「では、乾杯!」
幹事の掛け声で、大凡十五、六人での飲み会が始まります。
あちこちでグラスを打ち付け合う音が響くのですが、友達との飲み以外で同年代とのこういう会は初めてで、中々その輪に入れずおろおろしてしまいました。
この会主催の幹事のユウさんは、校内新聞というか、学内発行雑誌の編集をなさっているようで顔が広く、今回の面子は殆どが初対面というか、各地方から進学してきた人達が集められたようです。
かくいう私も、単身新潟から出てきて友人も少なく、札幌での生活も一年以上経ちますが、慣れた雪掻き以外には、未だに馴染めない感じが強いです。
この中で知っている人はというと、今回誘ってくれた友達のサナちゃんと、その際お会いしたユウさん。後は、名前は分かりませんが同じ学科の綺麗な子と、何より私が密かに心を寄せている泉コウスケさん。そして彼の双子のお姉さんのチサキさんです。
私が今回、飲み会に出てみようと思ったのも、コウスケさんとお話しできればいいなぁ、という下心からだったりします。
コウスケさんとはバレーボールの講義で一度、心理学の講義で何度か一緒になったことがあるのですが、とても優しく、温和な方です。
鈍臭い私がバレーボールで失敗しても、嫌な顔一つせずにアドバイスをくれますし、一緒に練習もしてくれます。ゲーム中も、常に動けるような場所にいて、ちょっと変なところにボールが上がってもなんて事無いように、自然にフォローを入れてくれました。
得点すると子供のようにはしゃぐのですが、なんというか、その中にもお淑やかさというか柔らかさがあって、見ているこっちも楽しくなってきます。
体を動かすのがとても得意みたいで、ジャンプ力もとても高いですし、とても視野が広いなあ、と思います。
凄いスピードのスパイクを打つ時もあれば、空いているスペースに優しくボールを落とす時もあって、相手の方は随分苦労していたようです。
後は、頭もいいなぁ、と思います。
講義中はよく、講義に関係ない事をしているのですが、何か質問されれば的確に答えますし、その言葉の選び方や文章の構成は、そっちが専門の私自身もとてもよく関心させられます。
話がとても分かりやすく、難しい専門用語などをなるべく抜きにして、誰が聞いても分かるように話すのです。
かといって優しすぎるものでもなく、これまでの講義で出てきた用語はきっちりと抑えられているものですから、関係ない作業を咎めようとした教授もついつい感心しているように思えます。
何より私を気に掛けてくれるのが嬉しいのです。
講義で一緒になるのは、学部も違う事もあって週に一、二度だけなのですが、それ以外でも、例えば学食で目が合うと微笑んでくれますし、廊下ですれ違うと、手を振ってくれます。言葉の遣り取りこそ少ないのですが、そうした小さな交流で心がとても暖かくなるのです。
誰にでもそうなのだとは、彼の人気の高さから分かっているのですが、私も彼らと同じく、彼を好いてしまった一人です。
仕方ないですよね。
サナちゃんには日常的に相談していて、今回サナちゃんがユウさんから誘われた事で、サナちゃんから私も誘われた次第になります。
それで、参加したは良いのですが、コウスケさんと席は遠くなってしまいますし、他の男性の方はなんだか圧が凄くて物怖じしてしまった次第です。
頼みの綱のサナちゃんですが、彼女は彼女で幹事のユウさん狙いらしく、じゃ後は頑張って、と言い残して去っていってしまいました。
そうなってしまうと私はもう、借りて来た猫。置物同然の存在です。
いつのまにか男性に隣を陣取られてしまい、私は身動きが取れません。
「ねえ、名前なんていうの。どこ出身?」
「あ、新潟、です」
「名前は?」
「......ユイです」
今まで体験した事の無い距離の近さに、なんだか無性に恥ずかしくなってしまいしどろもどろになりながら答えます。
その事すら恥ずかしく感じてしまい、顔に強く熱を感じていると、その男性は更に距離を詰めて来ました。
「うん、確か新潟ってお酒有名だよね。結構いける口だったりするのかな」
生温かい吐息が、私の首に掛かります。
「いえ、そこまで強くは......」
そもそもそんなへろへろになるまで飲みませんから、強いかどうかも分かりません。
吐息は既にお酒の匂いを強く含んでいて、感覚的にも、嗅覚的にも私は酷く気分が悪くなってしまいます。
ちらりと見ると、彼の顔は少し赤みを帯びていて、その目からは酷く下卑めいた物が感じられます。後者に関しては私の反応が過敏なのかもしれませんが、彼の視線はやはり、私の腰や、胸あたりに頻りに動くものですから、やはり気分のいいものではありません。
私が言えた口でもありませんが、この男性も決して外見が悪い訳では無く、清潔感もありますし、何よりサキちゃん一押しのユウさんの誘いで来られた方ですから、人間的にも悪い方では無いのだと思います。
単純に私が勝手に色々過剰に反応しているだけだと思いますし、彼にも悪気は一切無いのでしょう。
こういう場ではこの距離感が普通なのかもしれませんし、私がまだ不慣れだという事もあるのだと思います。
ですが、やはり不快である事に変わりはなく、美味しいはずのビールも味を失い、ただただ喉を通り過ぎていくだけでした。
そうして、ジョッキを二杯ほど開けた頃、私はとうとう耐え切れなくなってしまいまして、トイレに行く、と伝えて一度外の風を浴びる事にしました。
何だか色々言われた気もしますが、ここで折れてしまってはなし崩し的に良く無い事に繋がりそうでしたので、母から貰った、酔っ払いの言う事は聞くなという忠告に大人しく従います。
逃げるようにして部屋を後にした私は、扉の外、掛けられた自分のコートに袖を通し、お気に入りのブーツをちょっと手間取りながら履いて、ふらふらしているのを自覚しながら外へ出ます。
外は晴れていましたが、気温は低く、寒いです。露出した顔や手は冷たく、道には薄く氷が張っているように見えるので、気を付けながら一歩前へ出ます。
冷たい冬の夜風が、不本意に火照った身体をよく冷やしてくれ、今日は何で来たんだろうなあ、なんて少し後悔しながら深く息を吐きます。
私を放置したサキちゃんは、悪い子です。ケーキくらいじゃ許してあげません。明日は今日の成果も含めてみっちりお話です。
幸い、携帯も財布も持って来ていた私は今すぐにでも帰る事のできる状態です。
携帯をポケットから取り出すと、サキちゃんに帰る旨を伝える為にメッセージアプリを開きます。
「もう帰っちゃうの?」
後ろから、優しい声が聞こえます。
少しびっくりしてしまいましたが、その声の主をすぐに察します。
本当は今日、この声が聞きたくてここに来たんです。
「遅いです。いつまで経っても話しかけてくれないので、私帰っちゃいます」
何様ですか、私。彼は友人も多く、今日だって何人もの女の子に囲まれてました。数多くいるそんな子たちの中で、わざわざその内の一人であろう私の所に来る理由はありません。
振り返ると、黒いシンプルなダウンを羽織って、白い吐息を漏らしてる彼と目が合います。
「いや、マサと仲良くしてたから邪魔したら悪いかな、と思って」
初めて見る、困ったような顔で答える彼は、何だか悪戯を咎められる子供みたいで少し可愛らしいです。
そんな彼も少し酔っているようで、顔は少し赤らんでいて、目もいつもより眠たげです。
「私、困ってたんですよ」
なんだか開き直ってきました。
ちょっと怒ってます。
私はあなたがいるからここに来たのに、あなたは私を何とも思ってない。何だか狡いです。
「私、あなたともっと仲良くなりたくて今日来たんです。いつか一緒にご飯を食べたり、映画を見たり、お酒を飲んだりしたくて今日来たんです」
お酒の所為でしょうか。いつもは言えない事が、どんどん、どんどん溢れ出して来ます。何だか、今はいつもより強気ましましな私です。
「ユウさんでも、マサ、さんでもない。貴方と、仲良くなりたくて来たんです、私」
ましましでも、好き、とは言えない私にちょっとむかつきますが、これが今の私の全力です。
まっすぐ彼を見つめます。逃がしません。私、目力の強さには自信があるんです。
私とは、目で会話してた貴方なら、優しい貴方なら気が付いて欲しい。
きょとんとする彼に、これでもかと念を送ります。
すると。
「あー......」
と、私の鬼気迫る何かを感じ取ったでしょうか、彼はちょっと視線をずらします。お酒の所為で顔色が読めないのが残念です。
視線がうろついて、口元に手を当てます。
知っている動作、彼が深く考えている時の癖の筈です。
これは立場逆転でしょうか。どきどきさせられる側から、どきどきさせる側に、攻守交代でしょうか。
何だか、さっきまでの憂鬱は何処へやら。心が踊ります。
暫くして、彼と再び目が合います。
「......俺はさ——」
「コウスケ、いつまで外に出てるの。風邪ひくよ」
そこで、もう一つ。声が混じりました。
綺麗な声です。彼に似た、優しい音色が含まれます。
ですが、その中に、明確な棘のようなものを、私は瞬時に悟りました。
「ん、チサ。今ちょっと大切そうなお話を」
女性としては珍しい、ツーブロックという髪型で、何より彼と顔が瓜二つなものですから、彼女の事も当然、私は覚えていました。
ですが、彼女が私を見る目に、彼のような暖かさは一切無く、射抜くような、刃物のようなその鋭さに、急速に、私の身体と、心さえも熱を失っていきます。
「また今度の機会にしなよ。今日は寒いし、風邪ひいちゃうよ」
しかし、その瞳が彼に向いた途端に、それは彼とよく似た優しさを含むものへと変わり、私は薄々と悟ります。何をかと言いますと、以前誘われた時にユウさんから聞いた言葉です。
ある程度、覚悟しといた方がいいと思うな。
唐突に再生された言葉の意味を少し、理解しました。
「それに、貴方も帰るんでしょう。女の子何だから、あんまり寒い所に居ると体に良くないわ」
再び鋭い目を私に向けて言う言葉は、明確に、早く帰れという意味を隠そうともせずに含んでいました。
「タクシーの方がいいかもね。この時間だと貴方みたいな子は危ないわ」
畳み掛けるように続けられ、私は酷く気圧されてしまいます。
私が戸惑い、一時停止している間に手早くタクシーを止めた彼女は、空いたドアへと私を誘います。
私はどうにも、抵抗する意思を失ってしまい、言葉にもならない音で返事をしながら、そちらへと歩いて行きました。
「あ、ちょっと待って」
すると彼が、急に私の手を握ります。
冷めた心にちょっとの温もり。
「これ連絡先。落ち着いたら登録しといて。今度一緒にご飯でも行って、さっきの話の続きをしよう」
咄嗟に書いたのでしょう。ちょっとくしゃくしゃになった小さな紙片が手渡されました。
彼は、私と彼女のやり取りに何も感じないのでしょうか。いつものような優しくて、暖かい口調に少し心が和らぎながら、私はちょっと思ってしまいます。
この、鈍感男。
「うん、ありがとう。帰ったら、絶対連絡しますね」
少しだけ元気が出ましたが、でももう、あそこに帰る元気はありません。
何より情けない話ですが、先程から身体に突き刺さる視線にこれ以上耐えられる気がしないのです。
名残惜しいですが振り返って、タクシーへと再び歩きます。
振り返った先には彼女が、未だ私への何か鋭い感情をびりびりと放出し、タクシーの横に立っています。
なんとか無視して、どうにかタクシーの淵に手を掛けました。
もう逃れてしまいたい。
扉にかけた手を、ゾッとするような冷たさで握り締められました。
「あげないから、貴方にも」
重大な誤字と誤植を発見したので上げ直しです。