといえば、どうして火が点いていたか。それだけだ。
「なあ烏。最近人里で放火が度々起きていたりしないか?」
「あややや。起きていたら記事に出来たんですがね。残念ながら」
「お前、いつか刺されるぞ」
おずおずと机の奥へと向かっていると、憎まれ口なんかより言うことがあるんじゃないですか、と烏が自慢げに口を開いた。
「感謝して下さいよ。火と煙だけを消すの、中々に大変でしたから。風を操ることができる私くらいしかできない芸当です」
「そうか。なら、蕎麦を食わせてやる」
「いらないですって。あなたは蕎麦をなんだと思っているんですか」
「人生」
面白くないですね、と下唇を突き出してくる烏を無視して、腰を落とす。大量に保管された包帯をぐるぐると顔に巻きながら、何をやっているんだと自分に呆れる。やはり、烏に会いに行ったのは失敗だった。こんなことなら、まだ慧音の方がましだったかもしれない。いや、それはないか。
「おい烏。そろそろ教えてくれよ」
「教えるって何をですか? 天邪鬼の無能さ?」
「ちげえよ。死者を生き返らせるっていう、人里の噂だ」
ああ、と彼女は間抜けな声を出した。その様子をみるに、本気で忘れていたのだろう。
「でも、将棋に勝ってないじゃないですか。駄目ですよ」
「いや、私の勝ちだ」
「はい?」
「お前から辞めると言い出したんだぞ。投了だよ投了。お前の投了で、私の勝ちだ」
「なんで投了は分かるのに、飛車は分からないんですか」
深く息を吐いた彼女は、私のちょうど正面の席に座った。彼女の黒く、肩口にまで切り揃えた髪が机越しに私の鼻をくすぐる。
「しょうがないですね。分かりました。教えてあげますよ。といっても、大した話ではありませんが」
「最初からそうしとけばいいんだよ」
「あなたはどうしてそうも上から目線なんですか」
「天邪鬼だからだ」
「今、天邪鬼って」
「言ってない」
どうしてそれでバレないんですか、と呟く彼女の声には、明らかな落胆が浮かんでいた。なぜそんな声を出すのか分からない。ただ、今のところ烏の新聞に、天邪鬼が蕎麦屋を営んでいる、といった情報が載ったことはなかった。何だかんだ言いつつも、正体がばれないよう協力してくれているのだろう。絶対に感謝はしないが。
「それで? 人間はどうして死者を生き返らせるだなんて言っているんだよ。また小槌か?」
「そんな訳ないじゃないですか。ただ、私にも全貌はよく分かってないんですよね。いま記事を作るために情報を集めている所なんですが」
「ですが?」
「どうやら、少しきな臭い感じがします」
むしろ、そんな明らかな地雷から何の匂いも感じないのであれば、そいつの鼻は腐っている。
「いえね。方法自体は簡単なんですよ。確か、死んだ人のことを祈って、その写真に自分の血を垂らす。ただそれだけでいいんです」
「そんなんで生き返ったら苦労しねえよ」
「その通りですね。普段であればそんな世迷い言は鼻で笑われるだけでしょう。ただ、今は別です」
「別って?」
「人間達の間で、どうしても生き返らせたい人物がいるんですよ。それこそ、そんな怪しい噂を信じてまで」
それが誰を指しているか、烏は言わなかった。きっと、言わなくても分かると思ったに違いない。事実、私には思い当たる人物がいた。あいつだ。喜知田だ。ただ、あいつは絶対に生き返る事なんて無い。なぜなら、まだ死んでいないのだから。鬼の世界に、私の代わりに封印されたのだから。八雲紫の手によって。
「まあ、すぐに嘘だと分かるんじゃないですかね。こんな下らないことをする暇があれば、もっと有意義に過ごすべきだと、人間も気づくでしょう」
「そうか?」
「そうですよ。人間もそこまで愚かではありません。少なくともあなたよりましです」
「いや、分からんぞ」
「はい?」烏はまるで目の前に蕎麦があるかのように、割り箸を手元に置いた。なんだかんだ言いつつ、食べていく気なのだ。その図々しさに笑みがこぼれる。蕎麦の仕込みをしながら、私は言った。
「人間ってのはな、嫌なことからは目を背けるんだよ」
「嫌なこと?」
「そうだ。何でもかんでも自分の都合のいい方に解釈するんだよ。悪いことをするのは妖怪で、いいことをするのは人間だって、そう思い込むんだ。もしかすると、いつか悪いことをした人間も、実は妖怪だった、とか言われるんじゃないか?」
「あり得ませんよ」
「もしあり得たら謝ってくれよな」
なんで自慢げなんですか、と不服げに眉を下げた烏は、机の端に並べられた二枚の写真を見て、嫌そうに顔をしかめていた。きっと、あまりの巧さに嫉妬しているに違いない。そう思っていると、「酷いですね」と彼女は顔をしかめた。
「ピントもあっていませんし、背景だって汚い。私の足下にも及びませんよ」
「なんだよ。負け惜しみか?」
「そんな訳ないじゃないですか」
そう笑った彼女は懐からカメラを取り出し、私に向けた。新調したのか、以前見たときよりも一回り大きく、そして綺麗になっている。
「折角ですから、蕎麦屋のレポでも書いてあげましょうか。店主の写真付きで。もしかすると客足が増えるかも知れません」
「そもそも読まれない新聞に書かれても意味ないだろ」
「あなたの蕎麦よりはよく売れてますよ」
そう言った烏は、躊躇無くカメラのシャッターを切った。止める暇すらなかった。
「おい。なに勝手に撮ってんだよ。金取るぞ」
「いいじゃないですか。あ。正邪さん。包帯上手く結べてないですよ。これだと、すぐに正体がばれてしまいます」
言われて、慌てて顔に手をやる。冷やかしかと思ったが、本当に包帯は解けており、角どころか、髪がほぼ全て露見していた。やはり、一人で短時間で結ぶのはいつまでたっても難しい。
「おい烏。その写真消せよ」もう一度包帯を巻き直しながら、私は言った。「記事に載せたらはっ倒すからな」
「あややや。あなた如きが私を倒せるわけ無いじゃないですか」
「分からんぞ。さっき、窮鼠猫を噛むとか何とか言ってたじゃねえか」
「何言ってるんですか。鼠の方があなたよりよっぽど強いですよ」
まあ、載せませんけど、と呟いた彼女は、もう一度写真を撮った。今度はきちんと包帯を巻けている。そこまでして私の写真を撮らなくてもいいだろうに。
「おい烏。おまえ、そんなに写真ばかり撮っていると嫌われるぞ」
「あなたよりは嫌われませんよ」
写真。自分が口にした言葉に引き寄せられるように、机端の写真に目をやる。もしかして。もしかしてあの写真を使えば、奥さんが生き返るのではないか。特に深い意味なんてないはずなのに、どういうわけか気になった。
「あ」
烏が素っ頓狂な声を出したのは、ゆがいていた蕎麦をあげようとしていたときだった。
「そういえば、その人を生き返らせる方法について、ひとつ重大なことを思い出しました」
「なんだよ」
「教えてほしいですか」
「そういうのいいから、早く教えろよ」
「どうしましょうかね」
ニヤニヤと笑う烏に舌打ちし、蕎麦のつゆを丼に入れる。
「なんで渋るんだよ」
「ほら、やっぱり対価がいりますよ。ただで情報をあげるほど私は安くないんです。結局、喜知田についての情報は教えてもらえませんでしたし」
「知らねえもんは教えられねえだろ」
面倒くさく、鬱陶しい。だが、どこか懐かしかった。まさか、烏の軽口を感慨深く思う日が来るだなんて。どうやら私にとって、あの空白の一年は、なかなかに辛かったらしい。
「まあ、いいさ」どんぶりに、麺を入れる水はほとんど切られていない。
「とりあえず、これ食えよ」
「ちょっと待ってください。これめちゃくちゃ伸びてるじゃないですか」
「そうだろ?」
私は胸を張り、言った。
「これがおまえの人生だ」
どういう意味ですか、と肩をすくめた烏は、それでも蕎麦に口をつけた。