絶体絶命。弱小妖怪である私にとって、それは別に珍しくもない状況だ。何度も死にそうになったし、大怪我もした。もう二度とあんな目には遭いたくないが、幻想郷中を敵に回すなんて、意味の分からない状況にも追い込まれたことすらある。
そんな危機的状況を何とかくぐり抜けてきた私だったが、今まさにその、絶体絶命的な状況に追い込まれていた。油断した。まさか蕎麦屋でこんな事態に陥るだなんて。冷や汗が止まらず、顔に巻いた包帯が肌にくっつく。それのせいで、余計に焦りが募っていった。
「ねえ、いいでしょ?」
無邪気な少女が、私に向かい微笑みを浮かべてくる。
「その包帯、取ってよ」
「駄目だ」
「なんでさ。いいじゃん」
頑固な客に、うんざりとする。と同時におののいていた。こうなった針妙丸は中々に厄介だと言うことを、私は嫌というほど知っていた。
朝っぱらの蕎麦屋に客が来ることなんて、滅多になかった。だから、どうせ烏あたりが暇つぶしに来たのかと思い、「今日はもう閉店だぞ。飯を食いたいのなら自分の翼でも食ってろ」と適当に追い返そうとしたのだが、実際に店に入ってきたのは、二人の少女だった。小人と巫女だ。まさか、彼女たちが来るだなんて想定外もいいところだ。三ヶ月ぶり二度目の来店だった。
机の上で寝転がり、足を組んでいた私は飛び起きた。客の前で、はしたない格好をするわけにはいかない。そんな殊勝な考えを持っていたからではない。包帯を顔に巻いていなかったのだ。いつもは寝るときも身につけているのだが、こういう時に限って外していた。慌てて机の下へと身体を転がし、いらっしゃい、と小さな声で言う。
「ねえ、さっき店員さん包帯つけてなかったでしょ!」
博麗の巫女の頭の上にちょこんと乗った針妙丸は、店に入った瞬間にそう叫んだ。机の下で慌てて包帯を巻く私は焦っていた。もしかして、顔を見られてしまったのではないか。正体がばれてしまったのではないか。もしそうであるならば、非常にまずい。私はもう針妙丸と深く関わらないと決めたのだ。水の泡にしないために距離を取ると、こんな悪党とつるんではいけないと、そう決意したのだ。
だが、私の正体を知った彼女が、それを易々と許してくれるとは思えなかった。
動揺しながらも、手早く包帯を巻く。焦っていることを悟られないために「躾がなってねえぞ」と叫んだ。
「しっかりしてくれよ博麗の巫女。店に入っていきなり叫ぶだなんて、非常識にもほどがある。どういう教育をしているんだ」
「私は慧音じゃないから教育なんてしてないわよ」
やんやと暴れる針妙丸を抱きかかえながらも、彼女は飄々としていた。
「それに、多分これはあなたの影響だと思うわ」
「はあ?」
「あなたの非常識さが移ったのよ。私なんかより、今でも彼女はあなたの後ろを歩いているのだから」
「蕎麦屋を継ぐってのか」
そう呟く私の声は細かく震えていた。針妙丸が私の後ろを歩いている? 馬鹿な。こんな純粋で真っ直ぐな彼女が、私みたいな捻くれ者の後を追ったところで、いいことなんて一つも無い。
「もー、霊夢も店員さんも変な話ばかりして!」
ぴょん、と博麗の巫女から飛び降りた針妙丸は、とてとてとこちらに近づいてきた。包帯が巻き終わった私は、いかにもだるそうに身体を伸ばしました、といった風に立ち上がる。それでも不安は拭いきれず、自然と顔に手が伸びた。布のざらざらとした感触が手に伝わる。
「あー! 包帯もう巻いちゃってる!」
甲高い声を出し、頬をぷくっと膨らませた彼女は、じたばたとその場で地団駄を踏み始めた。その眉は悲しげにハの字になっている。
「ねえ、店員さん。もういっかい取ってよ」
「とるって、何をだよ。写真か?」
「違うよ! 店員さんが顔に巻いている包帯だって」
「嫌だね。私は包帯女なんだ。これを取るってのは、お前からすれば、その茶碗を壊すくらい辛いことなんだよ」
私がそう言っても、彼女は納得していないようだった。しぶしぶといった様子で博麗の巫女を呼び、底上げされた椅子に座らせてもらっている。彼女専用の椅子だ。どうしてこんな物を店に置いてしまったのか。馬鹿だろ、と内なる自分が嘲笑してくる。何も言い返すことができなかった。
ありがとう、と太陽のような笑みで博麗の巫女に微笑みかけた針妙丸だったが、こちらを見た瞬間に、その目を鋭くした。不貞腐れた子供のようにしか見えなかったが、なぜか私の身体は強張った。嫌な予感しかしない。
「ねー、いいでしょ。かお見せてよ」
「嫌だ」
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
「私の自尊心が減るんだよ。それに、どうしてそこまで気にするんだ。私の顔なんてどうでもいいだろ」
私は期待していた。祈っていたと言ってもいい。この小さな小さな少女が、ただ好奇心でそう訊いているだけだと信じたかった。だが、現実はそんなに甘くない。
「あのね。さっきちらっと店員さんの顔が見えたんだけど」
「だけど?」
「昔の友人。ううん。仲間に似ていたんだ」そう口にする針妙丸の顔には、うっすらと悲嘆が隠されていた。
似ているもクソもない。本人だ。やはり見られていた。だが、どうやら確信は持てていないようだ。というより、さすがの針妙丸も、私が生きているとは思っていないのだろう。不幸中の幸いと言うべきだろうか。
「針妙丸。もうその辺で止めときなさい」
天邪鬼のくせに上手い言い訳が思いつかず、なんと誤魔化そうかと逡巡していると、巫女が助け船を出してきた。まさか博麗の巫女に助けられる時が来るとは。あまりにも惨めだ。
「そんなことより、もっと言うことがあったじゃない」
「言うこと?」
「ほら、さっき貰った紙切れよ」
「あ、ああ!」
口を大きく開け、巫女の懐から何かを抜き取った針妙丸は、こちらを見てにぱりと笑った。あれほど私の素顔に興味津々だったのに、もはやそんなことは忘れ去ってしまったかのように眩しい笑顔だった。純粋というか、単純というか。
「これ、さっきもらったんだ。だから、ここに来たの」
「なんだよ、それ」
「文おねえちゃんからもらった新聞だよ」
「ごみじゃねえか」
文文。新聞と書かれたそれをなぜか大切そうに胸に抱いた彼女は、私の前にそれを突き
出してきた。子供にゴミを押しつけるなんて、烏の神経が分からない。はやく巫女に退治されればいいのに。
だが、その紙くずを見て、どうして針妙丸がこんな朝っぱらから私の店に来たのかが分かった。分かってしまった。
「これ、私じゃねえか」
「そう! 店員さんがいちめんって奴だったんだよ。すごいね! おめでとう」
「嬉しくねえ」
またまたー、と無邪気な笑みを浮かべるチビに舌打ちし、新聞を乱雑に奪い取る。そこには目つきの悪い、包帯を巻いた人物が写っていた。服装こそ蕎麦屋らしい甚兵衛だが、それ以外は明らかに異様だった。我ながら、酷い格好だ。
「文おねえちゃんがね、これを持って蕎麦屋の店員さんのところに行けば、喜ぶって言ってたんだ」
「喜ぶわけねえだろ」
「でも、ちゃんと蕎麦についても書いてあるって言ってたよ」
隠れた迷店! と下らないタイトルを読み飛ばし、本文に目をやる。どうせ、美味しくないだの汚いだの書いているだろうと当たりを付け、文字を読み進める。が、予想に反し蕎麦については好意的な意見が並んでいた。香りがよく、色もいい。つゆと麺のバランスもとれていて、薬味の種類も豊富。言われたことがないような賛美がつらつらと書き連ねられている。逆に、ここまで書かれると気持ちが悪い。いったい烏は何を考えているのだろうか。不審に思ったが、すぐにその理由は判明した。
その次の文章には、蕎麦以外のことについて、つまりは店主である私について書かれていた。得たいの知れない不気味な存在で、人間だか妖怪だかも判然としないが、会話をすれば揚げ足を取られて腹が立つだけなので、もしこの蕎麦屋に行く場合は、無言でただ蕎麦をすすることをおすすめする、とのことだ。腹が立つより前に、驚いた。人間だか妖怪だか判然としない。嘘をつけ、と叫びたくなる。お前は知っているじゃねえか。
「どう? 嬉しい?」
じっと新聞に目を注いでいると、ひょこりと針妙丸がのぞき込んできた。その仕草は、憎らしいほどに無邪気で、純粋だった。
「嬉しくねえよ」突き放すように、私は語気を強めた。
「こんなゴミを押しつけられて、いい迷惑だ」
「えー、ひどい!」
また、ぷくりと口を膨らませた針妙丸は、それでもどこか楽しそうだった。小さな足をバタバタと忙しなく動かし、身体を私の方へ近づけてくる。
「でも、私はこれに書かれてることは本当だと思うよ」
「読んだのか」
「当たり前じゃん! しんぶんってのは、読むための物なんでしょ?」
「実はな、その新聞は本当は窓拭きに使うための物なんだ」
そうなの? と不安げに巫女のほうを見た彼女だったが、ふるふると首を振られると、勝ち誇ったかのような笑みでこちらを見上げた。その仕草に、私は吹き出してしまう。一年という空白期間があったはずなのに、それでも彼女は何も変わっていなかった。安堵とともに、どこかむなしさが胸を包む。私はこうして針妙丸を遠くから見守る。これでいいじゃないか。関わったらいけないと、あれほど痛感した。だからこそ、私は無性に悲しくなるのだ。どうして? まさか彼女の側にいられないからだなんて、言うんじゃないだろうな。そう声が聞こえた。水の泡にしないと決めたんだろ。
考え事をしていると、無意識に手が蕎麦を打ち始めていた。もう立派な蕎麦屋になってしまったものだ。喜びよりも、苛立ちが心を包む。
「やっぱり、店員さんは包帯を外した方がいいよ」
やけに溌剌とした声が店に響いた。結局、その話題に戻るのか。巫女に目をやり、助けを求めるが、ふっと目を伏せられた。諦めなさい。そう言っているのだろう。まったく、役に立たない。
「文おねえちゃんが書いたとおりだよ。やっぱり、そんな見た目だとお客さんは来ないと思う」
「余計なお世話だ」
「それに、私はもう一度店員さんの顔が見てみたいんだ」
「しつこいぞ」
だって、と口を尖らせた彼女は、頭上の茶碗をより深く被った。先ほどまでの明るさは消え去り、薄暗い、陰険とした表情に変わる。
「店員さん、似てたんだよ。正邪に。もう死んじゃったって分かってるけど、会えないって分かってるけどさ。それでも、会いたいじゃん。そっくりさんでもいいからさ」
「お前」
「それに、どこか似てるんだよね。店員さんと正邪。なんでだろうね。最初、本当に正邪かと思ったもん。そんなはずないのに」
泣き顔と笑いの中間のような顔になり、俯いた。かと思えば、懐をがさごそと漁り、何かを引っ張り出す。小さな、長方形のそれは、こちらから見るとただの白い紙にしか見えない。
「何だよ、それ」
「写真。しんぶんを買ったときに、文おねえちゃんから貰ったんだ。昔に撮った物なんだって」
「見せてみろ」
強引に針妙丸の手からそれを奪い取る。嫌な予感がした。あのケチな烏が、理由もなくこんなチビに写真を渡すとは思えない。
恐る恐る、その写真を裏返す。裏返して、息が止まった。それは私の写真だった。中途半端に包帯が巻かれた、昨日の写真だ。特徴的な短い角と、赤色混じりの髪は、間違いなく鬼人正邪だと分かる物だった。
「これ、生きてた頃の正邪の写真なんだって」
「え?」
「怪我をして、包帯でぐるぐる巻きにされているときの写真なんだって。かっこいいでしょ!」
「格好良くはねえだろ」
「包帯をまいている店員さんにいわれたくないよ」
「それに、なんで烏はこの写真をお前に渡したんだよ」
「正邪に頼まれたんだって」
どうしてあいつはいけしゃあしゃあと嘘を吐くことができるのか。天邪鬼の私ですら呆れてしまう。それに、巫女はこの写真の正体を知っていたはずだ。なぜ、止めてくれなかったのだろうか。私の正体がバレてしまえば、そして人里に知れ渡ってしまえば、博麗の巫女としての仕事を、つまりは幻想郷を混乱の渦に巻き込んだ逃亡犯を、殺さなければいけないと、彼女も分かっているはずなのに。
「没収だ」私は感情を隠しつつ、その写真を懐に入れようとした。
「こんな物捨てちまえよ」
「止めなさい」
だが、針妙丸の隣に座った巫女が、素早く手を動かし、逆に取り返される。
「おい、なんで」
「写真ってのは大きな意味を持つのよ。それこそ、死んでしまった人の写真はね」
あなたもそうでしょ? と巫女は机の端に目をやった。私も同じ場所を見る。二枚の写真が並んでいる。奥さんと針妙丸の写真だ。
「人は寂しくなると、亡くなった人の大切な写真を見て、心を落ち着けるのよ」
「なんだそれ。烏にでも言わされてるのか」
「違うわよ」
「なら、お前も持っているのか、写真」
私は持っていないけど、と俯くだろう彼女を馬鹿にしようと、息を吸った。が、予想に反し、私も持っているわよ、と巫女が手に持った写真をひらひらとさせたのを見て、その息を飲み込む。
「誰の写真だよ。見せろ」
「いやよ」
「というより、お前にも寂しいって感情はあったんだな」
あの完璧で無敵な博麗の巫女が、精神的に不安定になる状況なんて、思い浮かべることができなかった。私たち弱者の対極に位置する存在。圧倒的強者の象徴。それが博麗の巫女だ。大げさかもしれないが、私はそう思っている。
が、何を勘違いしたか、博麗の巫女は「まあ、確かに周りは騒がしいけどね」と針妙丸の頭をなで始めた。
「それでも寂しいものは寂しいのよ」
「なんだよ年頃の少女みたいなこと言いやがって」
「私は年頃の少女よ」
馬鹿なの、と博麗の巫女が鼻を鳴らしてくる。動揺と憤りを隠すために、背を向け、蕎麦を切る。なぜかいつもより力が入り、上手くいかない。ストンストンと、まな板と包丁が喧嘩する音が耳につく。
「私たち、別に蕎麦を注文していないんだけど」巫女がやけに快活な声で、そう言ってきた。「どうして勝手に作り始めているの?」
「どうしてって、お前そば屋に来て蕎麦食わないとか、あり得ないだろ」
「この店、うどんとか置いてないの?」
「ない。蕎麦だけだ」
えー、と針妙丸が嘆いた。悲しげに眉を下げ、机にへたりこんでいる。
「なんで蕎麦しかないのさ」
「なんでって、ここが蕎麦屋だからだ」
「でも、他のお店はうどんとかも置いていたよ」
「分かってねえな」私は思いきり胸を張った。「蕎麦ってのは最強の麺類なんだよ。暖かいのも、冷たいのもあるし、薬味を使えば味だって変わる」
「うどんだってそうじゃん」
「うどんと蕎麦は全然違う。ほら、そこの巫女と妖怪が同じって言う奴なんていないだろ?」
「まあ、いないと思うけど」
「だろ? それと同じだよ。麺類だからって同じだなんて言っちゃ駄目なんだよ。ほら、謝れよ。ごめんなさいって」
「それ、もしかして麺だから? ご麺なさいってこと?」
「そうだ」
「おもしろくなーい」
にべもなくそう言い放った針妙丸は、やっぱりうどんがいいなー、と文句を言った。
「蕎麦はなんか色が汚いからなー」と聞き捨てならないことを言っている。絶対にうどんはメニューに加えないと心の中で決意した。
今まで静観していた巫女が、「ねえ針妙丸」と重い口を開いたのは、ちょうど湯がいた蕎麦の水切りをしようとしているときだった。その声は、聞いたことがないくらい柔らかく、暖かい。
「針妙丸は、鬼人正邪についてどう思ってるの?」
「どうって?」
「どんな妖怪だった?」
うーんと悩む針妙丸を見て、ニコニコと楽しそうに微笑んでいる。と、わざとらしく私の目を見て、肩をすくめた。何やら口を動かしているが、よく見えない。
しばらく考えていた針妙丸だったが、ぱっと顔を上げると「正邪はうそつきだったかなー」と笑った。
「やっぱり天邪鬼だったよ。死なないっていってたのに死んじゃったし」
「でも、針妙丸はそんな天邪鬼の言葉を信じてたのよね。嘘つきの言葉を」
「まあね」なぜか彼女は得意げだった。いつの日か、私の言葉を信じる、と真面目な顔つきで口にしていた彼女の姿が頭に浮かぶ。感じる必要の無いはずの、罪悪感が体を包む。
「でも、私は正邪には嘘を本当にするちからがあると思うの」
「何だそれ」会話に参加する気は無かったのだが、思わず突っ込んでしまう。嘲笑が隠せない。
「そんな力を持つ妖怪が、弱小妖怪なわけないだろ」
「そうだけど……」
「だろ? 天邪鬼のことなんてとっとと忘れろ。死んだ奴のことを思っても意味ねえよ。もしかしたら、体が錆びちゃうかもだぜ」
「大人げないわよ」
針妙丸をかばうように身を乗り出した巫女は、妙に生暖かい目で私を見た。大きく溜め息を吐き、「ねえ、針妙丸」と彼女の頭を優しくさすっている。
「もしもう一度正邪に会えたら、どうする?」
知らず知らずのうちに手が止まる。自分の耳が真後ろにくるりと向かないか、と心配になるほど、私は耳をそばだてていた。
「そうだねー、もし正邪に会えたら」
「会えたら?」
「一緒に蕎麦でも食べたいな」
巫女の、気の抜けた息がここまで聞こえてきた。振り返らずとも、彼女が呆れているのが分かる。
「どうして? 蕎麦好きじゃないんでしょ?」
「うん。だけどね、きっと正邪にはぴったりだと思うんだ」
「なんでかしら」
だって、と彼女は椅子の上にもかかわらず、勢いよく立ちあがった。そのせいで、椅子がふらふらと揺れ、落ちそうになり、手をあわあわとばたつかせている。咄嗟に彼女を支えようと手が伸びたが、それより早く巫女が針妙丸の体を支えた。自身に対する嫌悪感と気恥ずかしさを誤魔化すために、「だって、何だよ」と強い口調で訊ねる。
「なんで天邪鬼と蕎麦がぴったりなんだよ」
「だって、正邪も蕎麦も、どこか汚いでしょ? 色とか、性格とか」
巫女が吹き出した。針妙丸も、楽しそうにニコニコと笑っている。だが、気のせいだろうか。彼女が正邪、と口にしたときに、わずかに泣き出しそうな、悲痛に満ちた顔をしているように見えた。気のせいなはずだ。そうあってくれ、とひとり願う。湯がいている蕎麦はいつの間にか伸びきっていた。
何だかんだ言いつつも、凸凹な二人の客は蕎麦を食べ終わり、店を後にした。針妙丸に正体がばれそうになったせいか、嫌な余韻が頭に残る。危なかった。これからは、包帯を解くときは鍵を閉めておこう。あの蕎麦を好まない針妙丸がこんな朝っぱらから来るなんて、想定できるはずがなかった。
早速鍵を閉め、包帯を緩める。もう今日は店を開く気力が残っていなかった。開いていたところで、客なんてめったにやってこないので、特に問題も無いはずだ。
完全に包帯をほどくと、新鮮な空気が肌を撫で、すがすがしい気持ちになる。やはり、常に包帯を巻くなんて、不衛生にもほどがある。本物のミイラ男に会ったら、尊敬の念で握手を求めてしまうだろう。だが、弱小妖怪である私にとっては、こんなことで平穏な日々を過ごせるなんて、破格もいいところだ。それこそ、些細なことで打ち破れてしまいそうなほどに。
特にやることもなかったため、また寝直そうかと床に腰を落としたとき、たまたま新聞が視界に入った。烏の新聞だ。特段大した内容が書かれていないことなんて分かりきっていたが、それでもなぜか手が伸びる。一面に書かれた私の悪口を読み飛ばし、ペラリとめくる。
あっ、と思わず声が零れた。そしてすぐに口内に苦い唾が上がってくる。あいつ、と誰もいないにもかかわらず、呟いていた。あいつ、記事にしてるじゃないか。
『必見! 死者を生き返らせる方法!』と書かれた見出しを見つめる。無意識のうちに力が入り、くしゃりと新聞が音を立てた。落ち着け、と自分に言い聞かせ、読み進める。
そこに書かれていることは、おおよそ昨日聞いたことと変わりは無かった。だが、いくつかのことについて、それは例えば写真が湿って、ひたひたになるくらいの血が必要であるとか、祈る際には両手をしっかりと組まないといけないだとか、そういった類いのことが具体的に書かれているだけだった。
一つ気になる点は、注意点として、とやけに太い字で書かれている箇所だ。『なお、この方法で生き返らせることができるのは、一人だけである』
まるで、烏がこの噂を生み出したかのような断定口調に、呆れた。
こんな戯れ言を、本当に真に受ける奴がいるのだろうか。いるわけがない。そう思いたかったが、私は知っていた。溺れる者は藁をも掴む。その通りだ。追い込まれた人間は、弱小妖怪は、何をするか分からない。無垢な少年が野菜を盗むことだってあるのだ。絶望した人間が下らない迷信に惑わされることだっておかしくない。
人里の外れに、血に濡れた大量の写真が積み上がっている様子を想像すると、体が震えた。恐怖ではない。歓喜だ。心の弱い人間を欺き、無意味な行動をさせる。すばらしく魅力的じゃないか。
そう思うほどに、体の震えは大きくなっていった。まるで、建物全体が振動しているみたいだ。いや、みたいではない。本当に蕎麦屋が揺れている。
慌てて立ち上がったとき、ひときわ大きな揺れとともに、爆音が鳴り響いた。あまりの衝撃にバランスを崩し、その場に倒れ込む。目の前が真っ白になり、音のせいか、酷い頭痛に襲われる。いったい何だっていうんだ。
おそるおそる、目を開く。室内だというのに土埃が蔓延し、視界はよくない。だが、それでも誰かが室内にいることが分かった。鍵のかかった扉を強引にこじ開けたのだろう。とても人間ができることじゃない。
「おい。妖怪か? こんなことしたら、巫女に半殺しにされるぞ」
たかが店に押し入っただけで巫女がとんでくるわけもなかったが、私は自信満々に凄んだ。弱小妖怪にとって、巫女という存在はいわば抑止力だ。彼女が出てくるだけで、悪巧みは終わり、滅亡が待ち受ける。実際はどうなのか分からないが、少なくともそう信じられているのは事実だった。
だが、それでもそいつはひるまなかった。躊躇無く足を進め、辺りを払うように堂々と迫ってくる。背筋が凍った。弱小妖怪としての本能が、危険を知らせてくる。これはまずい。殺される。
「ねえ」
侵入者は、低く、そして仰々しい声を出した。手に持った何かをびゅっと振る。すると、室内に籠もっていた土煙が晴れ、段々とその姿が露わになっていった。赤い。最初はそう感じた。が、ぼんやりとしたその輪郭が明瞭になっていくにつれ、凍っていた背筋が燃え上がり、そして砕け散るような、そんな感覚に襲われる。
「よくもまあ、この私を妖怪だなんて言ってくれたわね」
侵入者は巫女だった。なんでこいつがここに。さっき帰ったじゃないか。数多の疑問が頭に浮かび、消えていく。あまりの恐怖に何も考えられなくなっていた。
「ご、ごめんなさい」
咄嗟に出てきた言葉は単純な謝罪の言葉だった。つくづく、自分の無能さに腹が立つ。尻餅をついてただ謝るだなんて、情けないにもほどがあった。
巫女はしばらく返事をしなかった。真顔でうつむき、固まっている。まったく感情が読めなかった。怒っているのだろうか。だとすれば、まずい。ここから逃げようと腰を浮かせるが、包帯を巻いていないことを思い出した。さすがにこのまま外に出るわけにはいかない。どうしようか、と混乱する頭を回していると、いきなり巫女が顔を上げた。にっと得意げに笑い、手を差し出してくる。
「おもしろくなーい」
その針妙丸の真似は、腹が立つほど似ていなかった。
「いきなり人の店の扉をぶち壊すなんて、何考えてんだよ」
外に出た私は、隣をのんきに歩く巫女に唾を飛ばした。が、残念ながらその唾は口許の包帯に吸収されていき、彼女には届かない。だからだろうか、彼女は私の言葉などなかったかのように、「あんたねぇ」と手に持ったお祓い棒を突きつけてきた。
「いったいいつまでそんな生活を続ける気なの」
「いつまでって」私は眉根を下げ、相手を見下すような表情を作った。
「そりゃ、永遠に」
「永遠って、そんなの無理に決まってるでしょ」
「分かんねえぞ。死ぬほど頑張りゃなんだってできるって、知り合いも言ってた」
「言ってたって、誰が」
「妹紅が」
「彼女は本当に死ぬほど頑張っているのよ」
呆れを隠そうともしない彼女の髪が、春のそよ風に揺すられた。桜の香りがする柔らかい風だ。赤い特徴的なリボンと、白いフリルがゆらゆらと揺れ、かわいらしいといえなくもない。だが、博麗の巫女がいくら可愛らしい少女だと言われても、私たち弱小妖怪からすれば、ただの恐怖の対象であることに変わりはなかった。
「一体なにを考えているか知らないけれど、そんな包帯だけじゃ、いつかはバレるに決まってるじゃない」
「今までバレてないから大丈夫だ」
「大丈夫っていう言葉の意味を調べた方がいいわよ」
「きっと、こう書かれているぜ。大丈夫とは、蕎麦屋が巫女を馬鹿にするときに使う言葉ですってな」
使いどころがなさ過ぎる。そう呟いた彼女は、淡々と道を真っ直ぐ進んでいた。一応私に配慮してくれているのか、人通りが少ない道をくねくねと曲がり、人里の端へと向かっている。もうそろそろ昼時だ。春の昼なんて、大通りは人で溢れかえるに決まっていたので、ただそれを避けただけかもしれない。
「なあ、どこに向かってるんだよ。もう帰っていいか?」
「駄目よ。着いてきてくれたら扉を直してあげるから」
「お前が壊したんじゃねえか」
あまりに暴虐な巫女の態度にうんざりとする。もう黙って帰ってしまおうか。いや、駄目だ。今度は建物ごと壊されかねない。
「まったく、お前はひとりで出かけることもできねえのか」暗に、早く返してくれ、と言外に含めつつ、わたしは言った。「わざわざ私を呼び出しやがって。寂しがり屋かよ」
「そうね」私はてっきり、違う、と言われると思ったのだが、案に反し、彼女は頷いた。
「私は寂しがり屋なのよ。お母さんがすぐ死んじゃったから、我慢しているだけ」
「なんの冗談だよ」
「冗談じゃないわよ」巫女は悲しげに言った。「人間にとって、お母さんって本当に大切なんだから。それこそ、三千里を歩いて会いにいくほどね」
「なんだよそれ」
「やっぱ、駄目だ、わたし。やっぱり、世の中で大切なのは諦めることだったのね」
「さすが博麗の巫女。こじらせてらっしゃる」
私の一言が気に障ったのか、巫女は足をより速めた。私と同じくらいの背丈にもかかわらず、彼女の歩みはかなりのスピードだった。それがさらに加速したのだ。早歩きではついて行けず、小走りで追う。急いでいるのだろうか。
むすっとした巫女は、しばらく黙々と進んでいたが、人里を抜けた辺りでふわりと体を浮かせた。あまりにも突然だったため、浮遊していく彼女をじっと見つめていると、何してるのよ、と棘のある声で突っつかれる。
「はやく来ないと、置いていくわよ」
「うるせえな」なら、とっとと置いていって欲しかったが、優しく手を握り、ガキを引き連れるように手を引っ張られる。慌てて振りほどくと、彼女は心配そうにこちらを振り返った。逃走の心配ではない。私が彼女と同じように空を飛べるのか、と憂慮しているのだ。馬鹿にしやがって。
「お前の助けなんていらねえよ」
「そう? ならいいのだけど」そう笑みを浮かべた彼女は、何かを思い出したのか、手をぱんと叩いた。ああ、そういえば、とわざとらしく呟いてもいる。
「あなたに教えて貰いたいことがあったのよ」
「何だよ。下克上の起こし方か?」
「違うわよ」なによそれ、と彼女は下唇を突き出した。「基準を知りたいのよ」
「基準?」
「そう。どんなことにも基準はあるでしょ? この基準を超えたら怒る、みたいな。だから、あなたにもあると思って」
「どういう意味だよ」怒る基準であれば、当に巫女によって超えられている。
かなりの速度で飛んでいるせいで、向かい風が強く、目が痛む。私がそんな有様なのに、巫女は余裕綽々といった様子で滑るように、まさしく空を滑空していた。そんな彼女の顔を、涙でにじむ目でじっと見つめる。心なしか、張り詰めた表情をしている気がした。
「基準って言うのはね」彼女の声が、風の音をかき切るように私の耳を刺した。
「あなたが生きていることを、人里の蕎麦屋にいるってことを教えてる人の基準よ」
「は? なんだそれ」
「パチュリーと、それと文には生きてるって教えたんでしょ? それと慧音にも。なんでその三人には教えたの?」
「なんでって」そんなこと、私自身にも分からなかった。
「あなたがどうして身分を隠しているか。たしかに分かるわ。天邪鬼だとバレたら、また指名手配されちゃうものね。そうしたら、私も追っかけないといけないし」
「そうだな」
「でもね」強張っていた頬を少し緩め、彼女は言った。
「でも、別に針妙丸には言ってあげてもいいんじゃないの? あの子、中々まわりには見せないけれど、かなり傷ついているわよ」
「え?」
「夜にね、正邪ってうなされているの。泣きながらね」
嘘だろ、と声が零れる。今日みた様子だと、そこまで追い詰められているようには見えなかった。あれは、無理して笑っていたのだろうか。
「あり得ない」
そうはいったものの、あり得ないとは思っていなかった。彼の父親も、心の内にどす黒い感情を隠していたが、まるで表情には表さなかったじゃないか。血は争えない。きっと、そういうことなのだろう。
「分かりにくすぎだろ。滅茶苦茶元気そうだったのに」
「案外、絶望した時ってのは分かりにくいものなのよ」知ったような口で、巫女は淡々と言ってきた。「慧音は分かりやすいけどね」
「なんだよ。みんなもっと分かりやすくしてくれればいいのにな。そうしたら、より多くの人を絶望に追い込める」
「分かりやすくって、どうやって」
「私だったら、希望しかないって叫ぶね」
「ああ、天邪鬼だから」分かりにくいわよ、と彼女は唇を尖らせた。
「だけど、私は針妙丸に正体は言わねえよ。いっちゃならねえんだ。そう決めたんだよ」
「決めたって、誰が」
「この世界が」
ふうん、と曖昧な返事をした巫女は、それ以上何も訊いてこなかった。前を向き、無言で雲を突っ切っている。
そうだ。鬼人正邪は針妙丸に会ってはいけない。水の泡。しわがれた彼の声が、頭の奥底にこびりついている。包丁を持った三郎少年を思い浮かべ、それからすぐに、喜知田に捕らえられた針妙丸の姿が目に浮かんだ。これ以上、彼女を不幸にするわけにはいかない。やっと、彼女は幸せになる権利を得たのだ。それを、壊すわけにはいかない。他の誰でもない。私のために、蕎麦屋の店主として振る舞い続ける。そう決めたのだ。
「そう決めたじゃないか」
なのに、なぜか針妙丸の笑顔が、頭から離れなかった。
「途中で大体察してはいたけどよ」私は溜め息を隠すことができなかった。
「まさか、本当に博麗神社に連れて行かれるとはな」
赤く、大きな鳥居を見上げると、もう一度溜め息が零れ出た。真っ青な晴天にそれはよく映えていたが、美しい、とは到底思えなかった。博麗神社。妖怪の天敵である巫女が住まう場所であるとともに、数多の妖怪が住まい、訪れるという矛盾した存在。いつの日か、傲慢な天人によって破壊されたらしいが、もうそんな馬鹿なことをする奴はいないだろう。それこそ、天邪鬼が下克上を起こす可能性よりも低い。
「おい博麗の巫女。どうして私をこんなとこに連れてきたんだよ」
鳥居をくぐり、本殿へと向かう巫女を呼び止め、言った。
「まさか、一緒にお茶でもしましょう、だなんて言うわけじゃないだろうな」
「まさか」冗談でしょ、と鼻を鳴らした。
「あなたなんかにお茶を出す奴はいないんじゃない?」
「そうだよな」
「よっぽどのお人好しか、馬鹿だけよ。そうじゃなくて、あなたに見て貰いたい物があるの」
「見て貰いたい物? なんだよ、芸術作品でも作ったのか?」
「なんでそうなるのよ。それに、もしそうだとしても、絶対にあなたには見せないわ」
「なんで」
「だって、絶対あなた、『くそみたいだな』とか言うんでしょ」
「言わねえよ」私は首を振った。「言うなら、『芸術は爆発だ』とかだな」
「どういう意味よ」
「こんなもの爆発してしまえって意味だ」
結局罵倒するのね、と薄く笑った彼女は、私の手を握り、強引に前へと進んだ。いやいやながらも、彼女について行く。ここに来るのは三回目だった。以前は針妙丸と取っ組み合いをしたのだったな、とぼんやりと考え、あの時の彼女の眩しい笑顔を思い浮かべる。そうだ。私はあの笑顔を守らなければならない。汚してはいけない。そうだよな、と蕎麦屋の親父に訊ねる。当たり前だ、と返事が返ってきたような気がした。
本殿の前まで来た巫女は、「ただいまー」とどこかわざとらしい声を出した。が、辺りを見渡すも、誰の姿も見えない。
巫女は、誰かいないか確認しているのか、ぐるりと見渡すとうつむきながら扉を開いた。が、中々奥へと進まない。何をしているのだ。
巫女の体をすり抜けるように、部屋をのぞき込む。のぞき込んで、目を疑った。息が詰まり、きゅっと胃が締め付けられたかのような感覚に襲われる。めまいがし、その場にうずくまる。これは夢なのか、と疑い頬をつねるも、鈍い痛みが走るだけだった。
頼むから、目が覚めてくれ。お願いだから。そう願う。だが、現実は変わらない。なんだよ、これは。話が違うじゃないか。やっぱりそうなのか。駄目なのか。おかしいとは思っていた。平穏な生活を過ごす中で、これがずっと続いていくのか、と疑問に思っていた。だが、まさか。こんなことになるとは。こんな最悪なことになるなんて、思わなかった。
「希望しかねえな」
血まみれで倒れている針妙丸を前に、私はただ佇むことしかできなかった。