「想定しうる最悪のことは必ず起きる」
いつの日か、慧音にそんなことを言われたことがある。具体的な日付までは覚えていないが、確かあれは慧音が初めて店にやってきたときだった。
「人里にいるのなら、普通に挨拶してくれればいいのに」と不満を言った彼女だったが、その表情は明るかった。喜知田がいなくなり、人里の混乱を鎮めるために躍起になっているからか、目元や髪には疲れの象徴ともとれる乱れや皺があったが、それはそれで慧音らしい、とも言えた。
「一年間、いったいどこで何をしていたかは知らない。けど、何もこんな物で生きていることを知らせなくても」
「こんな物ってなんだよ」
「シラウオだよ。生きた奴。寺子屋の前に落としていったの、お前だろ?」
「違う」違わない。それを落としていったのは私だった。どうしてあんなことをしたのか。気の迷い。いや、違う。気まぐれだ。気まぐれで、私は彼女たちに合図を送った。正直に言えば、生きている、と知らせるつもりはなかった。合図を送ったとしても、本当に生きていると彼女たちが分かるかどうかは、半々といったところだと思っていた。が、予想に反し、烏も、慧音も、鶏ガラもすぐに気がつき、そして当然のように蕎麦屋にやってきた。まるで天邪鬼という妖怪は蕎麦屋にいると、どこかの図鑑に書いているかのように、迷いなく来たのだ。
「まったく。しかもあの正邪が人里で蕎麦屋を営むようになるとはな。驚きだよ」
「ああ。わたしも驚いている」
「もしよければ寺子屋に居候してもいいんだぞ」
「指名手配犯が潜んでいる学校ってどうなんだよ」
生徒が減りそうだな、と慧音はケラケラと笑った。彼女の笑い声が蕎麦のつゆに反射し、円上の波紋ができる。それに気がついたわけではないだろうが、箸を持った慧音は蕎麦を口に入れた。
「どうだ。旨いだろ」このときの私は蕎麦を作り始めて三日と経っていなかった。作り方なんてまったく分からず、手探りで作り上げた物だ。
慧音は最初、微動だにしなかった。ゆっくりと咀嚼し、水を口に含む。酷いしかめっ面だった。
「想定しうる最悪なことは必ず起きる」
口の中の物を一気に飲み込んだ彼女は、おずおずとそう言った。
「こんな話を知っているか?」
「知らない」
私は半ば反射的に答えていた。また、慧音のつまらない話がくるぞ、と身構えるものの、懐かしく、感傷的な気分にもなった。ああ、この世界に、人里に帰ってこられたのだな、と実感する。鬼の世界は、こんな慧音のクソみたいな話ですらありがたく思えるほどに、最悪だった。
私の返事に片眉をあげた慧音は、包帯を弄りながら背を向けた私なんてお構いなしに「むかしな」と話し始めた。
「むかし、とある大工がいたんだ。そいつは丈夫な建物を造るのが売りでな、本人曰く『火事と地震が同時に起きて、その後に雷でも落ちない限り、大丈夫』と豪語してたんだ」
「地震雷火事親父ってか? 親父が足りねえぞ」
「べつに親父は建物を壊さないだろ」
「分からんぞ。親父だって壊すときは壊す」
肩を落とし、大きく胸を上下させた慧音は、これだから、といった表情で私を見つめた。呆れとともに、むず痒くなりそうな暖かな笑みを浮かべている。舌打ちが出た。私はお前の生徒じゃないんだぞ、と釘を刺すも、彼女はもう一度笑みを浮かべるだけだった。
「まあいい。それでな、その大工はそう豪語するだけあって実力は確かだったんだ。だから、調子に乗った。『もし造った家が崩れたら、首をはねてもいい』だなんて、愚かなことを口にしたんだ」
「それは愚かだな」
「だろ?」
「慧音と同じくらい愚かだ」
半獣の顔が嫌みに歪んだ。「まさか、天邪鬼のお前に言われるとは」と笑いながらいってくる。「確かに私は愚かだが、正邪よりはましだよ」
「正邪? 誰のことだよ。私はしがない蕎麦屋だ」
「ないのは客だろ」とつまらないことを言った慧音は、「話を戻すぞ」と続けた。戻さなくてもいい、と呟く私の声は、当然のように無視される。
「でもな、その大工にとって、悲劇的なことが起きた」
「なんだよ。不倫がバレたのか?」
「違う。家が崩れたんだよ」だと思った、と私は声に出す。
「確かにそいつの造る家は丈夫だった。だがな、悲劇的なことに、本当に地震と火事と雷が同時に一軒の民家を襲った。すると、その家は呆気なく倒壊したんだ。本当に呆気なかったよ。え、こんな簡単に? と驚くほどだった。この家は豆腐でできていたのか、っていうくらい」
「豆腐で家が作れるわけ無いだろ」
「それはそうだが」
そこで慧音は、目の前に置かれた蕎麦の器を指でつついた。麺はほとんど減っておらず、汁を吸い、ふやけはじめている。早く食べればいいのに、箸を持つ気配はない。
「つまり、私が何を言いたいというと」
「大工にはなるなってことか?」
「慢心していると、絶対にいつか痛い目に遭うってことだ」
はん、と意図せず馬鹿にするように鼻を鳴らしていた。慢心していると痛い目に遭う? そんなこと、言われなくても分かりきっている上に、間違っている。私たち弱小妖怪は決して慢心していなくとも、痛い目に遭うのだ。理不尽に、さも当然かのように蹂躙され、殺される。細心の注意を払ったところで、そうなってしまうのだ。そういう運命なのだ。
「どうしたんだ正邪。そんなにむすっとして」慧音がどこか心配そうに訊ねてきた。
「私の話、つまらなかったか?」
「逆に、どうして面白いと思ったんだ」別に慧音の話がつまらなくてむくれていたわけではなかったが、私はいかにも、お前のせいだと、いわんばかりに指を突きつけた。
「そもそもな、最初の段階で話の落ちが予想つくだろうが。自信過剰な大工がいましたって言われたら、ああ、こいつの建てた家が崩れて、酷い目に遭うんだなって誰でも分かる。単純なんだよ」
「話ってのは単純なもんだろ。そういう物のほうが好まれるんだ。悪い奴がいて、退治されて、終わり。王道だよ」
「そんなことないだろ」
「ある。竹取物語も、桃太郎も、金太郎も、全部単純だ。現実だけだよ、複雑なのは」
「その童話と肩を並べようとするのはさすがに傲慢すぎる。いつか、痛い目に遭うぞ」
確かにそうだな、とあっさり認めた慧音は、伸び始めている蕎麦に箸をつけた。少し口に持っていき、ゆっくり食べ進める。蕎麦をすする音が店内に心地よく響いた。
「それで? どうしてそんな妙な話を急にし出したんだよ。大工にでもなりたくなったのか?」それか、寺子屋を改修しようとしているかのどちらかだと私は踏んでいた。
「違う違う」慧音は苦笑いを浮かべた。
「この蕎麦を食べて、さっきの話を思い出したんだ」
「なんでだよ」
そもそも、思い出した話をすぐさま口に出す神経が分からなかったが、それを口にするのはやめておいた。どうせ、先生だから、とかいう下らない理由に違いない。
「なんでって、それは」
「それは?」
「この蕎麦が、想定しうる最悪の味だったからだよ。なんだこれ。不味すぎる」
「慧音は天邪鬼だなあ」
「お前が言うのか、それを」
困ったように笑う慧音の声が、私の胸を打った。ああ、これが幸福なのか。そんならしくもないことを、その時には考えていた。
だが、幸福というものは簡単に打ち崩されてしまうものらしく、そんな話をした数年後、再び慧音と向かい合っている私は絶望していた。後悔と怒りが頭を支配し、いてもたってもいられなくなる。破壊された扉は直っておらず、隙間風どころか、突風が店に入ってきているが、そんなことすら、どうでもよかった。
「想定しうる最悪だ」私は黙って蕎麦に目を落とす慧音に呟いた。
「慢心したわけでもないのによ」
血塗れで倒れている針妙丸を目にした私は何もすることができなかった。目の前が真っ暗になり、何度もこれは夢ではないか、と疑った。が、当然それは現実で、動かしようのない事実だった。
彼女のお椀は二つにかち割れており、服は血を吸って重くなっていた。彼女の持ち物は全て血まみれになっており、まともに掴むことすら憚られるほどだった。
首筋の太い血管が切れていた、らしい。というのも、気が動転していた私は、あの後必死に針妙丸の名前を連呼し、その後すぐに鶏ガラ! と叫びだしていたそうだ。まったく覚えていないのだが、何度も「全てがひっくり返りますように!」と喚き、何も持っていない手を揺さぶっていたらしかった。控えめに言って、錯乱していた。
不幸中の幸いと言っていいか分からないが、針妙丸は一命を取り留めた。どうやら見た目ほど重症ではなかったらしい。紅魔館ではなく、永遠亭という場所に巫女が運んだらしいが、とにかく、そこにいる腕のいい医者が治療し、無事に完治した、と私は聞いた。が、まだ意識は戻っていない。身体的影響というよりは、精神的被害によるものだと、針妙丸を運んだ巫女が言っていた。純粋なものほど汚れやすい。それは、痛いほど知っていることだった。
あれからどうやって帰ってきたかは覚えていない。気づけば自分の店で眠っていた。いくら春とはいえ、扉がぶっ壊れているせいで、夜風が部屋に入り込んできて体が冷えたが、それでも私は眠った。目が覚めれば、針妙丸が怪我をした事実など消え去り、またいつものように巫女と楽しい生活を送るのだと、私の知らないところで、幸せになっているのだと、そう思いたかった。だが、実際に目が覚めた先にあったのは、なぜか私の店の椅子に腰掛ける人里の守護者の姿であった。寝ぼけていた私は、勝手に入ってきたことを咎めるより早く、「なんで」と口走っていた。「なんで慧音がここにいるんだよ。鬼の世界にいるんだよ」
それを訊いた慧音は、何を思ったかは知らないが、おもむろに私の頬を撫でた。といっても、包帯を巻いているので、正しくは包帯を撫でたといった方がいいかもしれないが、とにかく、彼女は私を励まそうと、優しく接してきた。
「とりあえず、蕎麦でも作ってくれよ」
にっと笑う彼女にそう言われた私は、ここが鬼の世界ではなく人里の蕎麦屋であることを認めると、おずおずと蕎麦を作り始めた。「慧音に励まされるなんて、私も落ちぶれたな」と嫌みを言うことも、もちろん忘れない。
蕎麦を作っている間、私は知らず知らずのうちに、針妙丸が怪我をしたことを彼女に話していた。どうやら慧音もそのことについて知っていたようではあったのだが、私が何か言うごとに「そうか」と相槌を打っている様子から察するに、彼女自身もショックを隠し切れていない様子でもあった。
「まあ、針妙丸なんてどうでもいいんだけどな」
とってつけたかのように、私はそう言った。
「だが、気にくわねえんだよ。あのチビを利用していいのは私だけなんだ。いわば、私の所有物みたいなもんなんだよ。それを勝手に傷つけるってのは、許せねえよな」
そうか、とまた慧音は呟いた。彼女の顔に生気はない。よく見る、絶望したときの顔だ。分かりやすい。
「それは、チーム天邪鬼だからか?」と無理して笑顔を作って訊いてくる。「自分が天邪鬼だと認めるのか?」
「いや、私は天邪鬼じゃない。蕎麦屋だっていってるだろ」
口ではそう言いつつも、私は彼女の口にしたチーム天邪鬼という言葉に思いを馳せていた。輝針城で集まった弱小妖怪の集い。いま思えば、あれは小槌の願いなのか、針妙丸の魅力なのか、はたまた弱小妖怪が傷を舐め合うためにできたものなのかは分からないが、碌でもない集まりなのは確かだ。喜知田と対峙したとき、人里で暴れたせいで、巫女に痛い目に遭わされていないか、と心配になり、そんな自分に嫌気がさす。どうしてあんな弱小妖怪のことを心配しなければならないのか。あいつらのことなんてどうでもいい。他人の心配なんてしている暇はない。そんなこと、分かっているのに。
「いったい誰があんなことをしでかしたんだかな」
なんとなしに、慧音がそう呟いた。声に抑揚はない。まったく感情がない声だった。自然と出たとは思えないほどに、淡泊だ。
「それとも、事故か何かだったのか」
「事故?」
「そうだ。不慮の事故だよ。不慮の事故。不良の自己じゃない」
よく分からないことを言った慧音を無視し、事故、と呟く。その瞬間、開けっぱなしになった扉から突風が入ってきた。普段であれば朝とはいえ、春の風は暖かいのだが、あいにく今日は雨模様のようで、大量の水滴とともに冷たい風が体を突き刺してくる。お前なんて、ここにいてはいけないんだ、と糾弾されているようにも、お前がいたからこんなことになったんだ、と非難されているようにも感じた。
「事故で腹を刺すって、どういう状況だよ」
「痒かったからかいたんじゃないか? 刃物で」
「下らねえ。本当に下らねえよ、慧音」
慧音自身も、本当にそう思っているわけがなかった。彼女の苦痛に満ちた表情を見れば、嫌でも彼女の心情が理解できてしまう。どうせまた、私のせいだ、と自分を責めているのだろう。阿呆らしい。愚かだ。お前ごときがどうこうしたところで、何も変わらないだろうに。思い上がりもいいところだ。だが、それは他でもない自分自身にも言えることだった。そうだ。私なんかが何かをしたところで、どうしようもない。だが、そう分かっていても納得できるはずがなかった。彼女を暗闇に落としたのは、他でもない私なのだから。
「針妙丸が恨みを買うと思えないからな」慧音は蕎麦をすすりながら言う。「誰かに刺されたなんて、考えられないだろ」
「恨みを買わないと刺されたら駄目なんてルールはない。私なんて、恨みを買った覚えもないのにボコボコにされまくってるぞ」
「正邪は恨みを押し売りしているじゃないか」
「私が売っているのは蕎麦だけだ」
「この蕎麦も、ある意味恨みの体現みたいな味だけどな」
「どんな味だよ」
慧音がふっと笑みを零した。それだけで葬式じみていたこの店の雰囲気が緩み、部屋が明るくなったように感じる。
「まあでも、やっぱり誰かに刺されたとは思えないよ、私は」
「なんでだよ」誰か犯人がいると決めつけていたので、否定する慧音が信じられなかった。「他に可能性があるってのかよ」
「あるかどうかは分からない。だが、あり得ないんだ」
「何が」
「博麗神社に入って、そこにいる針妙丸を刺すだなんて蛮行、人間はおろか弱小妖怪がするわけないだろ。強大な妖怪だって、わざわざそんなことはしないし、するとしたら針妙丸はもう死んでいる」
「強者がもてあそんだかもしれないだろ。あいつらは弱者を鞠か何かだと勘違いしている」私がそう言うと、慧音はふるふると首を振った。その顔は醜く歪み、今にも泣き出しそうだ。
「ない。博麗の巫女に喧嘩を売ってまで、そんなことはしないさ。弱者をいたぶりたいなら、そこら辺の妖怪をいたぶるだろ」
「まあな」
「それに、時間も無い。そうだろ?」
逆に、針妙丸を刺すような時間がある奴がいるか、と文句を言おうとしたが、そういうことを言いたかったのではない、とすぐに察した。
「確か、この蕎麦屋に針妙丸と霊夢が来て、帰った後にすぐ霊夢が戻ってきたんだよな」
「そうだが」私は自分で作る蕎麦をすすりながら、答えた。思ったよりも味が薄いが、きっと精神的苦痛のせいで、味覚が鈍感になっているのだと思いこむ。
「というか、なんでそんなことを知ってるんだよ」
「なんでって」慧音は少し早口で言った。「それは、人里の守護者だからだよ」
「私の知っている人里の守護者は、ただ蘊蓄を話す面倒な奴だったはずだが」
「おい。私だって、怒る時は怒るぞ」
ふん、と鼻息をならした彼女は、怒りを隠すためか、一気につゆを飲み干した。
「そんな短期間の間に、博麗神社まで行って、針妙丸を刺して帰るだなんて、無理だろ」「分からんぞ。幻想郷では何があってもおかしくない」
「なら、いつか素直な天邪鬼が見られるかもな」
「それはもはや天邪鬼じゃねえよ」
私のその答えが不満だったのか、慧音は悲しげに眉根を下げた。「おまえはもっと素直になるべきだ」とあり得ないようなことを言ってくる。私はいつだって自分の欲望に素直だというのに。
欲望。私の欲望とは何か。天邪鬼らしく、相手を不快にし、嘲笑すること。そのはずだ。
針妙丸が刺された。なんとも受け入れがたい事実だ。何かの間違いであってくれ、と願う私がいる。こんなの嘘だろ、と悲鳴を上げる私がいる。私のせいか、ともがく私がいる。とにかく、こんな事実は認められなかった。でも、それでも慧音の言うような、事故だとはとても思えない。自分を納得させられない。
視界の端にある針妙丸の写真に目を向ける。満面の笑みの彼女が写っているが、それは文字通り写真の向こうにあるもので、すでに現実では見られなくなってしまったものかのように思えた。隣の奥さんの写真と同じように、すでにこの世から消え去っていったもののように。
店の奥に立てかけられている古びた時計が音を立てた。黄色の塗装が印象的だが、経年劣化のせいか、焦げ茶色の木目が所々あらわになってしまっている。が、よくよく考えれば、その時計はあの男によって燃やされてしまったわけで、つまりはこれは新しく作られた再現品ともいえる。どうせなら新品に変えておいてくれれば良かったのに。
「もう、こんな時間か」
気づけば、慧音も時計に目をやっていた。青白い髪を撫でつけるように掻き、「そろそろ寺子屋に行かないとな」と淡々と言った。
「お忙しいんだな、先生は」
「お陰様でな」慧音は、本当に辛そうに溜め息を吐いた。
「誰かが面倒な噂を流したせいでな」
「あの、死者蘇生の噂か?」
「そうだ」正邪が知っているのだから、相当だな、と呟く彼女の声は低かった。鶏ガラや烏が情報源だと聞いたら、彼女はどんな反応をするだろうか。きっと、苦笑するだろう。情報源が胡散臭すぎる、と。
「どうにかして、それを無くそうとしているんだがな、かえって広まっていく一方だ」
「人間は噂好きなのか」
「というよりも」彼女は心底辛そうに言った。「団結したいんだよ」
「団結?」
「そう、団結だ。人間ってのは、共同体をつくる。一つの目的のために共に行動する時、人間は安心感を得るんだ。だから、喜知田という恩人を生き返らせようと、頑張っているんだよ」
「頑張るなよ」本心でわたしは言った。どうしてあんな奴が人間に慕われているか、理解できない。人殺しだぞ。まあ、私もだが。
「ま、今のうちは大した被害がないからまだいいが、何かあったら大変だからな。今から、少し注意喚起をしてくるよ」
「そうか、寂しくなるな」思ってもいないことを、私は口にした。てっきり、慧音はらしくないな、と指を突きつけてくると思ったが、予想に反し。「そういうと思って」と声を高くした。「代わりを呼んどいたよ」
「代わり? なんのだ」
「私の代わりだよ。私の代わりにそこの扉を直してくれる奴を呼んどいた」
空になった丼を押しつけ、「ごちそうさま」と無理した笑みを浮かべた彼女に続き、店のすぐ前まで出る。相も変わらず天気は悪く、顔に巻かれた包帯に水滴がつき、気持ちが悪い。
「お、ちょうど来たぞ。私の代わりが」
「おまえの代わりになるほど愚かな奴がこの人里にいるのか」
あたりを見渡すも、人の姿はなかった。来てないじゃないか、と呟き、無意識のうちに、ほっと胸をなで下ろす。慧音の知り合いなど、どうせ碌でもない奴に決まっている。それに、人里の人間と一対一で会うことは極力避けたかった。正体がばれるようなことになってしまえば、目も当てられないことになる。
「やっぱり、慧音との約束なんて、誰も守らないんじゃないのか?」
馬鹿にするように片頬をあげ、慧音をあざ笑おうとしたとき、ちょんちょんと肩をたたかれた。振り返るも、そこにはただ扉のない私の店があるだけだ。気のせいかと思いぼんやりとしていると、頭上に風があたる。生暖かい嫌な風だ。冷たい雨に似合わない。嫌な予感がした。
「よお、久しいな。一年振りかな」
見上げると同時に声がした。頭の中に情報が一気になだれ込み、整理がつかなくなる。が、体は咄嗟に動いた。弱小妖怪としての本能が警鐘を鳴らし、視界に何が映ったかを理解するより早く、店の中へと転がり込む。文字通り、無様に頭から突っ込み、ごろごろと転がって入ったのだ。
「おいおい、驚きすぎだろ」
呑気な笑い声が聞こえてくる。が、私はそれに反応することすらできなかった。体を起こし、後ずさりしながら、先ほどの情景を頭の中で整理をする。上を向いた時、まず目に入ったのは白だった。一瞬、雲がそのまま地面に垂れ、私の頭を撫でたのかと思ったが、すぐに違うと分かる。あれは髪の毛だった。
そう理解した時、やっと私の心は落ち着いた。動悸と冷や汗は収まっていないが、それでもまっすぐと前を向き、嫌みに笑う余裕は生まれた。
目の前の、宙に浮いている少女を見る。倒立したまま飛んでいるような恰好で、彼女はニヤニヤと笑っていた。赤いもんぺのポケットに両手を突っ込み、だるそうに足をふらふらとさせている。髪は重力に従い垂れ下がり、顔の大部分を覆っていたが、それすら彼女の魅力を際立たせているように見えた。まあ、ガキのような悪戯をする千歳に魅力も糞もあったものではないのだが。
「天邪鬼が蕎麦屋だなんて、世も末だな」
「殺され屋が繁盛するよりましだろ」
違いない、と笑った妹紅は、なぜか顔を両手で覆うと少し自分の顔に火をやった。その直前、なぜか涙が見えたのは気のせいだろう。
気のせいに、違いない。
「それにしても、お前は冷たいな」
雨に濡れた真っ白な髪を器用にも手から出した炎で乾かしながら、妹紅は眉をひそめた。
「私は最初、本当に死んだと思ったぞ。生きていたなら、教えてくれてもいいのに」
慧音はすでに寺子屋へと向かっていた。その代わりとして呼んだのがこいつだったらしい。確かに人里の守護者の代役には相応しいだろう。強く、人望もある。そして鬱陶しい。人の店に入るなり、店主の悪口を言う奴なんて、まともでないに決まっていた。
「教えるって何をだよ。蕎麦屋の開店セールか? 生憎うちはそんな大衆受けしそうなもんはしてねえよ」
「違うよ。正邪が生きているってことを、教えに来てくれてもいいだろうに」
「誰だよ正邪って。私は知らないな」
私がそう言うと、彼女は少しうつむき、何かを考えるように顎を親指と人差し指で挟んだ。探偵のような仕草に苦笑してしまう。現実で本当にこの仕草をする奴に初めて会った。傲慢で、滑稽だ。
そのまましばらく固まっていた妹紅だったが、がばりと顔を上げると、「なるほど」と小さく呟いた。
「正邪、おまえは一生そのまま隠れているつもりなのか?」
「どういう意味だよ」
「お前はこう考えたんじゃないか? 鬼人正邪が生きているとバレたら、また指名手配される。だから、一生隠れて生きていこうってな。そうだろ? だから、そんな包帯をしてるんでしょ。私にも会いに来なかったし」
「なんの話だ」
「まあでも、私は正邪が帰ってきてるって知ってたんだけど」
え、と思わず声を出してしまい、慌てて口を閉じる。私が帰ってきたと知っている? 冗談にしては面白くなかった。針妙丸は、と声を上げてしまいそうになる。あいつにはバレていないよな、と。
「ほら、おまえ射命丸にぶつかっただろ。結構前に。あんとき、私も側にいたのを覚えているか?」
「ぶつかってねえよ」
「いや、ぶつかったんだ。その時、私はすぐにピンときた。あ、正邪だって」
「なんで」
「なんでって」妹紅は不思議そうに首をかしげた。「普通、分かるだろ」
「え?」
「いくら顔を隠していても、なんとなくで分からないか? ほら、後ろ姿だけでも判別できるだろ。それと同じだ」
「でも、烏も鶏ガラも気づかなかったぞ」
「トリばっかだな」
大声で笑う妹紅に聞こえないように小さく、針妙丸も、と付け加える。
「まあ、鬼人正邪は死んだって思われてるからな。似てるって思われるだけかもしれない」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ。あり得ないって一度思っちゃうとな、その固定概念は中々覆せないんだよ。ほら、あれだ。いっかい足つったら、すぐには直らないだろ? それと一緒だ」
「一緒ではないだろ」
一緒だよ、とこれ見よがしに足を伸ばしてくる。舌打ちをし、床を強く蹴る。なぜだか無性に腹が立った。
固定概念は中々覆せない。確かにその通りだ。鬼人正邪は悪い奴で、そして死んだ。その事実はもはや覆せそうもない。妖怪の賢者の『鬼人正邪は死んだ』という言葉には、それほどの重みがあるに違いなかった。
なら、なんで。なんでこいつは私だとすぐに分かったのだろうか。こいつは、そんな固定概念に囚われないような、柔軟な頭を持っているのか。そう考えていると、考えを読んだわけでないだろうが、「なんで私は気づいたか、って?」と得意げに口を開いた。
「それは単純だよ。あれだ。年の功ってやつだね」
「なんだよ、それ」
「年の功ってのはな、長生きすると色々なことが分かるって意味だよ」
「そういうことを聞いてるんじゃねえよ」
私が大声を出すと、でもなあ、とどこか牧歌的な声を出した。
「正邪、無茶苦茶嫌われていたからね。やっぱり、正体を現すわけにはいかないか」
「嫌われすぎて、指名手配されたからな」まあ、私は蕎麦屋だけど、と申し訳程度に付け加える。
「でもよ、よく好きと嫌いは紙一重って言うじゃん。もしかすると、正邪もみんなから好かれることがあるかもよ」
「ねえよ」そもそも皆から好かれる天邪鬼という言葉自体が矛盾しているように思えた。
「好きと嫌いは正反対ってのはな、そういう時に使うんじゃねえんだ」
「なら、どういうときに使うんだよ」
「逆だよ。好きな奴は簡単に嫌われるって話だ。信じて、勝手に期待して、勝手に失望して、裏切られたと錯覚するんだ。だから、好きと嫌いは紙一重なんだよ」
「夢がない話だな」
「弱小妖怪が夢を見られるわけがないだろ」
「悪い悪い。そういうつもりで言ったんじゃないんだ」これで許してくれ、と懐から袋を取り出し、私に押しつけてくる。許してくれ、なんて命令形で謝罪する奴のものなんて欲しくなかったが、いつの間にか受け取ってしまっていた。
「これ、なんだ?」
「さっきそこら辺で拾ったんだ。いらないからあげるよ」
「お前は拾った物をあげて、本当に相手が喜ぶと思ったのか」
「弱小妖怪にはぴったりだろ」なるほど、確かにその通りだ。
袋の紐をほどき、中を覗く。いったい何が入っているのかと思ったが、なんてことはない、ただの石ころだった。どうしてこんなものを袋に入れているのか理解に苦しむ。どうせ、子供が遊んで作ったのだろう。
「最近人里は何かと物騒だからな」妹紅はここが私の店と言うことすら忘れてしまったのか、椅子に深く腰掛け目を閉じている。「そんなんでも、武器になるかもよ」
「なんでだよ」
「なんでって、石を投げつけられれば、痛いだろ」
「そうじゃなくて、人里が物騒ってとこだよ。そんな話、聞いてないぞ」
ああ、そっちか、と呟いた彼女は、よっ、とかけ声をあげながら勢いよく体を起こし、立ち上がった。
「ほら、お前も知ってるだろ。正邪と入れ替わるようにして喜知田がいなくなったんだ。残念だったな、復讐できなくて」
「だまれ。話を続けろ」
「分かったから、怒るな。それで、まあ人里は混乱したね。最初はすぐに帰ってくるだろうってどこかみな気楽に考えてたけど、甘かった。いつまでたっても喜知田は帰ってこない。そしたら、混乱は加速するだろ。不安が不安を煽り、そして新たな不安が更に不安を生む。悪循環だ」
「それで人里が荒れてんのか」
「そうなんだ。せっかく食糧不足も解決しかけているというのに、最悪だよ。はぐれの妖怪による被害も出てるし、最近では放火魔なんてのも」
「放火魔?」
「そうそう。まあ、そこまで大層なもんじゃないけどね。人里でボヤ騒ぎが頻出してるんだ。誰かの手によって。火そのものは小さいから、そこまで大事にはなってないけど、それでも怖いもんは怖いよ」
おいおい、とつい声を上げてしまう。話が違うじゃないか、烏。
「その放火魔ってのは、人里では話題になっているか?」
「なってるよ。不安の内の一つって感じだけどね」
「烏は放火魔なんて知らないって言ってたんだが」
「あの射命丸が? 嘘でしょ。こんな記事になりそうなことを知らないだなんて、よっぽど忙しいのか」
それか、烏がぽんこつかのどちらかだ。人里で混乱が広がっていることは、少しではあるが肌で感じていた。だが、まさかそんな妙なことをしでかす輩がでているとは。もしかして、この前ここが燃えていたのも、そいつが犯人だろうか。だとすれば、笑える。こんな所まで燃やしに来てくれるとは。感謝したいくらいだ。
そこでふと、一抹の疑問が頭に浮かんだ。案と言い換えてもいい。もしかして、針妙丸を刺したのは、そいつなのではないか。こんな人里の外れまで火を点けてくる奴なのだ。博麗神社にも同じことをしてもおかしくない。そこで、針妙丸に見つかり、咄嗟に手が出てしまった。そう考えられないだろうか。あり得なくはない。むしろ、真に迫っているのではないか。
「まあ、そんな情勢だから、人が生き返るかもしれない、だなんて妄言を信じちゃうんだと思うよ」
妹紅は、少し悲しげに言った。
「私だって、死ねるかもしれないって言われたら、どんなことでもやっちゃうし」
「慧音に怒られるぞ」
「それは困る。死ぬより辛いね」
ハハ、と乾いた笑い声を上げた妹紅は、「なら、怒られる前に仕事をしちゃうか」とどこから取り出したのか工具を机に広げた。トンカチや螺子が大量に入っている箱だ。
「壊れた扉、直すよ。そのために来たんだ」
「そういえばそうだったな」
「なんで忘れてるのさ」
螺子を手の上でくるくると回しているさまは、こういった大工紛いのことにも慣れているようにも感じた。これも、年の功なのだろうか。
「本当に、お前に直せるのか」
「当たり前だ」彼女はふふんと胸を張った。見栄を張っているというよりは、あふれ出る自信を隠しきれないといった様子だ。
「私、こういうのは得意なんだよ。火事と地震が同時に起きて、その後に雷でも落ちない限り、大丈夫だ」
「え?」
「ま、むかし本当に同時に起きて、家が崩れた時もあったんだけどな。そんなことはもうないだろ。だから、大丈夫だ」
「お前かよ」私は笑みを隠すことができず、震える声で言った。
「そういうこと言うから、首をはねられるんだ」
なんで知ってるんだ、と目を丸くする彼女を前に、慢心は駄目だ、と嘯く慧音の言葉を何度も頭の中で反響していた。