─金曜日─ 夜
手の中でオールド・ファッションド・グラスが磨かれていく。綺麗になったグラスの表面に映る私の顔は浮かない顔をしている。今日はどうも集中できない。起きた時も、食事している時も、仕事をしている時だってあの人の顔が、笑顔が浮かんでくる。昨日は、ザラにお願いしていつでもあの人からの電話に出れるようにしていた。でも……。
「結局来なかったなあ……はぁ」
俯いていると手が止まっているのに気がついて、嫌な気持ちになる。ため息をついて手を動かした。
「今日、アクィラがやけに落ち込んでいるけどなにかあったのか?」
「想いの人から昨日電話来るはずだったんですけど、来なかったんですよ。多忙な時期だとは聞いていますので多分……」
「ほう、そんな人が……」
私の後ろでザラと常連のアーク・ロイヤルがなにか喋っている。アークは気のいい人だからもっと明るい顔で相手しないといけないとは理解しているけど……だめ、気分が上がらない。
「はぁ……」
電話が来なかったのは彼女が忙しいからであるのはわかっているんだけど……何かあったのかと考えてしまうと気が気でないし、忙しいなら今日も来れないのかもしれない。明日の件を話し合わないと行けないから来なかったら今日の夜、もう一回電話を掛けてみないと。
手の中にあるグラスはいつの間にか綺麗になっていた。こんなに磨いてたっけ? 彼女がここに通うようになってからこんなに忙しいのは始めてで、電話をすると言ってしてこなかったのもこれが始めて。
様々な理由でもっと長く会わない時だってあったのに、たった一日電話が来なかっただけでこんなに悲しいだなんて……。
「グラーフ、貴女は今どこで何をしているの?」
ふと、左肩を掴まれて振り返るとザラがこっち向いていた。
「アクィラ、気分が優れないなら今日はもう上がってもいいですよ?」
「アクィラは……いいえ、大丈夫です。ザラの思い遣りの気持ちだけ受け取ります」
グラーフのことは一度頭の片隅に片付けて仕事をしないと。彼女なら早く仕事を片付けて今日来てくれると思う、そう願っている。
「だけどもうアクィラは上がる時間です。電話でも」
突然、玄関扉の鐘の音がなった。それに聞き覚えのある息が切れる音、ザラの息を飲む音。もしかして、もしかして。振り向くと──。
「はぁはぁ。すまない、遅くなってしまった」
私が愛して止まない彼女が立っていた。
「グラーフ! 昨日電話は来なかったし今日はもう来ないかと思っていました!」
「その件は本当に申し訳ない。私が悪いから言い訳もしない。……そのぉ、怒ってないか?」
「怒るなんて全然! さあ、早く座って」
貴女が来ただけで私は凄い嬉しいんですよ。っと口に出すのには流石に恥ずかしい。口に出して言えたらどんなにいい事か。彼女が私の目の前の席に座って、来ていた黒いジャケットを脱いで脇に畳んで置いた。
「よかった。なら早速で悪いが氷が入ったカクテルを頼む。ここまで走ってきたから暑くて堪らない」
「わかりました」
ここからグラーフの職場までそれなりに距離があるのに走ってきただなんて、嬉しい。
さーて。グラーフの注文は氷が入ったカクテル。すっとするようなカクテルがいいかな?
「なるほど、確かに良さげだ。どれ、私は端によっておこうか」
「すみません……そうして頂けるとありがたいです」
「そこまでしなくても大丈夫ですよ」
「めっ。アクィラ、好意に素直に甘えてください
アークとザラが店の端の方の席に寄っていく。本当にそこまでしなくていいのに。でもザラがあの様子じゃ何言っても聞きそうにないから……。
「まあ、とりあえず作っちゃいましょう」
私が磨いていたグラスからサワーグラスを選んでそれなりの大きさに削った氷をいくつか入れる。冷蔵庫から取り出した昨日仕入れたばかりのリキュールを氷が入ったサワーグラスに半分ほど注いでさらにペリエを同じ分量注いでステアで軽く混ぜる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。ところでさっきの人は誰なんだ?」
「うちの数少ない常連の一人で話してて楽しい人ですよ」
「ふうん、そうなのか」
グラーフ・ツェッペリンの細い目で二人の方を見ている。んー、これはあれかな。
「グラーフ、もしかして嫉妬しています?」
「はあ? 何を言っているんだ。そんなわけないだろう」
「でも、目線は正直ですよ? 何度もあっちを見ていたじゃないですか」
「……どんな人か気になっただけだ」
図星を付かれて拗ねた表情がまた可愛い。普段他の人がいても大して気にしてないくせに。グラーフの前で頬杖をついて視線を合わせる。
「まあ、いいですよ。グラーフのことですし」
「どういうことだ? いや、まあいい。聞いても無駄な気がした」
「えー、聞いてくださいよー」
腕を伸ばして諦めた表情のグラーフの顔を触ろうとする。でも、腕を振って払いのけられた。
「くっついてくるな、暑苦しい」
「ちょっとぐらいいいじゃないですか」
「せめて後にしてくれ……ふう、今日も美味しいな何を入れたんだ?」
「むふぅ、よくぞ聞いてくれました。今日はフランス産のリキュール、ミスティアと同じくフランスの炭酸水ペリエを1:1でステアしたミスティア・ペリエです」
グラーフはグラスの中を見通すかのように目を細めた。僅かに開いた瞼から見える灰色の瞳、それが細かく動いている。なんて綺麗な瞳なんだろう。いつまでも見ていたくなるような、吸い込まれてしまいそうな魅力を感じてしまう。
不意に彼女の瞳がこちらを向く。
「どうしたんだ?」
「いえ、今日も美味しそうに飲んでくれいるなって。アクィラは嬉しいです」
「……そうか」
照れ隠しかな? 一気に半分ほどミスティア・ペリエを飲み下した。一応、ちょっとだけ薄めにしたけどミスティア自体はアルコール度数が高いから大丈夫かしら。口からグラスを話すと、心無しかグラーフの顔は赤かった。
「大丈夫です?」
「大丈夫だ、問題ない。ところで明日の予定だがどうするんだ?」
「急に変えてきましたね……とりあえず十一時に駅前待ち合わせで店を巡ろうと思っていますがどうですか?」
グラーフがグラスを置いて手帳を開いてペンを取り出す。少し考え込むような表情をしたあと、若干物足りなそうな顔になる。
「もっと早くてもいいんじゃないか?」
「職業柄朝早く起きるのが辛くてですねえ」
「お前のいう早朝は八時とか九時だろ。それにだらしないからだってザラが」
「あー! もうの話は一旦終わりましょう! それで、小物を最初に買って適当に巡って最後に食料品やお酒を買おうと考えているんですかどうです?」
これ以上、私の問題点を上げられたら説教が始まりそうな気がする。流石にアークとザラもいるから恥ずかしい……。
「ほとんど予定を立てていないのと一緒じゃないかな。行き当たりばったりか?」
「高度な柔軟性と臨機応変です。その時に行きたい店にいきます!」
「もっと計画というものをだな……。はぁ。言っても無駄か」
「どうせ立てても気分で変わりますから無駄ですよ無駄。それよりもランチをどこで取るか決めましょう」
「個人的に行ってみたい店があるんだが……」
どれどれと彼女の手帳を覗き込もうとすると手帳を閉じられるが、スマホを手に取り画面を見せてくる。んー、この店はたしか。
「最近出来たターキーサンドの店ですか?」
「ああ、そうだ。私の同僚から勧められていてな。気になっていたんだが、どうだ?」
「グラーフが行きたいって言うなら喜んで行きます! 参考になるかもしれませんし」
「なら決まりだな。昼はここに行こう。あとは何か決めておくことはあるか?」
「んー、そうですねー」
顎に手を当てて考え込む。何かあったか……。あ。
「夜にここで飲んでいきませんか? 明日はザラとポーラもいないので臨時休業するつもりなんですよ」
「ふむ、明後日は日曜だし潰れるまで飲むのも悪くないな。厳しいビスマルクがとやかく言うかもしれないが……幸いなことに明日は帰って来れないと聞いたから飲み明かそうじゃないかな」
「でもどうせ直ぐに潰れますよね」
「言うな」
「八月のあの時を、むぐ」
グラーフが不機嫌そうな顔で私の両頬を片手で掴んでくる。
予想外のことに唖然としているといつの間にか空になっているグラスを掲げると私に渡してくる。頬が赤かった。
「グラーフ、もしかしてもう酔いました? まだ一杯目ですよ?」
「大丈夫だ、まだ酔っていない。ここに来る前に気のいい上司から上質な蒸留酒を少しだけもらって飲んできたが大丈夫だ。もう一杯頼む」
「ん、それ大丈夫じゃないと思いますよ!?」
これは完全に酔ってますね。うーん、薄めたとはいえミスティアを出したのは失敗。とにかく明日に響いて欲しくないから……。今度は早く作れと言わんばかりに濡れているグラスを頬に押し付けてくる。ん、冷たい。
「わかりましたから、ビスマルクさんに電話しておきますね。電車じゃ帰れるか怪しいですし。それじゃあ適当なのを作ります」
グラーフからグラスを受け取って洗い物入れに入れる。さて、何を作りましょう。アルコール度数が低いもので、甘めでグラーフが好きそうなもの……あれとか良さそう。
シェイカーとマティーニグラスを取り出してグラーフお気に入りのカルーアとクランベリージュースを用意する。カルーアに対して一対三の割合でクランベリージュースをシェイカーに注ぎ込みシェークする。終わったら大きめの氷をマティーニグラスに入れて出来上がったカクテルを注ぎ込む。透き通るような赤黒い綺麗な液体がグラスの中で波打ち、ピンク色の泡が生じる。いい感じね。
「はい、カルーアクランベリー・マティーニです」
「ありがとう。……ふう、いつどんなのを飲んでもアクィラが出すカクテルは美味しい。大好きだ」
「っ……ビスマルクさんに電話してきます!」
急いで裏へと行く扉を開けて、中に入り扉を閉めた。
不味い、あのままじゃあ私の心を押し止め切れない。グラーフに私も好きって言いたい。でも、断られたり、忘れられてたら……。そんなことは起きないと理性では言っているけど、無性に怖かった。理性と感情の異差にココロが押しつぶされそう。
「こんな状態じゃ帰れない」
気付け薬を求めて冷蔵庫からグラッパを取り出してグラスに少し注ぎ、香りも確かめず一気に飲み干す。じりじりと喉が焼け焦げて胃に落ちていくとぽぉっと虚脱したような感覚になり、ココロにかかる負担が軽くなった。
「はぁ、この際既成事実を明日作れれば。でも割と純粋なグラーフはそんなことしたら嫌がりますよね……あ、そうだ電話」
ポケットからスマホを取り出してこういう時のために登録してあるビスマルクさんの電話番号を呼び出しコールする。ニコール目で繋がった。
「アクィラ? ということはまたグラーフは酔いつぶれたのね」
「ええ、そうです。なんかここに来る前に度数の高いお酒を飲んで来たらしくて軽いのを一杯出したら出来上がっちゃいました」
「たく、明日もあるって言うのに……まあいいわ。近くに来てるから十分ほどでそっちに着くはずよ」
「わかりました。準備させておきます」
電話が切られた。ふう、これで大丈夫かな。スマホをポケットに戻しながらもう一杯飲もうかとも考えたが、そのままズルズルと飲み続ける気がしてやめた。
「よしよし、アクィラ。あと少しの時間落ち着いて対応しましょう」
深呼吸をして扉を開くとグラーフがこちらを向いた。僅かに微笑んでくると音程のズレた鼻歌を歌いながら正面を向いた。さっき出したカルーアクランベリー・マティーニは氷しか残っていない。
「もう飲んだんですか」
「アクィラのカクテルは美味しいからな。幾らでも飲める」
「でも、今日は明日もあるのでもうここまでですよ。もう少しでビスマルクさんがグラーフを迎えに来ます」
「早いな、私はまだ」
不満げな顔をするグラーフの前で人差し指を振る。
「はいはい、大人しく従って下さい」
「むうぅ、わかった。だが、明日はもっと飲むぞ」
「明日は、ね……」
酔いつぶれたグラーフ……いや何考えているの。手を出すのは嫌われるってわかっているのに、はぁ。
「ん、アクィラ。何かあったのか?」
「いいえ、なんでもないですよ。ほら準備してください。水飲みます?」
「カクテルの方がいいが……一杯欲しい」
「はあい」
適当なコップを選んで水を入れてグラーフに差し出す。彼女はそれを直ぐに飲もうとせずグラスの中の水面を見つめていた。
「どうしました?」
「……なんでもない」
一気に水を飲み干した。今気がついたけど、目が虚ろになっている気がする。私が思っている以上に酔っている?
「大丈夫ですか?」
グラーフはコクンと頷くと上着を手に取った。それをおぼつかない手つきで羽織り財布を出してくる。今日の代金を受け取ると、ゆっくりとカウンターに突っ伏して行った。
「はあ、いいですか、グラーフ。明日ちゃんと来てくださいね」
「わかっている。このグラーフ・ツェッペリンが来れないわけがない」
「呂律が回っていない口調で言われても……」
顔だけあげているグラーフがなにか言おうとしたが、外から車のエンジン音が聞こえてきて店の前で止まった。
「来たか、もう少し遅くても」
「それはさっき聞いたから早く寝て酔いを覚ましてください。寝坊なんてしたら許しませんからね」
「わかってる」
カウンターから出てグラーフの傍に寄る。駄々をこねる子供のように立ち上がろうとしないで空になったグラスを手に取って見ている。外に出ていないあたりから察したのかビスマルクさんが入ってきた。
「こんばんは。うげ、なんであんたがここにいるのよ」
「ビスマルクじゃないか。となると……このグラーフが前に言っていた同棲しているOLか。私もここの常連なんだ」
「あれ、アークとビスマルクは知り合い?」
私の質問にビスマルクは嫌そうな、アークは誇らしげな表情をする。
「そうだ。仕事で色々あってな」
「色々ね。できればこいつをさっさとつまみ出して欲しいんだけど」
「まあ、今日の私は置物だと思ってくれ」
置物が喋るのか……と言う呟きが聞こえた気がする。ふと気になてグラーフに視線を戻すとまだ机に突っ伏して抵抗していた。
「まあいいわ。はぁ、グラーフ! 帰るわよ。明日もあるんだから」
「このままここに居てもいいじゃないか」
「そんなわけないでしょ! ほら立って」
「むぅ……」
このまま居る……ここにはちょっとした仮眠室と増設したボロいシャワー室しかないけどグラーフと二人で過ごす分には悪くないのかも。
いやでも、私が我慢出来ない。明日、明日ちゃんと言ってからじゃないと。酔ってるグラーフに言っても忘れられそうだし……。はあ。
「ほらグラーフ、立ってください。んー、重い」
彼女の両脇に手を入れて無理やり立たせる。椅子から浮かせるまでは抵抗していたけど、そこからは観念したのか自分から立ち上がった。
「大丈夫、歩ける?」
「流石に歩ける。立っているのが辛いだけだ」
ビスマルクさんがグラーフに手を差し出すが受け取らずカウンターに手を着いた。体はふらついているが、両足はしっかりと地面を捉えている。
「それなら早く車に乗りなさい。ほら行った」
「ちょっと待ってくれ」
グラーフが私の方に向かって来る。赤く火照った頬に、据わった目で私を捉えて……抱きついてきた。
「へぁ!?」
え、ちょっと、グラーフの感じが体中に。胸が重なりあって、グラーフの腕が背後に回ってくる。私の顔がグラーフの右肩にあたり、グラーフの顔が私の肩に乗ってくる。彼女の吐息が首筋にかかってくるし、柑橘系の匂いに汗っぽい匂いが混ざって、もう……。
「え!?」
「ほう……」
「……驚いたわ」
「ちょっと、三人とも……見てないで助けて下さい!」
グラーフの体重がかかってきて倒れそうになってしまう。後ろにバランスが向いて倒れるっと思った途端、今度はグラーフが私を更に力強く抱きしめて耳元に口を近づけてくる。ん、吐息が擽ったい……。
「また、明日会おう」
体から力が抜けていく。
「ここまでやるとは……グラーフ、行くわよ」
「……ああ」
立っていられない。解放されてからグラーフの手を借りて手近なところにあった空いてる席に腰を下ろして乱れた息を整える。彼女の温もりが、まだ身体中に残っている。失いたくない。
扉を開けてグラーフが外に出ようとした時、振り返ってニコリと口角を上げて出ていった。
「……っぅ!」
酔ったグラーフがここまでしてくるとは。高ぶる感情と徐々に強まる喪失感に耐えきれず俯いて顔を両手で覆う。
「グラーフ……」
「アクィラ、今日はもう上がってもいいですよ。私一人で回せますから」
気がついたら側に来ていたザラがそう言ってくる。その好意は凄い有難かったし、受け取りたいけど……。
「ありがとう、ザラ。でも今ここで帰ると浴びるほどお酒を飲んで明日起きれなくなっちゃうかもしれないので……。グラーフに散々起きてきてくださいって言った手間、アクィラが寝坊するのはちょっと」
「それなら別にいいけど、一回顔を洗ってきた方がいいと思うわよ?」
「そんなに」
「死にそうに見えるくらいには酷いわよ。それと明日本当に大丈夫? ダメなら──」
「大丈夫です! アクィラは明日ちゃんと……はぁ、顔を洗ってきます」
明日、ちゃんと言わなきゃ……。重くなった体を無理やり動かして、裏に入る扉を潜っていく。薄暗い廊下が更に気分を悪くして頭痛が起きてくる。
洗面所に入り体中を覆う寒さを打ち消すために熱めのお湯を出して、ナチュラルメイクが落ちるのもお構い無しに顔を洗った。鏡なんてみたくない、どうせ酷い顔をしている。
「はぁ……行動一つすれば解決するって言うのに」
それがこんなにも難しいだなんて。いつどこでも私の脳裏に思い浮かぶ優しい笑みをしたグラーフを私のモノにしたい……。
再び感じた寒さを抑えるためにもう一度お湯で顔を洗う。給湯器がさっきより熱いお湯を出していたから顔が痛かった。横にある戸棚から清潔なタオルを取り出して顔を拭く。柔らかいタオルが顔についた水を吸い込んでいく度に誤魔化した寒さが帰ってくる。それにタオルに使われていた柔軟剤が柑橘系の香りを出してきて、更に虚しくなる。
今はただただグラーフに抱きしめて欲しかった。
「アクィラ?」
ザラはアクィラが帰ってこないのを心配して裏に回ってきた。アークを一人にするのは忍びないが、そのアークが見てきたらどうと勧めてきたので少しだけ席を外すと言ってきた。
裏はどこも照明が落とされていて真っ暗かつ、物音一つ聞こえない。
「アクィラ、大丈夫?」
不安になったザラがもう一度呼びかけるが返事はない。洗面所の扉は開いていて覗き込むが使ったタオルが一枚あるだけで誰もいない。
「先に帰ったのかしら、でもそれなら一言かけてくるだろうし……」
今度は事務室の方に向かうと、事務室の扉が半開きになっていることに気がついた。もしや、と思い入ってみるとアクィラがソファで体を丸めたまま寝ていた。
ザラは毛布を取り出してアクィラに被せる。そしてアクィラの脇に座り彼女の頭を撫でた。
「涙まで流して……そんなに辛いなら私達に相談の一つや二つしてくれてもいいのに」
艶やかな朱い髪は乱れて、上着はそこら辺に転がり、シャツはしわくちゃになっている。暖房がついていて毛布をかけたにも関わらず、アクィラは震え、腕を摩るように寒さを打ち消すかのように動かす。それを見たザラがアクィラの頭を持ち上げて膝枕をした。
「よしよし……」
昔、アクィラがやってくれたことを思い浮かべながら頭を撫で続ける。
五分ほど続けているとアクィラの震えがとまり落ち着いてきたように感じ取れた。
「ゆっくりと眠って下さい、アクィラ……」
ザラは立ち上がろうと手をつくが一瞬迷ったあと、アクィラの額にキスをした。すると、急に恥ずかしくなったのかアクィラの頭を下ろすと直ぐに事務室から立ち去り、アークの元へ戻った。
「お、戻ってきたか」
「すみません、わがままを聞いてもらって」
「構わないよ。アクィラや君にはいつも世話になっているからな。それにいいものが見れた。今度ウォースパイトとネルソンを連れてきたら酒の肴にしよう」
ウォースパイトという単語にザラが心底嫌そうな顔をする。顔を両手で覆ってから天を仰いだ。
「あの人また来るんですか?」
「……ザラとポーラがいない日にするぐらいの配慮はする。アクィラが調子を取り戻してくれればいいが」
「アクィラなら多分、大丈夫ですあと肴にするのはもっと後になってからにしてくだい」
「肴にすること自体は止めないんだな」
「あれは肴になって当然です! こんなに周りに迷惑を掛けて。全くもう」
ハハっとアークが苦笑いして考えるように俯く。右手で顎を擦りながら何度か唸るとザラを見つめた。
「ほっといても大丈夫だと思うが」
「え、貴女もそういうんですか」
「貴女も? 他に誰かが言ったのか?」
「ポーラも同じことを言ったんです。私とビスマルクが話して来た時に」
ザラが昨日の事を話すとアークは若干顔を引き攣らせた後、また考え込んだ。ザラに適当なカクテルを頼み、シェイカーを振る音だけが響いた。グラスに注がれてアークの元に出された時にようやく口を開く。
「私もポーラと同意見だ。今の話とビスマルクからの伝聞、さっき見ただけだが……あの二人は傷つきながらも死ぬまで、いや死んだ後も共に過ごすと思う」
「……私にはそれが信じきれないんです。どこか、何かのきっかけで壊れそうで……」
「そうなってもちょっとしたきっかけで元通りになると考えている。まあ、私は詳しくは知らないからな。参考程度にとどめていてくれ」
今度はザラが唸り始めると、アークは出されたカクテルを一気に飲み干し財布を取り出してカルテルの代金をカウンターの上に置いた。満足気な顔をして腰を伸ばした。
「今日は長居してしまったが、いいものが見れた。感謝するよ。それではまた今度。おやすみ」
ザラの返事を待たずしてアークは出ていった。一人残されたザラは疑いげな表情をして出ていった扉を見てから、アクィラが居る事務室の方を向いてため息をついた。
アクグラはいいぞ
これ書いている時は書いてて砂糖吐きながら死んでました。
次回は土曜夜です。