──狼と鴉──
文さんの新聞はゾウリムシみたいなんですよ。
いつの日だったか、妖怪の山のほとりに流れる小川で一休みしている際、部下にそう言われたことがある。たしか、私と河童の河城にとり、そして部下の三人で将棋をしながら語り合っていた時のことだ。
よく晴れた初夏の日だった。あまりの暑さに、着ている白いシャツが汗で肌に張り付いて気持ち悪かった。フリル付きの黒いスカートは太陽の光を浴び、手で触れることを躊躇するほど熱を帯びている。自慢の短い黒髪も、大きな黒い翼も、日光のせいで火照っていた。河原の石も同様に熱く、流れる小川は陽光を反射し、きらきらと輝いている。
「前、無理やり渡されたのを読んだんですけど」
その小川に目をやっていると、部下の白狼天狗、犬走椛は、真っ白な短い髪をわしわしと掻き、鴉天狗である私に唾を飛ばしてきた。
「なんか、写真とタイトルだけ仰々しくて、文字は適当に埋めてあるような、そんな雑さを感じたんですよね。内容も適当ですし、悪趣味です」
「あややや。それで、どうしてゾウリムシなんですか」
顔をしかめたくなるが、何とか微笑を保つ。どうせ、大将棋の指し方が間違っていると指摘され、腹を立てたのだろう。私たち鴉天狗が新聞作りに命を燃やしているのをいいことに、それを馬鹿にして意趣返しを試みているに違いない。まったく、どうして椛は上司に生意気な態度をとることができるのか。頭が痛い。
椛の顔をじっと見つめる。真っ白な短い髪に、ちょこんと犬耳がついている。生意気な性格を象徴するかのような鋭い目は、赤く怪しげに輝いていた。
いつもそうだ。椛は昔から傲慢で、腹立たしい。鴉天狗という上位の存在である私に、なぜ下っ端である白狼天狗の彼女が刃向かえるのか。髪色と同じ真っ白な和装も、それに対する黒い袴も、すべてが気に入らない。が、まさか私の新聞をゾウリムシ扱いするほど愚かだとは思わなかった。
「もしかして、椛はゾウリムシが何か分かっていないんですか? あの気持ち悪い微生物ですよ。新聞じゃない。椛と同じくらいちっぽけで、無能で単細胞な」
「知ってますよ、そんなこと」椛はふん、と得意げに鼻を鳴らす。
「だからこそ、そっくりじゃないですか。見た目だけ派手で、でも中身はなくて。それでいてどこか気持ち悪い」
「褒めないで下さい」
「褒めてないですよ」彼女は、上司を見下すかのように目を細める。「そんなゾウリムシみたいな新聞を書いているから、新聞大会とやらで惨敗するんですよ」
今度は微笑を浮かべ続けることができなかった。鴉天狗は私も含め、ほぼ全員が新聞作りに勤しんでいる。縦社会の天狗社会、ひいては妖怪の山でも、やはり刺激というものは必要で、鴉天狗にとって、互いの新聞を評価し、ランキング化する新聞大会はそれに打って付けだった。だが、私の作る完璧な『文々。新聞』はなぜだか評価されない。あまりに高等な私の新聞に時代が追いついていないのだろう。幻想郷最速の私ならではの悩みだ。
「文さん、いま、自分の新聞が評価されないのは、皆の見る目がないせいだって思いましたよね」
目ざとい部下は、生意気な口を叩き、将棋の駒を突きつけてくる。
「ゾウリムシが評価されるわけないじゃないですか。あんな気持ち悪い微生物を好む妖怪なんていません」
「いるかもしれないじゃないですか。椛はゾウリムシの何を知っているのよ。何も知らないでしょ。巷では、ゾウリムシってのは褒め言葉になっているんですよ」
「そうなんですか?」
「そんなわけない。何言っているんですか」腹立たしげな顔をする椛の顔を挑発するようにのぞき込む。
「それに、新聞大会は一種の暇つぶしです。刺激が足りないんですよ。ですから、それだけで新聞の価値は決まりません」
「椛も文も、二人とも頭を冷やしなよ」
いつものようにいがみ合っていると、にとりが、まあまあと間に入ってきた。向かい合う私たちを押しのけ、強引に身体をぐいぐいと入れてくる。
「ゾウリムシだとか何とか知らないけど、落ち着きなって」
「落ち着いていますよ」当然だ。私が落ち着いていない時なんてない。
「落ち着いてないのは、この反抗的な白狼天狗だけです」
「あれだね。文は椛が絡むと面倒くさいね。天邪鬼くらいに」
「心外すぎます」
何が面白いのか、ケラケラと笑ったにとりは、その青色のワンピースについたポケットから何かを取り出し、その場でくるりと一回転する。二つにくくられた青い髪が太陽に反射し、煌めいていた。緑色のキャップが日差しを遮ってくれているのか、どこか涼しげだ。羨ましい。私の赤い頭襟と交換してほしいくらいだ。
「新聞大会なんかより、私は賭け事をした方が絶対に楽しいと思うけどな」にとりは、にししと河童らしい笑みを浮かべて言った。
「賭け事?」椛が不思議そうに首を傾げるのがおかしく、無性に笑えてくる。馬鹿真面目な彼女と賭け事は、まさに油と水、私と椛くらいに相性が悪い。
「そう。最近流行っているんだよ。何でもいいから、適当に予想するんだ。例えば、博麗の巫女は明日どこに行くか、とか。霧の湖に妖怪が住んでいるのか、とか」
「狐と狸は仲良くできるか、とか?」
「あるね。文と椛が仲良くできるか、もある」
「それはないに賭けた方が賢明ですよ」
そう言うも、にとりは聞いていないのか、耳を小指でほじくり、首を振った。
「まあ、とにかく。何でも賭けの対象になるんだ。暇つぶしにはもってこいだよ」
「あややや。案外楽しそうですね。賭けで勝ったら何がもらえるんですか?」
「賭けた相手と相談だね。何ならいま賭けてみるかい? さっき言った、霧の湖に妖怪がいるかどうかで」
素直に面白い、と感じた。いくらか類推できるものの、こういったものは、やはり最後には運が物を言う。予想できない物事は好きだ。何でも思い通り、ではつまらない。なるほど。たしかに賭け事は刺激になる。
「では、私は妖怪がいる方に賭けますよ」
「分かったよ。もし勝ったら何がほしい?」
「そうですね……では、最新式の印刷機を使わせてください」
「お、いいね。なら私はキュウリ一年分でも貰おうかな」
「椛はどっちに賭けますか?」
まさか自分に振られるとは思っていなかったのか、きょとんとした顔になった椛は急にあたふたとしだした。どうせ、話をまともに聞いていなかったのだろう。まあ、そう思ったから話を振ったのだけれど、予想通りだった。これだから彼女は面白くないのだ。予想通りでは退屈。まさにその通り。
「聞いていなかったなら、素直にそう言えばいいのに。椛は下手に意地を張るから駄目なんですよ。白狼天狗は些細なことでも上司に判断を仰がないと駄目です。レタスですよレタス」
「それを言うならホウレンソウでしょう。それに、上司に連絡するとしても、文さんにはしません。大天狗様に直接言いますよ」
「なら、言ってきてくださいよ。偉大な射命丸文さんの話を聞いていなかったんですって」
「嫌です」
「やっぱ、二人は仲がいいねえ」いきなり馬鹿げたことを言ったにとりは、「ほら、嘘でもいいから私たちは仲がいいって、言ってみなよ」と冷やかしてくる。絶対に言うわけないし、そもそも仲は良くない。そう二人で言うと、にとりは浮かべていた笑みを深くし、スカートから何かを取り出した。
「そんな仲のいいのか悪いのか分からない二人にプレゼントだ」
「私と文さんは仲悪いですよ」
「本当に仲悪い人は仲悪いって言わないよ。ほら、優しい人が自分を優しいって言わないのと同じように」
「同じじゃないですよ、それとそれは」
呆れる私たちを他所に、にとりは取り出したそれをこちらに放り投げてきた。緑色の長細い形が目に入る。キュウリだ。私はまた呆れ、小さく息を吐いてしまう。
「それさえあれば、嫌いな奴と隣にいても気にならない。そうでしょ? そもそも、どうして嫌いあっているのに、同じ場所で休憩しているのかが謎なんだけどね」
「言いたいことは沢山ありますが」私の声は、不思議といつも以上に平坦だった。「まず、休憩場所が被るのは、ここが立地的に一番いいからです。川に近いし、風下で比較的涼しい。そして何より、妖怪の山に誰かが来ても、すぐに気づきます」
「文さんは別に侵入者に気を張らなくてもいいじゃないですか」椛が不満そうに口を尖らせる。「哨戒は私たち白狼天狗の仕事です」
「記事のためですよ。面白い奴が来たら、一番に取材したいでしょ?」
「知りませんよ」
「というより。そもそも、にとりが私たちを呼び集めたんじゃないですか」
火の粉が自分に向かってくると考えていなかったのか、にとりは「ひゅい!」と奇声を上げ、私と椛を交互に見た。自分で撒いた火の粉のくせに、だ。
「私を将棋に誘ったのはにとりじゃないですか。椛を誘ったのも、にとりのはずです。もし椛がいると知ってたなら、ここには来ませんでしたよ」
「それはこっちの台詞ですって」案の定、椛が噛みついてくる。「将棋は好きですけど、だからといって、文さんがいたら台無しですよ。酢豚のパインと同じです」
「私がパインなら、椛は蜜柑の筋でしょうか」
「ほらほら、喧嘩しないでくれ」子供を仲裁するかのように苦笑したにとりは「言いたいことって、それだけ?」と小首を傾げた。話を逸らしたいという魂胆は目に見えていたが、それが私たちのためを思ってのことであるということも分かったので、何も分からないフリをして首を振る。
「もう一つはこれですよ」
「これって」
「キュウリです。さっき、にとりがポケットから出して、渡してきたやつですよ」
「それがどうかしたのかい?」
どうもこうもない。そもそも、ポケットからキュウリが平然と出てくること自体がおかしいのだ。以前、「普通はキュウリを持ち歩いたりはしませんよ」と伝えた時も、にとりは肩をすくめ、私の肩を叩き「文は嘘が下手だなあ。そんなの、妖精ですら騙されないよ」と鼻で笑ってきた。河童のキュウリ好きは知っていたが、ここまでくると心配になる。何が。河童の頭が、だ。
「にとりはキュウリさえあれば、嫌いな奴と隣にいても大丈夫って言ってましたけど、キュウリにそんな効果はありませんよ」
「え」
「少し腹が膨れて、喉が潤って、塩が欲しくなるけど、ただそれだけです」
「そんなことないさ。それに、キュウリに塩は邪道だよ」
「そうですよ」特に興味もないだろうに、椛はにとりに同調した。何が何でも私に反対したいのだろう。「キュウリに塩を付ける奴なんて、ろくでなしに決まってます。もし見かけたら絶交しますよ」と大袈裟なことを言い、腕を組んでいる。
「キュウリに塩を付けるだけで絶交だなんて、あり得ません」
「あり得ます」
椛は語尾を伸ばし、ありえますぅと、この世に類いのないほど腹立たしい言い方をした。
「もし絶交したい奴がいれば、こう言ってやるんですよ。『やっぱ、キュウリには塩ですよね』って」
「ねえ椛、やっぱ、キュウリには塩ですよね」
椛は私を無視し、にとりに「キュウリには味噌ですよねえ」と話し始めた。塩が駄目で味噌が許される理由が分からない。それに、そもそもキュウリに何を付けるかだけで、文句を言われる筋合いはなかった。
「そんな意味不明な論理がまかり通るだなんて、意味不明です」
「駄目だよ文。この世の中は多数決なんだ」
高々河童のくせに、急に世の中だなんて言い出したにとりは、椛と自分を指差し、「二対一で、私たちの勝ちなんだよ」と勝手に勝利宣言を始めた。
「どんなに意味不明なことを言っても、たくさんの人が、当然のようにそれを言い出したら、実際にそうなっちゃうんだ。キュウリに塩を付ける奴とは絶交だと言ってもね」
「なら、もし皆が、私のことを不老不死といえば、私は不老不死になるんですか?」
「なる」
「ならないですよ」
「なる。不老不死の法則だよ」
「なんですかそれは。私は信じていませんし、ポケットから出したキュウリを投げてくるようなやつの方がよっぽどろくでなしだと思いますけど」
「失礼な」私の嫌みにも、にとりは怯まなかった。それどころか増長し「文もまだまだだなあ」と私より少し小さな身体を大きく広げてさえいる。
「よく見てくれよ。それ、本当はキュウリじゃないんだ」
「え?」
「機械なんだよ。機械。キュウリ型の機械なのさ」
手のひらの上でくるくると転がしてみると、確かに違和を感じる。ヘタの部分は少し尖りすぎているし、ポケットに入れていた割りには全くしなびた様子もない。
「あややや。河童の技術力は凄いと聞いていましたが、まさかここまで」
「どうだい? 驚いたろう」
「ここまで愚かだとは思いませんでした」
たしかに河童の技術力は驚異的だ。大型のロボットを造ったり、私のカメラだって、それこそ、目の前でキュウリ型の機械を振り回す少女、にとりに造ってもらった。「文の速さでも手振れしないカメラを作れるのは私だけだよ」と豪語する彼女の言葉に嘘はなく、あれから数年経っているにもかかわらず、まだまだ壊れる素振りすら見せていない。お気に入りのカメラだ。
だが、そんな高い技術力を持つ彼女たち河童にも欠点はある。というより、そちらの方が悪目立ちしているくらいだった。彼女たちは、絶望的にセンスのない改造をよく好んだ。そして、頼んでもいないのに「サービスだよ」と意味不明なことを言い、施してくるのだ。「文のカメラのボタンに椛の顔をプリントしておいたよ」と言われた時には言葉を失った。そのせいでボタンを強く押しすぎてしまう。それでも壊れないのが憎らしいところだ。
「キュウリの機械を造るだなんて、ナンセンスです」
今回も、そのセンスのなさを十二分に発揮し、こんな無意味な物を作り上げてしまったのだろう。
「なんでキュウリ型の機械を造ろうとしたのかが謎です」
「そりゃ好きだからだよ。文だったら椛の機械を造るんじゃないのか? 頼まれれば造るけど」
「そんなの、サンドバッグにもなりません。将棋の相手をしてくれるならまだいいですけど、どうせ椛じゃ相手になりませんし」
「そんなことないですよ」
頬を膨らませ、顔を紅潮させているのが、見なくとも分かった。
「というより、文さんの駒の指し方は陰湿なんです。そんなんじゃ面白くないですって」
「椛が単純すぎなんです。攻めてきたら守ればいい。守ってきたら攻めればいい、だなんて、そんなんじゃ勝てるわけないのに」
「二人とも指し方が独特だからねえ」
私と椛は、にとりの言葉を聞き、つい顔を見合わせてしまう。いま、本当に彼女は私たちの指し方を独特と言ったのか、と無言で頷きあった。
「にとりの方が独特ですって」椛の言葉に、私も頷く。にとりの将棋は、それは本当に将棋なのか、と言いたいほどに破天荒で、それは反則ではないか、と危ういことでも平気でやってくる。
「ルールで禁止されていないからといって、やっていいってことじゃないんです」
「ただ勝つよりも、ずるして勝った方が楽しいじゃないか。ズルは正義だよ。勝負ってのは絶対に勝てると分かっている時しかやっちゃいけないんだ。そして、負けを認めた奴にこう言ってやるのさ『キュウリでも洗って出直してきな』ってね」
「ださいですよ、決め台詞も勝負の価値観も」椛がすぐに否定する。「正々堂々戦った方がいいに決まっています。文さんもにとりも、捻くれすぎなんです」
「でも、椛だって魚を捕るとき、罠を仕掛けるじゃないか」川を指差し、にとりはぐっと眉根を寄せた。
「しかも、大きいイワナしか捕まらないような、そういうのをさ。あれは私からしたら邪道だよ。やっぱり、珍しい魚は自分で捕まえないと」
「それとこれとは話が別ですよ。ほら。イワナみたいなレアな奴は、なんとかこっちの戦場に引きずりあげないと」
「何が戦場だよ」にとりの苦言に私もうなずく。椛はいつの間にイワナと戦っていたのか。
「あくまで真剣勝負のためですよ。正面切って、本気の勝負をするためです。ほら、言うじゃないですか。力士は強敵を土俵に引きずり込むって」
「言わないですよ」イワナと真剣勝負をする意味も、そのたとえに力士を引き合いに出す意味も分からなかった。どうして、そこまで真剣勝負とやらに固執するのか、理解に苦しむ。
「椛は馬鹿みたいに単純なんですよ。ゾウリムシはあなたです、この単細胞が」
「酷い!」
わざとらしく、椛が叫んだ。褒めてるんです、と言っても、聞く耳を持たない。どうせ酷いとも思っていないくせに、それでも酷い酷いと喚いた彼女は、そのまま小川へと向かい、手で水を飲み始めた。反論を聞きたくないという意思表示か、あるいは頭を冷やせと言いたいのか、いずれにせよ腹立たしいことには変わりない。川に落ちてしまえばいいのに。
そう思っていると、椛が頭から川へと落ちていった。大きな水しぶきを上げ、頭から突っ込んでいったのだ。まさか本当に落ちるとは思わず、驚く。思ったより川は深いようで、彼女の姿は一瞬にして消え去ってしまった。
「どうしたんだよ、椛」驚くことなく、にとりは言う。
「キュウリでも流れていたのかい?」
「キュウリのために身体を濡らす馬鹿なんていませんよ」
「河童を馬鹿にしないでくれ」
「濡らすんですね」
足でも滑らせたのだろうか。いや、あの椛に限ってそれはない。ということは、何かしら事情があったに違いない。
しばらく、にとりと川を眺めていると、ぶくぶくと水面に泡が吹き出してきた。ぬっと白い椛の頭が現れ、ゆっくりと川からあがってくる。水を吸って重くなった黒と赤のスカートを引き摺り、肌に張り付いた白い服の袖を絞っていた。
「あやや。水浴びですか? まるで幼子みたいですね。さすがは犬」
「犬じゃなくて、白狼ですって」
そうは言われても、ぶるぶると全身を揺すり、白い髪の毛から水滴をふるい落としているさまは、犬以外の何者でもなかった。
「それに、水浴びでもありません」
「なら、どうして川に飛び込んだんですか」
「キュウリがあったんだろ?」にとりの目は、輝いているように見えた。機械いじりをしている時と同じ目だ。「どんなキュウリだった」
「キュウリなんかじゃないですよ」
「なんかって」
「水底に気になる物が見えたんです」
見えた。はっきりと彼女はそう言った。川に近づき、水底をのぞき込む。たしかに川は清涼で、綺麗に透き通っているが、光の反射のせいで泳ぐ魚すら把握できない。普通であれば、流れる物体に気づき、咄嗟に飛び込むなんてできないはずだ。だが、犬走椛は普通ではない。
「千里眼、ですか」いつの間にか、私は呟いていた。
「千里眼で水底を見たんですか?」
「ええ。そうですよ」えっへんと胸を張る椛は、どことなく間抜けに見える。
「私の『千里先まで見通す程度の能力』は便利なんです。羨ましいですよね?」
「まさか」
強がりで言ったわけではなく、本当に羨ましくなかった。その場から動かずとも遠くを見渡せるその能力は、たしかに便利そうではあるけれど、あくまで便利そう、というだけで、実際に欲しいかと言われたら疑問が残る。そもそも、私の速さがあれば、千里眼なんてなくとも、実際にこの二つの綺麗な目で実物を見られるのだから、必要だとは思えなかった。
だが、椛は私が羨ましがっていると思ったらしく、「残念でしたね」とその目を見せびらかすかのように顔を近づけてくる。彼女の濡れた白髪が頬に触れ、鬱陶しい。真っ白な肌は暑さのせいか赤く火照っていた。
「馬鹿馬鹿しい。そんな能力はいりませんよ。それこそ、このキュウリくらいに」
「よかったな、椛。褒められた」いつの間にかすぐ後ろに立っていたにとりは、マイクを向けるかのようにキュウリを口許に差し出してくる。
「キュウリと同じだなんて、最大級の賛美だ」
「褒めてませんよ」
「何でだよ。文だって、キュウリって言われたら嬉しいだろ?」
そこで、ようやく私は彼女がわざと馬鹿なことを言っていることに気がついた。さすがの河童も、そこまでキュウリキュウリと連呼するほど狂ってはいなかったはずだ。私たちの争いをどうにかして止めようと、気を抜けるようなことを口にしている。それにしては、下手くそだが。
どうして彼女がそこまで私たちを気にかけるのか。気弱な河童だから、いざこざを見るのが嫌い。それもあるだろう。単に友人同士がいがみ合っているのを見ていられない。それもあるはずだ。だが、それにしても今日は異様なほどに食ってかかってくる。しかも、こんな回りくどいことをして。
「それで? いったい水底に何があったんですか?」
にとりに意識を集中しつつ、それを悟られないように、椛へと訊ねる。もちろん、嘲笑するように口許を緩めるのも忘れない。
「どうせ大した物ではないんでしょうけど」
「それがですね」
てっきり、金目の物に目がない鴉とは違うんですよ、と生意気な口を叩いてくると思ったが、椛は眉をハの字にし、困惑していた。珍しい。
「これが落ちてたんですけど、何かよく分からなくて」
懐から何かを取り出した彼女は、恐る恐る地面へと置いた。私は腰を落とし、見下ろす。一見、ただの石にしか見えなかった。手のひら位の角張った石だ。水に濡れ、所々に苔が生えているが、それだけだ。だからこそ、椛は持ってきたのだろう。
「おかしいじゃないですか。麓にある石がこんな角張っているなんて。誰かが投げ込んだだけかもしれないですけど、それにしては苔の着き方が自然だったので」
「あやややや。なるほどなるほど」
持ち上げてみるも、手触りは本物と相違なかった。重さも、少し鼻をつく青臭さまでも再現されている。裏返すと、自然でできた石には似つかわしくない、小さな凹みとボタンがあった。表情には出さないようにと心がけていたが、つい目尻が垂れる。呆れと嘆きと愉しみのせいだ。
「これ、機械ですね」
「え? そうなんですか」椛がまじまじとそれを見つめる。
「さて。いったい誰がこんな精巧に石を摸した機械を作れるでしょうねえ。いったい何のために。どうなんですか? にとりさん?」
石とにとりを交互にカメラに収めながら、私は訊ねる。大体の予想はできていたが、それでも本人に聞いておきたかった。もちろん、記事にするためだ。
「いやあ、まさかバレるとはね」
アハハと後ろ頭を掻く彼女は、必死に苦笑を隠していたが、それでもあっさりと認めた。
「さすがは椛。千里眼をなめてたよ」
「この石、なんなんですか?」
「盗聴器だよ」
にべもなく言い放ったにとりを前に、椛は呆然としていた。それもそうだ。いくらなんでも、まさか川底に盗聴器が落ちているとは思わない。
「これは優れものでね。水の中に入れておくと、その周りの音を広い範囲で記録してくれるんだ。難点といえば、水中に入れておかないと使えないってことなんだけどね。だからわざわざ石に似せたんだ」
「努力の方向性が間違っているんですよ」
「自信作なんだ。名付けてイッシー」
「安直ですね」
まさか、自分の作った発明品に名前を付けているとは思っていなかったので、さすがに戸惑いを隠すことができない。控えめに言って、気持ち悪かった。
「でも、なんでそんな物をここに?」
単純な思考回路の椛は、辺りを見渡し、そして石を掴み上げた。こんなもので、と小さ
く呟いている。こんな小さなものが水底にあるだけで、地上の声すら記録できるなんて、たしかに驚きだ。ただ、使い方が相変わらずナンセンスで、悪趣味だ。河童らしい。
「なんでって、賭けだよ」
「賭け?」
そうだ、と指を立てる彼女は、恥じるどころか得意げだった。
「文と椛が仲良くできるか? って賭けで、私はできるって賭けたんだ。だから、何とかして二人が仲よさげにしてる会話を録音しようと思ったんだけど、喧嘩ばかりしてたからさ。無理やり仲よさげな雰囲気にしようとしたんだ」
「イカサマじゃないですか」
「言ったろ? ズルは正義なんだ。ただ勝つよりも、ズルして勝った方が楽しいんだよ」
私はゾウリムシじゃないからね、と笑ったにとりは、悠々と椛に歩み寄り、イッシーなる盗聴器を取り上げた。お疲れ、イッシーと声をかけてすらいる。今後彼女との関係をよく考えたほうがいいかもしれない。
「一つ疑問に思ったのですが」
そのイッシーを手に、笑みを浮かべているにとりを写真に撮り、そしてすぐに地面に置きっぱなしになっていたキュウリの機械をカメラに収めた。
「盗聴器を仕込むなら、そんな面倒なことをしなくても、そのキュウリの機械にでも仕込んでおけば良かったじゃないですか」
「文は分かってないなあ」そんなんだから、キュウリに塩をかけるとか言うんだよ、と頓珍漢な呆れ方をしてくる。そんなんだと絶交だよ、と。
「キュウリに盗聴器なんて、そんなショボいのは相応しくないよ」
「なら、何なら似合うんですか?」
「爆弾」
は? と椛が声を漏らす。私はそこそこ予想できていたので、驚きはしなかった。もちろん、呆れたが、もう河童には呆れすぎているので、誤差の範囲内だ。
「やっぱ、機械の花形は爆弾だよ。だから、キュウリには絶対に爆弾を入れるって決まってるんだ」
「決まってないですよ」
「決まってるのさ。鬼でも怯むくらいの大爆発を起こすんだよ。ああ。私の可愛い可愛いキュウリ爆弾たち!」
薄気味悪いことを言うにとりから目をそらし、小さく息を吐く。こんなの、記事にしても面白くない。それこそ、ゾウリムシ的な新聞になってしまう。とんだ取り越し苦労だ。
盗聴器はイッシーなのにキュウリ爆弾はシンプルですね、と訳の分からない感心の仕方をする部下を押しのけ、私は訊ねる。
「もしかして、私と椛をここに集めたのはそのためですか?」
「その通り!」キュウリ爆弾を手の上でくるくるとさせながら、にとりは歌い上げるように言葉を紡ぐ。
「椛も言ってただろ? イワナみたいなレアな奴は、なんとかこっちの戦場に引きずりあげないとって」
「それが?」
「そもそも嫌いあっている二人が一緒にいるのがレアだからね。強引に一緒にいる状況を作り上げなきゃならなかったんだよ。イッシーの使える場所で。だから、将棋をやるって、わざわざ二人に連絡を入れたのさ。ほら、言うだろ?」
「言うって、なんてです?」
「力士は強敵を土俵に引きずり込むってね」
キュウリでも洗って出直して来な、と豪語するにとりと、困惑している椛にカメラを向け、ボタンを押す。プリントされた部下の顔が目に入り、自然と押す力が強くなる。
カシャリと小気味よい音が私たちを包み込んだ。