「この世に完璧な人なんていないわよ」
いきなり現れたそいつは、気取った態度でそんな青臭い言葉を嘯いた。
「もしあるとするならば、それはきっと妄想ね」
普通の相手であれば、私はその言葉を馬鹿にして、鼻を鳴らし、嘲り笑っただろう。そこらのガキが少し穿った見方をしているかのような詭弁だ。そんなことは言われなくても誰もが分かっているし、一々指摘されるまでもなく実感している。それをわざわざ口に出している時点で、心のどこかで完璧なる存在が実在していると信じている証拠だ。普通であれば、そう文句を言い、揚げ足を取り、天邪鬼らしく悦に浸っただろう。蕎麦屋としても、同じことを言ったと思う。完璧な蕎麦なんてない。これもまた事実だった。
だが、そんな恥ずかしい台詞さえ似合う奴が、幻想郷にただ一人だけいた。それを口にしてもいい権利がある奴がいるのだ。それが、私の店に勝手に入ってきた、幻想郷の賢者だった。
いきなり店に来た、というよりはいつの間にかいた八雲紫は、その金色の長い髪を右手で撫でた。白い手袋と陶器のような肌を見ていると、催眠術にかかったかのようにくらくらとする。自分の店にもかかわらず、恐縮していると、彼女は「完璧な存在なんていないのよ」ともう一度繰り返した。
「まあ、私は完璧なのだけれど」
「矛盾してるじゃねえか」
その答えを予想していたのか、彼女は自慢げに小さな矛と盾を取り出し、手の上でくるくると回した。小さいが、その両方が高価で、私なんかでは手が出せない。そんな物だ。そんな金があるなら、人里に流してやればいいのに。そうすれば、小魚だって追われずにすんだはずだ。そう考えたが、すぐに首を振る。八雲紫がそうしないということは、意味がないのだろう。彼女のやることには全て意味がある。それは、痛いほど知っていた。
昨日、小魚を助けた私は、本来の目的である情報収集を諦め、店に戻った。そして、いつの間にか眠っていた。昼間っから眠ってしまったからか、深夜に目が覚め、どうしようかと考えていると、いきなり八雲紫が現れたのだ。私がちょうど厠から出てきたのと同時だった。それすら、八雲紫の計算の内のように思える。不気味で、恐ろしい。
「私の知り合いにね、完璧に近い子がいたのよ」椅子があるにもかかわらず、わざわざ空間に切れ目のような物を作り、そこに腰掛けた八雲紫は悠々と口を開いた。
「でも、その子はね、自らの重みに耐えきれず、結局は破滅してしまったの」
「だから、何の話だよ」
「あら? 分からないのかしら?」
分からないから聞いているのだ。そんなことすら分からないのか。
「私はね、誰にだって間違いがあるって言いたいのよ。どんなことにも不都合はあるし、誰だって誘惑に負けることだってある。だから、それを責めるのはお門違いってことよ」
「だから、なんの話を」
「私はあなたに言っているのよ」
ぴしゃりとそう言い切った彼女の声に抑揚はなかった。声こそ小さいものの、有無を言わさぬ威圧感がある。大妖怪特有の、嫌なプレッシャーだ。
「慧音もそうだけどね、あなたは自分を責め過ぎなのよ。あなたの手はそんなに大きくないということを自覚しなさい。それは、あなたの仕事ではないわ」
「いったい何が言いたい」
「昨日、人魚に会ったでしょ。霧の湖の」
こみ上げる驚きを隠すために、口に力を入れた。そうだ。こいつは幻想郷の賢者。いったい私が何をして、誰と会っていたかなんて、すぐに分かる。驚くほどではない。そう言い聞かせるも、唇の震えは隠しきれなかった。なんで知っているんだ、と叫びたくなる衝動に駆られる。
「あなた、もしかしなくても、彼女を救おうだなんて思ってないわよね」
「すくうってのはあれか? 金魚すくいみたいにか?」
「違うわよ」彼女はくすりともせず、言った。「針妙丸と呼ばれた小人と同じように救おうだなんて、考えてないかって聞いているのよ」
「もちろん」そんなこと、考えていない。そのはずだ。だが、どういうわけか、言葉が続かなかった。もちろん考えていない。そう言えばいいだけなのに、できない。誤魔化すように大きく咳払いをするも、かえって白々しくなるだけだった。
「無理よ」そんな私を見たからか、八雲紫はにべもなく言い切った。
「諦めなさい。完璧に全てを救うだなんて不可能なのよ。あなただって知っているでしょ。誰かを救えば誰かが傷つく。そういう風になっているのよ、この世界は」
「世界、ね」やけに大仰な言い方をする彼女が気に障った。「弱小妖怪が損をして、大妖怪が得をする世界だと、確かにそうかもしれないな」
「無理なのよ。たった一匹の妖怪が全てを救おうとすれば、最悪の結果になる。だから、あなたも止めときなさい」
「お前は馬鹿だなあ」
巻いている包帯を強く引き締める。そうすることで、浮かんでいた表情が消えるはずだ。
「この私が全てを救う? 正義のヒーローじゃねえんだから、そんなことしたくねえし、できないだろ。むしろ、私は全てを壊す方ほうだな。それこそ、下克上とか」
「正義のヒーロー。いいじゃない。似合ってるわよ。誰かが窮地に陥っている時に、助けに来たぞ、って決め台詞を言いながら颯爽と登場したりするのね」
「ねえよ。私だったら、殺しに来たぞっていうな」
素直じゃないわね、とニヤつく八雲紫を無視し、部屋の奥にある時計を見る。時刻は既に午前三時を回っていた。体内時計がずれたせいか、それとも寝過ぎてしまったからか頭が痛い。いや、きっと八雲紫に出会ってしまったせいだ。そうに違いない。
「というより、そんなことを言うなら、お前がなんとかしろよ」
「なんとか?」
「人里の現状だよ。中々やばいことになってんぞ」
「あら、あなたがそれを言うのかしら」心底楽しそうに彼女は笑みを浮かべた。真っ白い肌に綺麗な紫の瞳が不気味に光る。
「あなたを助けたのは他でもない私よ。鬼の世界から助けたのは私。なのに、それ以上私に何かを頼むというのかしら?」
「そうじゃねえけどよ」
「なら、いいじゃない。文句は受け付けないわ」
「でもよ」
文句は受け付けない、と言われ、はいそうですかと納得するほど私は優等生でいるつもりはなかった。
「でも、約束とちげえじゃねえか」
「約束?」
「針妙丸を幸せにする権利がうんぬんって約束しただろ。なのに、あいつ」
彼女の、傷ついた姿がありありと思い浮かんだ。首筋から血を流し、仰向けで倒れている哀れな少女の姿だ。首をぶんぶんと振るも、その姿は消えない。一生忘れることはできないだろう。
「あいつ、刺されたぞ。約束と違うじゃないか」
「まだ刺されたと決まったわけじゃないわよ」
「なんだよ。お前も慧音みたいに、事故だとか何だと言うのか」
「まだ、調査中ってとこかしらね。それに、私は約束を破った覚えはない」
「は?」
「あの小人の幸せが何か、あなたに分かるのかしら? 分からないでしょ。だから、間違っていないのよ」
は? ともう一度繰り返す。こいつは何を言っているのだ。確かに幸せなんて分からないが、少なくとも首の血管を切られ、死にそうになることが幸せだとは到底思えなかった。
「おまえ、それ本気で言っているのか?」
「私はいつだって本気よ。冗談は嫌いなの」
「だとすれば、お前の頭が心配だ」
私の嫌みに彼女は一切の反応を見せなかった。親しみなんてもってのほかで、威圧感で私を殺そうとしているようにも思える。何もしていないにもかかわらず、土下座して謝りそうになるくらいには、恐怖を感じた。
「なら、逆に訊くけど、あなたはいま幸せなのかしら?」
「は?」
「どうなのかしら」私がいま幸せかどうか、そんなの決まっていた。
「幸せに決まってるだろ」
「へえ」八雲紫は、意味ありげに眉を下げた。無性に腹が立ち、自然と語気が強くなる。
「指名手配もされず、誰にも罵倒されず、住処と食料に恵まれた環境がある時点で、弱小妖怪からしたら夢みたいに幸せなんだよ。それこそ、死んでも離したくないほどな」
「本当にあなたはそれで幸せなのかしら」
やけに挑発的な笑みを浮かべ、扇子を突きつけてくる。
「天邪鬼にとっての幸せは嫌われること、とか言ってなかったかしら?」
「私は蕎麦屋だ。天邪鬼なんて知らねえよ」
場の空気が嫌に冷えた。春とは思えないほどの冷気が体へと入り込んでくる。にもかかわらず、汗が止まらない。原因はすぐに分かった。八雲紫が明らかな敵意を向けてきているのだ。あの八雲紫が。
「せっかく助けてあげたのに、これでは面白くないわ」
「面白い蕎麦屋は目指してねえんだ」おずおずと言うも、言葉尻は消え入るように小さくなってしまう。恐怖のせいで足はガクガクと震えている。
「そう。なら聞き方を変えるわ。あなたは天邪鬼にとっての幸せって何だと思うかしら」
なんでそんなことを聞くのか。というより、恐ろしいからその殺気を消してくれ。そう口にしようとするも、言葉が出てこない。彼女の質問には答えなければならない。弱小妖怪としての本能が、そう警鐘を鳴らしていた。
「天邪鬼の幸せ、か」妖怪の賢者からの威圧感は未だ続いている。が、ふしぎと笑みが浮かんだ。天邪鬼が幸せになることなんてあり得ない。もし、強いて言うのであれば
「天邪鬼はな、幸せになれないことが幸せなんだよ」
「なによそれ」場に漂っていた冷たい空気がふっと緩んだ。「意味が分からないわ」
「いつものお前のほうが意味わかんねえよ」
「失礼ね」
「いつものお前の方が失礼だ」
むっと口をつぐんだ妖怪の賢者を無視し、言葉を続ける。威圧感は既に消え去っていた。
「言葉の通りだ。天邪鬼はな、蔑まれ、馬鹿にされ、嫌われてなきゃならねえんだ。それが幸せなんだよ。ほら、よく言うだろ。憎まれっ子世にはばかるって。普通に考えれば分かるだろ」
「それ、普通じゃないわよ」
「普通だ」これだから強者は、とため息が出る。だが、そんな私を小馬鹿にするように笑った八雲紫は、「普通はどんな時に幸せを感じるか、知っているかしら」と得意げに言ってきた。
「それは何か? 哲学か?」
「何でもかんでも哲学という言葉で概念化しては駄目よ。もっと一般的なこと。例えば、美味しい物を食べた時、たくさん寝た時、子供が成長した時」
「お前の場合はあれだな。相手が苦汁を舐めている時だ」
「嘘ばっかり」
嘘ではない。そう抗議するものの、彼女は聞く耳をもたなかった。どうせ、彼女の中では予め答えが決まっているのだろう。さすが大妖怪。傲慢だ。吐き気がする。
「私はね、一番幸せを感じる時は、やっぱり親しい人に会った時だと思うの」
「は?」
「どんな存在でも寂しさを感じるのよ。だから悪党だって徒党を組むし、一匹狼だってウサギと仲良くする。そうでしょ?」
「そうでしょ、と言われてもな。それを私に聞くのか」親しい奴なんて、誰もいない私に。「それに、お前はどうなんだよ。あの幻想郷の賢者様にも寂しいだなんて感情はあるのか?」
「もちろん」
彼女はわざとらしく眉根を下げた。およよ、とか弱い乙女のような泣き声をあげ、体を縮こませている。控えめに言って、気持ち悪かった。
「私だって、寂しいと思う時はあるわ。本当に親しい人というのは、同じ立場じゃないと作れないのよ。管理者、リーダーで、なおかつ馬の合う輩なんて、それこそ指で数えるほどしかいないけどね」
「指で数えるほどはいるんじゃねえか」
「いる、というよりは、いた、と言った方がいいかもしれないけれど」
私と同じ立場で、親しい奴。想像するも上手くいかなかった。なぜか頭に浮かんだ針妙丸の顔をすぐに消し去る。あいつとは親しくもなければ、同じ立場でもない。
「最近は人里で不安が広がってるでしょ? だから、誰もが親しい奴に会いたがっているのよ。もう会えないに決まっているのにね」
「それって」
「例の噂ね。死者蘇生の。まあ、大概の連中は喜知田を生き返らせようとしているみたいだけれど」
「何でだよ」
八雲紫の無茶苦茶な論理に溜め息が出る。彼女の言うことが正しいのであれば、喜知田は多くの人々と同立場で、親しいということになるではないか。あいつが? あり得ない。
「というより、その噂を何とかしろよ。珍しい妖怪の血が必要だなんて、悪趣味にもほどがある」
「そんなこと言われても、私が噂を流したわけではないから」
「お前なら、あんな噂をなくさせることぐらいできるだろ」
「どうしてなくす必要があるのかしら?」
「そりゃあ」そこまで言って、私は言葉を詰まらせた。どうしてか。根拠のない噂で人里を混乱させるのはよくないことだから? それで小魚が痛めつけられたから? 冗談じゃない。先ほど、自分で言ったじゃないか。私は正義のヒーローなんかじゃないのだ。そんな噂が出回っていたところで、私には何の影響もない。
「あの噂、最初とは随分変わって尾ひれがついているけれど」
「小魚だけにか?」
「けど、結果的にいい方に向かっていて、よかったわ」
「よかった?」人里が混乱しているのに、幻想郷の賢者がよかったというだなんて、信じられなかった。
「ええ。だって、希少な『妖怪』の血が必要となったんですもの。ま、人間の血が駄目だったから、そういう変化をしたのでしょうけれど、人里内で争いが起きるよりは百倍ましだわ。それに」
「それに?」
「不満のはけ口になる」
ああ、と私は納得してしまった。
「風船にずっと空気を入れていたら破裂するように、不満もずっとため込んでいたら、爆発してしまうのよ。それを妖怪にぶつけるのは理想型よ。人間だって理性は、良心はある。どんなに相手が弱くとも、理由がなければ、一方的にいたぶったりはできないわ」
「そんなことなかったぞ」
「あなたの場合は理由しかなかったでしょ」
呆れているのか、扇子を広げて口許を隠した八雲紫は、とにかく、と短く言った。
「人里のために誰かを生き返らせられる、という大義名分を得た彼らは、うちに巣くった不満を外に吐き出せるのよ。珍しい妖怪を見つけて、捕まえて、いたぶって、血を流させることによってね」
「いつかしっぺ返しが来るぞ」
「そうね」彼女は当然と言わんばかりに頷いた。「初めは珍しくて弱い妖怪を虐めるでしょう。が、いつか無謀な愚か者が、強い妖怪、それこそ天狗なんかに手を出すかもしれない。そうすれば、願ったり叶ったりって感じよね」
「なんでだよ」
「そうすれば、妖怪に対する恐怖感も増すでしょ? 私たちは、恐れられることによって存在できるのだから」
そういうもんなのか、と私は分かったかのように頷く。が、まったく理解していなかった。妖怪は恐れられることによって存在できる。もしそうならば、私はどうなるのだ。人に恐れられたことなんてないぞ。だが、そう口を挟むより早く、彼女はもっと癇にさわる言葉を言い放った。
「だから、その人魚が傷ついたのも、ある種必要経費だったのよ。残念だけれど、諦めなさい。全体を考えれば、それがいいのよ」
「おまえ」
「それにね」なぜか悲しそうに眉をハの字にした彼女は、「これは友人の日記に書いてあったのだけれど」と虚空を見上げた。
「人っていうのは、上げてから落とされると余計に辛さを感じてしまうらしいのよ」
「どういうことだよ」
「期待を裏切られれば、余計に腹が立つってことよ」
「鶏ガラも同じようなこと言ってたぞ」
「だから、気をつけなさい」
そう諭すように、ゆっくりと噛み含めて言った彼女は、言いたいことは言ったとばかりにいきなり姿を消した。そう。消したのだ。瞬きしている間に、彼女は視界から消え去っていた。八雲紫なんて、初めから来ていないのではないか。本気でそう思うほどに、一瞬だった。
「無茶苦茶だ」
いったいなんだったのだろうか。あいつはわざわざ私に妙な忠告をするために来たのだろうか。だとすれば、笑える。やっぱり、暇なんじゃねえか。
嫌な予感がしたのはその時だった。どすん、と感じたことのある振動が体を包んだ。初めは気のせいかと思い無視していたが、段々とその衝撃は強くなっていく。八雲紫の悪戯かとも疑ったが、さすがにそこまで幼稚ではないだろう。ということは、だ。心当たりなんて、一つしかなかった。
慌てて扉の元へ向かい、鍵を開ける。と同時に巫女が飛び込んできた。全身をぶつけるようにして扉に突っ込んだからか、勢いよく開き、大きな音を立てる。だが、幸運なことに扉は無事だった。妹紅の自慢げな笑みが頭に浮かぶ。
「おいおい、いま何時だと思ってんだよ」
焦っていたからか、私はそんなことを巫女に問い詰めていた。
「近所迷惑だろうが」
「そんなこと、どうでもいいのよ!」
珍しく巫女は焦っていた。よく見ると、彼女の服装はいつもと異なっている。例の、赤を基調とした妙ちくりんな巫女服ではなく、白い浴衣を羽織っている。寝起きにもかかわらず、必死に来たのだろう。でも、理由が分からなかった。
「おいおい落ち着けよ。今は閉店中だ。蕎麦なら明日にしてくれ」
「蕎麦なんてどうでもいいのよ」
「よくねえよ。蕎麦より大切な物があるか」
「時間とか」
彼女は膝に手を置き、息を整えていた。らしくない。
「なんでそんなに慌てているんだ。急いでも、ただ疲れるだけだぞ」
「いいじゃない疲れても。時間の方が大事よ」
「そうか?」
「そうよ」
なぜか巫女は強気だった。自分の言葉が正しいはずだと、縋っているようにも見える。
「時間ってのは、過ぎちゃえばもう戻らないでしょ? でも、体力は休めば回復するじゃない」
「だから何だよ」
「人ってのは、もう手に入らない。元に戻らない物を優先するのよ」
「時は金なりって言うだろ。時間はお金で買えるんじゃねえのか?」
「買えるわけないじゃない」彼女は息を切らしながらも鼻で笑うという高度な技術を見せてきた。
「一番大切な物は、お金で買えない物なのよ」
「それ、聞かせたい奴が一人いたぜ」
誰よ、と訊ねてくる彼女を無視し、店の奥で寝直そうと後ずさりすると、巫女が手を掴んできた。
「なんだよ」
「いいから、着いてきなさい」
「なんでだよ」
いつも冷静で、冷徹な博麗の巫女も人間なのだな、とそんなことを考えていると、ばっと顔を上げた。驚き、少し後ろに下がると、彼女は胸を大きく膨らませ、叫んだ。
「針妙丸が目を覚ましたのよ」
常識的に考えて。
度々使われるこの言葉だが、あまりいい意味で使われることはない。お前、なにやってんだよ。そんなこと、常識的に考えれば分かるだろ。そんなお叱りの定型句になっている。だが、残念なことにその常識とは酷く曖昧で、各々によって異なる。だから、こう言われた時、大抵の者はこう思うだろう。そんな常識、知ったことではない、と。
だが、ただ一つ言えることがあるとするならば、頸動脈を切られたというのに、「よく寝たー」と呑気に欠伸をするようなことは、絶対に常識的ではないということだ。
やけに焦っていた巫女に連れられ、私は博麗神社へと来ていた。針妙丸は、すでに体の傷はあらかた治っているらしい。だからこそ、永遠亭なる場所から博麗神社に移され、寝かされているのだ。巫女がつきっきりで看病していたらしい。巫女のいる神社は間違いなく幻想郷で一番安全な環境と言ってよかった。
未だ太陽は顔を出しておらず、決して子供が起きていていい時間ではなかったが、それでも針妙丸は起きていた。小さな布団の上にちょこんと座っていた彼女は、遠くから見れば人形のようにしか見えない。それほどまでに、顔は青白い。動悸が激しくなった。どこか、精神的に壊れていないか。暗い影が心を覆い尽くしていないか。そうやきもきしていると、私の顔を見た針妙丸は、眠そうな声で言ったのだ。
「よく寝たー。でも、まだねむいかも」
「え?」
「あ、おはようれいむ。あれ、なんで蕎麦屋さんがいるの?」
そう首をかしげる彼女の目には一寸の曇りもなかった。誰かに首を切られたというのに、恐怖心すら覗かせていない。謎だ。あの小魚ですら震えていたのに。
「ねえ針妙丸」博麗の巫女も同じことを考えたのか、どこか怯えたような声を出した。
「あなた、体はもう大丈夫なの?」
「からだ?」
「首とか、痛くない?」
「全然痛くないよ」
そう笑った針妙丸は、これ見よがしに首をぱちんと叩いた。傷一つ無く、綺麗なままだ。
「ごめんなさい、針妙丸」
だが、笑顔の針妙丸とは対照的に、巫女の表情は優れなかった。あの巫女がはらはらと涙を流してさえいる。鬼の目にも涙。巫女の目にも涙、だ。
「本当にごめんなさい」
「なんでれいむが謝るの?」
「本当にごめんなさい」
そう何度も繰り返しながら、巫女は針妙丸の肩をそっと抱いた。そのままおいおいと泣き続けている。当の針妙丸といえば、苦しいよー、と文句を言いつつも、満更でもなさそうに苦笑いしていた。時々助けを求めるようにこちらを見てくるが、無視する。感動的だな、と小さく呟いた。なんて素晴らしい絵面なのだろうか。一人の少女が、幼き妖怪の身を案じ、号泣している。新しく映画にできそうなほどに感傷的だ。下らない。あまりの馬鹿馬鹿しさに、苛立ちすら感じた。
「おいおい、私はお前らの抱擁を見せつけられるために呼ばれたのかよ」
その苛立ちをぶつけるつもりはなかった。だが、意図せず語気が強くなってしまう。
「ポップコーンを食べながらハンカチで目を拭えばいいのか?」
「ぽっぷこーん?」
「なんでもねえよ」
どうしてこうも腹が立つのか分からず、後ろを向き、草履を乱暴に脱ぐ。土足で上がり込んでやろうとも思ったが、別段何も言われなさそうなのでやめた。
巫女は中々泣き止まなかった。大声で泣きじゃくっているわけではないが、ずっと涙をこぼし、謝っている。その滑らかな黒髪を針妙丸が微笑みながら撫でていた。これではどちらが小人か分かったものではない。
「別に、巫女が謝る必要はないだろ」嘲笑しようにも上手くいかず、馬鹿にしようにも笑えなかった私は、ぶっきらぼうに言った。「謝られても、そのガキも困るだけだ」
「そうだよ、れいむ。私は大丈夫だから」
「大丈夫って、丸二日寝てたんだぞ、お前」
「え、そうなの?」どうしよう、と眉をハの字にした。
「もしかして、おもらしとかしてた?」
巫女がふっと息を漏らした。泣いていいのか笑っていいのか分からず、微妙な顔つきになっている。
「心配するの、そこかよ」
「え、どうなのれいむ。わたし、おもらししてたの?」
あせあせとその場で地団駄を踏んだ彼女は、博麗の巫女の手から抜け出し、掛け布団をばさりと広げた。そして、濡れていないことに気がつくと、よかったー、と今日一番の笑みを浮かべる。
「おもらししてたら、恥ずかしくて死んじゃうとこだったよ」
「おもらししてなくても、死にそうだったぞ、お前は」
そうなの? といつものように針妙丸は霊夢に首をかしげた。だが、博麗の巫女はいつもとは違い、鬱屈とした表情でごめんなさい、と謝るだけだ。さすがにくどい。
「もういいだろ、博麗の巫女。いっぺん頭を冷やしてこい。霧の湖にでも行けば死ぬほど冷やしてもらえるぞ」
もちろん、私は冗談のつもりだった。だから、「そうするわ」と巫女が腰をあげた時、心底驚いた。自分で言っておきながら、本当に? と聞いてしまうほどに。
「ごめんなさい、後はよろしく」と囁き、巫女はゆらゆらと外に出た。早朝の冷たい風が本殿へと入る。巫女のいない神社に針妙丸と二人でいるだなんて、どこか空想じみていた。
「なあ、チビ」
「チビじゃないもん」
「お前、覚えているか?」
口を開いたものの、いったい何について聞いているのか、私自身でも分からなかった。もしかすると、鬼人正邪についてどのくらい覚えているのか、と聞きたかったのかもしれない。だが、咄嗟に言葉を変えた。
「お前、どうしてしばらく寝込むことになったか、覚えているか?」
「どうしてって」
「首を斬られてたんだぞ。血を流して。いったい誰にやられた」
え、と変な声を出したのは針妙丸だった。なぜ彼女がそんな声を出すのか分からない。
「実は、よく覚えていないんだ」しばらく体を揺すり、考えていたが、結局は観念したのか小さくそう言った。「なんか、頭がぼんやりとしてうまく思い出せない」
「そうか」針妙丸の答えを聞いた私は、どこかで落胆を覚えていた。彼女を傷つけた奴が分からないことが、むず痒く、情けない。
そんな私をぼんやりと見た彼女は、少し寝ぼけているのか、のんびりとした声で、「私には夢があるの」と言った。私ではなく、どこか遠くの誰かに言っている様子だ。
てっきり、さっきまで寝ていた時に見ていた夢の話でもするのかと思ったが、違った。子供が持ちがちな、将来の夢のほうの夢だ。くだらないほうの夢だ。
「わたしはきっと、正邪がみんなを助けてくれると思うんだ」
いきなり出てきた正邪という言葉にどきりとする。そして、どこかで聞いたことがあるな、と記憶の中をいつの間にか辿っていた。確か、妹紅と出会う直前だったはずだ。
「それでね、正邪が人里のみんなから感謝されて、けいね先生にもほめられて」
「それは無理だろ」
「やっぱり、蕎麦屋さんもそう思う?」死んだ奴の話をしているはずなのに、なぜか針妙丸は愉快そうだった。「正邪がけいね先生に褒められるだなんて、ありえないもんね」
「そこじゃねえよ」
私がいいか、とたしなめようとすると、それを遮るように針妙丸が声を挟んだ。人の話は最後まで聴くと、慧音から教わらなかったのだろうか。
「それより、なんで蕎麦屋さんは神社まで来たの?」そんな私の苦悩など知らない針妙丸は、怪我明けだというのに元気な声を上げた。そもそも怪我をしたということすら知らないのだろうか。
「もしかして、参拝に来たの?」
「そうだ」そんなわけがない。どうしてこんな辺鄙で、妖怪が住まう神社に参拝しなければならないのだ。そこまで考え、そういえば、と思い出した。
「そういえば、博麗神社って他に住んでいる妖怪はいないのか?」
「え?」
「お前と巫女の二人でずっと住んでいたのかって聞いてるんだよ。他にも住んでいる奴っているか?」
「あ、ああ」やっと合点がいったのか、針妙丸は深く頷く、と同時に嬉しそうにニコニコと微笑んだ。
「いつもいるわけじゃないけど、たくさん来るんだ。みんな優しくて、面白いよ」
「そうか」
「だから、毎日が楽しいの」
この前は鬼にもあったの、と中々に危ういことを言っている彼女は、どこからどう見ても幸せそうに見えた。その向日葵のような笑みも、大げさな身振りも、間違いなく本心からくるものだろう。だが、不思議と私の心には不安がうごめいていた。巫女の言葉が頭に浮かぶ。絶望というのは分かりづらい。本当にそうなのだろうか。
「なあ、針妙丸」気が抜けていたからか、いつもは意図的に低くしている声も、少し高くなっていた。
「おまえ、幸せか?」
しあわせ? と鸚鵡返しにした彼女は、なんとなしだろうが、後ろを振り返った。振り返って、顔を青ざめさせた。分かりやすいくらいに動揺し、肩をわなわなと震わせている。
いったいどうしたのだろうか。何か喉に詰まらせでもしたのかと思い、声をかけようとすると、勢いよく針妙丸が振り返った。その目には涙が浮かんでおり、口は真一文字に結ばれていた。大声で泣き出すのを我慢しているのがばればれだ。
「ねえ、蕎麦屋さん」
「なんだ」
「さっき、私に幸せかってきいてたけど、私は幸せじゃないよ」
そう言うや否や、彼女は私へと思い切り飛び込んできた。勢いに耐えきれず、そのまま尻餅をついてしまう。痛みよりも、懐かしさを感じた。こいつに押し倒される日がまたくるだなんて。嬉しくないな、と呟くも「壊れちゃった」とぐずる小人の声にかき消される。
「壊れたって、何がだよ」
「あれだよ、あれ」
私を見上げる彼女の顔は、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになっていた。大きな瞳に私の顔が映り込む。あれ、と指を指しているにもかかわらず、私はしばらく彼女の顔から目が離せなかった。紫色の綺麗な髪も、あどけないその表情も、やはり一年前から何一つ変わっていない。まったく、とため息が出る。少しは成長してくれよ。
私の甚兵衛に顔を埋め、思いっきり涙と鼻水を拭った彼女は、真っ赤に腫れ上がった目で私を見つめ、「私のお椀が」と悲しげな声を上げた。
「お椀?」
「いつも被っていたお椀が割れちゃってるの!」
なんだそんなことか、と口に出しそうになる。目を向けると、確かに割れた茶碗が転がっていた。
「何だよ、大事な物なのか?」
「そりゃそうだよ」彼女は喚きながら泣き言を並べた。「先週買ったばかりなのに!」
「なんだよ、普通に買えるのかよ」
なら、いいじゃねえか。私は思わずそう呟いてしまう。
「お金で買える物は大切な物じゃないらしいぞ」
そんなことないもん、と頬を膨らませる針妙丸の姿は、なぜか勇ましく見えた。